2023年2月27日月曜日

2100年を見すえて

  北朝鮮によるミサイル試射に終わる気配がありません。それどころか実験の高度化と挑発さがつのるばかりです。今回18日の試射はわが国のEEZ内に落下しましたから危険性と挑発さは寛容の範囲をはるかに超えるものです。毅然たる対応が望まれます。

 

 そこで政府に提案があるのですが、「北朝鮮のミサイル試射を事前に把握する」能力を国民に示して欲しいのです。「北朝鮮がミサイル発射の準備をしています。発射基地はX地方、ミサイルはY形式、目標はZ地点が想定されています。発射時期は未確定ですが把握でき次第発表します」といった風な警報をJアラートで流して欲しいのです。国民は安心しますし、自衛隊は国民の安全に対応した備えを講じることができます。まさに「反撃能力」そのものです。これでもし北朝鮮がわが国に攻撃するようなことがあれば「反撃」は可能になるでしょう。こうした事態を積み重ねることができれば「抑止力」となって北朝鮮のミサイル(核)開発に歯止めがかかるかもしれませんしそうなれば東アジアの緊張緩和にもつながるにちがいありません。

 政府のいう「反撃能力(敵基地攻撃能力)」を私はこのようなものと理解しています。

 

 岸田政権が閣議決定した防衛3文書にある「反撃能力の保有」は戦後わが国国防政策の根本的変更であるにもかかわらず閣議決定という国民の民意を問う段階を経ない暴挙ですが、特に問題なのは仮想敵国が行なうわが国に対する破壊行為の事前把握が可能だとしていることです。それにもかかわらずその「具体的」戦力は「機密事項」として明らかにしていません。したがって上記のように国民は――私は想像するのですが、もし私の想定に誤りがないのなら現在のわが国の戦力では敵国の「攻撃事前把捉」は不可能です。これは断言できます、Jアラートの発出能力を見れば、着弾後であったり着弾地点の誤りであったり、発出経路の錯綜であったり、なんとも危ういJアラートの運用状態から判断すれば「反撃能力」を云々するのはとても無理な、非常に技術水準の低い状況にわが国の戦力はあると言えます。それが米韓との協同によってこの先可能になるかといえばこれは「未知数」という以外にないでしょう。アメリカの技術水準を判断する能力は我々にはありませんし総理にも、自衛隊の幹部にも今のところはないでしょう。今後こうした情報関連「武器」と共に莫大な「破壊兵器」の購入をアメリカから積み重ねる必要があります。今問題になっている「43兆円」の積み増しでは済みそうになく、その額を想像すると空恐ろしい気におそわれます。

 

 そもそもわが国の「十分」な「軍備」とはどれほどのものなのでしょうか。軍備増強を政権が打ち出してから賛成派の人たちは、自衛隊員の不足、低すぎる待遇、建造物等施設の老朽化と不足、継戦能力の増大などを揚げつらって43兆円ぐらいではとても十分ではないと主張しています。では北朝鮮のミサイルに対抗するためには、ロシアがウクライナにしたようなわが国領土への侵食をはかるような暴挙に対応するためには、中国の拡大する戦力の脅威に対抗するためには、その他想定される「未知の脅威」にも対応するに『十分』な「戦力」を保有するにはどれほどの「戦費」が必要なのでしょうか。もしそれが50兆円(年間)であったとしたら――中国の国防予算(2022年)3470億ドル(45兆円)アメリカ7410億ドル(96兆円)――5年間で43兆円の積み増しなど「焼け石に水」に過ぎず「ムダづかい」になってしまう可能性さえあるのです。

 

 ということは米中ロあるいは北朝鮮の核の脅威に対抗するために「軍備増強」することは決して「賢明」な策ではないということにはならないのでしょうか。

 

 ここでちょっと視点を変えて2100年の世界人口がどうなっているかを見てみましょう。2080年代に約104億人でピークに達し2100年までそのレベルに留まると予測されています。問題はその中身です。アジアとアフリカがそれぞれ4割を占めその他の比率は僅か2割に過ぎないのです。極言すれば白人は2割になってしまうということです。そのころの世界はどんなになっているかを判断するのはなかなか難しいのですが、アメリカの白人人口は2040年代には50%を割り込むと予想されています。中国とインドの人口は2023年には逆転することが確実とされていますし中国人口は2022年14億1100万人から2050年には1億1千万人減少していると見込まれています。

