2012年6月18日月曜日

つくられた政治家

脱税、カルテル・談合、インサイダー取引、手抜き工事、サービス残業、下請けいじめ。大企業、一部上場企業と呼ばれる日本を代表する企業でこうした違法行為―いや悪事に手を染めていない企業がどれほどあるのだろうか。日本は恥ずかしい国になってしまった、ベアリング業界のカルテル報道に接してそう感じた。

 閑話休題。保坂和志が「カフカ式練習帳」でこんなことを云っている。「ひじょうに頭のいい旧石器時代人としゃべったら、彼はどんなことを言うのか。(ひじょうに頭のいい人が自分と対等にしゃべると思うこと自体、私は旧石器時代人を下に見ているのか)/いままで誰も語らずにきて、それゆえそのような出来事や世界があったことが誰にも知られていなかったことがある。その出来事からの生還者、その世界の生き残りがあらわれて語ることによって、はじめてそれらの実態(実相?)が明らかになりはじめる。(p223)」。
 意表を衝かれた。考えてみれば先人たちの学問や知識を学習している我々の思考技術は彼ら(旧石器時代人のひじょうに頭のいい人)より格段に高いレベルに達していることは間違いないが思考の緊要性において彼らは我々の比ではなかったであろう。なにしろ今日を生きるために、明日食べるために、子孫を増やすために、文字通り「必死」で思考に臨んでいたのだから。そう考えたとき、思考にとって技術と緊要性とどちらがより本質的な要件なのだろうかと思い悩んでしまう。

 小泉、安倍、福田、麻生、鳩山、菅、野田とつづいたここ数代の我国首相は、菅を別格とすれば、みな二(三)代目か政治塾のようなところで、育成・培養された面々である。彼らの政治姿勢・政策課題が自身の思考の結果だとすれば、その緊要性において「旧石器時代のひじょうに頭のいい人たち」に比べて劣っていても当然なのかもしれない。というような、失礼千万な言辞を弄せざるをえないほど現今の政治状況はひどい。一体、誰のために何をしたいのか、まったく理解できない。この体たらくを目の当りにすると我々国民の政治的選択肢は限りなく『ゼロ』に近づいていくのではないかという虞を抱いてしまう。

 「つくられたもの」は「つくりあげたもの」より脆弱で魅力の無いのは当然である。

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