2019年9月30日月曜日

西洋医療への疑問

 イギリス人の女性が花屋の店頭にあった仏花を見て「かわいいブーケ!」と嬉しそうな声を上げたという話を聞いたことがある。欧米では艶やかな常緑の葉物の花材が少ないから仏花のサカキの緑と菊やりんどうの取り合わせに新鮮な美しさを感じたのにちがいない。このように我々が日頃なんとも思っていない当たりまえのことも視点を変えてみると違った景色が開けてくることがママある。今日はそうした視点から「医療」について考えてみる。
 
 最近私の周囲でいわゆる「西洋医学」でない「医療」で病状が回復したという話を聞くことが珍しくなくなった。西洋医学とは今一般に我々が「おいしゃさん」とよんでいる病院や医院で行われている医療のことであるが、例えば友人H君の奥さんのスピリチュアル・ヒーリング経験などはその格好の実例と言えよう。彼女は肝臓と腎臓が悪く腎臓は半分しかないという病歴を抱えながら今日に至っている。ここ何年かは「病気的」には悪いところがないとかかりつけの病院で診断されているのだが、にもかかわらずいつもどこかがすぐれずシンドイ状態がつづいていた。そこで紹介された「スピリチュアル・ヒーリング」の施術を何回か受けたところその「不快な常態」が改善されたという。またもうひとりの友人F君は若年性認知症の「語る会」の経験談で、同じくスピリチュアル・ヒーリングで良い効果があった話が披露されたと言っていた。
 これとは少し傾向は異なるが整形外科で一向に症状が良くならなかった高齢の女性が、整骨院のマッサージで劇的に改善された例も身近にある。
 これは一体どういうことなのだろうか。
 
 感染症や骨折、負傷などの治療における西洋医療の有効性に疑問をはさむ余地がないことに異論はない。しかし生活習慣病や高齢者の「日常的な常態としての体調不良」などについては、われわれがこれまで西洋医療から得ていた治療改善度ほどの効果は達成されていないのが現実だ。
 一方でNHKの「人体」という番組で紹介された『メッセージ物質』の発見は従来の西洋医学にはなかった「概念」の治療の出現に期待を抱かせる。この放送以前にスポーツ障碍医療の最前線を扱った番組で、下半身麻痺の患者に対してスポーツ整形外科の療法士が「左足の親指を動かしますから意識して」と指示しながら施療している場面があって、患者さんに麻痺した部位を意識してもらって運動を繰り返すと機能回復することが分かってきたのです、との解説がありその理論に基づいた新しい治療法でこれまで回復不能とされていた障碍にも希望が開けていることを知った。ということは従来脳が司令塔として全身に指示を出して各部位(臓器)はその指示にもとづいて運動していると考えられていたが、そうではなくて脳と部位の相互関連として身体系統が築かれていることになる。メッセージ物質はこうした考えを裏づけるとともにこれまでの西洋医学とは異なった方向への発展に期待がかかる。
 
 人間が肉体と精神の統合体であるということはなんとなく理解している。しかし従来型の西洋医療は肉体を切り離して、それも病の原因とされるある特定の部位を対象として治療が行われることが多かった。極端な場合腰が痛いといえば腰のレントゲンを撮って痛みの原因とされる損傷が見つからなければ「悪いところはありません」で済まされることもあった。しかし腰の不調は股関節からくるものもあれば背骨の歪みが原因かも知れないから腰に限定した診療はまちがいなのだ(すべての整形外科医がそうであるわけではない)。特定部位限定の治療法以外に全身の抵抗力や免疫力、基礎代謝を高めることで治療効果を高める医療もある。これは西洋医療よりも漢方の得意分野とされ、ある癌患者が漢方の薬剤と針・マッサージの併用で格段に症状が改善されたという経験を聞いたことがある。
 一方アメリカなどでは、特に精神神経科の分野で多く用いられている心理療法士による「カウンセリング」療法が有効とされ多くの患者が診療を受けている。これとは別に最近我国などでも多くなった「語る会」という治療法もある。これは依存症――薬物や飲酒、ギャンブル依存症患者が互いに依存に至る過程や治療の進捗具合、再発した原因や家族の協力などを語り合うことで孤立感や弱さを克服して依存から脱却する効果があるとされている。
 