 アメリカの白人勢力は今後長期低落傾向になるのは確実で格差・分断は激化しているにちがいありませんし今のように中ロと拮抗してNATOや日韓との同盟関係に絶大な威力を保持しているかどうかは極めて怪しいと見るのが正しいでしょう。中国は中所得国のまま高度成長期を過ぎ5%台の成長を保持するのも苦しく2~3%台に落ち込めば1万ドル台で国民1人当GDPが低迷して国民の不満は高まり共産党の一党独裁が終焉している可能性も否定できません、いや50年代はどうかとしても2100年に共産党独裁が継続している可能性は極めてゼロに近いでしょう。

 そうなってくると今はまだ発展途上国であったり低成長国とみられているアジア・アフリカの国々が世界情勢に大きな影響力を与えるようになっている可能性は大です。

 

 「戦争」は政治のひとつの手段ですが最も愚かなものです。賢明な先人たちはそれを避けようと「外交」という手法を開発しました。戦争の歴史は人類の歴史と同じ長さですが外交は僅か200年の歴史しかありません。ですから人類はまだ外交に習熟していないのです。ここで外交という手段を放棄して紛争解決のために戦争を選択するのは愚かな選択です。

 

 わが国の政治家が世界を空間的・時間的に鳥瞰して賢明な選択をすることを期待します。

 

 

 

2023年2月20日月曜日

悪いのは組織委員会ではないのか

  久し振りに近所のお宮さんの前を通ったら鳥居の前の白梅紅梅が七分咲きになっていました。歳のせいか寒さに怯んでここまで足を伸ばさなかった僅か半月のあいだに季節はいつも通りすすんでいたのです。もう二月も半ばなのですね……。

 

 コロナのマスク着用が不用になるようですが不安です。スケジュールばかりが先走りしていますが、ではマスク着用不用の根拠は何なのでしょうか。これまでならコロナに関する政府発表のときには総理や厚労大臣の言葉を科学的に裏づける立場から尾身さん(コロナ対策政府分科会会長)が同席するのが通例となっていましたが今回は尾身さんの姿は見えませんでした。勘ぐれば医師などの反対意見を封じて政治的判断を優先させたからではないかという見方ができます。一般的にはワクチン接種が広範囲に深化して免疫力が高まった、コロナの弱毒化が進んで感染力が低下した、特効薬ができて重症化を防げるようになった、などが背景にあると言われていますが、しかし感染が拡大したときの医療体制にはいまだに不安が残っていて医師の懸念はぬぐえていません。

 なんにせよマスコミはどうしてニュースリリースを鵜呑みにして公開するだけで着用不用の科学的根拠を政府に問いたださないのでしょうか。多くの国民が政府発表にもかかわらず疑問を抱き不安を取り除けないでいるのは政府を信用していないからです。着用の有無は国民の判断に委ねる、などといつまでたっても「要請」姿勢でその場しのぎしようという政府や行政には呆れてしまいます。

 

 最近政府が持ち出した少子化対策の多子家庭優遇策としての所得税「N分N乗」方式に対するマスコミの姿勢も信じられない無責任さです。マスク不用とまったく同じでニュースリリースの垂れ流しです。所得を個人単位ではなく家庭単位で捕捉して総所得を家族数で割って課税所得を少なくして家族単位の所得税を少なくする、家族数の多い――子どもの多い家庭が有利になるようにしようという所得税の課税方式でヨーロッパ諸国で採用されているらしいのですが高所得層ほど優遇されるなど問題点もあって実際にわが国で採用されるまでには紆余曲折が予想されます。ここで問題にするのはマスコミの報道の仕方です。現行方式と「N分N乗」方式の比較を表で示すのですが「所得額―課税所得(A)―税率(B)―税額(C)」という表なのですが「課税所得×税率=税額」となっていないのです。結局「課税所得」と表示されている数字に間違いがあるのでしょう、でなければ[A×B=C]にならないはずがないのです。これも役所のニュースリリースを垂れ流しているからこんな発表の仕方になるのです。マスコミ各社には給与課があるでしょうから彼らのチェックがあればこの表の誤りは指摘されるはずなのにどうしてこんな発表になるのでしょうか。[A×B=C]にならない課税所得はありません。こんな初歩的な疑問をなぜマスコミは持たないのでしょうか。

