2021年3月29日月曜日

シジフォスの神話

  もうなにも期待はしていませんでした。しかし最低限、官僚の作成する法律文は「完全」だと信じていました。何故なら法案作成能力こそわが国律令制以来の官僚の「必須能力」だったからです。それが見事に裏切られたのです。政府が提出した法案に多数のミスが見つかったことを加藤官房長官が国会で陳謝したことで明らかにされたのですが、デジタル改革関連法案で45ケ所、産業競争力強化法改正案と銀行法改正法案など法案23本条約1本でミスが見つかっています。現在すべての法案で再点検を行っているということです。

 これは異常事態です。多分わが国はじまって以来の醜態です。

 

 2014年、第二次安倍政権のもとで「内閣人事局」が創設され、審議官以上約600人の高級官僚の人事権が時の政権下に置かれるようになりました。これは戦後政官――政治か官僚かどちらが行政を主導するかの主導権争いがつづけられてきて、長年の官主導の弊害が限界点を越えたとして政治(時の政権党内閣)主導に官僚人事管理制度が変更されたのです。これによって、国民の奉仕者であるはずの官僚が「省益」――自己の属する省庁存続のためを最重要事項として、国民の利益を二の次にしてきた官僚の傲慢さを是正するという目論見があったのです。ところがその後の状況は制度の理念は忘れられ、人事権をにぎった政権党内閣は、国会を軽視して独断専行、小選挙区制の悪弊で僅かな差で選挙結果を勝利できる制度の欠陥を自己のほしいままにして野党意見や政権反対層の国民の意見や要望を蔑ろにし、自民党の権力維持を国民多数の福祉向上よりも行政運営の最重要目標とされているのです。結局官僚がそうであったように国民の奉仕者たる自覚は政治主導になっても果たされることはなかったのです。

 こうした「政治(議院内閣制)の傲慢」は高級官僚の「人事権濫用」となって表れ、自らに逆らうものは国家国民を慮って諫言する官僚であっても簡単に更迭するという「暴挙」が横行し、官僚はすくみ上って「忖度」が通例となり、あろうことか法案作成という官僚の主要業務にさえもミスを続出するという前代未聞の事態を出来(しゅったい)するに至ったのです。これをこのまま放置すればわが国の衰亡は必至です。

 

 わが国の地盤沈下はこのところ目を覆うばかりです。コロナ対応の未熟さは情けなさ、惨めさをつのらせます。ワクチン生産能力の消滅、感染症対応医療体制の脆弱さはこれが一昔前、先進国の先頭を走っていた国かと疑わせる体たらく、なにより「非常時対応体制」がまったく整備されていないことに薄ら寒さを覚えました。国としての責任体制と国と地方の役割分担が明確でなく国民は何を頼りにすればいいのかまったく明示されません。これは原発事故の(かん)、コロナの(すが)と未曾有の国難に史上最悪の総理が対応したという歴史的悲劇も影響しているのですが。

 新疆ウィグル地区に人権蹂躙を続ける中国への制裁についてわが国はなんら態勢を明らかにしないまま中途半端な姿勢を続けていくのでしょうか。北朝鮮の拉致問題に対しても当事者意識はなくアメリカ追随で一向に進展がありません。二言目には「世界で唯一の被爆国」と言い募りながら「核兵器禁止条約」に署名をためらい、賛成国と反対国の「橋渡し」を演じるといいながらなにひとつ具体策を講じる気配がありません。「環境先進国」を世界に公言して憚らなかったのはまだ二十年にもならない以前のことだったと思うのですが今や、グリーン社会の実現の世界的潮流の中では先進国ばかりでなく世界の多くの国の後塵を拝している情けなさです。2050年カーボンニュートラルを遅ればせながら総理は宣言しましたが、原発は再稼働をつづけ火力発電所の新設も止まるところがありません。廃プラ問題に対しても弥縫策をくりだすばかりで根本的な解決に向かっての先進的な取り組みを見出せずにいます。

 東電柏崎刈羽原発のテロ対策不備が指弾を受けましたが、東電にしろ政府にしろ「テロなんて現実問題ではない」と高をくくっているのがありありと分かる「ぬるさ」とずさんな体制を隠そうともしませんが、隣に北朝鮮というギリギリに「追い詰められた」国が核兵器をもっていつ何時また「拉致」をしないとも限りませんし、テロをしない保証などみじんもないのです。原発の「地震対策」は世界トップクラスの厳格さを喧伝しますが、世界中でわが国ほどの「地震大国」はないのですから、世界標準の何倍も厳重な規制を設けて初めて「日本の安全対策」と呼べるのではないでしょうか。

