2014年11月24日月曜日

良い思いで

 いつも行く公園で去年の5月頃から近くの小学校の子どもたちがランニングをするようになった。週に4、5回朝6時半頃から7時半近くまで12~13人が野球場周囲の約350mの周回路を使って練習している。このグループの特徴は親たちも一緒になって走っていることで特にリーダー格のお父さんはよく走る。お母さんもたまに走るが大概はラップをとったり応援専門だったりである。
 年寄りが口を出すとり難くかろうと遠巻きに見ていたがあんまり熱心に続くのである日訊いてみた。「何をしているのですか?」「来年の大文字駅伝の地区代表を目指しています」。
 大文字駅伝というのは京都の小学生たちが毎年2月、大文字のふもと―金閣寺の近くからスタートして下賀茂神社あたりで川の河川敷に下り岡崎公園までの約2kmを10人で走る名物レースでもう30年近い歴史がある。京都の駅伝―とりわけに女子が強いのはこのレースが基礎になっているといってもあながち間違いではない。最近は南西部(西京区など)が強い傾向にありこの小学校も激戦のその地区にあるがそれにしても年前から練習を開始するとは凄い意気込みだ。
 毎朝のことだからそのうち応援の気持ちが湧いてくる。そうなると遅い子ども、なかなかタイムの詰まらない子贔屓(ひいき)したくなるの人情だ、心のなかで「ガンバレガンバレ」と応援するようになった。若いということは素晴しいことで目に見えてグイグイ上達する。これはリーダーのお父さんの指導が良かったことも力になっていると思う練習をはじめたころは女子が優勢だったがおいおい男子が追いついて実力拮抗、体つきも女子の方が大きかったがこの夏頃には男子が並んだいいゾ、カンガレ!
 
 そしてついに先日、11月12日に予選会があった。このメンバーの多くが学校代表になっていたに違いないが残念なことに地区代表には選ばれなかった。数日して顔馴染みの幾人かに「あの子たちどうでしたか」と訊かれたところをみると年寄り連中は皆、陰ながら応援していたようだ。「可哀そうに…」と呟く彼らはこの1年何ヶ月か、子どもたちと親たちの練習を見て随分力を貰っていたに違いない。朝一番にひたむきな子どもの姿に接して気持ちの好い一日を送っていたことだろう。若い人たちの一所懸命な姿ほど勇気を与えてくれるものはない。
 
 あとで知ったのだが強い学校では3、4年生から練習しているというから1年半くらいでは練習が足らなかったのかも知れない。しかし子どもたちはいい思い出を持ったと思う。大人になって、結婚して子どもができて「あのとき親父らようやってくれたなぁ、今の俺ら絶対できひんもんなぁ」と語り合っている姿が目に浮かぶ。結果は出なかったけれども懸命に努力できたことに満足していると思う。口惜しさを感じた子どもはこのつぎ何かに挑戦したとき、中途半端なことでは決して妥協しないに違いない。
 今どきの親は…、と一括りにして批判されがちだが、こんなに愛情に満ちた子育てに奮闘している親がいる。尊敬できる人たちだ。
 元気を与えてくれた彼らに応援の気持ちを込めて次の一文を贈ろう。 
 
 何か良い思い出、とくに子ども時代の、両親といっしょに暮らした時代の思い出ほど、その後の一生にとって大切で、力強くて、健全で、有益なものはないのです。きみたちは、きみたちの教育についていろんな話を聞かされているはずですけど、子どものときから大事にしてきたすばらしい神聖な思い出、もしかするとそれこそが、いちばんよい教育なのかもしれません。/自分たちが生きていくなかで、そうした思い出をたくさんあつめれば、人は一生、救われるのです。もしも、自分たちの心に、たとえひとつでもよい思い出が残っていれば、いつかはそれがぼくらを救ってくれるのです(『カラマーゾフの兄弟』トルストイ著亀山郁夫訳・光文社古典新訳文庫より)

2014年11月17日月曜日

明治維新の目指したもの(2)