 

 マスコミの劣化を示す最大のものは「五輪汚職・談合」です。この報道にはいくつもの疑問点があります。まず第一は、電通抜きでオリ・パラは運営できたでしょうか。第二はテスト大会と本大会を別業者でするメリットはどこにあるのでしょうか。別にする意味はあるでしょうか。少しでもイベント業界を知っている人ならこうした疑問は初歩的なモノでマスコミの人でも多くの人は今回の捜査のあり方に違和感を抱いているはずです。

 今現在ネットで見られる範囲で「オリンピック組織委員会」の組織図を見てみました。まず驚いたのは評議員、理事、顧問、役員など役職者の多さです。百人や二百人で収まらない夥しい数の「非実務者」が組織の大きな部分を占めているのです。従って評議会や理事会、委員会の数も尋常ではありません。組織が多岐にわたって煩雑すぎてこれではとてもガバナンスを保つのは無理なことをうかがわせます。しかも統括官である事務総長(武藤敏郎)に過大な権限が集中している組織になっているのです。夥しい非実務者を抱えた煩雑な組織でありながら事務総長に権限が集中する結果、命令系統があいまいで責任体制が明確でない組織委員会の性格が組織図を見るだけでうかがえるのです。その結果が「電通頼み」の委員会になってしまったのです。

 電通抜きで委員会は運営できない、電通を頂点とした広告会社とイベント会社をいかに組織に組み込んで有効に生かすかが組織委員会を構築する際の要諦であったと思います。ところがそれが不徹底でなおかつ「透明性」を欠いていたから今回のような不祥事が起こったのだと思います。大会運営の素人が上部を占めている組織委員会が破綻なく五輪を運営するために電通(と広告会社、イベント会社)をどう位置づけるのか、その系統図と責任・権限を明示的に組織図に組み込む。透明性をもった組織にして独立性をもったチェック機関を設置する。これが五輪組織委員会に求められる最低限の「ガバナンス」だったのです。それを怠った最高責任者が武藤敏郎事務総長だったのです。

 

 明らかになった高橋治之元理事(元電通専務)らの汚職やテスト大会・本大会の談合は許されるものではありません。素人集団の五輪委員会を手玉に取ってほしいままに組織を操り私腹を肥やした所業や談合は処断されて当然です。しかしそれ以上に彼らの「したい放題」を放置して黙認した武藤事務総長らの責任はそれ以上に重いと思います。なぜなら高橋氏らの振る舞いは人目にさらされていなかったとは思えないのです。一部の人は勘づいていたでしょうし上層部にもその声は届いていたと思います。それを下手に動いて彼らの反発を買って運営から手を引かれたら大ごとになる、それをおそれて見て見ないふりをしていたのではないでしょうか。

 原点に返ってみると電通抜きで運営ができないことはそれなりの立場にある人たちには分かっていたはずです、勿論わが国で一番優秀な官僚のひとりとされていた武藤さんも。ただ昨今の風潮としてそれが表沙汰になると「業界との癒着」が疑われることを懼れたのではないでしょうか。それでうやむやにしてしまった結果が汚職・談合につながったのです。

 

 東京五輪の経験を過去のものとして葬ってしまうのではなく、組織や経営の専門家にキチンと検証してもらって問題点を明らかにして対策を立てる、そのことによって今後もあるに違いない国家的な事業やイベント――たちまちのことなら大阪万博がそうですし可能性としては札幌冬季五輪にもその成果は活かせるはずです。それでなくても万博に関しては早くもキナ臭い噂が週刊誌などで取り沙汰され始めているではありませんか。

