2015年5月30日土曜日

松井とイチロー

 「イチロー ベーブルース超え!」という文字がスポーツ紙や一般紙のスポーツ欄を賑わした。「マーリンズのイチロー外野手は22日、本拠地でのオリオールズ戦に7番・レフトで4試合ぶりに先発出場2回の第1打席でレフト前ヒットを放った。メジャー通算2874安打とし、並んでいた“野球の神様”ベーブ・ルースを上回り歴代単独42位となった。」と記事は続いている。
 正直言って『気恥ずかしさ』を覚えた。考えても見て欲しい、アメリカ・メジャーリーグの『神様』と日本の『天才打者』を同列に論ずるなどということは許されざることではないのか?数日前、2873本で安打数が並んだときに巨人・阪神線を中継していたテレビのアナウンサーが興奮気味に解説の野茂さんに感想を求めると「安打ですからね…」と彼は冷静に、素っ気なく応じていた。そう言えばいつだったか元ヤクルトの古田氏も「安打はいいんですよ、何とでも収拾できますからね。でもホームランはお手上げですよ!防ぎようがありません。だから松井には苦労しました」と話していた。イチローの評価に関してはマスコミの対応に比べてプロ選手は意外に冷淡なように感じる。
 
 単純な記録の比較をしてみよう(括弧内はベーブルースの記録)。単打数2338本(1517)、二塁打336本(506)、三塁打86本(136)、本塁打113(714)。差は歴然としている。何よりもイチローの単打のうち二割以上は「内野安打」である。この内容をもってベーブルースとイチローを、ただ安打総数が同じだからといって、比較対象とするだろうか?
 少しでも野球を理解している人なら『裏ローテーション』があることは知っているだろう。長いペナントレースを乗り切るために強いチームには「エース級」の良い投手で応じる必要があるから、逆に弱小チームには2番手の投手が登板する機会が多くなる、この2番手投手のローテーションを「裏ローテーション」というのだが、イチローは日本でもアメリカでも優勝争いするチームに在籍したことがないから、この考えを適用すれば「ややレベルの低い」投手相手に戦ってきたことになる。それだけでもアドバンテージになるうえに優勝争いする人気チームでの出場機会に感じるプレッシャーとそうでない試合では緊張感に比較にならないほど差があるのは当然だろう。イチローが唯一人気チームに属したのはヤンキースであったがそこでの評価―扱いは散々なものであった。メジャーにおけるイチローの位置はそんなものなのである。ベーブルースとの比較など問題外といわねばなるまい。
 
 好対照が松井秀喜氏である。彼が国民栄誉賞を長島氏と同時に受賞したときにははなはだしい違和感を感じた。戦後プロ野球の隆盛を王さんと共に牽引した長島さんと何故松井が一緒に国民栄誉賞なんだ?と。しかしその後ヤンキースが彼のために「引退試合」を挙行したことで納得した。彼以外にメジャーリーグで引退セレモニーが行われた記憶がない。彼の評価はイチローと正反対に、アメリカでは我国と比較にならないほど高いことを思い知らされたのだ。
 
 松井氏の生涯記録(日米通算)は打率0.293、単打数2643本、二塁打494本、三塁打28本、本塁打507本である。しかし彼の業績で燦然と輝いているのは2009年のワールドシリーズMVPに選ばれたことであろう。2009年10月28日から行われたメジャーリーグ105回目のワールドシリーズフィラデルフィア・フィリーズと対戦したヤンキース4勝2敗で9年ぶり27回目のワールドチャンピオンとなった。このシリーズで3本塁打、8打点をげた松井秀喜MVP初受賞したのだ。日本人選手によるMVPの受賞は史上初の快挙であったしかし翌年その彼がヤンキースから放出されたのだから驚いた。なんとアメリカのビジネス感覚はドライなのかと。
 にもかかわらず2013年7月28日松井秀喜氏の引退セレモニーがニューヨーク・ヤンキースの本拠地ヤンキースタジアムで行なわれたのだ。ヤンキースは松井氏と「1日契約」を結びチームの一員としての花道を用意したのだドライと思われたアメリカが最後になんとウェットで素晴しいプレゼントを松井氏に贈ってくれたことか、ニューヨーカーは、そしてアメリカ国民は彼を愛していたのだと本当に嬉しかった。
 