 LINEの個人情報保護のデタラメさが明らかになりましたが、国としてのIT化の遅れは世界の進展状況からすれば何周遅れか判断もつかないほどの劣勢ぶりです。しかもそのIT最前線を務めるはずの「総務省」が業界べったりの接待漬けで国民の信頼を裏切っているのですから、今後のIT化推進の展望に希望の持てるはずもありません。

 バブルが崩壊してから「失われた20年」が30年に近くなって、30才以下の人口が30%(3500万人超)に迫ろうという時代になって、一度も成長を味わったことがなく格差が年々拡大しているなかで、「一生懸命働けば将来はキッと良くなる」という明るい将来像をもっている若者がほとんどいない、こんな状態で21世紀をこの国はどう生きて行こうとしているのでしょうか。

 

 神々がシジフォスに課した刑罰は、休みなく岩をころがして、ある山の頂まで運び上げるというものであったが、ひとたび山頂にまで達すると、岩はそれ自体の重さでいつもころがり落ちてしまうのであった。無益で希望のない労働ほど怖ろしい懲罰はないと神々が考えたのは、たしかにいくらかはもっともなことであった。(アルベール・カミュ著『シジフォスの神話』清水徹訳より)

 福島原発の汚染処理水貯蔵タンクの夥しい数の列を見たとき真っ先に思い浮かんだのがこの小説でした。1日約170トンの汚染水が出るメルトダウンしたこの原発の貯蔵能力は敷地いっぱいにタンクを並べ立てても137万トン分しか有りません。今の状況がつづけば2022年中にも満杯になると予想されています。しかし廃炉まで早くて30年、実際はいつまでに廃炉できるか専門家でさえ計算できないといわれています。タンクを増設しても汚染水は溜まりつづける、またタンクの増設……。まるで「シジフォスの神話」そのものです。

 

 終わりがないということは「責任のつけようがない」ということです。コロナはいつ終わるのか。地球温暖化は、核廃絶は、拉致問題は……、……、

 誰も責任をもてない社会に若い人たちを捨て去っていくしかないのでしょうか。

2021.3.29

政治社会 2711文字

797/587 市村 清英) 

 

 

2021年3月22日月曜日

伝統という都合のいい言葉

  神前結婚式にはじめて出席したのはいつだったか。「歴史にのっとった伝統の」という形容詞が仰々しく貼りつけられたその結婚式が、大正天皇の結婚式を「まね」して一般民衆の結婚式に形を変えた「商業主義」の産物であるということを知って腹立たしい思いに駆られたのをありありと憶えています。少なくとも江戸時代、ひょっとしたら奈良・平安時代から引き継いでこられた「由緒」あるものではないかと密かに信じるところがあっただけにその裏切りは決して軽くはありませんでした。

 

 この種の類は気をつけて身の周りを見つめ直すと随分とあるもので最近では自民党が「選択的夫婦別姓」に反対を唱えるために持ち出した『伝統的家族制度』などというものもその典型的な一種でしょう。何が「伝統的」であってその元となる「時代」はいつごろなのか、についてはあやふやではっきりとしていません。

 そこで「伝統的家族観」というものをおぼろげながらですが整理してみると次のようになるのではないでしょうか。

(1)法律で認められた形で結婚し、子どもを授かって家庭をつくる。

(2)夫婦と子ども2、3人で構成される家庭。

(3)夫は外で働き妻は家庭経営に専念する。

(4)二世代、三世代同居する。

 これを総合すると、世間的に一人前と評価を受けるためには見合いでも恋愛でもいいから年頃になれば正式に結婚して所帯を持ち、妻たる人はお勤めをしていても家庭に入って専業主婦となって夫の会社勤めが心置きなく励めるよう家庭を守り、2、3人の子どもを成し、男の子は4年生の大学を、女の子なら短大くらいを卒業のあとお稽古事を嗜まして結婚準備、社会人として世に出し結婚させ、定年までには住宅ローンも終えて退職金は老後の備えとしながら年金生活で安穏に過ごす。余裕があって老いた両親の面倒を見ることができれば「恙無く」生涯を全うしたことになる。晴耕雨読、偕老同穴、こんな老後が送れれば誰もが羨む充実した人生設計といえよう。

