2019年9月2日月曜日

専門性の軽視

 アジア史を通史的にみれば日中韓の関係は長兄が中国、次兄が韓国(朝鮮)そして末弟が我が日本と考えるのが普通だろう。律令制も条里制も、仏教も儒学も、貨幣制度もこの経路で伝わってきた。けれども皮肉なことにこれらの文物・制度のいずれもを最も成熟させたのは末弟の日本だったといえば中国、朝鮮は異論を称えるにちがいない。それなら、ヨーロッパ文明を逸早く、そして非ヨーロッパ国としてほとんど完成型にちかい形で摂取したのはわが国だったというについては首肯せざるをえないだろう。その紛うことなき歴史の事実が「日清戦争」であり「日露戦争」となる。
 
 しかしこの歴史的事実が対中、対韓関係の深部で重苦しく捩じ曲った力として作用していることを見逃している人が多い。しかもそれは、明治維新と第二次世界大戦後の二度の屈折点のいずれでも日本の後塵を拝するという屈辱を中国・朝鮮が経験したことも考えてみる必要がある。明治期の文化革命は、三百年近い徳川時代に近代化の基礎ごしらえを成し遂げていたハンデキャップがあったから、近代化を日本が逸早く達成したについては中・韓の人たちも納得しているにちがいないが、先の大戦後の重工業化による高度成長は戦勝国・中国にとっては遺憾の極みだろうし、その成長への弾みをつけたのが「朝鮮戦争」だったことは韓国にとっては悔やんでも悔やみきれない遺恨となって民族の深層に埋め込まれているにちがいない。もし「朝鮮特需」がなかったら日本の戦後復興は五年、いや十年遅れていたかもしれない。
 
 今問題になっている日韓請求権協定は、韓国が1953年の朝鮮戦争休戦の僅か12年後1965年に朴正煕大統領の軍事政権下に締結されたものである。ということは韓国民にとっては人権も言論も非常に不自由な時期に大統領専断に近い形で結ばれたものであるという国民感情があっても致し方ない側面を我々日本人は理解する必要がある。何故なら第二次世界大戦でアジア諸国に甚大な被害を与え残虐な侵略を行った歴史的事実を、東条英機はじめ極東裁判でA級戦犯となった一部軍部の暴走の結果であり、昭和天皇も我々国民もむしろ「被害者」であり、その贖罪を平成天皇が国民の総意を携えて行脚された、これによって戦争責任は免除されたいという論理でアジア諸国に対しているのと同じであるからである。あの戦争に我々日本国民はすすんで参加したのではない、軍部に抑圧され、言論の自由もなく反戦の意思表示も民主的な手続きで表せない状況下で行われたものであるから、「反省とお詫び」のもとに誠実に対応していくことで、植民地支配と残虐な侵略行為についての責任は免除して欲しいと歴代の総理大臣が談話を述べてきたのである。
 我々が先の戦争の責任を今や免除されているというのなら、朴正大統領軍事政権下で締結された日韓請求権協定に韓国国民は責任がを負わないという論理も頭から否定するのは無理があるのではないか。
 
 韓国(朝鮮)という国を考えるとき、この国の歴史が「喧嘩の勝ち方」を知らない民族にしているという視点をもつと分かり易い。韓国は有史以来朝貢国として中国と冊封関係にあり隷属してきた、それが日清戦争によってやっとその桎梏から開放されたと思ったのも束の間、15年後には日韓併合に至ったのだから我国に対する韓国の恨みは我々の想像をはるかに超えたものがある。朝鮮戦争も北朝鮮に対して劣勢になり自由主義陣営防衛の見地から米軍(連合国軍)が助勢して休戦に持ち込んだという経緯がある。こうした歴史的事実は韓国国民の深層心理に「敗者意識」「隷属感情」を埋め込んでしまっているのではないか。
 今回の一連の外交交渉の経過を見ても「勝つための戦略」――ということは負けたときの収拾策――がまったく考えられていない。まるで泣きわめく子どものような対応しかされていない。韓国の対日姿勢をみていると親に叱られた子どもが絶対的な優位者に最初から反抗をあきらめて一方的に服従していたのが突然キレて泣きながらダダをこね喚き散らす、そんな子どもの姿が髣髴としてくる。
 かといって最近のわが国の対韓の外交姿勢も威張れたものとはいえない。こちらの方は、エエとこの秀才のぼんぼんの喧嘩の仕方だ。調子に乗って弱いものいじめしているうちに形勢が怪しくなってくると誰か大人か先生が助けを出してくれる、それを当然としている「ぼんぼん代議士」たちが首相以下の現在の政権幹部といってもあながち間違っていない。イキナリ半導体材料三品目(フッ化水素、レジスト、フッ化ポリイミド)を規制強化し「ホワイト国」から韓国を除外するなどしたら韓国経済が壊滅的打撃を受けるであろうことは分かっているはずで、これは日本側も最初から相手の一方的な屈服しか想定していない措置だ。一気に息の根を止めてしまったら、死ぬか「カンニン」をいう道しか残されていない。これも利口な喧嘩の仕方とは言えない。
 
 グダグダと書いてきたが「外交」というものは本来グダグダとしたもので、永い歴史と歴史の中で積み重ねられた細々とした交渉術をもった極めて「専門性」の高い職能である。そんな専門性を軽視して、アメリカのトランプをはじめ世界の各国が大統領府や首相官邸主導で外交が行われているのが現在の世界情勢だ。イギリスのEU離脱もそうだし韓国の文外交もわが国の安倍外交も同じだ。
 
 専門性の軽視は外交に限らずほとんどの分野で起っている。そしてその「発端」は原子力発電の『安全神話』であったのではないか。それまで「科学信仰」ともいうべき「科学万能」であった社会が「原発不信」によって一挙に科学不信をもたらし、進歩の象徴であった「科学」の権威失墜が全般的な「専門性」の軽視に至ったのが「今」なのではないか。
 専門性の軽視が「真実の衰退」と「理性不信」につながり「寛容による説得ではなく破壊」で大衆を扇動する「ポピュリズム政治」の跋扈を招いた。
 
 それぞれの「専門性」の尊重が『寛容』を生み出す。
 
 
 
 
 
 

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