2014年11月10日月曜日

明治維新の目指したもの(1)

 
 何冊かの本を併行して読んでいてその日読んだ、或いは数日の間に読んだそれぞれの書中の一文が互いに響きあうということがある。最近もそれがあってそのことが数年来の蟠(わだかま)りを解(ほど)く契機になった。
 
 ひとつは大江健三郎の「定義集・民族は個人と同じく失敗し過つ」にあった1963年12月東京・豊島会館で行われた「わだつみの会主催『学徒出陣20周年記念・不戦の誓いを新たに』」に共に参加した老哲学者南原繁と大江の師・フランス文学者渡辺一夫の講演のことばである。渡辺については「渡辺さんは今ある『平和』を良い平和にする苦しさに耐えねば、と話されました」と書いている。南原は、戦争末期、学生に何を助言できるかが辛く苦しかった、と語られた、としたあとこうつづけている。「国家が今存亡の関頭に立っているとき、個々人の意志がどうであろうとも、われわれは国民全体の意志によって行動しなければならない。われわれはこの祖国を愛する、祖国と運命を共にすべきである。ただ、民族は個人と同じように、多くの失敗と過誤を冒すものである。そのために、わが民族は大きな犠牲と償いを払わねばならぬかも知れない。しかし、それはやがて日本民族と国家の真の自覚と発展への道となるであろう」。
 南原が日本民族と国家の真の自覚と発展の道になるであろうと期待した犠牲と償いが、20年たって、「今ある『平和』を良い平和にする苦しさに耐えねば」と言わざるを得ない状況に陥っていたことに渡辺は忸怩たる思いを抱いたに違いない。しかし70年後の今、事態はその時よりなお一層苦しく苛酷な状況を呈している。
 
 同じ状況を隠棲の逸民・永井荷風はこう慨嘆する。「江戸三百年の事業は崩壊した。そしてその浮浪の士と辺陬の書生に名と富と権力とを与へた。彼等のつくった国家と社会とは百年を保たずして滅びた。徳川氏の治世より短きこと三分の一に過ぎない。徳川氏の世を覆したものは米利堅(メリケン)の黒船であった。浪士をして華族とならしめた新日本の軍国は北米合衆国の飛行機に粉砕されてしまった。儒教を基礎となした江戸時代の文化は滅びた後まで国民の木鐸となった。薩長浪士の構成した新国家は我々に何を残していったろう。まさか闇相場と豹変主義のみでもないだろう(「冬日の窓」より)。
 明治維新以降の我国がめざした「近代化=西欧化」を苦々しく吐き捨てた荷風がもし今日まで生きておれば「地下鉄サリン事件で精神的に、3.11東日本大震災・福島第一原子力発電所事故で物質的に、近代化は完全に否定された」と明言するに違いない。
 そしてこのことは我国に止まらず世界的視点でも行き詰まっていることを「じゅうぶん豊かで、貧しい社会(ロバート&エドワード・スキルデルスキー共著村井章子訳・筑摩書房)」は次のように厳しく突きつけている。「貧しい国にとって、物質的な成長は豊かさの実現につながり、それに寄与する資本主義の役割は重要になる。ただ、経済が十分に豊かになれば、成長への動機は社会的に容認されなくなり、資本主義は富の創造という任務を終える。そこでは、無限の欲望を満足させるために希少の資源を使うことは『目的のない合目的行動』にすぎない」。
 
 「数年来の蟠り」というのは、「近代化=西欧化」が「物質的豊かさの享受」でありそのためには「資本主義による効率性の追求」にすべてが収斂せざるをえないとしてきた「進化の論理」が完全に行き詰まっているのではないか、ということである。少なくとも「経済が十分に豊かにな」った先進諸国においては「経済成長」を「進化の尺度」とする論理は終焉したと思わざるを得ない状況が差し迫っている。
 
 ほんの30年前まで世界経済は10ヶ国に満たない国々が主たるプレーヤーとして資源を使いたいだけ使って牽引していたが21世紀になってG20となり更にグローバル化が進展して今や世界経済は一体化した緊密な連帯関係を構築するに至っている。世界経済の一体性はギリシャ危機に見られるように世界経済の1%にも満たないヨーロッパの1国の経済変調がたちまち世界経済に重篤な影響を与えるようになっていることで如実に理解できるであろう。
 
 ここまで一体化した世界経済は、先に豊かになった國も遅れてきてまだ豊かに成り切っていない国も、同じ「成長という尺度」で市場の自由競争に任せて運営したのではそう遠くないうちに『破綻』してしまうことは明らかだ。何故なら世界経済(GDPの成長)は資源の制約以上に成長することは不可能だからである。

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