 多分「伝統的家族観」のイメージはこんなものではないでしょうか。しかしこんな「家族観、家庭観」は歴史的にはいつの時代にもなかったもので、戦後の一瞬にだけ「標準化」された、そもそもは戦後復興を効率的に早期に達成するために「上級官僚」が構想した、「貿易立国」と「内需拡大策」のための『モデル家族観・家庭観』にほかならないのです。

 

 貿易立国のためには「製造業」がGDPの50%近くを占めるまでに成長させなければなりません。そのためには労働力の「農村から都市部へ」大移動させる必要がありました。その受け皿としての住宅政策が「持ち家制度」で、持ち家は「内需拡大策」の中心として構想されました。住宅建設と家電などの耐久消費財のすそ野は広く、やがて自動車産業の勃興・拡大は内需拡大に大きく貢献します。「住宅ローン」は金融機関確立にとって「設備投資資金」の供給と共に二本柱となって機能しました。また「労働力の高度化」のために「大学進学率の向上」は重要な政策でした。こうした政策の総合効果は意想外に発揮され、戦後10年足らずで「もう戦後ではない」と経済官僚が雄叫びするほどの成長をもたらし20年の長きにわたる「高度成長」を達成したのです。国内外の過剰需要に対応する「供給力増強」には「過剰労働時間」をもってし、「24時間働けますか」と尻を叩かれた夫と「専業主婦」の両輪は上級官僚の目論見通りの機能を発揮するのです。

 奈良・平安の「通い婚」でもなく江戸・明治の「内向きの切り盛り」型「武家の妻」「商家のお上さん」でもない戦後の一時期だけに「モデル」として称揚された『伝統的家族観・家庭観』は「伝統」でもなんでもない、戦後復興のために「上級官僚」の構想した「高度成長」のための「短期的・便宜的」な「家族形態」にすぎないのです。

 

 日本の「家族観」を規定する最も大きな要素は「イエ」です。イエは「余剰生産物」の発生が成立の淵源となってその再生産と蓄積が確立を促進しました。イエの本質は労働力の安定供給ですから多世代を包含する構造をとらざるをえず、嫁取り(婿取り)も労働力の交換に他なりませんから送り手が反対給付としての貢物(結納金のような形で今も残っている)を要求するのは当然でした。やがて都市化の進行は農業だけでなく商工業にもイエが形成されるようになり、富の永世相続形態としての「武士の格式」にもイエ制度は厳格に適用されました。封建制度の崩壊した後もイエは存続しつづけ「家業=自営業」として近代社会の経済制度の中核組織として機能しつづけます。それは明治以降の労働力構造における「自営業者と雇用者の割合」に如実に表れ、1900年代初めには70%を自営業者が占めていました(農漁業者を含む)。その構造に大きな変化が現れたのは戦後産業構造の製造業中心への転換によってもたらされ1955年には60%、1980年30%、そして2010年には自営業者の割合は15%を切るに至ります。自営業者が中心の社会では「専業主婦」の成立基盤はほとんどなく、主婦も貴重な労働力として経営に資していたわけで、専業主婦をベースとした「伝統的家族制度」と自民党や保守層の呼ぶ家族形態が社会の主流を占めたのは高度経済成長期の半ば(1970年代)から20世紀末までの約30年間という極めて「短期間」のことで、21世紀に入ると女性の社会進出は急激に進行して今や「共働き」が主流ですから「核家族化」と相俟って「伝統的家族制度」は主流の位置から「少数派」に転落しているのです。

 

 夫婦同姓が法律で定められている先進国はわが国だけです。江戸時代は一般庶民には「名字」は許されていませんでしたし、平安時代は通い婚が主流でしたからいわば「夫婦別姓」といってもあながち間違いではないわけで、江戸時代までは女性が「名を名乗る」こと自体が夫などのごく限られた人に対する時だけでしたから、更級日記の著者は今だに「藤原孝標女」になっています。

 