 話は逸れるが、鏡が一般に流通するまで人間は自分の顔や姿を知るには他人の言葉に頼るしかなかった。勿論穏やかな水面に映すということもあったが、主にひとのいう「美しいですね」とか「いい男ぶりですね」という言葉と自分の美しい女、美丈夫という概念をあてはめて自分を捉えるしかなかった。鏡は14世紀はじめに精度の悪いものが発明されたが品質が悪い上に高価なものだったから庶民には縁がなかった。十九世紀中期に今の鏡の原理が発明されて一挙に流通し一般化したという歴史を考えると、人間が他者から切り離された形で――先ず自分があり、そして他者と共存している「自己」を認識するようになってからほんの二百年にもなっていない。ということは、それまで人間は親、家族、親族、友人、共同体としての部族や地域と不可分のものとしての「自己」であったにちがいない。従って親や家族といるときには落ち着いて心穏やかであったであろうし、もし共同体からはなれて異郷に赴くようなことがあれば今では考えられないくらいの不安を感じていたであろうことは想像に難くない。
 我国で自我の確立が意識されはじめたのは漱石や二葉亭四迷などの近代文学の興隆期を俟たねばならないから僅か百年か百五十年前のことで、「個としての自我」の認識は我々の遺伝子にはまだ組み込まれていないといってもあながち見当はずれということにはならない。こうしたことを前提とするならば、核家族化の急激な進展を経験した現代人は精神的に相当不安定な状態にあり精神と肉体の相互関係において極めて「平衡」を保ち難い状況に追い込まれているとみてまちがいない。今年七月国立がん研究センターなどの共同研究で「ストレスなどによる交感神経の緊張が、がんを進展させ得る」という研究結果を発表したのはこうした現代人の抱えているリスクを明らかにしたものといえる。                                                    (つづく)
 
 
 

2019年9月23日月曜日

日本と朝鮮文化

 古書店の見切り本(一冊百円~二百円)のなかから絶品をさがし出すのは本好きの醍醐味である。小林秀雄の『本居宣長(上)(下)』(新潮文庫)、濱田儀一郎監修『誹風 柳多留(一篇~五篇)』(教養文庫)は見切り本ではなかったが古書店で見つけた掘り出しもので愛読書になっている。そんな古書店が見直されているのは出版サイクルの短期化がいよいよ加速して、専門書などにある参考文献が絶版になっていることが多く古書店に頼る以外にみちがないという事情があってその存在価値が高まっているのだ。そして好ましいのは本に対する愛情が伝わってくることで、ネット書店の古書に比べて保管状態が格段に良いのは嬉しい限りである。
 絶品中の最右翼『日本の朝鮮文化』(中公文庫)はまちがいなく見切り本で天満橋にある古本屋の店先にあった昭和六十年発行の六刷は日焼けがきつく相当長い間陽ざらしにされてきたのだろうが本文に劣化はなく新刊本を買った人はあまり読まないうちに手放したような気配を漂わせていた。
 
 近頃の書店の平積み(店頭に表紙を表にして積み上げて陳列してある本)には「嫌中・嫌韓」ものが氾濫している。週刊誌月刊誌も毎号毎号その特集の繰り返しで、ということはこの出版不況の時代にもかかわらずこの手の本がまちがいなく売れるからなのだろう。しかし度が過ぎて廃刊に追い込まれた雑誌もあるからなにをやってもいいというわけではない、というところに若干の救いを感じる。
 現物を読んだことはないが本の帯の惹句や新聞広告を見る限りでは、明治以降の国定教科書のみで歴史を見、しかも身の回りにある歴史的な文物に興味をもたず考えることもなく、現実の政治問題に感情的に反応している輩の言辞が毒々しく煽情的に書かれているのに違いない。不思議でならないのは、そして残念極まりないのは、出版社に勤める人たちはかなりの高学歴で知識人であり「社会の木鐸」として市民を導く存在である、との思い込みがもう通用しないことだ。しかもそうした書籍や雑誌を発行している同じ会社から学問的啓蒙的に上質な書籍も発行しているという矛盾…。そんな会社の社員同士はどんな付き合いをしているのか、そして配置転換があれば彼もまた嫌中、嫌韓ものを発行してしまうのか。
 