 松井とイチローとどちらが偉大なのかは一概には言えないかもしれない。しかし日米でこれだけ評価が異なっているのは紛れもない事実である。文化の差か価値観の相違か。その違いを承知の上で、彼の国の価値判断に万全の信頼を寄せて同盟国への「集団的自衛権」行使を容認することに危うさを感じない安倍政権は余りにも幼い。
 

2015年5月24日日曜日

鰯の頭

 特定の宗教や宗派を信じているわけではないが、毎朝、仏壇のお水換えをして般若心経を聲高く唱えて一日の始まりとしている。神社へ詣れば拍手を打って頭を垂れるしお彼岸とお盆には墓参り、先祖の年忌法要は世間並みに行っている。一般的な老人の無宗教の宗教生活(?)をして暮らしている。
 そうした私が神社に参ったとき、最近不思議に感じる場面に出くわすことが多くなった。二礼二拍一礼のいわゆる「神式参拝法」を皆が『厳格』に遵守しているのだ。更に社頭の鈴の「順番待ち」が『粛然』と列をなしている。今年梅花祭の日に北野天満宮へ参ったとき一般の参拝客とは別に「鈴待ち」の数十人の列が長長とつづいているのに驚かされた。こんな光景はここ数年前からのことでそれまでは正月や受験シーズンなどは混雑を極めたので辛うじてお賽銭だけ奉じて鈴は省略して帰ったものであった。
 これは一体どうしたことなのだろうか。
 
 そもそも例の古式床しいとされている「神式参拝法」なるものは廃仏毀釈を行った明治政府が、従来行われていた「拍手を打って合掌する」参拝の仕方は「仏式」と紛らわしいというので神社庁に申し付けて今の「式」を発案させ周知を命じたものである。しかし一般庶民はそんなお上の「お触れ」には靡(なび)かず多くは従来の拝み方で通してきた。ところが三十年程前、いやもっと以前だったかも知れないが神社で「神式参拝法」を啓蒙する印刷物が配布或いは常備されるようになり、丁度その頃からマスコミが「礼儀作法やマナー」を、さも由緒あり気に宣(のたま)うようになって一気に常態化し今日に至っている。それでも「鈴鳴し」へのこだわりは今ほどでなかったのが最近になって現状のように秩序正しく順番を待って厳かに麻縄や紅白の布を揺らして「鈴音」を響かせる習慣が根づいた。
 忖度するに、礼法通りすることで「お願い」の「叶い度」を高めようという料簡なのであろう。ということは、神(仏)は我々下々の「願い」を「聞き届けて下さる」と真剣に信じていることになる。迷信さと嘯く向きの人たちでも心の片隅で微かながら信じている部分があるのに違いない。健気と言おうか可憐と言うべきか、間違っても「愚かなり」などと言ってはならないのだろう。マスコミが「風物詩」として仰々しく伝えるから益々拍車が掛かる側面も否定できないが。
 
 神社ばかりでなくスピリッチュアルやらパワースポットなどという「摩訶不思議」或いは「アニミズム」のような「原始信仰」に繋がる「他力本願」的なものへの傾斜が世を挙げて充満しつつあるように感じる。他方で科学に対する「絶対安全神話」があり「ナショナリズム」が鬱勃と勢力化している。
 総じて「不気味」さをヒシヒシと感じるのである。
 
 バッサリと斬り捨てて言えば、「批判精神のデヴォリューション(退化)」である。常識を疑い通説に挑戦し大人社会に反逆する、そうした風潮が影を潜めてしまった。反対するものを受容して新たなものを協働で築き上げるという社会的な気運が消滅して、数を頼みの「暴挙」「問答無用」が罷り通っている。政治も経済も社会もおしなべて『明日への展望』が見えず「寒々と」「乾いた」『沈滞』が横溢している。
 
