2021年3月8日月曜日

テレビが面白くない

  最初にオリンピックについて一言。誰も彼もが「アスリートファースト」と口にしますが一体何がアスリートファーストなのでしょうか?オリンピックに勝つことが『世界一』であってこそオリンピックの価値があると思うのですが、「2020東京オリンピックはコロナだったから」とのちのち東京の記録が特別視されて2020オリンピックで勝ったオリンピアンの名誉が貶められるようなことになるのであれば「アスリートファースト」にならないのではないでしょうか? 

 

 「もお寝やはるんですか。9時から『相棒』ですよ」「ええねん、最近面白ないねん」。びっくりする妻。そりゃぁそうだと思います、2000年に開始したシーズン1から再放送も含めて一回も見逃すことなく――生で見られないときは録画までして――見つづけてきた熱狂的ファンだったのですから。杉下右京の正義感と天才的な記憶力・知識量が特命係の主要武器となって難事件を解決する快感が人気の秘密だったのが、それを逸脱する複雑で大がかりなストーリーが主にになってくると古いファンは抵抗を覚えてしまうのです。まして組織防衛にはしる権力機構に正義感で抵抗する右京に拍手喝采を送っていたファンは組織と右京の間にある種のなれ合いのようなものが介在するに至ってはもはや『相棒』の原形を留めていないではないかと反旗を翻してしまうのです。そもそも「相棒」が地域交番からの叩き上げだった亀山薫(寺脇康文)から落ちこぼれエリートの神戸尊(及川光博)に変わり更に警察機構トップの反抗御曹司・甲斐亨(成宮寛貴)から元法務省のキャリアくずれの冠城亘(反町隆史)に至ってはもはやこれを警視庁の窓際部署の特命係と呼ぶことに違和感を感じずにいられません。これは妻の感覚ですが「花の里――行きつけの割烹居酒屋(今は店名が変わっていますが)」の女将が「玄人」っぽ過ぎるというのも相棒らしくないかも知れません。

 

 相棒に限らずドラマ全般に興味をひかれなくなって現在毎週観ているのは『朝顔(関テレ)』と『立花登青春手控え(NHK)』の二本になってしまいました。「朝顔」は大学の法医学部の監察医をしている朝顔が主人公で行政解剖から死因不明の事件を解決に導く推理ドラマの楽しみと東北大震災で被災死亡した朝顔の母親の死体捜索にまつわる人間模様がからまったドラマ構成になっています。もう一方の「立花登…」は江戸時代の小伝馬町に勤める若き牢医者立花登が主人公の時代劇ドラマ(原作藤沢周平)で、牢内の囚人と市井のつながりが事件解決の決め手になり登の練達した柔術の軽快な立ち回りが新鮮で、寄宿する叔父夫婦の一人娘との淡い恋模様、岡っ引きその他の人物像が丁寧に描かれていてしっかりとしたドラマに仕上がっています。この二本のドラマの好きなところは登場人物の誰もが「誠実」な「いい人」ばかりなところでなんとも優しい心持になります。ぎすぎすした今の時代に一ぷくの「清涼剤」と呼んでいいドラマなのです。

 もともとはラブ・コメディが好みだったのですが最近はとんと興味が湧かなくなって「齢ですね」と妻にちゃちゃを入れられる始末ですがセックスの興味と能力が減退している現状は紛れもなく「お齢」なのです。

 

 ドラマだけでなくお笑いも見るべきものが皆無の状態になっています。若いころ東京に勤めていたことがあって新宿の寄席、末広へ何度か行って東京落語にはまって以来お笑いが好きで、大阪漫才や吉本新喜劇もテレビを通じて長年ファンをつづけてきました。何が好きなのかを突き詰めていくと結局「名人・上手」の『藝』がたまらなかったのです。東京で見た志ん生や三木助(この人の「芝濱」は絶品でした)、ダイマルラケット、いとしこいし、やすしきよしの漫才は紛れもなく「名人芸」でしたし、ドギツイ演技と嫌う向きもありましたが昔の「吉本新喜劇」の役者たちは「上手」だったと思います。

 しかしさんま、たけし、鶴瓶やタモリがテレビで見せる「テレビ芸」は「名人・上手」という領域からほど遠いものです。彼らはもはやテレビ界の「重鎮」であってお笑い芸人とは言えず、とりわけ「素人いじり、芸人いじり」は嫌悪さえ覚えます(最初のころはそれはそれなりに面白かったのですが)。なぜそうなったかを考えると、お笑い界の「ヒエラルキー」が確立してしまって若手の『はみ出し』が許されない状況を呈しているからです。そもそもお笑いは「破綻」と「新奇」が根底のはずですから今の状況はお笑いにとっては決して望ましい状態ではありません。その最たるものが「M―1」でお笑い界最大のイベントになってこれに優勝することがお笑い界「成り上がり」の条件になっています。確かに若手の芸は年々向上して「うまい」連中がひしめいていますが、ちょっと引いてみると「うまい」けれど「味」が皆一緒のような気がします。さっきも言いましたがお笑いは「破綻」と「新奇」が真骨頂ですから毎年同じような顔ぶれの審査員が採点するM―1で優勝するためには彼らに評価される「芸」に近づける必要がありますからどうしても「画一化」は免れないのです。はじまって20年を超えた今はちょうどその歴史を閉じるタイミングなのかもしれません。

 最近の楽しみは「やすとものいたって真剣です(ABC)」と「球辞苑(BS3)」です。「やすとも…」はお笑い界のヒエラルキーを「やすとも」が取り外して若手芸人の本音を引き出す「真剣さ」、「球辞苑」はプロ野球をとにかくマニアックに深堀することで野球の楽しみ方を拡大してくれます。

 

 ネットでは以前からテレビは「オワコン(流行おくれの終わってしまったコンテンツ)」と決めつけられてきました。確かにテレビが最も面白かったのは佐藤栄作元総理が記者会見の席上で「テレビは出て行ってください」と絶叫したときだったでしょう。そういう意味では彼の甥御さんの安倍元首相が「私の意見を知りたい人は『読売』を読んで下さい」と国会で口走ったのが引導を渡すことになって新聞は終わってしまいました。しかしインターネットもすでに「オワコン」なのであって、「アラブの春」で最盛期を迎えたSNSもトランプの「国会議事堂襲撃誘導」で完全に挫折していることに若者は気づいているのでしょうか。SNSの影響力の大きさに盲目的に『没入』していた彼らは、このまま「批判力」を磨かずにSNS(インターネット)に身を委ねたまま盲進するならば必ず手ヒドイ「しっぺがえし」を受けることでしょう。

 

 独断ですが、現在の「メディア混迷」時代の解決は意外かもしれませんが「新聞の閲覧性」が切り札になるのではないかと考えています。「言葉」がここまで「劣化」してしまった状況は人間の歴史のなかでも「異常」事態です。かってこれほど言葉が粗末に扱われた時代はありません。かならず現状は『破綻』します。

 その被害が軽微で済むことを祈るばかりです。

 

 

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