 身近な朝鮮文化の歴史はすぐそこにある、神社の狛犬だ。狛犬は「高麗犬」であり朝鮮の新羅、高麗、李朝の高麗が転じて「狛犬」になったので朝鮮由来にまちがいない。私の住んでいる桂の近くに太秦の広隆寺があるがここの国宝弥勒菩薩は朝鮮のものであり、そのすぐ傍の蚕ノ社は秦氏縁の神社である。大体京都は平安京造営の以前も以後も秦氏―朝鮮からの渡来人―の存在なくしてはありえなかった土地であり、秦氏以外に賀茂氏もあり朝鮮とは極めて密接な関係があることを知っている人も多いはずであるのに、やはり現今の情勢は「嫌韓」勢力が強盛になっている。
 
 それではそろそろ『日本の朝鮮文化』を繙いてみよう。この本は司馬遼太郎、上田正昭、金達寿の共同編集による座談会集で全編日本にある朝鮮文化であり朝鮮文化の影響を論じている。日朝の政治的関係をはじめ帰化人、仏教、神宮神社、歴史、神話などテーマは多岐にわたり、林屋辰三郎、湯川秀樹、梅原猛などその道の専門家を招いて専門知識とそれにもとづいた自由な発想を展開したすぐれた「日朝論」の集積の三百七十頁余(当時は文字が小さかったので新刊では450頁を超えている)の一冊である。全編を紹介したいがここでは唯一の女性で随筆家の岡部伊都子さんの言葉を引用する。
 
 たとえば高野新笠たかののにいがさ)ね、千年の平安京を定めた桓武天皇は朝鮮出自の母の子なんだということを知っている人は、まあ少ないんですね。そういった歴史がその後、明治からの偏見にみちた教え方にあるのでしょうけれど、歪んでね。ほんとうのことをもっとほうとうに教えていたらね。やっぱり本音のいえる社会というのは守らないと。今でさえまだ本音のいえないような、あたりまえのことをいうのに妙に命がけみたいなことを考えなければならない。それはやっぱり困ると思うんですよ。もっともっとそいうことが常識でなければならないでしょうに。(「古代の日本と朝鮮」より)
 高野新笠は光仁天皇夫人で桓武天皇・早良親王・能登内親王の生母にあたる方、のち皇太后を贈られた。
 この本が出版されたのは昭和四十七1972)年である。大学闘争直後で時代の相貌が一挙に右傾化に進み始めた頃である。それでも「あたりまえのことをいうのに妙に命がけみたいなことを考えなければならない」状況を岡部さんは嘆いている。もし今、桓武天皇の母が朝鮮人だったなどとネット上で言おうものなら炎上必死であろう。それが歴史的事実であっても学校で学習していないものは「フェイク」と思っている彼らから罵詈雑言、脅迫さえもうけるにちがいない。
 わたしはね、そのすぐれた先人たちのつくった文化の、のこされているものをみてね、それはやっぱり朝鮮から来た文化にはちがいないんだけれども、もうわたくしたちの文化だとしか思えないわけです。日本の文化としてうけとめているわけです。渡来の上は結婚し、子どもを生み、われわれだってその子孫ですわ。天皇家自体もそうだし、まして貴族、一般庶民にね、当然になってきているんでね。その当然さを誰も何も言わないのかとわたしは思うんです。(前掲書より)
 平安京ができて勢力分布も安定し官僚組織が確立するまでは、朝鮮からの渡来人があらゆる分野で活躍(貴族に登用された朝鮮人も多かった)しその知識と技術抜きに国家体制を築くことはできなかった。一方朝鮮では百済、高句麗、新羅の三国時代を経て七世紀中期に新羅による朝鮮統一が果たされると百済、高句麗の人たちが大挙して我国に渡来した。平城京、平安京造営に彼らがいかに重要な働きをしたかは既に述べた通りである。
 しかし国家が安定してみると人材過多の時代となって余剰人口を抱えるようになる。そこでまだ我国に組み込まれていなかった熊襲(くまそ―九州南部)や蝦夷(えみし―関東、東北)の開拓のために彼らを送り込むことになる。関東武士の多くは彼らと彼らの混血の末裔といってもまちがいない。
 