 世界経済は今(2013年)74兆7000億ドルまでに拡大しアメリカは16兆768億ドルで1位、以下中国9兆4691億ドル日本4兆8985億ドルだが1人当りGDPで見るとアメリカ5万3千ドル中国6千960ドル日本3万8千500ドルとなっている。ちなみにインドは1千510ドル(国のGDPは1兆8800億ドル)にすぎない。今年になって世界経済はひとりアメリカだけが不況を克服して量的緩和を終了したが日本はデフレ脱却したばかりで成長ゾーンへはまだまだ先の状況であるしEUは最大国のドイツまでがあやしくなってセロ成長に近い。新興国経済も中国、ロシア、インドを含めて低成長に陥っている。特に中国は成長のエンジンであった労働力が減少傾向に転じて人口ボーナス期を過ぎ構造転換を図らなければ「中所得国の罠」に陥りかねない状況にあるから深刻である。
 一方世界の人口は今年遂に70億を超え70億4400万人に達し中国が13億8400万人インドが12億3600万人で上位を形成している。世界のすべての国が「経済成長」を目標として国の運営をするのは結局のところ国民が豊かになるためであり現在の目安では1人当りGDP2万ドル以上が「豊かさの尺度」となっている。現在の状況で中国インドという人口超大国がしゃにむに2万ドルの経済規模をめざしたとすると(香港の1人当りGDPは3万7千900ドル台湾は2万900ドルである)中国のGDPは276兆7000億ドル、インドは247兆2000億ドルにならなければならず、現在の規模からの増分の両国合計は512兆6500億ドルになり現在の世界経済規模74兆7000億ドルの約7倍になる。半分の1万ドルでも増分は3.4倍に近い。これは実現不可能な数字であり、地球を7個増やすしか実現できない経済規模である。
 
 ポルトガル、スペイン、オランダ、イギリスと覇権国が変遷するなかで世界経済は膨張を続け20世紀になってアメリカが覇権国として世界経済を牽引してきた。冷戦が終結し資本主義自由主義経済が唯一の経済原理となってグローバル化し世界経済が統合された。しかし今や「経済成長」を唯一の『尺度』として『世界運営』の行える可能性は極めてゼロに近いことを認識すべき時期に差しかかっている。
 中国が近隣国との友好関係を無視して海洋覇権に執着し世界中の資源の収奪をねらって行動しているが、有能な中国指導者たちにしてみれば近い将来の世界経済を見通した至極当然の戦略と考えているに違いない。遅れてきた「インド」もまた現状のままの『運営指針』で世界が運営されていくのであれば中国の跡を追うのは当然だろう。
 『遅れてきた超大国』をいかに世界に取り込むか。先進国の『賢明な包容力』が求められるが具体的に世界経済をどのように展開していけば良いのだろうか。
 
 「有限な資源の効率的活用による世界の人々の豊かさの実現」即ち「貧困からの解放」を基本理念にすれば「個人の豊かさ」とは無縁の「戦力」に資源を利用する余裕は全く無いことは明らかだ。当然『戦力のゼロ化』は選択すべき最大の手段である。
 「気候温暖化のもたらす地球規模での異常気象」はまったなしの危機水準にある。一日も早い温暖化対策を世界規模で取り組む必要がある。そこで『炭素税』を先進国に課し先進国の成長にブレーキをかけそれを世界ODA(政府開発援助)として途上国に配分する仕組みは考慮に値するのではないか。不満をもつ先進国があれば『共通ではあるが差異のある責任』を基準として世界的に負担を求める方法もある。
 豊かな社会の「格差」をを是正して『不必要な豊かさ』を削除し国全体の大きさ(GDPの)を『理由のあるダウンサイジング』するという考え方は先進国の「勇気ある撤退」の覚悟が試される選択肢である。
 こうした施策を実行するためにこれからの社会はどんな価値を尊重して運営すればよいかについては先に揚げた「じゅうぶん豊かで、貧しい社会」が「現代社会には、お金に換えられない健康、安定、尊敬、人格、自然との調和、友情、余暇という7つの基本価値がある」と提言している。検討する価値は十分にあろう。
 
 我国の明治維新が踏み出した「近代化=西欧化」という「成長基準」の国家運営を多くの「遅れてきた国々」が採用せざるを得ない状況に追い込まれて「今日」がある。しかしこの「価値基準」は「限られた強国の連合」という『部分』では機能したが『世界大』という『全体』を管理する基準としては『自己破壊』に繋がる『矛盾』を孕んだものであったことに気づかされた。『成長』は「戦争の世紀」であった『20世紀の遺物』に成り果てる運命にある。
 ではどうするべきか。大問題である。