 

 民間活力の有効活用――これはお役人の常套句です。堂々とあからさまにするになんの怯むことがあるものですか。足らざるをさらして他人の力を借る、IT関係の国際的な遅れは知らない年寄りののさばりと役人の何でも自前主義の齎した「恥」の結果なのですから。

 

2023年2月13日月曜日

今の若い人は……

  歳を取っとても「今の若い人は……」という言葉を使わないように戒めてきました。しかしここにきて「今の若い奴は…」とか「今の若い人は…」を口走るようになっています。「若い奴」は岸田さんで「若い人」は荒井秘書官のことです。自衛隊の急激な軍隊化とアメリカとの隷属的な軍事同盟強化、原発の使用延長と新増設はあまりに危うすぎます。今は必要と岸田さんは考えているのでしょうが20年30年単位の、21世紀の選択と捉えたとき必ず『破綻』しているにちがいありません。荒井秘書官のLGBTQへの差別発言は歴史の見方が余りに浅すぎます。ちょっとでも文学をかじっておれば稲垣足穂という作家の存在を知っているはずですし、ギリシャ・ローマ史と近世・江戸時代史を少しでも深読みしておれば「同性愛」が決して異常でなかったことを学んだはずなのです。

 

 稲垣足穂(1900~1977)は大正末期から昭和後期にかけて活躍した作家で代表作は『一千一秒物語』ですが「少年愛」を描いた作家としてわれわれ世代には印象に残っています。今手に入るその種の本では平凡社の『少年愛文学選』が手頃ですが、これには稲垣足穂、折口信夫のほかに川端康成、堀辰雄、江戸川乱歩、中井英夫らそうそうたる作家の作品がならんでいます。ということは昭和の作家たちにとって少年愛は身近なテーマだったということを表していますし、史実としても戦国武将の稚児愛は当たり前で織田信長と森蘭丸は最も有名なカップルです。そもそも「大奥」はレズビアンの巣窟でしたし「陰間茶屋」は江戸中期、元禄時代に成立した「陰間(男娼)」が売春する居酒屋・料理屋・傾城屋の類のことで若衆宿、若衆茶屋などと呼ばれて堂々と営業されていたのです。そんな昔のことでなく旧軍隊でも同性愛はなかば公認で上級幹部の寵愛を受けて訓練を免除されたり優遇された軽輩の軍人が庇護者がいなくなってなぶり殺されたなどという物騒な話も少なくありませんでしたし自衛隊の自殺者の増加が問題になっていますがその中に同性愛のもつれから自殺した人が含まれているという噂がまことしやかにささやかれているのも事実です。

 

 最近出た本で『男色の日本史』というのがあります。著者のリュープゲイリー・Pはアメリカの歴史学者で徳川時代を専門としていますが、徳川綱吉は20人を超える男の愛人があったことを明かすとともに、多くの日本人が美少年との性的快楽に陶酔し稚児、若衆、女形、陰間たちがくり広げた華麗なる日本同性愛文化を世界に知らしめた名著として同種の資料としての引用数は群を抜いているそうです。

 

 西洋ではギリシャ・ローマ時代の同性愛が有名で、古代ギリシャの最強部隊テーバイ神聖隊「ヒエロス・ロコス」は男性の同性愛者150組で編成された「愛の300(スリーハンドレッド)」として名を馳せました。古代ローマは性愛のあらゆる分野で頽廃の花が咲いた時代といわれていますが少年愛でも見境ない撩乱の歴史が残っています。有名な皇帝ネロは皇紀ポッパエア没後16才前後であった絶世の美少年スポルスを去勢して女装させ自分の第三の妃にしたと伝えられています。

 

 そもそも現在「常識」とされている多くの倫理や社会習慣は明治維新以降のものでそれ以前わが国は比較的緩やかな規範の中で人々は生活していたのです。特に性風俗は開放的で「歌垣」という古代以来の風俗は若い男女が歌い踊りながら自由な性交渉が持たれたものでこれが長く盆踊りなどのかたちで後々までその影をとどめていました。