 我国の朝鮮蔑視の歴史は平安京安定期と明治維新の二度ある。今我々が抱いている「韓国蔑視」は明治以降の日清・日露の二つの戦争と韓国併合の過程でつくられた「歪められた歴史教科書」によってもたらされたものであり、さらに加えてここ十年ばかりの文科省の恣意的な「検定」によってそれが増幅されてきた。
 
 無知と不寛容。戦後七十年経った今、世界は暗黒時代真っ只中にある。
 
 
  
 
 

2019年9月16日月曜日

ポツンと一軒屋

 「ポツンと一軒屋」という番組がある(テレビ朝日系)。大嫌いな番組みで一度も見たことがない。見ていないのに何故嫌うのだと突っ込まれそうだが、歴史を少しでも知っている人なら日本中どこにでもポツンと一軒屋はあるのであってしかもそれはある意味で日本の歴史の「恥」的な部分であることが多く、もし住んでいる人が居れば触れられたくない「家」の歴史的背景があるにちがいないからだ。 
 徳川時代の三百年は完全なる地方分権でこの狭い国土を二百五十以上の藩に分割して統治していた。貨幣経済でなく米を中心にした現物経済だったから藩別に定められた米の取れ高「石高」によって藩の中央政権・徳川幕府への財政負担が定められていた。最も負担だったのは参勤交代でそれ以外にも江戸城などの維持管理や諸街道などのインフラ整備費用の分担も膨大なものであった。藩の石高に変動はなかったから公式石高以外の「新田開発」によっていかに余剰を生み出すかが諸藩の経済を潤す重要政策になっていた。しかし領地には限りがあるから一定以上の新田の開発は不可能でその後は地方特産品のイノベーション力が藩の発展を左右することになる。有名な「赤穂の塩」などは今もその名を止めている。
 山岳と急流な河川の多い日本の地勢を考えてみれば明らかなように新田開発は過酷な作業になることが普通だった。そのため本百姓ではなくその次男以下に多かった水呑といわれた小作人などが主にその任に当たったがそれにも限りがあるから藩によっては犯罪人を動員することも少なくなかった。
 もうひとつ当時は宗門人別改帖によって住民と土地が確定されており移動の自由は制限されていた。人別帖に洩れていたのは芸能民であったり賎民であったり時代劇に出てくるヤクザなどが主だったものだった。彼らは何かがあるとすぐに罪人扱いになるから新田開発に狩り出されることも多かったにちがいない。
 新田開発もそうだが領地管理も重要な仕事で領地の辺境は隣国との境界管理の意味からも重要な仕事であった。初めは何人かの集団(そのうちの何人かは過酷な仕事を負わされた罪人が交じっていたにちがいない)で任に当たっただろうがそれが世襲になって時代の変遷とともにはじめの機能が不用になったりして、忘れられたり見捨てれられたこともあったかもしれない。
 
 「ポツンと一軒屋」と聞いたとき、まず浮かんだのはこんな状況と人たちだった。実際の番組はどうなのかは見ていないから分からないが、好き好んでそんな不便で厳しい条件の場所に住居を構える人は居ないだろうからできればそっとしておいて欲しいだろうと忖度して、嫌いだ、見ないという選択肢をとった次第である。
 