2014年11月10日月曜日

明治維新の目指したもの(1)

 
 何冊かの本を併行して読んでいてその日読んだ、或いは数日の間に読んだそれぞれの書中の一文が互いに響きあうということがある。最近もそれがあってそのことが数年来の蟠(わだかま)りを解(ほど)く契機になった。
 
 ひとつは大江健三郎の「定義集・民族は個人と同じく失敗し過つ」にあった1963年12月東京・豊島会館で行われた「わだつみの会主催『学徒出陣20周年記念・不戦の誓いを新たに』」に共に参加した老哲学者南原繁と大江の師・フランス文学者渡辺一夫の講演のことばである。渡辺については「渡辺さんは今ある『平和』を良い平和にする苦しさに耐えねば、と話されました」と書いている。南原は、戦争末期、学生に何を助言できるかが辛く苦しかった、と語られた、としたあとこうつづけている。「国家が今存亡の関頭に立っているとき、個々人の意志がどうであろうとも、われわれは国民全体の意志によって行動しなければならない。われわれはこの祖国を愛する、祖国と運命を共にすべきである。ただ、民族は個人と同じように、多くの失敗と過誤を冒すものである。そのために、わが民族は大きな犠牲と償いを払わねばならぬかも知れない。しかし、それはやがて日本民族と国家の真の自覚と発展への道となるであろう」。
 南原が日本民族と国家の真の自覚と発展の道になるであろうと期待した犠牲と償いが、20年たって、「今ある『平和』を良い平和にする苦しさに耐えねば」と言わざるを得ない状況に陥っていたことに渡辺は忸怩たる思いを抱いたに違いない。しかし70年後の今、事態はその時よりなお一層苦しく苛酷な状況を呈している。
 
 同じ状況を隠棲の逸民・永井荷風はこう慨嘆する。「江戸三百年の事業は崩壊した。そしてその浮浪の士と辺陬の書生に名と富と権力とを与へた。彼等のつくった国家と社会とは百年を保たずして滅びた。徳川氏の治世より短きこと三分の一に過ぎない。徳川氏の世を覆したものは米利堅(メリケン)の黒船であった。浪士をして華族とならしめた新日本の軍国は北米合衆国の飛行機に粉砕されてしまった。儒教を基礎となした江戸時代の文化は滅びた後まで国民の木鐸となった。薩長浪士の構成した新国家は我々に何を残していったろう。まさか闇相場と豹変主義のみでもないだろう(「冬日の窓」より)。
 明治維新以降の我国がめざした「近代化=西欧化」を苦々しく吐き捨てた荷風がもし今日まで生きておれば「地下鉄サリン事件で精神的に、3.11東日本大震災・福島第一原子力発電所事故で物質的に、近代化は完全に否定された」と明言するに違いない。
 そしてこのことは我国に止まらず世界的視点でも行き詰まっていることを「じゅうぶん豊かで、貧しい社会(ロバート&エドワード・スキルデルスキー共著村井章子訳・筑摩書房)」は次のように厳しく突きつけている。「貧しい国にとって、物質的な成長は豊かさの実現につながり、それに寄与する資本主義の役割は重要になる。ただ、経済が十分に豊かになれば、成長への動機は社会的に容認されなくなり、資本主義は富の創造という任務を終える。そこでは、無限の欲望を満足させるために希少の資源を使うことは『目的のない合目的行動』にすぎない」。
 
 「数年来の蟠り」というのは、「近代化=西欧化」が「物質的豊かさの享受」でありそのためには「資本主義による効率性の追求」にすべてが収斂せざるをえないとしてきた「進化の論理」が完全に行き詰まっているのではないか、ということである。少なくとも「経済が十分に豊かにな」った先進諸国においては「経済成長」を「進化の尺度」とする論理は終焉したと思わざるを得ない状況が差し迫っている。
 
 ほんの30年前まで世界経済は10ヶ国に満たない国々が主たるプレーヤーとして資源を使いたいだけ使って牽引していたが21世紀になってG20となり更にグローバル化が進展して今や世界経済は一体化した緊密な連帯関係を構築するに至っている。世界経済の一体性はギリシャ危機に見られるように世界経済の1%にも満たないヨーロッパの1国の経済変調がたちまち世界経済に重篤な影響を与えるようになっていることで如実に理解できるであろう。
 