 今の神前結婚式はややもすれば永い歴史を持ったもののように思われていますがこれは大正天皇の結婚式を庶民が模倣したもので業者の商魂のたまものなのです。

 「両親と子ども二人で専業主婦」という「標準的」といわれている家庭のモデルは戦後社会保障制度を構想する際に用いられたものでわずか50~60年の歴史しかありません。子どものいる世帯は年々減少していますし、ひとり親世帯は平成5年から平成15年の10年間で97.7万世帯から139.9万世帯に約5割も増加しています。共働き世帯と専業主婦世帯の数も現在(2016年)では1114万世帯と687万世帯と逆転どころか専業主婦モデルは少数派になってしまっているのです。

 「頑迷な」保守派といわれている人たちは一体どんなモデルを「標準」「正常」と考えているのでしょうか。

 「異性婚」が正式で、「両親と子どもふたり」「専業主婦」が標準で、「夫婦同姓」が望ましい。こんなモデルが今後10年も「不変」でありえるでしょうか。こんなモデルで政策を立てていてわが国がうまく経営できるのでしょうか。

 

 岸田さんも荒井さんも立派な大学を出ておられるのでしょう。きっと勉強ができたにちがいありません。しかしそれは「学校の勉強」ができただけで「本当の学問」「深い学習」をやったのではないようです。学校の勉強とは「大学入試」に最適な勉強であって「多様性」と「柔軟性」には不向きな勉強になっているようです。

 こんな勉強を続けていて日本は大丈夫でしょうか。

 

 

 

 

2023年2月6日月曜日

地方が地方になったわけ

  齢をとると気が短くなるといいます。注意しているのですが年々そうなっている自覚はあります。原因を考えてみると説得する根気がもうほとんどないのです、それだけの体力が残っていないのです。そして、何でこんな簡単なことが分からないのか!と爆発してしまうのです。先日も地方創生について賢らに語っているコメンテーターに「アホか!そんなことやないやろう。何のために歴史勉強したんや!」と大きな声でテレビに突っ込んで妻に呆れられたことがあったばかりです。 

 

 人類――ホモサピエンスが地球上に現れて30万年、狩猟採取の時代から農業時代に移行したのが約1万年前ですが工業が主たる産業になったのはわずか200年前にすぎません。「飢餓からの脱出」が人類最大の課題でしたが長い間「狩猟採取」がつづいたのは資料が豊富にあったことと労働が容易だったからです。農業は実際の移行期より4000年も前に発明されていたのですが農業労働が余りに苛酷だから嫌悪されたのです。しかし人口圧力――人口の増加はもはや狩猟採取では生存を維持できなくなってやむなく農業を食糧確保の手段として受け入れたのが約1万年前だったのです。それ以来地球上のほとんどの土地は「農業生産」に最適な「形」に改良されつづけました。「戦争」は生産力拡大のために「土地」と「労働力」を確保するのが主たる目的でした(ただし権力はその誇示のために戦争をする宿命をもっていますが)。

 わが国は特殊事情として「徳川幕藩体制」があります。徳川政権は国土を200以上に分割して「地方分権」を行ない藩主に「地方自治」で領地を経営させました。主産業は稲作の農業で石高で経営規模を表しました。肥沃な土地も瘦せた土地も関係なく割り当てられた領地を基本的資本として稲作高を上げる以外に藩経営の道はありませんでした。耕地の拡大(新田開発)と労働力(農民)の確保、生産方法の改良による生産量の拡大が藩経営の要諦でした。僻地を与えられた藩主は懸命に新田開発と土地改良を重ね稲作高の増大を図りました(限界集落やポツンと一軒家が存在する背景にはこうした事情があるのです)。ある意味で国内に「地方」はなく藩にとってはその領地はすべて「主たる生産地=中央」でなければならなかったのです。日本の200以上の藩がこぞって農業(稲作)生産の最適地化を図った「藩所在地=中央」の集合体が徳川幕藩体制だったのです。

 