 「ポツンと一軒屋」で忘れてならないのは国境を支えている「島嶼」に住む人たちだ。昨今の世界情勢から絶えず他国の無人島に目を光らせている国家は多く、竹島であり尖閣諸島は有名だが我々の知らない国境の島嶼は数多あることだろう。先祖代々の地であるから「家」制度が色濃く残っていた時代には有無を言わさず守られてきただろうが戦後70年経って核家族が当たり前の今の時代、地球温暖化などの環境破壊がここまで至ってくれば規模の小さな家族漁業で生計を立てることはほとんど不可能になっている今、産業も職業もない辺境の地に若者が留まりつづけることを望むのは無理な話である。ということは戦後スグには何百人という規模で学校があり商店に多くの商品が揃えられ定期船が日に何本も就航していた繁栄が、残された人が僅か数人、いや二人か三人になっている島も少なくないのではないかと想像すると恐ろしい気がする。当然年寄りであろうし跡継ぎはもういないにちがいない。しかしそれでも彼らが居住してくれることでいわゆる「実効支配」できているわけで、一人二人のために電気水道などのインフラは維持しなければならないし定期便もたとえ週1便でも就航させなければならない。予算がどれほど配分されているのか知らないが地方分権が進められている昨今、地方に負担が強いられている可能性は十分予想できる。しかしもし、彼らが島を離れたら我国の領土はそれだけ危ういのもになり他国の動静次第では防衛のために膨大な対策費用が必要になってくるのだから「防衛費」と考えて国の手厚い援助があってもしかるべきではなかろうか。。
 先日も台風13号と14号が洋上を北上し先島諸島には暴風警報が発せられていた。長年住み慣れた人たちだからこそ過酷な気象状況に対応できているのであってそれがいつまでつづくかは保証のかぎりでない。
 
 そこで『国家防衛隊』を創設してはどうだろうか。海山に限らず人口の都市集中化の影響で過疎化の進行は危機的状況に達しており、「過疎地域の人口は全国の8.6%を占めるに過ぎないが、市町村数では半数近く、面積では国土の割弱を占めている総務省「過疎対策の現況」」。こうした現状を放置しておいた結果として北海道などの原生林を外国資本の蹂躙にまかせてしまって、そこにある水源地の権利問題が起り将来の「水不足」に甚大な影響を及ぼすのではないかと懸念されている。一方AIやロボットの採用によって今人間のしている仕事の多くがロボットに置き換わり今ある職業の3割から5割が消え去ると予想されている(オックスフォード大学マイケル・オズボーン氏の予測)。もしそうなら失業問題は国を支える若年労働者にとって最重要課題になってくる。また国土の荒廃は地球温暖化問題とも強くリンクしている。
 領土防衛、国土保全、水資源の確保、若年労働者の雇用問題。これらの総合対策として『国土保全』は重要且つ有効な対応策となる。若者が誇りを持って挑める仕事であり、AIを活用して僻地でも子どもの教育に支障がなく、所得保障も十分で、ローテーション、現地勤務以外の職務にも配慮した――そんな、一時しのぎでない国家百年の大計としての構想を若者が中心になって作成して欲しい。
 
 国土防衛隊については以前から折りに触れ考えてきたが、最近五島列島のある離島に取り残された老婆を描いた『飛ひぞく族(村田喜代子/文藝春秋)』を読んで一挙に現実味を感じた。小説としても優れた作品なので、特に高齢者にはお薦めしたい。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

2019年9月9日月曜日

消費税は不公平な税金である


 消費税増税直前。ここで改めて消費税について、我が国の税制について考えてみたい。
 
 消費税の不公平性については一般に「逆進性」がいわれることが多い。すなわち税金というものは所得の高い人ほど多く負担すべきであるにもかかわらず消費税は逆に所得の低い人ほど負担が多くなるから不公平だという考え方である。生活必需品――食費であったり水道光熱費などは品質に差があっても大体同程度の支出になるはずで、たとえば6万円だったとすればそれにかかる消費税は10%で6千円で収入が15万円の人と50万円の人では収入に占める割合は4%と1.2%になって明らかに所得の低い人の方が「重税感」は強い。社会保障費の膨張は確実だから消費税は更に高くなる可能性は強くこの「不公平」は今後重要な問題になってくる。
 