 こうしたトレンドの原点は「教育」にあるのではないか。教育と学校への「畏敬の念」がいつからか薄らいでしまった。どちらも『手段』に成り下がっている。学校は紛れもなく「進学・就職」の「下請機関」化してしまった。教育は「実学―企業社会の要請」への傾斜を加速化し「企業戦士養成」の地位に甘んじている。今行われている「実学」は既存の学問体系を容認しその習得をよろしく行おうとするものであり大学(高等教育)存立の根本理念たる「批判精神」とは対立するものである。通説を懐疑して独自の学説を樹立し新たなる発見・発明を生み出すべき大学の活力が封じ込められ学生の「生徒化」、大学の「専門学校化」が現出している。このような環境では「ノーベル賞」クラスの業績の生まれよう筈もなく「イノベーション」を創出する学者・企業人の輩出する可能性は極めて低いと言わねばなるまい。
 
 教育を国家権力の膝下に置いて「実学」専修に導こうとする今の国の体制は危うい。

2015年5月15日金曜日

百年の計

 我国が二度の国家的危機(明治維新と敗戦)を乗り越えて繁栄を享受できたのは「国家百年の計」として教育に国力を注いできたからに他ならない。しかし事情は一変している。 
 
 教育機関への公的支出経済協力開発機構(OECD)加盟国30カ国中最下位―とOECD警告を発している。2010年度加盟国の教育状況の調査結果図表でみる教育2013年版によれば我国の国内総生産(GDP)に占める教育機関への公的支出の割合前年と同じ3.6%で、加盟国で比較可能な30カ国中最下位最下位は4年連続だという。高等教育機関の授業料が高いにもかかわらず、奨学金を受けている学生が少ないことも指摘しており、「高等教育を受ける人が増えれば社会への利益還元も大きい。公的な経済支援を充実させていくことが重要」としている。教育機関に対する公的支出のGDP比は、OECD加盟国の平均が5.4%。最も高かったのはデンマークの7.6%。以下ノルウェー7.5%アイスランド7.0%ベルギー・フィンランド6.4%と続く。イギリス5.9%アメリカは5.1%韓国は4.8%となっている又大学の授業料はOECDの14カ国は無償化、日韓米英加豪などは有償だが日本、韓国を除いて給付制の奨学金制度が整備されている。
 
 我国の大学授業料は国公立が約53万円(平成24年度)私立平均が86万円で国公立と私学の差が狭まってきている。(授業料の推移は大まかに昭和50年国立36000円私立182000円、昭和62年国立300000円私立517000円平成9年国立469000円私立757000円になっている)。サラリーマンの平均年収がリーマンショックの直後の2010年に406万円に急落し2013年ようやく414万円に回復したがそれでも2009年の467万円に比べると50万円以上低いレベル(国税庁平成25年民間給与実態統計調査結果)にあることを考えると大学教育が徐々に「機会均等」から遠ざかっているのが我国の現状といえる。
 このことは奨学金の受給者数の推移にも表れている。我国の奨学金受給者(日本学生支援機構の奨学金受給者数による)の割合は2012年度52.5%(大学昼間部)にも達しているがこの急激な増加は無償の給付制度が廃止されすべて有利子(年3%、ただし在校中は無利息)の貸付制度になったことが影響している(2009年4月入校生から)。永く20%台で推移していたものが2010年に50%を超えたのは、有利子になって受給審査が緩和されたからであろう(受給者は2004年度に40%を超え2008年43.3%と徐々に増加していたが)。先進国では大学無償化が趨勢でそうでない国でも無償の給付制の奨学金が整備されているのに比べると我国と韓国の高等教育に対する姿勢は明らかに見劣りしている。
 学生の経済状況の悪化は「親からの仕送り額の減少」という形でも表れている。東京地区私立大学教職員組合連合の発表した「私立大学新入生の家計負担調査 2012年度」によると、自宅外通学者5月学直後の新生活や教材の準備で費用がかさむ)の仕送り額は10万6,500円(前年度比3,600円減)、出費が落ち着く6月以降(月平均)は8万9,500円(同1,800円減になっている。6月以降の仕送り額(月平均)は、平成6年の12万4,900円をピークに減少を続けており、過去最低額を更新した。
 