 「伝統」であるとか「仕来り」「習慣」「前例」という言葉は便宜的によく使われる言葉ですが、内容はいたって「あいまい」で「空疎」なことがよくあります。また「歴史」を知らなかったり誤解したりすることも珍しくなく付会――自分に都合のいい解釈で使われることが多いのです。

 

 「夫婦同姓」に関しては国連から改善勧告を2003年に受けています。20年近くも放置しておきながら今年は討議の俎上にすら上らせない後退ぶりです。しかもそれは「歴史認識の誤り」にもとづく「浅薄」な論拠によるもので、ある意味で日本人として「恥ずかしい」歴史の理解に基づいています。

 

 都合が悪くなると「伝統」という言葉を持ち出す悪弊は是非とも改めて欲しいものです。

 

 

 

 

 

 

 

2021年3月15日月曜日

老人の役目

  漱石が五高(熊本県・旧制高等学校)の英語教師時代、〈I love you〉を「愛しています」と訳した学生に対して「君は本当にキミのメッチェン(恋人)にそんな言葉を使うのかい。ボクならこんな風だと思うよ」と言って「月がキレイですね」と訳したと伝えられています。これは大学の翻訳の授業で「直訳と意訳」を説明するときによく使われるエピソードだそうです。文明開化がはじまってまだ二十年くらいの時期に「愛してます」と言われた女性は戸惑ってしまうことでしょう、「惚れたはれた」で恋の心情を訴えるのが普通だったのですから。それよりも「月がキレイですね」とささやかれてそっと手を握られた方が当時の女性には心が通じたことでしょう。

 

 三百年近い鎖国が解かれて外国文明が洪水となって流れ込んだわが国にあって、明治の人たちは外国語を懸命に「日本語化」しました。物の名前や概念語の翻訳には相当苦労したはずで、野球や社会、哲学、自由、観念などよくぞこんな言葉を「発明」したものだと感心させられます。そうした絶妙さは中国、韓国でも評価されて同じ言葉が使用されていますから、韓国の政治家などの発言の中に突然日本語の単語が飛び出してきたり中国の文書に概念語の漢字が混じっているのを見て驚かされたりする経験も珍しくありません。

 それに比べて現在の「カタカナ語」の氾濫は一体どうしたことでしょうか。官僚や一部の政治家、若い経営者の発言に飛び交うカタカナ語はこれが日本語かと情けなくなってきます。彼らの発言が受け手の私たちに正しく伝わっているかどうかも怪しいもので、結局一方通行の「とりあえず伝える努力はしました」というやった感だけのことで、相手を説得しようとか理解してもらおうというコミュニケーションの成立には余り関心が払われていないような気がします。これは取りも直さず外国語を正しく理解してそれを日本人に解る言葉に変換しようという真剣さが失われた結果といっていいと思うのです。明治の先人たちとのこの差はどこからきているのでしょうか。

 

 欧米先進国に「追いつけ、追い越せ」という焦りにも似た上昇志向が明治の人たちにあったことは間違いありません。奈良時代以来千二百年近く「お手本」としてきた「中国」がいとも簡単に英国に蹂躙されたのが僅か三十年前のことであって、しかも非人道的な「阿片」を商品として、おまけに『密輸』という国際信義を無視した形で蔓延させるという「言語道断」な手段を英国は用いたのですから、わが国の指導層の危機感はなみなみならぬものであったでしょう。ということはそれだけ外国語の日本語化に関しても真剣ならざるを得なかったのです。さらにその任に当たった人たちが、西周、福沢諭吉、森鴎外といった最高レベルの「知性」だったのですから今とは比較にならないといえます。今の人たちは「会話力」――発音がネイティブに近く、英語(の場合)で考える力――は明治の人たちより上手でしょうが、理解力、日本語への変換力、そして何よりも「漢文力」は明治の人たちの方が優っているでしょう。特に漢文の素養は圧倒的に明治の人が優位なことは明らかでさらに『教養』も今の人の方が劣っているといっても反論の余地はないでしょう。ということは「考える力」とその基礎となっている「幅広い教養」が明治時代から今日に至る間に「劣化」してしまっているということにならないでしょうか。

 