 しかし「不公平」についてはもっと重要な論点が見過ごされている。それは「企業は消費税を負担していない」ということだ。そんなことはない企業も仕入れには消費税がついてくるし支払っているという反論があるにちがいない。しかしよく考えてみてほしい。80万円の仕入れで100万円の自動車を製造しているT社の場合、T自動車会社は100万円の消費税10万円を消費者から徴収してそれを納税する。仕入れに係わる消費税、80万円の10%8万円は車の販売消費税10万円に完全に転嫁できている、ということはT自動車は一銭も消費税の負担をしていないことが分かる。しかしこれが小企業になると事情が変わってくる。仕入れ費用にかかっている消費税を自社製品を購入してくれる大企業に全額転嫁して販売することが不可能なこともあるし、もしできたとしても全額ではなく何割かの転嫁に抑え付けれることもあるにちがいない。いずれにしても理屈からは企業は消費税を消費者に転嫁することができるから消費税の負担はないといえるのだ。
 
 消費税の逆進性は不公平には違いないが「負担」という観点からは企業の負担がない税制であるという方がより重大な問題点であることがもっと追求されるべきではなかろうか。
 
 しかし税の問題はもっと根本的なところから考えてみる必要がある。今回の消費税増税は膨張する社会保障費の負担を国民みんなが公平に負担するという国民的合意があって増税されることになった。しかし今見たように個人ばかりが負担して企業が負担していないという事実が明らかになったように、この「個人」と「企業」という国の「構成員」という観点からみると負担の偏向による「不公平」はここ二十年ほどの間に劇的な変化を見せている。
 
 税金(国税+地方税)を個人の所得税、法人の所得税、消費税、相続税などの資産課税に分類して税収に占める割合を平成2年度と令和元年度で比較してみる。個人所得税は平成2年度37.8%→令和元年度31.3%▲3.5%/法人税30.4%→21.7%▲8.7%/消費税18.6%→33.4%+14.8%/資産課税等13.1%→13.6%+0.5%となっている。法人税以外を個人負担とすれば個人と企業の負担は約7対3から8対2に大きく変化している。資産課税は富裕層に係わるものとみなして所得税と消費税のみを個人税とみてこれと法人税の比較を試みると56.4対30.4から64.7対21.7、すなわち個人の負担が企業の1.855倍から約3倍(2.98)に増大しているのだ。しかも法人税の税率は現在が上限とみなされるのに対して消費税は今後益々上昇していくと予想されるからこの国の税負担はいよいよ個人に偏っていくであろうと考えて間違いない。
 
 さらに社会保障を社会保険料負担から考えてみると個人偏向の姿がより鮮明になってくる。
 まず厚生年金は現状の18.3%が負担率の上限とされているから、この半額を負担している企業の負担は今後増えることはない。しかも問題なのは厚生年金の保険料算出の「標準報酬月額(月収)」が62万円で頭打ちになっているので個人でみると富裕層ほど負担が軽いという偏りがある。これは健康保険についてもいえることで、標準報酬月額の上限が年収約1700万円で頭打ちになっており国民の約1%の富裕層は非常に恵まれた存在になっている。更に富裕層は資産課税でも――例えば株式配当課税などは分離課税になっているために上限の21.3%(所得税は最高税率が年収4000万円以上の45%)以上に増えることがないから富裕層がいかに恵まれているかは明らかだ。
 
