2019年9月30日月曜日

西洋医療への疑問

 イギリス人の女性が花屋の店頭にあった仏花を見て「かわいいブーケ!」と嬉しそうな声を上げたという話を聞いたことがある。欧米では艶やかな常緑の葉物の花材が少ないから仏花のサカキの緑と菊やりんどうの取り合わせに新鮮な美しさを感じたのにちがいない。このように我々が日頃なんとも思っていない当たりまえのことも視点を変えてみると違った景色が開けてくることがママある。今日はそうした視点から「医療」について考えてみる。
 
 最近私の周囲でいわゆる「西洋医学」でない「医療」で病状が回復したという話を聞くことが珍しくなくなった。西洋医学とは今一般に我々が「おいしゃさん」とよんでいる病院や医院で行われている医療のことであるが、例えば友人H君の奥さんのスピリチュアル・ヒーリング経験などはその格好の実例と言えよう。彼女は肝臓と腎臓が悪く腎臓は半分しかないという病歴を抱えながら今日に至っている。ここ何年かは「病気的」には悪いところがないとかかりつけの病院で診断されているのだが、にもかかわらずいつもどこかがすぐれずシンドイ状態がつづいていた。そこで紹介された「スピリチュアル・ヒーリング」の施術を何回か受けたところその「不快な常態」が改善されたという。またもうひとりの友人F君は若年性認知症の「語る会」の経験談で、同じくスピリチュアル・ヒーリングで良い効果があった話が披露されたと言っていた。
 これとは少し傾向は異なるが整形外科で一向に症状が良くならなかった高齢の女性が、整骨院のマッサージで劇的に改善された例も身近にある。
 これは一体どういうことなのだろうか。
 
 感染症や骨折、負傷などの治療における西洋医療の有効性に疑問をはさむ余地がないことに異論はない。しかし生活習慣病や高齢者の「日常的な常態としての体調不良」などについては、われわれがこれまで西洋医療から得ていた治療改善度ほどの効果は達成されていないのが現実だ。
 一方でNHKの「人体」という番組で紹介された『メッセージ物質』の発見は従来の西洋医学にはなかった「概念」の治療の出現に期待を抱かせる。この放送以前にスポーツ障碍医療の最前線を扱った番組で、下半身麻痺の患者に対してスポーツ整形外科の療法士が「左足の親指を動かしますから意識して」と指示しながら施療している場面があって、患者さんに麻痺した部位を意識してもらって運動を繰り返すと機能回復することが分かってきたのです、との解説がありその理論に基づいた新しい治療法でこれまで回復不能とされていた障碍にも希望が開けていることを知った。ということは従来脳が司令塔として全身に指示を出して各部位(臓器)はその指示にもとづいて運動していると考えられていたが、そうではなくて脳と部位の相互関連として身体系統が築かれていることになる。メッセージ物質はこうした考えを裏づけるとともにこれまでの西洋医学とは異なった方向への発展に期待がかかる。
 
 人間が肉体と精神の統合体であるということはなんとなく理解している。しかし従来型の西洋医療は肉体を切り離して、それも病の原因とされるある特定の部位を対象として治療が行われることが多かった。極端な場合腰が痛いといえば腰のレントゲンを撮って痛みの原因とされる損傷が見つからなければ「悪いところはありません」で済まされることもあった。しかし腰の不調は股関節からくるものもあれば背骨の歪みが原因かも知れないから腰に限定した診療はまちがいなのだ(すべての整形外科医がそうであるわけではない)。特定部位限定の治療法以外に全身の抵抗力や免疫力、基礎代謝を高めることで治療効果を高める医療もある。これは西洋医療よりも漢方の得意分野とされ、ある癌患者が漢方の薬剤と針・マッサージの併用で格段に症状が改善されたという経験を聞いたことがある。
 一方アメリカなどでは、特に精神神経科の分野で多く用いられている心理療法士による「カウンセリング」療法が有効とされ多くの患者が診療を受けている。これとは別に最近我国などでも多くなった「語る会」という治療法もある。これは依存症――薬物や飲酒、ギャンブル依存症患者が互いに依存に至る過程や治療の進捗具合、再発した原因や家族の協力などを語り合うことで孤立感や弱さを克服して依存から脱却する効果があるとされている。
 
 話は逸れるが、鏡が一般に流通するまで人間は自分の顔や姿を知るには他人の言葉に頼るしかなかった。勿論穏やかな水面に映すということもあったが、主にひとのいう「美しいですね」とか「いい男ぶりですね」という言葉と自分の美しい女、美丈夫という概念をあてはめて自分を捉えるしかなかった。鏡は14世紀はじめに精度の悪いものが発明されたが品質が悪い上に高価なものだったから庶民には縁がなかった。十九世紀中期に今の鏡の原理が発明されて一挙に流通し一般化したという歴史を考えると、人間が他者から切り離された形で――先ず自分があり、そして他者と共存している「自己」を認識するようになってからほんの二百年にもなっていない。ということは、それまで人間は親、家族、親族、友人、共同体としての部族や地域と不可分のものとしての「自己」であったにちがいない。従って親や家族といるときには落ち着いて心穏やかであったであろうし、もし共同体からはなれて異郷に赴くようなことがあれば今では考えられないくらいの不安を感じていたであろうことは想像に難くない。
 我国で自我の確立が意識されはじめたのは漱石や二葉亭四迷などの近代文学の興隆期を俟たねばならないから僅か百年か百五十年前のことで、「個としての自我」の認識は我々の遺伝子にはまだ組み込まれていないといってもあながち見当はずれということにはならない。こうしたことを前提とするならば、核家族化の急激な進展を経験した現代人は精神的に相当不安定な状態にあり精神と肉体の相互関係において極めて「平衡」を保ち難い状況に追い込まれているとみてまちがいない。今年七月国立がん研究センターなどの共同研究で「ストレスなどによる交感神経の緊張が、がんを進展させ得る」という研究結果を発表したのはこうした現代人の抱えているリスクを明らかにしたものといえる。                                                    (つづく)
 
 
 

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