 こうした経済面の圧迫は学生のアルバイト時間を増加させ勉学へ悪影響を及ぼしている(リーマンショック後「生活苦のバイト」が大きく増え「余裕を求めてアルバイトをする人」の割合が減った。しかし一方で「アルバイト非従事者」率も2010年度では大きな増加を示しており、大学生の金銭をめぐって二極化が起きている感ある―(日本学生支援機構「平成24年度学生生活調査」2014年2月26日)。
 悪影響のひとつは学生の読書時間の減少という形で浮き彫りとなった。全国大学生活協同組合連合会の調査で、全く本を読まない学生が初めて4割を超えたのだ。電子書籍を含んだ読書時間でも、近年は減り続けている。米国のトップレベルの大学では在学中に500冊近くの本を読むといい、大きな差が見られる。全国の国公立、私立大の学部学生8930人の1日の読書時間は平均26.9分で、同じ方法で調査している2004年以降最も短くなった。竹内清・敬愛大学特任教授は現在の大学生について「大学生の生徒化進む―従順だが向学心に乏しい」と警鐘を鳴らしている(27.5.11日経「『学生調査』より)。生徒化とは、他律的、受身といった傾向で、大人や上からの指示に従順で素直な傾向である。(略)学生にとっての勉強イコール大学の授業であり、学ぶのは大学の教師が教えるもののみである。(略)大学の「専門学校化(資格や採用試験合格などの取得)」が同時に進んでいる、と竹内教授の指摘は続いている。
 
 少子化で労働力人口が劇的に減少する中、国力維持には「人的能力の向上」以外に道はない。高等教育の充実は喫緊の課題である。
 

2015年5月10日日曜日

成長幻想

 
 プライマリーバランス(P.B)の黒字化を目指した「財政健全化計画」の基本方針を政府がまとめた。プライマリーバランス(基礎的財政収支)というのは国債費関連を除いた国の収支(税収と一般歳出)の均衡(赤字を出さない)を図ることを意味し、黒字化することで累積している国の債務を減少させ財政を持続可能なものにしようという計画が「健全化計画」である。1976年~78年頃から国債を発行して税収を超える支出を繰返してきた結果現在の公債の累積残高は約800兆円に達しているが、P.Bを黒字化するのに必要な赤字の穴埋め額を約16兆円(/年)と「経済財政に関する中長期試算」は試算している。我国の潜在成長率(我国の今の経済の実力)は実質1%に届かない水準にあるが、「健全化計画」では実質2%以上名目3%以上の成長を前提として税収増約7兆円、歳出削減などで9.4兆円を捻出するとしている。この計画は相当無理な数字だと識者の多くはみているが、政府はアベノミクス効果を高く評価しているのだろう。
 
 一般に経済成長は「人口(労働投入量の伸び設備(資金投入量の伸び技術進歩イノベーション(要素生産性TFP)」の3要素によって決定される。人口増の止まった我国では設備投資の増大とイノベーションの活性化以外に経済成長は望めない。それは可能なのだろうか?人口増にカゲリが見えた途端に成長が衰えだした中国やバブル崩壊に生産年齢人口の減少が伴ってゼロ成長に転じた我国の歴史を鑑みるとき、そもそも『人口増』無くして「成長」は達成できるのだろうかという疑問が湧いてくる。
 