 しかし、しかしである。どんなに企業の負担が軽かろうが、個人間の格差が酷かろうが、所得が増えておれば我慢できる、高度成長期はそうだったように。アベノミクスで安倍首相が自賛するように、企業が儲かれば必ず個人の所得が増えておれば許そうではないか。
 「実質賃金指数の推移の国際比較(1997年=100)」というOECD(経済協力開発機構)の資料は次のような数字を示している。
 1997(平成9)年を100として2016年の所得がどれほど増えているか(減っているか)。
 スウェーデン138.4、オーストラリア131.8、フランス126.4、ドイ.116.3ツ、アメリカ115.3、日本89.7 、日本は先進国で唯一1割以上も所得が減少しているのである。これは看過できない数字ではないか。
 
 消費税の導入は「直間比率の修正」「経済のサービス化に伴って奢侈品に偏った物品税―消費税を一般化する」「高齢化社会の財源を広く浅く確保しよう」という理由で導入された。直間比率の修正は間接税である消費税の比率が3割を超えたから相当修正されたといえる。高齢化の財源という意味では今回の増税も社会保障費以外にも流用されていることを考えると完全な「社会保障目的税」にするのが本道だろう。
 
 最も問題なのは国のかたちとして、企業と富裕層に恩恵が偏っている現状――結果として「格差拡大」という「社会の不安定要因」が増大していることだ。企業が儲かれば個人所得も増えるという「トリクルダウン」の考え方は通用しないことが明らかになったのだから、企業負担を増加させ、資産課税を「総合課税」に変更して、国民全員の公平な負担で国が成り立っている「かたち」にするべきなのだ。
 
 法人税を重くすれば、また個人課税の累進性を高めれば、企業と富裕層が海外に流出して国が貧しくなると「脅されて」きたが、それでいいではないか。本当の意味で「国を愛する」人と企業で「豊かな文化を享受する」――そんな国こそ我々が求めている「国のかたち」なのではなかろうか。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

2019年9月2日月曜日

専門性の軽視

 アジア史を通史的にみれば日中韓の関係は長兄が中国、次兄が韓国(朝鮮)そして末弟が我が日本と考えるのが普通だろう。律令制も条里制も、仏教も儒学も、貨幣制度もこの経路で伝わってきた。けれども皮肉なことにこれらの文物・制度のいずれもを最も成熟させたのは末弟の日本だったといえば中国、朝鮮は異論を称えるにちがいない。それなら、ヨーロッパ文明を逸早く、そして非ヨーロッパ国としてほとんど完成型にちかい形で摂取したのはわが国だったというについては首肯せざるをえないだろう。その紛うことなき歴史の事実が「日清戦争」であり「日露戦争」となる。
 
 しかしこの歴史的事実が対中、対韓関係の深部で重苦しく捩じ曲った力として作用していることを見逃している人が多い。しかもそれは、明治維新と第二次世界大戦後の二度の屈折点のいずれでも日本の後塵を拝するという屈辱を中国・朝鮮が経験したことも考えてみる必要がある。明治期の文化革命は、三百年近い徳川時代に近代化の基礎ごしらえを成し遂げていたハンデキャップがあったから、近代化を日本が逸早く達成したについては中・韓の人たちも納得しているにちがいないが、先の大戦後の重工業化による高度成長は戦勝国・中国にとっては遺憾の極みだろうし、その成長への弾みをつけたのが「朝鮮戦争」だったことは韓国にとっては悔やんでも悔やみきれない遺恨となって民族の深層に埋め込まれているにちがいない。もし「朝鮮特需」がなかったら日本の戦後復興は五年、いや十年遅れていたかもしれない。
 