 そもそも今に生きている我々に、言葉に対する「おそれ(畏怖)」や「危うさ(不安)」はあるでしょうか。言葉が今あるについてはこれまでの多くの日本人の歴史の積み重ねの上に成立しています。ひとつひとつの言葉には二千年の歴史の中に生きてきた日本人の「思い」が込められているのであって――込められたものもあれば溢れてしまった思いもある、捨てられた意味もある――、それ故に今ある言葉に今の我々の「思い」「考え」「意味」が正しく反映されているのだろうかという『不安』があってこそ「正しい日本語」が流通することになるのです。そういう見方からすると現在の我々の「言葉」にたいする「向かい方」は余りに『粗雑』であり『無造作』に過ぎます。簡単にいえば「辞書」に載っている意味が正しくて、誰もがそう理解していると無邪気に信じてしまっています。しかし「言葉」はそれほど「不動」で「完全」なものではありません。それが証拠に最近の「政治家の言葉」を心底から信じている人は余りいないのではないでしょうか。

 この件に関して最近よく思い出すのはもう四十年以上前のことになりますがダグラス・グラマン事件で国会で証人喚問された日商岩井副社長・海部八郎氏の宣誓書に署名する手の「ブルブル」と震える様子です。何度も何度も記帳に筆を下ろそうとするのですがどうしても震えが止まらないのです。「虚偽」を証言すると「犯罪人」になってしまう『恐怖』に慄(おのの)いていたのです。それだけ自分の「言葉」に『重み』を感じていたのです。

 ところが今の政治家や官僚、企業人――延()いては我々一般人――にはまったく「言葉」に対する「おそれ」がありません。「軽さ」がつきまとい「言葉への信頼」が「ゆらい」でいます。従って『うそ(虚偽)』をつくことになんの「ためらい」もありません。総理大臣が平気で嘘をつきますし部下の官僚も上役を守るためなら平気で言葉を「ねじ曲げ」てしまいます。そういう我々もSNSで僅か40字という短文で会話をして何の不安も感じていないのですから同じようなものです。

 こんな「言葉」が流通している社会が正常なはずがありません。

 

 言葉に「信頼」があってはじめて人間同士つながれるものだとすれば『お金』もまったく同じです。わずか〈76cm×160cm〉の薄っぺらな「紙」に『一万円』という『価値』を流通させている力は『信頼』以外の何ものでもないのです。アルゼンチンのハイパーインフレのような事態がわが国に発生すれば一瞬にして「一万円札」は紙屑になってしまいます。それだのに我々は『紙幣=貨幣』にほとんど注意を払っていません、無邪気に信じて生活しています。約1100兆円という政府や公的な負債(借金)があっても平気に日常生活を送っています。

 これは『正常』なのでしょうか。

 

 明治以来日本国は三十年以上「平和」がつづいたことはなかったのですが戦後はもう七十五年以上「戦争」のない状態がつづいています。平穏な年月が長くつづくと言葉やお金は「普通のもの」になってしまって誰も注意しなくなってしまいますが、これまでの経験からそろそろ「異変」があっても不思議はないという『おそれ(懼れ)』を抱いてもおかしくないのです。

 そういう「用心」を告げるのが『老人』の役目なのではないでしょうか。

 

 

 

2021年3月8日月曜日

テレビが面白くない

  最初にオリンピックについて一言。誰も彼もが「アスリートファースト」と口にしますが一体何がアスリートファーストなのでしょうか?オリンピックに勝つことが『世界一』であってこそオリンピックの価値があると思うのですが、「2020東京オリンピックはコロナだったから」とのちのち東京の記録が特別視されて2020オリンピックで勝ったオリンピアンの名誉が貶められるようなことになるのであれば「アスリートファースト」にならないのではないでしょうか? 

 

 「もお寝やはるんですか。9時から『相棒』ですよ」「ええねん、最近面白ないねん」。びっくりする妻。そりゃぁそうだと思います、2000年に開始したシーズン1から再放送も含めて一回も見逃すことなく――生で見られないときは録画までして――見つづけてきた熱狂的ファンだったのですから。杉下右京の正義感と天才的な記憶力・知識量が特命係の主要武器となって難事件を解決する快感が人気の秘密だったのが、それを逸脱する複雑で大がかりなストーリーが主にになってくると古いファンは抵抗を覚えてしまうのです。まして組織防衛にはしる権力機構に正義感で抵抗する右京に拍手喝采を送っていたファンは組織と右京の間にある種のなれ合いのようなものが介在するに至ってはもはや『相棒』の原形を留めていないではないかと反旗を翻してしまうのです。そもそも「相棒」が地域交番からの叩き上げだった亀山薫(寺脇康文)から落ちこぼれエリートの神戸尊(及川光博)に変わり更に警察機構トップの反抗御曹司・甲斐亨(成宮寛貴)から元法務省のキャリアくずれの冠城亘(反町隆史)に至ってはもはやこれを警視庁の窓際部署の特命係と呼ぶことに違和感を感じずにいられません。これは妻の感覚ですが「花の里――行きつけの割烹居酒屋(今は店名が変わっていますが)」の女将が「玄人」っぽ過ぎるというのも相棒らしくないかも知れません。