 歴史を概観したとき、『工業化』は間違いなく「経済成長」を齎した。自然条件(天候)に制約を受けて年に1回(或いは数回)しか収穫のない農業から、設備と労働量に比例していくらでも(理論的には)生産量が増やせる『工業』に主産業が移行した国の経済は成長を加速させることが可能になった。新興国が高度成長している今の世界の情勢は如実にこのことを証明している。しかし経済が成熟し経済構造が3次産業化するに従い成長が鈍化するのは、サービス業の多くが労働力に制約を受け「設備=機械化」による生産性の向上が困難なことによるという事が知られており先進国の成長鈍化はある意味で必然で、唯一アメリカだけが「移民」による「人口増」によって「中成長」を維持している。
 もうひとつの歴史的概観は、19世紀以降の世界経済は「戦争」による『破壊』と国の建て直し=『復興』―『スクラップアンドビルド』の繰り返しであった、ということである。第1次世界大戦第2次世界大戦の世界規模の戦争以外にも世界各地で多くの戦乱が繰返され、冷戦終結後も局地戦は絶えることはなく今も世界の数地点で戦乱が展開されている。近代の戦争は資源の確保と生産力の拡大を目的に惹き起こされたが「飢餓からの解放」と「貧困の克服」は通底している。近代化と共に「飢餓と貧困」を克服する「生産物=商品」が多様化し「生産技術」の進歩と高度化が商品生産の『効率化』を齎した。経済の「グローバル化」は開発の遅れた後進国の「飢餓と貧困からの解放」の当然の結果であった。
 「飢餓と貧困からの解放」は「『生理的欲求』を充足させる商品」が充てられ誰もが必要とするから「大量消費=大量生産」に適している。貧困から解放された「豊かな社会」では「それ以上の『欲望』を満たす商品」が求められるが「ブランド品や嗜好品」は少数者が対象の商品であり小売、飲食、医療・介護などのサービス業は地域的な制限を受ける地産地消商品だから大量生産に適さない。サービス産業が6割以上を占める先進国が成長鈍化するのは避けがたい現実である。
 
 「経済の成長」は「戦争からの復興」に依るところが多く、戦争の抑止力が国際的に強力になった現在では沈滞している先進国の成長力の回復は『幻想』ではないのか。
 戦争の繰り返しの中で「復興需要」と「必要充足商品」を大量生産するために人口と設備を大量投入して『成長』してきた先進国が、人口減と大量生産に適さない「欲望充足商品」や「地産地消のサービス商品」を主たる産業としなければならない状況で、『成長』を前提に「財政再建計画」を考える合理性はどこにあるのか?
 
 戦争を避ける『賢明さ』を具備した「豊かな先進国」が再び『成長』を基本理念として「国家経営」を行うことは可能なのだろうか。
 
 

2015年5月5日火曜日

癖馬讃歌

 天皇賞・春をゴールドシップが快勝した。ゲート入りを手古摺らせて4分も出馬を遅らせたうえにスタートしてからも走る気を見せずドンジリをノンビリ。それが向う正面で騎手がゲキを加えるとグングン捲くりあっという間に先頭直後につけると、何と折り合いをつけジッと4番手で我慢、直線を向いて騎手が追い出すと驚異の末脚を繰り出しトップでゴールイン、三度目の挑戦で第151回天皇賞馬に輝いた。豪腕横山典、一世一代の好騎乗であった。
 
 向う正面で捲くり出したゴールドを見ていて40年近く前のエリモジョージを思い出した。皐月賞3着以外にこれといって目立った戦績もない普通のオープン馬に過ぎなかったエリモジョージが1976年春の天皇賞の向う正面で名手福永洋一が突然手綱を緩めるとエリモは狂ったように速度を早めあっという間に先頭に踊りだすと後続を引き離し1着ゴールインしたのだ。以後福永洋一はエリモの気に任せる戦法を常用して宝塚記念など多くの重賞を彼にもたらした。
 「稀代の癖馬」という『冠』がエリモジョージに与えられたがゴールドシップも紛れもなくその範に入ろう。「癖馬」と言えばもう一頭カブトシローを忘れてはならないだろう。5歳秋まで凡庸な下級のオープン馬であった同馬が5歳秋の天皇賞―この当時は秋もまだ3200メートルであった―を人気薄で勝つと次走の有馬記念を向う正面からの捲くりでリュウファーロスやスピードシンボリといった強豪を同レース最大の着差(当時の)で圧勝したのだ。その後カブトシローは5勝しているがいづれも人気薄のときで人気になると凡走するという気紛れを繰り返した。
 
