2010年6月14日月曜日

おじいちゃんの子育て論

 年とともに涙腺が緩くなってきて先日などテレビの「フォークソング特集」を見ていて「イムジン河」になった途端、滂沱のごとく涙が溢れ出しそのうち嗚咽さえする始末。訝った妻に「大丈夫」と声をかけられるととうとう声を出して大泣きしてしまった。テレ臭かったがスッキリして爽快だった。「泣くこと」は一種のカタルシス(精神の浄化作用)だと思う。

 年を食った私でさえ「快感」なのに赤ちゃんの大泣きを止めさせるおもちゃ―赤ちゃんの『泣き止め玩具』の開発が盛んだと聞いて「ちょっと待ってよ」と文句の一つも言いたくなった。先ずその必要性が極めて身勝手で不純だ。大人の都合で―うるさいから或いは泣かれると大人側の仕事や作業に支障を来たすから、赤ちゃんの『泣き』を止めさせようというのは赤ちゃんの立場を全く考えていないではないか。昔から赤ちゃんは泣くことで意思を伝えようとしていると教えられてきた。玩具で泣きを止めようとする大人は赤ちゃんが訴えようとしている「何か」を聞き取ろうとしているだろうか。最近乳母車で赤ちゃんと歩いている母親が携帯電話に夢中になっているのをよく見るが、彼女は赤ちゃんが泣いていることなどお構い無しだし、道のデコボコや安全への気配りなどほとんど無関心に感じられる。

 そもそも赤ちゃんには『自我』がない。いつごろまでその状態が続くのか画然と示せる専門知識を持っていないが、ゴリラの母親が3年間子供を抱き続けた後父親に子育てを委ねるという例からみて人間の赤ちゃんもそんなに差は無いのではないか。そうだとすれば自我が確立するまでの間は自分と自分を取り巻く環境(母親、両親や兄弟姉妹祖父母など)が一体に感じられているはずで、その母親(等)が一体感を破るような存在になると赤ちゃんは異常を感じて「泣き」だしてそれを訴えるに違いない。自我が確立するまでの間、赤ちゃんはこの一体感との異常を繰り返し感じ、泣いて、カタルシスを経て克服し成長していくのだろう。最近度々報じられる『幼児虐待』を受けた子供が成長しても円満な人格形成ができないのも当然なことだと思う。

 赤ちゃんの泣くのを大人の都合で玩具などで『泣き止め』することの可否について専門家の意見を聞いてみたい。

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