 

 相棒に限らずドラマ全般に興味をひかれなくなって現在毎週観ているのは『朝顔(関テレ)』と『立花登青春手控え(NHK)』の二本になってしまいました。「朝顔」は大学の法医学部の監察医をしている朝顔が主人公で行政解剖から死因不明の事件を解決に導く推理ドラマの楽しみと東北大震災で被災死亡した朝顔の母親の死体捜索にまつわる人間模様がからまったドラマ構成になっています。もう一方の「立花登…」は江戸時代の小伝馬町に勤める若き牢医者立花登が主人公の時代劇ドラマ(原作藤沢周平)で、牢内の囚人と市井のつながりが事件解決の決め手になり登の練達した柔術の軽快な立ち回りが新鮮で、寄宿する叔父夫婦の一人娘との淡い恋模様、岡っ引きその他の人物像が丁寧に描かれていてしっかりとしたドラマに仕上がっています。この二本のドラマの好きなところは登場人物の誰もが「誠実」な「いい人」ばかりなところでなんとも優しい心持になります。ぎすぎすした今の時代に一ぷくの「清涼剤」と呼んでいいドラマなのです。

 もともとはラブ・コメディが好みだったのですが最近はとんと興味が湧かなくなって「齢ですね」と妻にちゃちゃを入れられる始末ですがセックスの興味と能力が減退している現状は紛れもなく「お齢」なのです。

 

 ドラマだけでなくお笑いも見るべきものが皆無の状態になっています。若いころ東京に勤めていたことがあって新宿の寄席、末広へ何度か行って東京落語にはまって以来お笑いが好きで、大阪漫才や吉本新喜劇もテレビを通じて長年ファンをつづけてきました。何が好きなのかを突き詰めていくと結局「名人・上手」の『藝』がたまらなかったのです。東京で見た志ん生や三木助(この人の「芝濱」は絶品でした)、ダイマルラケット、いとしこいし、やすしきよしの漫才は紛れもなく「名人芸」でしたし、ドギツイ演技と嫌う向きもありましたが昔の「吉本新喜劇」の役者たちは「上手」だったと思います。

 しかしさんま、たけし、鶴瓶やタモリがテレビで見せる「テレビ芸」は「名人・上手」という領域からほど遠いものです。彼らはもはやテレビ界の「重鎮」であってお笑い芸人とは言えず、とりわけ「素人いじり、芸人いじり」は嫌悪さえ覚えます(最初のころはそれはそれなりに面白かったのですが)。なぜそうなったかを考えると、お笑い界の「ヒエラルキー」が確立してしまって若手の『はみ出し』が許されない状況を呈しているからです。そもそもお笑いは「破綻」と「新奇」が根底のはずですから今の状況はお笑いにとっては決して望ましい状態ではありません。その最たるものが「M―1」でお笑い界最大のイベントになってこれに優勝することがお笑い界「成り上がり」の条件になっています。確かに若手の芸は年々向上して「うまい」連中がひしめいていますが、ちょっと引いてみると「うまい」けれど「味」が皆一緒のような気がします。さっきも言いましたがお笑いは「破綻」と「新奇」が真骨頂ですから毎年同じような顔ぶれの審査員が採点するM―1で優勝するためには彼らに評価される「芸」に近づける必要がありますからどうしても「画一化」は免れないのです。はじまって20年を超えた今はちょうどその歴史を閉じるタイミングなのかもしれません。

 最近の楽しみは「やすとものいたって真剣です(ABC)」と「球辞苑(BS3)」です。「やすとも…」はお笑い界のヒエラルキーを「やすとも」が取り外して若手芸人の本音を引き出す「真剣さ」、「球辞苑」はプロ野球をとにかくマニアックに深堀することで野球の楽しみ方を拡大してくれます。

