2010年6月28日月曜日

進化論とアダム・スミス

 ダーウィンの進化論がアダム・スミスの影響で導かれたものだといえば「そんな馬鹿な」と思う人がほとんどであろう。しかし自然淘汰という考え方はビーグル号の諸事実をただ解釈しただけで出てきたものではなかった。その後、二年間に亘る思索と苦闘の中から現れてくるのだとスティーブン・J・グールドが「パンダの親指」(ハヤカワ文庫NF)の中で述べている。

 グールドは「自然淘汰説は、アダム・スミスの自由放任主義経済学との類似性の延長(略)と見るべきものだ」と考えている。「自然淘汰説は、合理的な経済を求めたアダム・スミスの基本的主張を生物学へ創造的に移し変えたものだった。つまり、『自然界のバランスや秩序は』、高所からの外的な(神による)コントロールだとか、全体に対して直接にはたらく諸法則が存在するために生ずるのではなく、各自の利益を求めるための(今日の言葉で言えば、生殖において各個体が成功をおさめることにより、各自の遺伝子を未来の世代に伝えるための)『個体間の闘争の結果として現れるのである』。」

 ダーウィンが啓示を受けたアダム・スミスの言説は次のようなものであった。「ある国民を前進させるための『最も効果的な計画は』…正義の諸規則が守られるかぎり、『すべての人びとにそれぞれのやりかたで自己の利益を追求させ』、また各自の努力と資本の両面を同じ立場にある『他の市民たちによる完全な自由競争に向かわせることにある』。『その社会の資本が』自然にまかされたとき以上に大きい分け前を『ある特別な種類の努力の方へ誘導しようと…努める政治体制は』すべて…実際には、『それが推進しようとする大目的を破綻に導く』。(ドゥーガルド・スチュアート「アダム・スミスの生涯と著作について」より)

 今月18日に閣議決定された新しい経済成長戦略が、過去幾度も策定された成長戦略が日本経済を改善することなく『失われた20年』の『閉塞感』を招いた、その『轍』を又踏んでしまう危険性を排除できない。そんな危惧をアダム・スミスは示唆していないか。まして15日に日銀が策定した成長分野への「新貸出制度」には大いに疑問符が付くと言わねばなるまい。

2010年6月21日月曜日

企業エゴが国を滅ぼす

 日曜夕方の「ハーバード白熱教室(NHK教育)」が人気らしい。マイケル・サンデル教授の政治哲学というおよそ素人向けでない授業が何故一般に受入れられたかといえばその語り口が極めて解り易いからだ。マイケル・ジョーダンやビル・ゲーツを例に引いて問題を解きほぐし学生の意見を取り入れながら『深遠な政治哲学』に導く教授術は見事という他ない。「難しいものをやさしく、やさしいものを面白く、面白いものを深く」という『井上ひさし流』の講義は楽しい。

 この番組でひとつ気になっていることがある。1000人を超える受講生は驚くほど多くの国の留学生で構成されているが日本人と確認できる学生がこれまで一度も画面に出てきていないのだ。白人黒人に伍して中国人、韓国人などの黄色人も多数受講している中、日本人らしい姿が見えない。勿論そんなことは無いのだろうが比率からして圧倒的に少ないことは間違いない。これは『ゆゆしい問題』なのではないか。世界の優れた大学で多くの国々の学生と切磋琢磨したグローバル化世界に通用する若者がこれからの日本に必要ではないのか。

 我国の大学教育が充実しているから大丈夫いう見方があるかも知れない。本当だろうか。2008年世界大学ランキング(THE-QS発表)によればベスト50には僅か3校しか入っていない(東大19位京大25位阪大44位)。「日中韓大学間交流・連携推進会議」が大学、行政、産業界の参加で発足したのもこうした危機感に根差している。この会議の共同議長を務める安西祐一郎慶応義塾前塾長は日本の大学教育の現状を次のように分析している。
 日本は国内向け雇用市場に連動した世界と懸け離れた「ガラパゴス化した大学教育」になっている。企業側が自前で新卒の再教育をする雇用環境のもとで、国外に一歩出れば通用しない質の低い教育が横並びで行われ、学生も批判せずに受入れる状態が国内に蔓延してしまった。(6.14日経より)。

 大学4年次の秋(10月以降)に就職活動を解禁するという就職協定を1996年に廃棄した大企業の採用環境は、大学で勉強する期間を実質2年間にしている。これでは優秀な学生の育成される可能性が極端に限られても仕方ない。新卒一斉定期採用という雇用慣習の再考も含めて我国高等教育のあり方を根本的に考え直す時期に来ている。

