2012年2月27日月曜日

想 滴滴

おそるべき 君等の乳房 夏来る/
 西東三鬼(1900~62)のこの句に接したときその鮮烈な感覚に圧倒された。そしてこの句が昭和21年、終戦の翌年に作られたことを知って更に驚きが増した。昼光の照り盛った白々とした砂埃にまみれた真夏の瓦礫の荒れ野、そこに猥雑に繰り広げられる雑多な闇市の人混みの中を、双の腕を裸に剥きだし原色のケバケバしいアメリカ製らしき薄衣を翻し男どもを睥睨しながら闊歩するパンパンと呼ばれる数人の女性たちは乳房の谷間をこれ見よがしに曝している、こんな光景がこの句に定着した。
 それから何年かしてボオドレール(1821~67)の「悪の華・美しい船」にであった。
 頸(うなじ)は 太く 圓(まろ)らかに 肩 むつくりと肥り膩(じし)、/異様(ことざま)ながら優雅なる頭を擧げて誇らしげ。/悠々と また 昂然と/道行く きみの貴(あて)すがた、気位高き童女(わらわめ)よ。∥玉蟲色の衣の覆ふ 胸 たかだかと盛り上り、/乳房のあたり 誇らしく、譬へば 楯の 光彩を/陸離と放つ如くなる/色鮮やかに膨らめる 飾戸棚の鏡板(鈴木信太郎訳)。
 何という符合か。ボオドレールが詩人たちのバイブル的存在であれば西東三鬼がこの詩を読んでいないとは考え難い。だからと言って西東三鬼の句が剽窃というのでは決してない。両者の創作の現場が全く異なることを考えた時、天才のインスピレーションの暗合に文学的高みの面白さを限りなく感じ入るのである。

 ボオドレールで言えば「パリの憂鬱・窓(訳・同)」にからんである詩人を想起する。寺山修司(1935~83)は詩人・劇作家で演劇実験室「天井桟敷」を主宰した私と同世代の寵児的存在であった。まだ市民権を得るに至っていなかった『競馬』を山口瞳とともに文化的香りを混入することで後のブームの先鞭をつけたことでも一時代を画した。彼が死の数年前(1980年)に起こした「覗きの現行犯(実際は住居侵入罪)」で逮捕されるという不可解な行動は彼の生涯の不明の残滓として多くの人の心に蟠っている。
 「蝋燭の光に照らされた窓ほど、深遠で、神秘的で、豊かで暗鬱で、輝かしい物は他にはない。白日の下に見ることの出きるものは、常に、硝子窓の向う側で起っている事柄ほど、興味をそそりはしない。この暗い、或いはまばゆい穴の中に、生が息づき、生が夢み、生が悶えている。」この詩句は永井荷風の「ふらんす物語・祭りの夜がたり」に直接引用された。そして荷風は更にこう続ける。「自分はどうしても、あの窓の中を覗きたい。窓の中に這入りたい。どんな危険をもいとわないと思った。好奇心ほど恐ろしいものはないよ。」と。
 ボオドレールと永井荷風は寺山修司の不分明な暗部に少なからぬ光を当ててくれる。

 古稀を超えるまで死について実感することは無かった。しかし読書の娯しさを今にして知るに至り、読みたい書物の多さと残されているかも知れない時間を計ってみるとき、はじめて生きることの尊さを慮るに至ったのである。
嗚呼時既ニ遅シ哉否哉。

2012年2月20日月曜日

和製漢語とカタカナ語

新任の最高裁判事・大橋正春氏の就任挨拶をどうとらえればいいのだろうか。「一つ一つの事件を誠実に扱っていきたい」13日に開かれた記者会見でこう述べている。最高裁で裁かれる事件は憲法判断に委ねられるものや死刑判決について最終決定を下す場合がほとんどだ。人の命を生かすか否かという重い判決を行うにあたって『扱う』という言葉遣いはそぐわないのではないか、この記事を読んだ時違和感を強く感じた。広辞苑によれば「扱う」という言葉は幅広い意味内容を有しており、現在最も一般的に使われているのは「とりまとめる。とりさばく。処理する。担当する」であり「使う。操作する。使いこなす」がそれに次ごう。他に「気を使う。心配する。世話をする」「もてなす。処遇する」「うわさする。取り沙汰する」等の意味にも使われている。言葉遣いは微妙で繊細なものだが判事の抱負には「とりさばく。処理する」という響きが強い、と感じるのは神経質すぎるか。

 言葉遣いで国会を騒がした「GKB47」はどういう過程でできたものなのだろうか。ご承知の通り内閣府が自殺対策強化月間の標語として採用した「あなたもGKB47宣言!」で使われた言葉でゲートキーパーGateKeeperは門番という英語に自殺しそうな悩みを抱えた人の話を聞く医師や支援者という意味をもたせベーシックBasicに国民全体へ浸透するようにという願いをもたせた和製英語である。勿論人気アイドルグループAKB48をもじっている。既に不謹慎ということで使用撤回されているのでここで重ねて批判しないが一般的風潮として「カタカナ語」の氾濫は目に余るものがある。