 

 ネットでは以前からテレビは「オワコン(流行おくれの終わってしまったコンテンツ)」と決めつけられてきました。確かにテレビが最も面白かったのは佐藤栄作元総理が記者会見の席上で「テレビは出て行ってください」と絶叫したときだったでしょう。そういう意味では彼の甥御さんの安倍元首相が「私の意見を知りたい人は『読売』を読んで下さい」と国会で口走ったのが引導を渡すことになって新聞は終わってしまいました。しかしインターネットもすでに「オワコン」なのであって、「アラブの春」で最盛期を迎えたSNSもトランプの「国会議事堂襲撃誘導」で完全に挫折していることに若者は気づいているのでしょうか。SNSの影響力の大きさに盲目的に『没入』していた彼らは、このまま「批判力」を磨かずにSNS(インターネット)に身を委ねたまま盲進するならば必ず手ヒドイ「しっぺがえし」を受けることでしょう。

 

 独断ですが、現在の「メディア混迷」時代の解決は意外かもしれませんが「新聞の閲覧性」が切り札になるのではないかと考えています。「言葉」がここまで「劣化」してしまった状況は人間の歴史のなかでも「異常」事態です。かってこれほど言葉が粗末に扱われた時代はありません。かならず現状は『破綻』します。

 その被害が軽微で済むことを祈るばかりです。

 

 

2021年3月1日月曜日

コロナ随想

  コロナ禍で一年たって「終戦直後みたいやなぁ」という思いが浮かんできました。といってもおぼろげな記憶の残っている小学年二年――昭和二十二、三年ころのことで当時西陣のど真ん中、智恵光院通(千本通と堀川通の真ん中)の一条に住んでいましたが道路疎開(建物疎開)で拡張された通りはまだ瓦礫が残されたままのような状態でした。その頃の私の生活圏は北西は天神さん、南は二条城、東は御所という各辺一キロ米内に限られていて、交通機関といっては市電しかなかった時代です。たまに年長の高学年のあとについて衣笠山か等持院に連れて行ってもらうのが遠出で、衣笠山は水晶取り、等持院はエビガニ(ザリガニ)釣りが目的でした。放課後は橘公園(智恵光院通笹屋町)かゴウサン(浄福寺をそう呼び習わしていました)、学校の校庭(正親小学校―中立売通浄福寺)で遊ぶのが常でしたから行動範囲はほぼ半径五百米以内という狭いものだったのです。かといって親の普段の買い物も魚は一条(東)の田中魚店、野菜は中立売通の佐野さん(?)、塩砂糖味噌は田中さんの隣の塩芳さん、醤油と酒は一条(西)の並川酒店、お肉屋さんはちょっと遠いといっても中立売通黒門の品川亭でしたから歩いて十分足らずのところにありほとんど私の生活圏と変わらない狭いものです。母は息抜きもかねてたまに北野市場や下ノ森の商店街に出かけることもあり帰りには一条通りをえらんで千本の呉服屋さんをひやかすこともあったようです。お米屋さんだけは東山の安田米穀店から持ってきてもらっていたのはご主人が父親の軍隊仲間という関係からのことだったのですが、この安田さんというのが筋金入りの道楽者で呑む打つ買うの三拍子の上にお妾さんまで囲っているという念の入りようでした。そしてあろうことか父に(幼いとはいえ私のいる前で)「おい、お前も妾をもてよ」とけしかけたことがあって、いつもなら昼間は向かいの祖母のところにいるはずの母がその日に限って襖一枚隔てた奥の部屋にいたものですから安田さんの声は筒抜けで「安田はん、帰っておくれやす」と追い立てた後父親と一悶着あったことなどが懐かしく思いだされます。