 ここまで一体化した世界経済は、先に豊かになった國も遅れてきてまだ豊かに成り切っていない国も、同じ「成長という尺度」で市場の自由競争に任せて運営したのではそう遠くないうちに『破綻』してしまうことは明らかだ。何故なら世界経済(GDPの成長)は資源の制約以上に成長することは不可能だからである。

2014年11月4日火曜日

政治と言葉

 またぞろ「政治とカネ」である。しかし今度の小渕優子議員の場合は程度が低すぎる。父の代からのスタッフを『信頼』して任せ切っていたから「裏切られた」思いです、と言っているが根本的に政治家というものを勘違いしているのではないか。そもそも彼女は何を「信頼」していたのか。父の代からのスタッフに「丸投げ」するのが「信頼」することなのか。5期14年も議員を続けているのだから組織の末端にまで「目配り」できる組織に改変してこそ「政治家」である。父からの「地盤、看板、かばん」に乗っかって「政治もどき」の仕事をこなすだけでは到底政治家とは言えまい。一からの出直しが必要である。
 
 政治家の基本機能は「価値判断」だと思う。それも突き詰めれば「所得再配分」の判断だと思う。「再配分」を大きくするか最小で済ますのか、リベラルか保守か、重要な価値判断である。農業部門の再配分を社会保障に移転する―農家の米作生産調整(減反政策)の補償金を減額又は削減してその分を社会保障に回すということになれば既得権者の農家を納得させる必要があり政治家が覚悟を持って挑まなければ成就は難しい。農政に限らない、経済・社会の変動は急であり大きな転換期に差し掛かっている。政治家の価値判断が益々重要度を増してくることは間違いない。
 
 価値判断は理屈で無い部分が大きいから「言葉」が重要になってくる。従って政治家にとって「言葉」は極めて重要なツールになる。それにしては昨今の政治家の「言葉」は余りに貧弱であり弁舌が拙い。一番の問題は「言葉」というものを誤解していることにある。
 「A.N.ホワイトヘッドは言っている)多くの思い違いのなかに、完璧な辞書が存在するという思い違いがある。あらゆる知覚に対して、あらゆる言説に対して、あらゆる抽象概念に対して、人はそれに対応するものを、正確な記号を辞書の内に見出し得ると考える錯誤がある、と。(J.L.ボルヘス著鼓 直訳『詩という仕事について』より)」。
 「言葉が記号の代数学であるという、われわれの考えは辞書に始まると考えられます。(略)しかし私の考えでは、単語と定義の長々しいカタログを所有するという事実のせいで、われわれは、定義が単語を説明し尽くしていると(略)その単語のすべてが互いに交換可能であると、信じ込まされているのです(同上書より)」。
 ボルヘスがいうように我々はえてして「言葉」は出来上がったものであり不変なものであると勘違いしている。「言葉」を無造作に選択しても伝えたいと願っている内容が間違いなく相手に受け取ってもらえると安心している。しかしそれは余りに『楽観的』過ぎる。役人の地元説明会などを見ていればそれは如実に分かるであろう、役人が言葉を尽くしても行き違いを繰り返すばかりであるのを。
 深く考えることも無くその場の思いつきで「言葉」を繋ぎ合わせば文章になり弁論になると思い込んでいるから『文章作成(弁論)技術の訓練』がナオザリにされてしまう。「詩というものは単に或る瞬間の感情の定着ではなくて、多くの体験をずうっと蒸留していった末に一行だけ書かれるような種類のものだ、ということをリルケが言っている(大岡信・谷川俊太郎対談集『批評の生理』より)」。「詩」を言葉や弁論に置き換えれば「政治家の言葉」の『重さ』を理解できるだろう。
 「削るということは組織化していくことだ(略)できるだけ多くのものを取り込んで、それを組織化することで複雑なものが単純になる(略)具体的な肉体で感じられる多くのものを、組織化することによって単純化していく(前掲書より)」。
 
 既得権を剥奪されたり削減されたりすることは人間の最も承服しかねることである。それを仕事とする政治家はよほどの「言葉の練達者」であらねばならない。一昔前の政治家に大学の「弁論部」出身者が多かったのも由無いことでない。アメリカの政治家が「ライター」を活用しているのもそれだけ「言葉」であり「弁論」を重要視している証であろう。
 
 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった(聖書「ヨハネ福音書」から)。