 明治維新に始まった外来思想や技術の移入に際して先人は外来語を日本語化するについて涙ぐましい苦労をしている。本来の意味を正しく理解し、受け入れ易く誤解が無いように新しく造語するか既存の語を転用したりして造られた和製漢語は、文化、文明、民族、思想、法律、意識、階級、進化、運動、野球など漢字でできた近代的な概念語の大半が中国韓国などアジア各国で使われていることをみても、先人の苦闘の努力が如何に優れていたかを証明している。

 安易にカタカナ語を多用する風潮と最近の日本人の言葉の軽薄さは表裏の関係にあるように思えてならない。

2012年2月13日月曜日

かかりつけ医

風邪をひいてしまった。というよりも風邪気味であったところへ食あたりが加わって一挙に重篤化して寝込んでしまった、というのが正確なところだ。土曜日の朝、嘔吐感におそわれ黒い胃液と生臭い未消化物を吐き出した。朝食にトーストとバナナを牛乳で流し込もうとしたが、パンの耳が食道を通過する時激しい痛みを感じた。ソファにへたり込んで一日動けないでいたが体温は37.2度以上にはならなかった。全身を倦怠感が覆い、胃を絞り上げられるような痛みが断続的に続く。こんな経験は一度も無い、何かが今までと違う。ひょっとしたらインフルエンザではないかという不安がよぎる。食い意地が張っているのか「いやしんぼ」の私なのに昼食も夕食も全く食慾が湧かない。「いらない」と夕食を断ると「初めてね」と妻が驚く。「病院行ってみたら」娘がインフルを気遣っている。
 
 月曜の朝病院へ行くとインフル流行のせいか患者の数が一通りでなく随分待たされた。30歳代の医師は問診、触診、エコー診断を的確に経た後「軽い食中りですね。インフルの心配はありません。柔らかいものを少しだけ摂って4、5日安静にして下さい」と診断してくれた。
「食中り」。考えもしない病名だった。頑健ではなかったが胃腸だけは強く宿酔以外は嘔吐の経験がない。家族皆同じものを食していたのだから私ひとりが食中りしたのはやはり体力が弱っていたのだろう。こんな場合以前なら間違いなく病院へ行っていたのだが65歳を過ぎた頃からその習慣を改めた。日頃から体力増強に努めもし体調に異変を来たしても食事、睡眠と水分の小まめな摂取で自然治癒を図り薬は売薬で済ますようにした。今回も葛根湯、バファリン、セルベール整胃錠を服用したが全く効かなかった。
 
近所にあるいくつかの医院から「かかりつけ医」を見つけようと思う。「医者と患者」という堅苦しい、私が子供の頃の『えらいお医者さん先生』ではなく、医療に精しい近所の友人、といった存在のひとを見つけよう。仲良くなってちょっとしたことでも気軽に相談できる『良好な関係』を築こう。「早期検診」で大病を予防するのが年相応の健康法だろう。素人の生兵法ならぬ医療知識は役立たずなことを思い知らされた。

医療改革も「かかりつけ医」で止めてほしい。

2012年2月6日月曜日

荷風の死

佐藤春夫はその著「小説永井荷風伝」のなかで荷風の死について次のように書いている。「荷風はその社会的地位にも似ず、医者にもかかって居らず、また看病のための一人も無く夜中に死んでいたため、警察ではこれを一種の変死体として取り調べている(略)荷風が医者にもかからず、看病人をも頼んでいなかったと聞いた時、わたしはこれを自然死を利用した自殺行為ではないかと考えはじめた。(略)軽い咳や、頭痛などにさえ杞憂したあの先生が、今日老躯をいたわって医者に見せることもせぬばかりか、万一にそなえて看病人ひとり頼まぬばかりか、更に近隣の一品料理などへ出かけて何の油を使っているとも知れない安テンドンなどを残さず貪っていたと伝えられるのを聞いては、これがただ例の食いしん坊以上、むしろ自然死による覚悟の自殺を企てていたものとしか、わたくしには考えられないのである。(略)たとい巨万の富を擁していても、これを一銭も使わなければ窮死と同じである。」

 この文を読んだ時「高齢者の孤独死」を考えた。とりわけ東日本大震災の仮設住宅で暮らす高齢者に強く思いを致した。行政は民生委員や地域包括支援センターなどセーフティネットを用意しているしボランティアによる地域援護の取り組みもあるが、そうした制度と高齢者の関係が温もりのある緊密なものになっているとは云いがたい。まして酷寒の東北の仮設住宅が水道など水周りや暖房設備に不都合があり凍結によって生活に支障を来たすような「行き届いた配慮」が感じられない状態では「棄民の孤独感」に襲われても無理はない。
 ひもじい、寒い、「しんどい」「もうええわ」。心が弱ればセーフティネットへのアクセスにも手を伸ばせなくなる。こうした状態で死んでいく人は荷風の『自然死を利用した自殺行為』と何等変わるところが無いのではないか。

 将来推計人口の発表があって高齢化率が2060年には40%にせまりそうだと伝えている。もし予測通りなら現行の社会保障制度は存続が危ぶまれる事態に至る可能性が高い。しかしそのことと寿命が延びて80歳90歳という長寿の時代が来たことを国民すべてで喜びあうことは別次元のことでないのか。

 古来『不老長寿』は人間究極の願望であった。それを素直に喜べない社会は幸せとは呼べない。