 カブトシローは増田久という中堅の騎手だったがエリモジョージは福永洋一、ゴールドシップは横山典弘という名手が御している。私の競馬歴は恥ずかしながら50年を超えるが、最近予想を「騎手」主体にするようになった。近年の傾向だが勝利騎手に偏りがある。特定の騎手の勝利数が多くなる傾向が顕著になっている。今年の5月3日現在のトップ10の騎手の勝利数は362、トップ20では577になっている。これは中央場所(東京、中山、京都、阪神競馬場)840レースと全場1176レースの割合に直すと中央がトップ10で43%トップ20で約70%、全場ではトップ10が30%トップ20が約50%を上げていることになる。一般の競馬ファンは主に中央場所(夏季は地方場所になるが)を馬券推理の対象にするからトップ20の騎手が70%の勝利数を独占している現状はこれ等の騎手を主体に勝ち馬推理をする合理性が高まることを意味している。
 
 近年中央と地方の交流が盛んになって地方の有力騎手が中央に転籍するケースが増えてきた。加えて今年からは外人騎手にも門戸が開かれてM.デームロ(伊)、C.ルメール(仏)の二人の外人名手が日本競馬に所属するようになった。現在トップ10に戸崎、岩田の元地方騎手がおり他にも内田、小牧という有力騎手が地方から来ているからこれに福永、浜中、武豊、川田、横山典、蛯名、北村(宏)、田辺の中央所属騎手を加えた14、15人の騎手に注目すればクラシックやGⅠレースの勝ち馬は大体推理することができると言っても過言でない。
 
 考えてみれば馬主や厩舎の立場になれば「乗れる騎手」に任せたいのは至極当然のことで馬主経済、馬房制限の厳しい現状は有力騎手偏重に益々拍車が掛かるに違いない。昔は「減量騎手(新人か騎手になって数年以内で勝利数の少ない騎手に重賞レース以外では負担重量を定量より1~2kg軽くする特典がある)」だけのレースや平場のオープンレース(重賞、特別レースでない)があって新人騎手や若い騎手にチャンスが設けられていたが最近はそうしたレースはほとんどない。そんなかで―騎乗機会の少ないなかで実力を磨くには余程の工夫と周囲の理解を得る必要がある。厳しいだろうが井上敏樹、伊藤工真また伴、義等の若手には頑張ってもらいたい。
 
 「個性的な馬」「驚くような騎乗振りの騎手」がもっと出てきて欲しい。何が何でも逃げ飛ばす馬やどんなレースでもドンジリの追い込みに徹した馬が走るレースはハラハラ楽しい。天皇賞の横山のように向う正面から捲くる騎乗や示し合わせたように人気薄の2頭が後続を30馬身も引き離してそのまま逃げねばるようなレースがたまには見たいと切に願う。
 3連単が導入されてから少ない賭け金で「高配当」が楽しめるようになった(「射幸心」を煽るとお役人は導入に反対したが実際は反対だった)。1年に数回しか配当に有り付けないが、僅かなお金でレースを楽しむという人が増えたのではないか。後は「楽しいレース、スリルのあるレース」が増えれば最高である。
 JRAさん、頼みますよ!   
―古い競馬ファンより
(今週は「株価の見方」との2本立てです)

2015年5月3日日曜日

株価の見方

 
 日経平均株価が15年ぶりに2万円台を回復した。日本経済は長期のデフレから脱却し、企業社会が構造的に変わったのだろうか。株価回復は日本企業が「稼ぐ力」を取り戻したことを示しているのだろうか。識者の意見を概観してみよう。
 
