2014年11月4日火曜日

政治と言葉

 またぞろ「政治とカネ」である。しかし今度の小渕優子議員の場合は程度が低すぎる。父の代からのスタッフを『信頼』して任せ切っていたから「裏切られた」思いです、と言っているが根本的に政治家というものを勘違いしているのではないか。そもそも彼女は何を「信頼」していたのか。父の代からのスタッフに「丸投げ」するのが「信頼」することなのか。5期14年も議員を続けているのだから組織の末端にまで「目配り」できる組織に改変してこそ「政治家」である。父からの「地盤、看板、かばん」に乗っかって「政治もどき」の仕事をこなすだけでは到底政治家とは言えまい。一からの出直しが必要である。
 
 政治家の基本機能は「価値判断」だと思う。それも突き詰めれば「所得再配分」の判断だと思う。「再配分」を大きくするか最小で済ますのか、リベラルか保守か、重要な価値判断である。農業部門の再配分を社会保障に移転する―農家の米作生産調整(減反政策)の補償金を減額又は削減してその分を社会保障に回すということになれば既得権者の農家を納得させる必要があり政治家が覚悟を持って挑まなければ成就は難しい。農政に限らない、経済・社会の変動は急であり大きな転換期に差し掛かっている。政治家の価値判断が益々重要度を増してくることは間違いない。
 
 価値判断は理屈で無い部分が大きいから「言葉」が重要になってくる。従って政治家にとって「言葉」は極めて重要なツールになる。それにしては昨今の政治家の「言葉」は余りに貧弱であり弁舌が拙い。一番の問題は「言葉」というものを誤解していることにある。
 「A.N.ホワイトヘッドは言っている)多くの思い違いのなかに、完璧な辞書が存在するという思い違いがある。あらゆる知覚に対して、あらゆる言説に対して、あらゆる抽象概念に対して、人はそれに対応するものを、正確な記号を辞書の内に見出し得ると考える錯誤がある、と。(J.L.ボルヘス著鼓 直訳『詩という仕事について』より)」。
 「言葉が記号の代数学であるという、われわれの考えは辞書に始まると考えられます。(略)しかし私の考えでは、単語と定義の長々しいカタログを所有するという事実のせいで、われわれは、定義が単語を説明し尽くしていると(略)その単語のすべてが互いに交換可能であると、信じ込まされているのです(同上書より)」。
 ボルヘスがいうように我々はえてして「言葉」は出来上がったものであり不変なものであると勘違いしている。「言葉」を無造作に選択しても伝えたいと願っている内容が間違いなく相手に受け取ってもらえると安心している。しかしそれは余りに『楽観的』過ぎる。役人の地元説明会などを見ていればそれは如実に分かるであろう、役人が言葉を尽くしても行き違いを繰り返すばかりであるのを。
 深く考えることも無くその場の思いつきで「言葉」を繋ぎ合わせば文章になり弁論になると思い込んでいるから『文章作成(弁論)技術の訓練』がナオザリにされてしまう。「詩というものは単に或る瞬間の感情の定着ではなくて、多くの体験をずうっと蒸留していった末に一行だけ書かれるような種類のものだ、ということをリルケが言っている(大岡信・谷川俊太郎対談集『批評の生理』より)」。「詩」を言葉や弁論に置き換えれば「政治家の言葉」の『重さ』を理解できるだろう。
 「削るということは組織化していくことだ(略)できるだけ多くのものを取り込んで、それを組織化することで複雑なものが単純になる(略)具体的な肉体で感じられる多くのものを、組織化することによって単純化していく(前掲書より)」。
 
 既得権を剥奪されたり削減されたりすることは人間の最も承服しかねることである。それを仕事とする政治家はよほどの「言葉の練達者」であらねばならない。一昔前の政治家に大学の「弁論部」出身者が多かったのも由無いことでない。アメリカの政治家が「ライター」を活用しているのもそれだけ「言葉」であり「弁論」を重要視している証であろう。
 
 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった(聖書「ヨハネ福音書」から)。
 
 

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