2015年5月24日日曜日

鰯の頭

 特定の宗教や宗派を信じているわけではないが、毎朝、仏壇のお水換えをして般若心経を聲高く唱えて一日の始まりとしている。神社へ詣れば拍手を打って頭を垂れるしお彼岸とお盆には墓参り、先祖の年忌法要は世間並みに行っている。一般的な老人の無宗教の宗教生活(?)をして暮らしている。
 そうした私が神社に参ったとき、最近不思議に感じる場面に出くわすことが多くなった。二礼二拍一礼のいわゆる「神式参拝法」を皆が『厳格』に遵守しているのだ。更に社頭の鈴の「順番待ち」が『粛然』と列をなしている。今年梅花祭の日に北野天満宮へ参ったとき一般の参拝客とは別に「鈴待ち」の数十人の列が長長とつづいているのに驚かされた。こんな光景はここ数年前からのことでそれまでは正月や受験シーズンなどは混雑を極めたので辛うじてお賽銭だけ奉じて鈴は省略して帰ったものであった。
 これは一体どうしたことなのだろうか。
 
 そもそも例の古式床しいとされている「神式参拝法」なるものは廃仏毀釈を行った明治政府が、従来行われていた「拍手を打って合掌する」参拝の仕方は「仏式」と紛らわしいというので神社庁に申し付けて今の「式」を発案させ周知を命じたものである。しかし一般庶民はそんなお上の「お触れ」には靡(なび)かず多くは従来の拝み方で通してきた。ところが三十年程前、いやもっと以前だったかも知れないが神社で「神式参拝法」を啓蒙する印刷物が配布或いは常備されるようになり、丁度その頃からマスコミが「礼儀作法やマナー」を、さも由緒あり気に宣(のたま)うようになって一気に常態化し今日に至っている。それでも「鈴鳴し」へのこだわりは今ほどでなかったのが最近になって現状のように秩序正しく順番を待って厳かに麻縄や紅白の布を揺らして「鈴音」を響かせる習慣が根づいた。
 忖度するに、礼法通りすることで「お願い」の「叶い度」を高めようという料簡なのであろう。ということは、神(仏)は我々下々の「願い」を「聞き届けて下さる」と真剣に信じていることになる。迷信さと嘯く向きの人たちでも心の片隅で微かながら信じている部分があるのに違いない。健気と言おうか可憐と言うべきか、間違っても「愚かなり」などと言ってはならないのだろう。マスコミが「風物詩」として仰々しく伝えるから益々拍車が掛かる側面も否定できないが。
 
 神社ばかりでなくスピリッチュアルやらパワースポットなどという「摩訶不思議」或いは「アニミズム」のような「原始信仰」に繋がる「他力本願」的なものへの傾斜が世を挙げて充満しつつあるように感じる。他方で科学に対する「絶対安全神話」があり「ナショナリズム」が鬱勃と勢力化している。
 総じて「不気味」さをヒシヒシと感じるのである。
 
 バッサリと斬り捨てて言えば、「批判精神のデヴォリューション(退化)」である。常識を疑い通説に挑戦し大人社会に反逆する、そうした風潮が影を潜めてしまった。反対するものを受容して新たなものを協働で築き上げるという社会的な気運が消滅して、数を頼みの「暴挙」「問答無用」が罷り通っている。政治も経済も社会もおしなべて『明日への展望』が見えず「寒々と」「乾いた」『沈滞』が横溢している。
 
 こうしたトレンドの原点は「教育」にあるのではないか。教育と学校への「畏敬の念」がいつからか薄らいでしまった。どちらも『手段』に成り下がっている。学校は紛れもなく「進学・就職」の「下請機関」化してしまった。教育は「実学―企業社会の要請」への傾斜を加速化し「企業戦士養成」の地位に甘んじている。今行われている「実学」は既存の学問体系を容認しその習得をよろしく行おうとするものであり大学(高等教育)存立の根本理念たる「批判精神」とは対立するものである。通説を懐疑して独自の学説を樹立し新たなる発見・発明を生み出すべき大学の活力が封じ込められ学生の「生徒化」、大学の「専門学校化」が現出している。このような環境では「ノーベル賞」クラスの業績の生まれよう筈もなく「イノベーション」を創出する学者・企業人の輩出する可能性は極めて低いと言わねばなるまい。
 
 教育を国家権力の膝下に置いて「実学」専修に導こうとする今の国の体制は危うい。

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