2012年2月6日月曜日

荷風の死

佐藤春夫はその著「小説永井荷風伝」のなかで荷風の死について次のように書いている。「荷風はその社会的地位にも似ず、医者にもかかって居らず、また看病のための一人も無く夜中に死んでいたため、警察ではこれを一種の変死体として取り調べている(略)荷風が医者にもかからず、看病人をも頼んでいなかったと聞いた時、わたしはこれを自然死を利用した自殺行為ではないかと考えはじめた。(略)軽い咳や、頭痛などにさえ杞憂したあの先生が、今日老躯をいたわって医者に見せることもせぬばかりか、万一にそなえて看病人ひとり頼まぬばかりか、更に近隣の一品料理などへ出かけて何の油を使っているとも知れない安テンドンなどを残さず貪っていたと伝えられるのを聞いては、これがただ例の食いしん坊以上、むしろ自然死による覚悟の自殺を企てていたものとしか、わたくしには考えられないのである。(略)たとい巨万の富を擁していても、これを一銭も使わなければ窮死と同じである。」

 この文を読んだ時「高齢者の孤独死」を考えた。とりわけ東日本大震災の仮設住宅で暮らす高齢者に強く思いを致した。行政は民生委員や地域包括支援センターなどセーフティネットを用意しているしボランティアによる地域援護の取り組みもあるが、そうした制度と高齢者の関係が温もりのある緊密なものになっているとは云いがたい。まして酷寒の東北の仮設住宅が水道など水周りや暖房設備に不都合があり凍結によって生活に支障を来たすような「行き届いた配慮」が感じられない状態では「棄民の孤独感」に襲われても無理はない。
 ひもじい、寒い、「しんどい」「もうええわ」。心が弱ればセーフティネットへのアクセスにも手を伸ばせなくなる。こうした状態で死んでいく人は荷風の『自然死を利用した自殺行為』と何等変わるところが無いのではないか。

 将来推計人口の発表があって高齢化率が2060年には40%にせまりそうだと伝えている。もし予測通りなら現行の社会保障制度は存続が危ぶまれる事態に至る可能性が高い。しかしそのことと寿命が延びて80歳90歳という長寿の時代が来たことを国民すべてで喜びあうことは別次元のことでないのか。

 古来『不老長寿』は人間究極の願望であった。それを素直に喜べない社会は幸せとは呼べない。

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