 先ずこの株価自体をどう評価すればいいのだろうか。 単純に比較するわけには行かないが日経平均の史上最高値はバブルの頂点にあった1989年末の3万8915円である。今回日経平均株価は13年1月末から今年3月末までに72%上昇したが、東証一部全銘柄の単純株価平均は27%しか上昇していない。日経平均は225種の平均であり東証1882銘柄のうちの一部しか含まれていないからである。従って日本の代表的な企業の全業種にわたって収益が向上しているとはいえないし企業間の収益には相当なバラツキがあることも承知しておく必要がある。
 
 企業の収益力をどんな指標で測ればいいか意見の分かれるところであるが、<P/E>(過去10年間の平均企業収益Eに対する現在の株価Pの比率)を用いて株価を比較するとバブル絶頂期の1989年末には103倍、輸出主導の景気回復に沸いた2006年初には89倍だったが13年初は22倍、14年度末には24倍となっており現在の株価は長期的な企業の収益動向から見ると非常に緩やかな水準にあるといえる。財務体質に左右されない営業利益をとりだして(時価総額の営業利益に対する比率)と(営業増減益率)の関係を見てみると12年度以降、営業利益の増益傾向がつづき株価上昇を支えてきたことが分かる。従って今回の2万円相場は企業実態を反映したものであるといえる。
 更に現時点での時価総額・営業利益倍率13倍あり06年頃の水準に高まっている。またPER(株価収益率=株価/1株当当期純利益)も20倍近くあり07年当時の水準が射程に入ってきており、ドイツにはほぼ並び米国にも接近してきている。「出遅れ状態」はほぼ解消されていると見てもよく割安感も消えつつあるのではないか。
 今後の株価は企業の収益力の高まり次第である。
 
 そもそも株価とはどういうものなのだろうか。将来において企業が株主のために生み出すであろうキャッシュフロー額を、現時点での価値(企業価値)に換算したもの―これが株価である。キャッシュフローの大部分は付加価値でできているから売上高付加価値率を取り上げて観察すると「低下傾向」がうかがわれる。12年以降アベノミクス効果で若干の上向きが見られたが足元では頭打ちとなっている。このことから日本企業の収益力の回復は弱いといえる。デフレ傾向の中で付加価値のうちの「人件費」の抑制と古い設備を使い続けることで減価償却費の圧縮を図って売上高が伸びない中で営業利益の確保を図ってきた日本企業は、これまでの方針を転換し、賃上げを実施し設備の大胆な更新をしつつ国内での高付加価値商品・サービスを生産する仕組みづくりを構築する必要がある。
 企業の収益力に対する期待の高まりは公的年金の動きに象徴されている。年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)が資金運用の指針であるポートフォリオ(資産構成割合)の国債比率を引き下げ日本株を含むリスク資産の組み入れ比率を引き上げた。137兆円の資金の日本株の組み入れ比率を12%から25%に引き上げたが国家公務員共済と地方公務員共済もこれに追随した。加えて日銀の上場投資信託(ETF)の購入も継続しておりこれ等の動きが相乗して株価の下値切り下げに対する安心材料になっている。
 
 長年の不健全な「円高」が是正され適正な「円安」傾向が当面維持されており企業の収益力向上のための「外的条件」は整えられた。あとは岩盤規制などの「規制改革」を果敢に行って市場の競争条件を「公正」に保つことで企業努力が業績に反映されるような政府の対応が望まれるのだが、ここにきて「酒税法改正案」によってスーパーや酒販ディスカウントショップへの規制を強めるなどの動きが出てきており注意が要る。
 そもそも企業がどんなに収益向上に努めても財政危機(高いインフレによる物価調整)が起きれば個々の企業努力は吹き飛んでしまう。金融危機の教訓として日本企業には今でも手元流動性を積み上げようとする強い志向がある。しかしこれはマクロでは成長を阻害する典型的な「合成の誤謬」であるが、財政の将来不安がなくならなければリスク回避は根本的には解消しない。
 また経常収支は、国内の需要と生産の差と表裏の関係にあるので、政府支出を抑制することで経常収支の悪化を食い止め財政健全化をはかる必要がある。
 政府は40年度程度先までの試算を公表して、財政再建の合理的な選択肢を国民に示すべきである。
 
