2012年6月25日月曜日

「カフカ式練習帳」読書ノート

(「カフカ式練習帳」保坂和志著・文芸春秋社・2012年4月20日第1刷・京都市図書館蔵・平成24年6月19日読了)
保坂和志が新しい小説の試みに挑戦した。例によってテーマは無いが、愛猫の死、がようなものだ。それを経糸に同時並行的に進行する、作者が見て、聞いて、読んで感じた断片を「生きることを日々のピアノの練習にすること。日々を構成する物事をできるだけたくさんピアノの練習のようにしてゆくこと。永遠や一瞬という病から離れること。克服するのでなく子どもの頃のようにそんなものと無縁になること。(p396)」を企図して小説としてでなく断片で読者に提供してくれる。従って小説を読むと同時に、小説を書く作者の生の進行状況を知ることが出来る。「カフカ式練習帳」はそんな新しい小説である。
以下はその断片の抜書き。

(p396)「一瞬の中に永遠がある」とか「瞬間と永遠は等価である」などと考えるようになったが、この理屈は中学生でも思いつく粗雑なものだ。一瞬は永遠の反対語ではなく補完語だ。(以下上記につづく)
(p121)カフカは逆算の思考をしない。カフカの思考は原因特定でなく、ただ無闇に前へ進む。カフカが難解だとされる理由はそこにあるのかもしれない。それは「不条理」などでなく、逆算の思考でないということだけだ。逆算の思考をしないとき、人の考えは子どもっぽさを獲得する。
(p327)イントロの一音(一音になる前のひっかき)を聴いただけで曲の全体、または曲の全体を表象するサビの部分が頭の中で流れるように、人は(あるいは動物全般は)一瞬といえる時間のうちに相当量の時間を再体験する。
(p344)私が恐れるのは、進歩が消滅した世界なるものを、進歩を信じる世界の人たちが否定的に捉えることだ。人間を苦しめてきたのは、死や病気や貧困や災害ではなかった。人間を苦しめてきたのは、進歩と希望と富だった。
(p350)水商売が廃れつつあるのは景気の良し悪しや欲望のうんぬんが原因でなく、女性の社会進出が進んだからだ。女性の職業の選択肢がかぎられていた時代、女性は教師か水商売くらいしか仕事がなかった。(略)その女性たちが今では本来の職業についたため、水商売にいる女性たちの中に経営の才覚や社会的洞察力に優れた人が激減し、昔からそうだったような、水商売の男たち程度のレベルになりつつある。
(p362)変態はイデオロギーで、露骨は観察だから。
(p368)この、離れた猫が身に近づく感じ、さらにある閾を越えると、我が身と繋がり、それゆえ割かれると感じるその感じ。これは事実であり、私は私と世界との関係をここからはじめなければならない。私と猫は(略)別々であるという、物理、それも相当表面的な物理に立った世界像は、たんに思考の省略、欠落でしかない。(略)世界にあるいくつもの事象が我が身と繋がっているという実感なしに世界について語ることに何の意味があるか。

(p387)「日本人はなぜ戦争を止められなかったのか」という番組名を見て、/「日本人はなぜ原発を止められなかったのか」という番組が、三十年後、五十年後に作られる恥を感じた。

2012年6月18日月曜日

つくられた政治家

脱税、カルテル・談合、インサイダー取引、手抜き工事、サービス残業、下請けいじめ。大企業、一部上場企業と呼ばれる日本を代表する企業でこうした違法行為―いや悪事に手を染めていない企業がどれほどあるのだろうか。日本は恥ずかしい国になってしまった、ベアリング業界のカルテル報道に接してそう感じた。

 閑話休題。保坂和志が「カフカ式練習帳」でこんなことを云っている。「ひじょうに頭のいい旧石器時代人としゃべったら、彼はどんなことを言うのか。(ひじょうに頭のいい人が自分と対等にしゃべると思うこと自体、私は旧石器時代人を下に見ているのか)/いままで誰も語らずにきて、それゆえそのような出来事や世界があったことが誰にも知られていなかったことがある。その出来事からの生還者、その世界の生き残りがあらわれて語ることによって、はじめてそれらの実態(実相?)が明らかになりはじめる。(p223)」。
 意表を衝かれた。考えてみれば先人たちの学問や知識を学習している我々の思考技術は彼ら(旧石器時代人のひじょうに頭のいい人)より格段に高いレベルに達していることは間違いないが思考の緊要性において彼らは我々の比ではなかったであろう。なにしろ今日を生きるために、明日食べるために、子孫を増やすために、文字通り「必死」で思考に臨んでいたのだから。そう考えたとき、思考にとって技術と緊要性とどちらがより本質的な要件なのだろうかと思い悩んでしまう。

 小泉、安倍、福田、麻生、鳩山、菅、野田とつづいたここ数代の我国首相は、菅を別格とすれば、みな二(三)代目か政治塾のようなところで、育成・培養された面々である。彼らの政治姿勢・政策課題が自身の思考の結果だとすれば、その緊要性において「旧石器時代のひじょうに頭のいい人たち」に比べて劣っていても当然なのかもしれない。というような、失礼千万な言辞を弄せざるをえないほど現今の政治状況はひどい。一体、誰のために何をしたいのか、まったく理解できない。この体たらくを目の当りにすると我々国民の政治的選択肢は限りなく『ゼロ』に近づいていくのではないかという虞を抱いてしまう。

 「つくられたもの」は「つくりあげたもの」より脆弱で魅力の無いのは当然である。

2012年6月11日月曜日

グローバル化とデフレ

経済の目的は有限なる資源の最適利用による国民の経済的厚生の最大化である、と考えるならば、同量の資源を使って優れた品質の商品を最も多く造れる企業が優秀な企業であり、同量の資源で最も安く造れる企業が市場競争に勝つことになる。
 