 月に一回は北野のチンチン電車――北野神社から中立売通を通って堀川通りを下(しも)に京都駅までを走っていた日本最古の路面電車――で六条富小路の長講堂へ墓参りをするのが常で、帰りに四条の田ごとたまとじ(卵とじうどん)を食べて大丸か新京極(蛸薬師)の野沢玩具店でおもちゃを買ってもらうのが楽しみでした。ほかに年に二回ほど南座で松竹家庭劇や大江美智子の女剣劇を観たり新京極(蛸薬師)の富貴の寄席をのぞくこともありました。祖母はそんな母を「俄(にわか)みたいなもん、子どもに見せて」と見下げるのですが母は平気で「歌舞伎なんか辛気臭い」というひとでした。そんなことから祖母は何度か歌舞伎に連れて行ってくれましたがそれが下敷きになって文学好きになったのかもしれません。あるとき「清英ちゃんは歌舞伎の演目(だしもの)のうちの何が好きや」ときかれて「鳴神」と答えると「まあこの子はおマセさんやね」とまわりのおとなに笑われたことが印象に残っています。解説しますと、鳴神というお芝居は鳴神という呪術師がなにかのいきがかりで怒ってしまって竜神様(雨を降らす神様)を滝壺に閉じ込めてしまったために干ばつになってしまいます。困った人々が妙令のお姫様に鳴神を誘惑させて「呪力」を解き雨を降らそうとする話なのですが、お姫様が鳴神に抱き寄せられながら胸や足のあいだに鳴神の手を誘(いざな)い露骨に「チチ」とか「ホト」とかを言葉にする場面があるのです。まだ小学低学年の身ではそこまで具体的に演技を理解することはできず、ただ極彩色の場面の美しさと竜神が滝壺から解き放たれたときの「ドドドドドーッ」という音響の凄まじさに興奮するだけなのですが、おとなたちにはそんな子供っぽい興味の持ち方は想像もできませんから「マセた子やな」と言ったのでしょう。でも私は何か猥(いや)らしいことを口にしたのではないかと恥ずかしかったことを覚えています。

 子どもの買い物と言えば駄菓子と文房具と本でしょう、駄菓子屋さんは一条の角に武内さんがあり本屋さんは千本今出川の森安心堂が出入りの本屋さんになっていました。文房具は千本中立売の梅棹化粧品・文具店が一番大きなお店でしたが、この店は万博公園にある国立民族学博物館の館長などを務めたあの有名な梅棹忠夫さんのご実家で学区内では有名なお店でした。

 

 ながながと昔語りをつづけてきましたが、言いたいことはほんの七十年前ころまではおとなであれ子どもであれ生活圏は狭い地域に限られていたということなのです。コロナの今、交通機関の利用が制限され徒歩で行ける半径1キロ米に閉じ込められて息が詰まりそうだと不平を言っている人たち、昔はこんなものだったのですよ、旅行など一生に何度もない贅沢で一生行けなくて半径1キロ米か2キロ米の範囲で生涯を終える人さえ少なくなかったのです。

 外食はせいぜい月に一回の「ごっつぉ」があればいい方でその日は「よそ行き」を着せてもらえるので「晴れがましい」気持ちで出かけるまえから気分が高揚したものです。今では健康のために「ウォーキング」する時代ですが昔は必要にせまられて歩くしかなかったのです。ずうっと昔(12世紀末から13世紀にかけてのころ)藤原定家――百人一首を選んだひと――は朝九条の東洞院をでて三条室町から御所へ、さらに一条烏丸を経て又三条室町へ戻りそこからもう一度一条烏丸へ行ってから九条の自宅へ帰っています。総行程約22km、五里余り、勿論彼は騎馬だったでしょうが御付きは徒歩ですから昔の人の「健脚」は尋常ではなかったようです(村井康彦『「明月記」の世界』より)。今でも旅行から帰ってきてタクシー待ちの行列が多ければ京都駅から桂まで歩いて帰る知人もいます。

 

 家の内を見渡してみて終戦直後にあったもので残っているのは俎板包丁と食器、本くらいでほとんどが新しく生まれたものです。ざっといえばかっての「主婦労働」を代替するものと「情報機器」です。この間収入は大体40倍以上(1人当GDPが1955年約10万円から400万円になっています)になっていますから随分豊かになったものです。便利にもなっています。なによりも女性が家事から解放されたために社会参加が促進されて男女平等が相当程度実現されました。移動の範囲も飛躍的に広がって海外旅行など夢のまた夢だったのが毎年2千万人近い人が旅行するようになっています。

 

 では、あなたは、いま、『幸せ』ですか?

 

 成長を追い求め、豊かさと便利さがすべてに優先する「生き方」を正しいと信じてきました。それでいいのか?そこをもういちど考え直してみようではないか。

 コロナは私たちにそう問いかけているのではないでしょうか。