 今問題になっている日韓請求権協定は、韓国が1953年の朝鮮戦争休戦の僅か12年後1965年に朴正煕大統領の軍事政権下に締結されたものである。ということは韓国民にとっては人権も言論も非常に不自由な時期に大統領専断に近い形で結ばれたものであるという国民感情があっても致し方ない側面を我々日本人は理解する必要がある。何故なら第二次世界大戦でアジア諸国に甚大な被害を与え残虐な侵略を行った歴史的事実を、東条英機はじめ極東裁判でA級戦犯となった一部軍部の暴走の結果であり、昭和天皇も我々国民もむしろ「被害者」であり、その贖罪を平成天皇が国民の総意を携えて行脚された、これによって戦争責任は免除されたいという論理でアジア諸国に対しているのと同じであるからである。あの戦争に我々日本国民はすすんで参加したのではない、軍部に抑圧され、言論の自由もなく反戦の意思表示も民主的な手続きで表せない状況下で行われたものであるから、「反省とお詫び」のもとに誠実に対応していくことで、植民地支配と残虐な侵略行為についての責任は免除して欲しいと歴代の総理大臣が談話を述べてきたのである。
 我々が先の戦争の責任を今や免除されているというのなら、朴正大統領軍事政権下で締結された日韓請求権協定に韓国国民は責任がを負わないという論理も頭から否定するのは無理があるのではないか。
 
 韓国(朝鮮)という国を考えるとき、この国の歴史が「喧嘩の勝ち方」を知らない民族にしているという視点をもつと分かり易い。韓国は有史以来朝貢国として中国と冊封関係にあり隷属してきた、それが日清戦争によってやっとその桎梏から開放されたと思ったのも束の間、15年後には日韓併合に至ったのだから我国に対する韓国の恨みは我々の想像をはるかに超えたものがある。朝鮮戦争も北朝鮮に対して劣勢になり自由主義陣営防衛の見地から米軍(連合国軍)が助勢して休戦に持ち込んだという経緯がある。こうした歴史的事実は韓国国民の深層心理に「敗者意識」「隷属感情」を埋め込んでしまっているのではないか。
 今回の一連の外交交渉の経過を見ても「勝つための戦略」――ということは負けたときの収拾策――がまったく考えられていない。まるで泣きわめく子どものような対応しかされていない。韓国の対日姿勢をみていると親に叱られた子どもが絶対的な優位者に最初から反抗をあきらめて一方的に服従していたのが突然キレて泣きながらダダをこね喚き散らす、そんな子どもの姿が髣髴としてくる。
 かといって最近のわが国の対韓の外交姿勢も威張れたものとはいえない。こちらの方は、エエとこの秀才のぼんぼんの喧嘩の仕方だ。調子に乗って弱いものいじめしているうちに形勢が怪しくなってくると誰か大人か先生が助けを出してくれる、それを当然としている「ぼんぼん代議士」たちが首相以下の現在の政権幹部といってもあながち間違っていない。イキナリ半導体材料三品目(フッ化水素、レジスト、フッ化ポリイミド)を規制強化し「ホワイト国」から韓国を除外するなどしたら韓国経済が壊滅的打撃を受けるであろうことは分かっているはずで、これは日本側も最初から相手の一方的な屈服しか想定していない措置だ。一気に息の根を止めてしまったら、死ぬか「カンニン」をいう道しか残されていない。これも利口な喧嘩の仕方とは言えない。
 
 グダグダと書いてきたが「外交」というものは本来グダグダとしたもので、永い歴史と歴史の中で積み重ねられた細々とした交渉術をもった極めて「専門性」の高い職能である。そんな専門性を軽視して、アメリカのトランプをはじめ世界の各国が大統領府や首相官邸主導で外交が行われているのが現在の世界情勢だ。イギリスのEU離脱もそうだし韓国の文外交もわが国の安倍外交も同じだ。
 
 専門性の軽視は外交に限らずほとんどの分野で起っている。そしてその「発端」は原子力発電の『安全神話』であったのではないか。それまで「科学信仰」ともいうべき「科学万能」であった社会が「原発不信」によって一挙に科学不信をもたらし、進歩の象徴であった「科学」の権威失墜が全般的な「専門性」の軽視に至ったのが「今」なのではないか。
 専門性の軽視が「真実の衰退」と「理性不信」につながり「寛容による説得ではなく破壊」で大衆を扇動する「ポピュリズム政治」の跋扈を招いた。
 
 それぞれの「専門性」の尊重が『寛容』を生み出す。