2021年3月15日月曜日

老人の役目

  漱石が五高(熊本県・旧制高等学校)の英語教師時代、〈I love you〉を「愛しています」と訳した学生に対して「君は本当にキミのメッチェン(恋人)にそんな言葉を使うのかい。ボクならこんな風だと思うよ」と言って「月がキレイですね」と訳したと伝えられています。これは大学の翻訳の授業で「直訳と意訳」を説明するときによく使われるエピソードだそうです。文明開化がはじまってまだ二十年くらいの時期に「愛してます」と言われた女性は戸惑ってしまうことでしょう、「惚れたはれた」で恋の心情を訴えるのが普通だったのですから。それよりも「月がキレイですね」とささやかれてそっと手を握られた方が当時の女性には心が通じたことでしょう。

 

 三百年近い鎖国が解かれて外国文明が洪水となって流れ込んだわが国にあって、明治の人たちは外国語を懸命に「日本語化」しました。物の名前や概念語の翻訳には相当苦労したはずで、野球や社会、哲学、自由、観念などよくぞこんな言葉を「発明」したものだと感心させられます。そうした絶妙さは中国、韓国でも評価されて同じ言葉が使用されていますから、韓国の政治家などの発言の中に突然日本語の単語が飛び出してきたり中国の文書に概念語の漢字が混じっているのを見て驚かされたりする経験も珍しくありません。

 それに比べて現在の「カタカナ語」の氾濫は一体どうしたことでしょうか。官僚や一部の政治家、若い経営者の発言に飛び交うカタカナ語はこれが日本語かと情けなくなってきます。彼らの発言が受け手の私たちに正しく伝わっているかどうかも怪しいもので、結局一方通行の「とりあえず伝える努力はしました」というやった感だけのことで、相手を説得しようとか理解してもらおうというコミュニケーションの成立には余り関心が払われていないような気がします。これは取りも直さず外国語を正しく理解してそれを日本人に解る言葉に変換しようという真剣さが失われた結果といっていいと思うのです。明治の先人たちとのこの差はどこからきているのでしょうか。

 

 欧米先進国に「追いつけ、追い越せ」という焦りにも似た上昇志向が明治の人たちにあったことは間違いありません。奈良時代以来千二百年近く「お手本」としてきた「中国」がいとも簡単に英国に蹂躙されたのが僅か三十年前のことであって、しかも非人道的な「阿片」を商品として、おまけに『密輸』という国際信義を無視した形で蔓延させるという「言語道断」な手段を英国は用いたのですから、わが国の指導層の危機感はなみなみならぬものであったでしょう。ということはそれだけ外国語の日本語化に関しても真剣ならざるを得なかったのです。さらにその任に当たった人たちが、西周、福沢諭吉、森鴎外といった最高レベルの「知性」だったのですから今とは比較にならないといえます。今の人たちは「会話力」――発音がネイティブに近く、英語(の場合)で考える力――は明治の人たちより上手でしょうが、理解力、日本語への変換力、そして何よりも「漢文力」は明治の人たちの方が優っているでしょう。特に漢文の素養は圧倒的に明治の人が優位なことは明らかでさらに『教養』も今の人の方が劣っているといっても反論の余地はないでしょう。ということは「考える力」とその基礎となっている「幅広い教養」が明治時代から今日に至る間に「劣化」してしまっているということにならないでしょうか。

 

 そもそも今に生きている我々に、言葉に対する「おそれ(畏怖)」や「危うさ(不安)」はあるでしょうか。言葉が今あるについてはこれまでの多くの日本人の歴史の積み重ねの上に成立しています。ひとつひとつの言葉には二千年の歴史の中に生きてきた日本人の「思い」が込められているのであって――込められたものもあれば溢れてしまった思いもある、捨てられた意味もある――、それ故に今ある言葉に今の我々の「思い」「考え」「意味」が正しく反映されているのだろうかという『不安』があってこそ「正しい日本語」が流通することになるのです。そういう見方からすると現在の我々の「言葉」にたいする「向かい方」は余りに『粗雑』であり『無造作』に過ぎます。簡単にいえば「辞書」に載っている意味が正しくて、誰もがそう理解していると無邪気に信じてしまっています。しかし「言葉」はそれほど「不動」で「完全」なものではありません。それが証拠に最近の「政治家の言葉」を心底から信じている人は余りいないのではないでしょうか。

 この件に関して最近よく思い出すのはもう四十年以上前のことになりますがダグラス・グラマン事件で国会で証人喚問された日商岩井副社長・海部八郎氏の宣誓書に署名する手の「ブルブル」と震える様子です。何度も何度も記帳に筆を下ろそうとするのですがどうしても震えが止まらないのです。「虚偽」を証言すると「犯罪人」になってしまう『恐怖』に慄(おのの)いていたのです。それだけ自分の「言葉」に『重み』を感じていたのです。

 ところが今の政治家や官僚、企業人――延()いては我々一般人――にはまったく「言葉」に対する「おそれ」がありません。「軽さ」がつきまとい「言葉への信頼」が「ゆらい」でいます。従って『うそ(虚偽)』をつくことになんの「ためらい」もありません。総理大臣が平気で嘘をつきますし部下の官僚も上役を守るためなら平気で言葉を「ねじ曲げ」てしまいます。そういう我々もSNSで僅か40字という短文で会話をして何の不安も感じていないのですから同じようなものです。

 こんな「言葉」が流通している社会が正常なはずがありません。

 

 言葉に「信頼」があってはじめて人間同士つながれるものだとすれば『お金』もまったく同じです。わずか〈76cm×160cm〉の薄っぺらな「紙」に『一万円』という『価値』を流通させている力は『信頼』以外の何ものでもないのです。アルゼンチンのハイパーインフレのような事態がわが国に発生すれば一瞬にして「一万円札」は紙屑になってしまいます。それだのに我々は『紙幣=貨幣』にほとんど注意を払っていません、無邪気に信じて生活しています。約1100兆円という政府や公的な負債(借金)があっても平気に日常生活を送っています。

 これは『正常』なのでしょうか。

 

 明治以来日本国は三十年以上「平和」がつづいたことはなかったのですが戦後はもう七十五年以上「戦争」のない状態がつづいています。平穏な年月が長くつづくと言葉やお金は「普通のもの」になってしまって誰も注意しなくなってしまいますが、これまでの経験からそろそろ「異変」があっても不思議はないという『おそれ(懼れ)』を抱いてもおかしくないのです。

 そういう「用心」を告げるのが『老人』の役目なのではないでしょうか。

 

 

 

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