 企業の収益向上策として企業が個々に努力することは当然であるが日本の金融市場のあり方を改革して、企業行動を監視し資金の最適利用を促して成長を実現することも必要である。この方面の動きとして投資資金の流れ(インベストメントチェーン)を全体に変えようとする仕組みづくりがが企業、投資家、政府(日本再興戦略)の三者の協働によって醸成されようとしている。日本の企業統治の問題点は70年代までの資金不足時代に機能した銀行による統治バンクガバナンスからバブル崩壊後の資金余剰時代になってから株主による統治エクイティガバナンスへの移行が円滑に行われていないことにある。日本版スチュワードシップ・コード(機関投資家の投資家としての行動規範)とコーポレートガバナンス・コード(企業統治指針)を制定することで投資家と企業双方の行動に方向付けを行い透明化を図ることによって企業の収益性を高めることをめざしている。自己資本利益率ROEが約6%(2000年代10年平均)とグローバルな平均値の半分に低迷している収益性をこれによって構造的に高めようとする狙いである。
 
 最近の株式市場の際立った傾向として自社株買いを通じて自己資本利益率ROEを高める動きがあるが、ROEによる経営改革は、労働者の取り分を減らして株主の取り分を増やすゼロサムゲームに見られがちである。そうではなくて雇用や賃金も増えるプラスサムゲームを実現するような方向に転換することが今求められている。
 そのためには労働市場改革が必須である。
 長期的に強い企業は、ステークホルダー(株主、経営者、従業員など)の全員が当事者意識をもって意思決定に参加できる「積極的自由(単なる選択の自由ではなく自己統治に参加できる自由)」のある組織ではないか。従業員一人ひとりが自分の職場のあり方を自己決定できる自由を持つことで満足感を得られるだけでなくチーム全体に対する強い責任感を必然的に生み出すようになる。こうした積極的自由の作用を最大限に生かした組織運営を行うことで生産性の引き上げが実現できる。
 
 一方で 米国の金融緩和終結による金利引き上げが現実化した今、これによる資金の引き上げによる新興国の外貨準備高の減少は我国の株式市場にも少なからぬ影響があるだろう。新興国の外貨準備のピークは2014.6月末の8.0兆ドルで2014年末残高は7.7兆ドルで前年比1.4%減となっている。これは①ユーロ安②米連邦準備理事会(FRB)の量的金融緩和の停止による影響③原油安等の影響による。新興国は原油などの資源に依存する国が多く昨年後半、約3割低下した原油価格は新興国の外貨準備高の取り崩しにつながった。こうした傾向が長引けば新興国の外貨準備資金で運用する株式・債券の売却する動きが広がり国際資本市場の動揺する恐れが出てくる可能性がる。
 
 以上識者の考えは次のようにまとめることができる。
円安の反映として株価が上昇している分を差し引いてみれば、必ずしも2万円の株価が日本経済の実力を示しているとは言い切れない(ドル建てでは日経平均の上昇幅はかなり割り引かれてしまう)。「欧米に出遅れた日本」という追い風は2万円まででありこれ以上の株価の高まりは企業の収益力の向上にかかっておりここから先は日本企業の真価が問われることになる。
マクロでは将来リスクの懸念があり、企業レベルでのミクロでは構造変化の希望がある。
日本財政の持続性とマクロ的な経済の安定性が不確実である点はひきつづき大きな懸念材料である。
 
 
 結局、企業の「稼ぐ力」を高め国と地方の財政健全化を図るという至極当然な努力以外に国と経済の発展はなく、株価の安定的な上昇もないといえる。
 
以上は日経の「土居丈朗慶大教授「経済論壇から27.4.26」「川北英隆京大教授/経済教室/日経平均2万年は実力か、上27.4.27」「小林慶一郎慶大教授「経済教室/日経平均2万年は実力か、下27.4.28」「スクランブル/長期マネー誘う増配27.4.29」を参考にしています)