2021年3月29日月曜日

シジフォスの神話

  もうなにも期待はしていませんでした。しかし最低限、官僚の作成する法律文は「完全」だと信じていました。何故なら法案作成能力こそわが国律令制以来の官僚の「必須能力」だったからです。それが見事に裏切られたのです。政府が提出した法案に多数のミスが見つかったことを加藤官房長官が国会で陳謝したことで明らかにされたのですが、デジタル改革関連法案で45ケ所、産業競争力強化法改正案と銀行法改正法案など法案23本条約1本でミスが見つかっています。現在すべての法案で再点検を行っているということです。

 これは異常事態です。多分わが国はじまって以来の醜態です。

 

 2014年、第二次安倍政権のもとで「内閣人事局」が創設され、審議官以上約600人の高級官僚の人事権が時の政権下に置かれるようになりました。これは戦後政官――政治か官僚かどちらが行政を主導するかの主導権争いがつづけられてきて、長年の官主導の弊害が限界点を越えたとして政治(時の政権党内閣)主導に官僚人事管理制度が変更されたのです。これによって、国民の奉仕者であるはずの官僚が「省益」――自己の属する省庁存続のためを最重要事項として、国民の利益を二の次にしてきた官僚の傲慢さを是正するという目論見があったのです。ところがその後の状況は制度の理念は忘れられ、人事権をにぎった政権党内閣は、国会を軽視して独断専行、小選挙区制の悪弊で僅かな差で選挙結果を勝利できる制度の欠陥を自己のほしいままにして野党意見や政権反対層の国民の意見や要望を蔑ろにし、自民党の権力維持を国民多数の福祉向上よりも行政運営の最重要目標とされているのです。結局官僚がそうであったように国民の奉仕者たる自覚は政治主導になっても果たされることはなかったのです。

 こうした「政治(議院内閣制)の傲慢」は高級官僚の「人事権濫用」となって表れ、自らに逆らうものは国家国民を慮って諫言する官僚であっても簡単に更迭するという「暴挙」が横行し、官僚はすくみ上って「忖度」が通例となり、あろうことか法案作成という官僚の主要業務にさえもミスを続出するという前代未聞の事態を出来(しゅったい)するに至ったのです。これをこのまま放置すればわが国の衰亡は必至です。

 

 わが国の地盤沈下はこのところ目を覆うばかりです。コロナ対応の未熟さは情けなさ、惨めさをつのらせます。ワクチン生産能力の消滅、感染症対応医療体制の脆弱さはこれが一昔前、先進国の先頭を走っていた国かと疑わせる体たらく、なにより「非常時対応体制」がまったく整備されていないことに薄ら寒さを覚えました。国としての責任体制と国と地方の役割分担が明確でなく国民は何を頼りにすればいいのかまったく明示されません。これは原発事故の(かん)、コロナの(すが)と未曾有の国難に史上最悪の総理が対応したという歴史的悲劇も影響しているのですが。

 新疆ウィグル地区に人権蹂躙を続ける中国への制裁についてわが国はなんら態勢を明らかにしないまま中途半端な姿勢を続けていくのでしょうか。北朝鮮の拉致問題に対しても当事者意識はなくアメリカ追随で一向に進展がありません。二言目には「世界で唯一の被爆国」と言い募りながら「核兵器禁止条約」に署名をためらい、賛成国と反対国の「橋渡し」を演じるといいながらなにひとつ具体策を講じる気配がありません。「環境先進国」を世界に公言して憚らなかったのはまだ二十年にもならない以前のことだったと思うのですが今や、グリーン社会の実現の世界的潮流の中では先進国ばかりでなく世界の多くの国の後塵を拝している情けなさです。2050年カーボンニュートラルを遅ればせながら総理は宣言しましたが、原発は再稼働をつづけ火力発電所の新設も止まるところがありません。廃プラ問題に対しても弥縫策をくりだすばかりで根本的な解決に向かっての先進的な取り組みを見出せずにいます。

 東電柏崎刈羽原発のテロ対策不備が指弾を受けましたが、東電にしろ政府にしろ「テロなんて現実問題ではない」と高をくくっているのがありありと分かる「ぬるさ」とずさんな体制を隠そうともしませんが、隣に北朝鮮というギリギリに「追い詰められた」国が核兵器をもっていつ何時また「拉致」をしないとも限りませんし、テロをしない保証などみじんもないのです。原発の「地震対策」は世界トップクラスの厳格さを喧伝しますが、世界中でわが国ほどの「地震大国」はないのですから、世界標準の何倍も厳重な規制を設けて初めて「日本の安全対策」と呼べるのではないでしょうか。

 LINEの個人情報保護のデタラメさが明らかになりましたが、国としてのIT化の遅れは世界の進展状況からすれば何周遅れか判断もつかないほどの劣勢ぶりです。しかもそのIT最前線を務めるはずの「総務省」が業界べったりの接待漬けで国民の信頼を裏切っているのですから、今後のIT化推進の展望に希望の持てるはずもありません。

 バブルが崩壊してから「失われた20年」が30年に近くなって、30才以下の人口が30%(3500万人超)に迫ろうという時代になって、一度も成長を味わったことがなく格差が年々拡大しているなかで、「一生懸命働けば将来はキッと良くなる」という明るい将来像をもっている若者がほとんどいない、こんな状態で21世紀をこの国はどう生きて行こうとしているのでしょうか。

 

 神々がシジフォスに課した刑罰は、休みなく岩をころがして、ある山の頂まで運び上げるというものであったが、ひとたび山頂にまで達すると、岩はそれ自体の重さでいつもころがり落ちてしまうのであった。無益で希望のない労働ほど怖ろしい懲罰はないと神々が考えたのは、たしかにいくらかはもっともなことであった。(アルベール・カミュ著『シジフォスの神話』清水徹訳より)

 福島原発の汚染処理水貯蔵タンクの夥しい数の列を見たとき真っ先に思い浮かんだのがこの小説でした。1日約170トンの汚染水が出るメルトダウンしたこの原発の貯蔵能力は敷地いっぱいにタンクを並べ立てても137万トン分しか有りません。今の状況がつづけば2022年中にも満杯になると予想されています。しかし廃炉まで早くて30年、実際はいつまでに廃炉できるか専門家でさえ計算できないといわれています。タンクを増設しても汚染水は溜まりつづける、またタンクの増設……。まるで「シジフォスの神話」そのものです。

 

 終わりがないということは「責任のつけようがない」ということです。コロナはいつ終わるのか。地球温暖化は、核廃絶は、拉致問題は……、……、

 誰も責任をもてない社会に若い人たちを捨て去っていくしかないのでしょうか。

2021.3.29

政治社会 2711文字

797/587 市村 清英) 

 

 

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