2010年6月14日月曜日

おじいちゃんの子育て論

 年とともに涙腺が緩くなってきて先日などテレビの「フォークソング特集」を見ていて「イムジン河」になった途端、滂沱のごとく涙が溢れ出しそのうち嗚咽さえする始末。訝った妻に「大丈夫」と声をかけられるととうとう声を出して大泣きしてしまった。テレ臭かったがスッキリして爽快だった。「泣くこと」は一種のカタルシス(精神の浄化作用)だと思う。

 年を食った私でさえ「快感」なのに赤ちゃんの大泣きを止めさせるおもちゃ―赤ちゃんの『泣き止め玩具』の開発が盛んだと聞いて「ちょっと待ってよ」と文句の一つも言いたくなった。先ずその必要性が極めて身勝手で不純だ。大人の都合で―うるさいから或いは泣かれると大人側の仕事や作業に支障を来たすから、赤ちゃんの『泣き』を止めさせようというのは赤ちゃんの立場を全く考えていないではないか。昔から赤ちゃんは泣くことで意思を伝えようとしていると教えられてきた。玩具で泣きを止めようとする大人は赤ちゃんが訴えようとしている「何か」を聞き取ろうとしているだろうか。最近乳母車で赤ちゃんと歩いている母親が携帯電話に夢中になっているのをよく見るが、彼女は赤ちゃんが泣いていることなどお構い無しだし、道のデコボコや安全への気配りなどほとんど無関心に感じられる。

 そもそも赤ちゃんには『自我』がない。いつごろまでその状態が続くのか画然と示せる専門知識を持っていないが、ゴリラの母親が3年間子供を抱き続けた後父親に子育てを委ねるという例からみて人間の赤ちゃんもそんなに差は無いのではないか。そうだとすれば自我が確立するまでの間は自分と自分を取り巻く環境(母親、両親や兄弟姉妹祖父母など)が一体に感じられているはずで、その母親(等)が一体感を破るような存在になると赤ちゃんは異常を感じて「泣き」だしてそれを訴えるに違いない。自我が確立するまでの間、赤ちゃんはこの一体感との異常を繰り返し感じ、泣いて、カタルシスを経て克服し成長していくのだろう。最近度々報じられる『幼児虐待』を受けた子供が成長しても円満な人格形成ができないのも当然なことだと思う。

 赤ちゃんの泣くのを大人の都合で玩具などで『泣き止め』することの可否について専門家の意見を聞いてみたい。

2010年6月7日月曜日

でしゃばり親爺

 公園の野球場の周りのゴミ拾いをしていると少年野球の子供たちが道一杯に広がっているのに出会った。「キミたち、道をふさがないように監督さんに言われているだろう」と注意するとシブシブ道をゆずった。ここはウォーキングの周回コースになっていて歩行訓練の人もいるので保護者に注意を促しているのだが中々指導が行き届かない。野球場の入り口近くに行くと試合前の大人のメンバーが集まっている。「タバコの吸殻、気をつけてくださいね」というと「ハイ、注意します」と、こちらは聞き分けがいい。

 カベ打ちグラウンドのトンボ掛けをに行くと壁の向こう側で『コツコツ』という音がする。覗いてみると硬球でカベ投げをしている。「キミここは硬球禁止になっているの、知ってる」「ハイ」「じゃぁ、止めなあかんね」「ハイ」。彼は少し前からきていた。私がゴミ拾いに行くのをやり過ごして投げを始めたに違いない。ひゅっとしたら彼は今まで誰にも注意されなかったのかもしれない。今日はアテがはずれたわけだが、注意されたことがイヤでもない様子なのは意外だった。

 トンボ掛けが終わってトンボを仕舞って戻ってくると中年夫婦がテニスをしていた。「あの、そっちで私やりたいんですが。トンボかけてあるでしょう」「あっ、そうですね」男性はスミマセンというように頭を下げたが女性の方は不服そうな顔をして不承不承場所を空けた。

 夕方また壁打ちグラウンドへいくと小学生と大人が並んでカベ投げをしていた。暫くすると近くでキャッチボールしていた親子が子供側に割り込んできてトスバッティングを始めた。小学生は仕方なく少しゆずるように中央寄りに移動したが窮屈でやりにくかったのか止めてヘタリこんだ。するとトスバッティングのボールが飛んできて危うく顔面に当たりそうになった。さっと身をかわしたからなんともなかったが、トスバッティングの親は「ゴメンネ」も言わずにボールを拾ってそのままバッティングをはじめた。「キミ、割り込みはダメだろう。この子にゆずってやりなさいよ」と注意すると「止めようか」と子供を促して帰っていった。

 この様子を近くのベンチで見ていた私と同年輩の3人は終始無関心をよそおっていた。