 明治維新はそんな日本国にとって一大革命になりました。壮大な「地方分権国」であったわが国が「中央集権国家」に変貌したのです。権力と富は中央(=東京)に集約されその傾向は今も変わっていません、「中央と地方」の税配分は「6:4」で圧倒的に中央偏在のままなのです(こうした中央偏在は先進国ではわが国だけでほとんどは5:5か地方に多く配分されています)。欧米先進国が徐々にではありますが工業化・都市化を進めるなかでわが国はつい最近まで――戦後も高度成長期を過ぎるまでは「農業国」でありつづけたのです。徳川時代の農業人口比は85%を超えていましたが戦後1955年でもまだ就業者の46.9%は農業に従事していました。それが高度成長期を通じて農村から都市への大量の人口流出が起り第二次安倍内閣の2016年には農業人口は3.7%まで低下したのです。このことの意味するところはわが国はほんの50年前まで「農業国」でありつづけたということです。欧米先進国が200年かけて徐々に工業化を進めたのに比べてわが国はわずか50年間で急激に「工業国」化したのです。そこにわが国の「中央と地方」の特殊な関係の原因が潜んでいるのです。

 

 その第一は人口の集中度です(2017年)。東京圏の集中度は28.8%を示していますがこれはパリの18.2%ロンドン13.4%ニューヨーク7.4%に比べいかに異様かが分かります。勿論これにともなって富も集中しているわけでGDPの集中度は東京圏33.1%パリ30.5%ロンドン23.0%ニューヨーク10.3%になっています。ここまで人口と富が首都圏に集中しているのを放置したまま小手先の政策で「地方分権」を謳っても実現するはずもありません。

 「地方創生」を政策の中心課題と位置づけたのは2014年の第二次安倍内閣でしたが、国土の健全なる発展は歴代内閣が繰り返し掲げてきた政策でした。全国総合開発計画は1962年に第一次計画が立てられて以降10年ごとに改善され第5次まで継続、2005年に国土形成計画法に姿を変え、安倍内閣の「まち・ひと・しごと創生法」に結実するのですが実効はまったく上がらないままズルズルと今日に至っています。そもそも地方創生法の前文にあるように「少子高齢化社会への対策と、東京に極端に集中している人口密度を解消するために、地方都市を環境面、経済面などから改善すること」などという曖昧な目的を掲げている限り「地方創生」など実現できるはずがないのです。

 

 「日本国の国土デザインをどう描くのか」、まずこれを明確に国民に提示しない限り地方の目指すべき姿は共有できません。

 農業(稲作)を基幹産業とした「国土デザイン」になっている「日本」という国土に「工業国」が乗っかっているのが今のわが国です。工業(製造業)は資本の集約が成長の要諦ですから、農業に比べてはるかに狭隘な土地で成立します。その結果、東京圏、関西圏、中京圏、北九州圏に人口と富が集中しているのです。勿論地方にも工場は分散していますが集中度は大都市圏に偏っており税制が本社主義になっていますから地方は不利です。このような不利な状況に置かれている地方を活性化するためには「脱工業化」の国家デザインを国を挙げて構築する必要があるのです。

 まず「食糧自給」をどうするのか、それを国として決定するべきです。今のように自給率40%未満では食糧安全保障が達成できるレベルにはありません。品目別に詳細な「自給メニュー」を策定して地方別に振り分けこれに基づいて必要な国土を割り振る。「農業国」日本の「農地」を決定する。それ以外の土地を地方が制度設計する。予算は勿論「5:5」を基本とし徐々に地方分を増やしていって将来的には地方を6割にまで高めていくのが望ましいのではないでしょうか。製造業の産業別比率は今後低下していくでしょうから地方の伸びる可能性は大いに望めるのです。

 

 1万年かかって農業国として設計されたままの国土――現在の都道府県を残して「地方創生」は不可能でしょう。税収を中央偏重のままでは地方活性化は望むべくもありません。食糧自給を達成できないでは国民の生命を守ることは絵空事です。エネルギーを外国に依存していては国の安全保障は不安定にさらされます。21世紀にふさわしい国土を再設計する。この作業なしに「地方創生」はありえないのです。

 今こそ「政治家」の出現が待たれているのです。