「有限な資源」に着目すると「グローバル化」とは資源を利用できるプレイヤーが限りなく増加する現象である、といえる。考えてみればほんの10数年前までG8という僅か8ヶ国が優先的に世界の資源を利用していたのであり、それが今世紀になってG20の20ヶ国にプレイヤーが増えたに過ぎない。今後ますますプレイヤーは増え続けることは明らかであり、市場規模の観点から人口1000万人規模の国をプレイヤーの有資格国と考えるならば80ヶ国(2012年度WHO資料)までグローバル化は進展していく可能性がある。又、経済成長が「資本ストック、投下労働力、技術進歩」の結果であるとするなら、安価な労働力を保有する「遅れてプレイヤーになる国々」の市場優位性はこれから相当長い期間保たれるに違いない。昨今BRICsなどの新興国の景気減速が伝えられているが当然の結果であり、今後繰り返し「市場優位のプレイヤー」の入れ替えが行われることであろう。
 グローバル化を別の面から考えると「世界に偏在する貧困の平準化の過程」と捉えることが出来る。「安価な労働力」とは「貧困な国民」の別称に他ならず、グローバル化は「先に進む国の相対的な低賃金化」と引き換えに「遅れてきた国々の貧困の克服」を促進する。従って先進国のデフレ化は避け難い一面があり、G8諸国を襲っている深刻な低成長とデフレ化は「グローバル化の歴史的必然」といえる。

 我国のデフレには特殊事情が別にある。
 第一は2011年以来続いているゼロ金利が齎した300兆円を超える「逸失利子所得」による消費需要の喪失である。年額25兆円は12.5%の消費税に相当することを考えれば今ここで消費税増税することが消費に与える負の影響の大きさが理解できるであろう。
第二は高齢化による労働力人口減少の招いた勤労所得の減少効果である。高齢の労働者は相対的に所得が多く若年労働者との入れ替えだけでも国全体の所得は減少するが、そのうえに雇用者数の減少や非正規雇用の増加などが加わって全体の勤労所得の減少は相当なレベルに達している。
 
 可処分所得を如何にして増やすか、国の取るべき施策の方向性は明らかである。

2012年6月4日月曜日

消費税増税と利子所得の関係

先日とある居酒屋で隣に座っていた初老の親父さんがこんな呟きを洩らした。「消費税くらい10%でも20%でも払ってやるよ。その代わり銀行の利子を何とかして呉れよ。100万円1年預けて10円の利子しか付かないじゃ洒落にもならないよ」。この呟きが妙に耳に残った。

 個人金融資産1500兆円といわれているからもしこれに1%の利息が付けば単純に計算して15兆円の利子収入が発生することになる。消費税1%は2兆円の税収増とされているから1%の利息は消費税7%超に相当することになる。個人の財布(家計)を考えてみると、勤労所得と財産所得(利子や配当の所得)と言う形で収入を得て、所得税や消費税の税金を納め、残りの可処分所得で消費し余りを貯金しているから、消費税を納めるのも利子所得が減少するのも個人にとっては結果的に同じことだ。ということはこれまで消費税は5%払っていると思っていたが、実は10年以上前から消費税7%~15%(2%の利息なら)分位の「負担」を我慢させられてきたことになる。
 昨今消費税増税を声高に叫んでいる人達は、我国の消費税は西欧先進諸国の水準に比べて15%近い増税余地がある、と其の正当性を主張しているが、本当にそうなのだろうか。

 バブル崩壊から脱出するために平成11年2月にゼロ金利が導入され、それにつれて預金金利も平成3年の2%から平成11年に0.001%の水準に引き下げられた。この措置により受取利息は平成3年の38.9兆円をピークに17年には3.5兆円と1/10に減少した。一方家計は住宅ローンなどの借入れをしているが支払利率は受取利率ほど低くなっていないから純利子所得(受取利息―支払利息)は17年に10.2兆円の支払超過になっている。
 平成3年時点の利子所得38.9兆円を基準として4年以降各年の実際の受取利息との差額を逸失利子所得と考えて17年までを累計すると331兆円になる。支払利息の軽減分(82兆円)を調整したネットの逸失利子も249兆円に上る。(資料:予算委員会調査室福嶋博之「低金利がもたらした家計から企業への所得移転」)

 少々古い資料だがこれに従えばこれまで家計の被った「受け取ることの出来たかもしれない純利息収入逸失額」は17年時点の249兆円から更に積み上がって300兆円に達しているに違いない。国民所得勘定に云う「個人所得=国民所得+(個人利子所得)-(法人企業利潤)-(純利子)」であるから個人の利子所得の減少はマクロでみた個人所得の減少に大きな影響を及ぼしているはずであり、デフレの一因とみることもあながち誤りとは云えまい。
 デフレの原因が需給ギャップ(供給力に比して需要力が少ない状態)にあるとすれば消費の源泉である利子所得が大幅に減少している今、消費税増税によって家計から更なる収奪を行うようなことをすればますます消費が落ち込んでデフレを進行させることは明らかである。

 欧州諸国が景気の落ち込みを金融緩和(低利子化)によって凌ぎ、それによって悪化した財政を増税(家計から政府への所得移転)や雇用調整で健全化を図ろうとして経済破綻しかかっている現状は、今政権が政治生命を賭して行おうとしている「財政健全化のための消費税増税」が全く同じ過ちの後追いになる危険性を暗示していると言えないだろうか。