2020年2月24日月曜日

すでに起こってしまった未来(4)

 ドラッカーの警句に従って「すでに起こってしまった未来」を掘り起こしているが、今度は目を世界に転じてみよう。
Ⅲ.世界の「すでに起こってしまった未来」
 昨年スペイン・マドリードで行われた国連気候変動枠組み条約第25回締約国会議(COP25)は2020始まる地球温暖化対策の国際枠組み「パリ協定」の下で削減を進めるための詳細ルールについて合意を形成することができなかった
 なぜ合意はならなかったのか。
 
 考えてみれば誰でもわかるように、百年前までは世界のほんの7カ国か10カ国が世界の生産量のほとんどすべてを生産していたわけでいま世界にあるほとんどの国はそれ以前の何百年と同じ農業を中心とした一次産業の成長段階に止まっていた。産業革命を「動力革命」ととらえるなら、当初は水力に代表される自然エネルギーを利用していたがそのうち効率の良い石炭や石油の化石燃料を利用するようになり飛躍的に生産性が向上したが、「地球温暖化」という視点からは「化石燃料」による悪影響の蓄積が徐々に地球大で考慮さるべき段階に至るようになる。戦後、それまで植民地であった多くの民族国家が主権国家として独立した結果世界経済のプレイヤーはG7からG20、そして今や世界中の国々がプレイヤーになってしまった。それは先進国の飛躍的な経済成長が資本主義のグローバル化をもたらし途上国がその体制下に組み込まれて世界がひとつの経済システムとして成立するに至ったことによる。ということは当然のことながら発展段階の異なった「多層な」国の集まりで今の世界が構成されていることを意味している。これを別の表現をすると、これまで化石燃料を好きなだけ使い放題で飛躍的な経済成長を遂げてきた国々と、これから成長していこう、先進国に追いついていこうとしている国が同居しているということになる。遅れてきた国と先頭きって先に進んできた国とが混じり合っているのが今の世界だということは誰にでも分かることだが、それ故にこそ国連気候変動枠組み条約(以下COPと略す)という仕組みの難しさがある。「℃目標」を世界各国同じ期間に達成する、という目標は不平等ではないか。先進国が10年で達成するなら途上国は20年いや30年後に達成するくらいのハンデはあって当然ではないか。先進国の進んだ技術で途上国を支援する方が目標達成には効率的だから、その技術援助は無償で行ってほしい、というわがままは許されるのか。5年で達成するという目標が先進国の援助でその倍達成できたら、余分の達成分は次の5年分に移し返えて化石燃料消費量をそれだけ増加させることが許される仕組みがあればいい、という考え方。その余分を先進国が買ってそれだけ自国の削減量を緩和できるような「市場」をつくりたい。様々な「わがまま」が噴出しているのが今の「COP」という仕組みなのだ。
 こうした「温暖化ガスの排出権」を『資源』として捉えると、世界で「すでに起こってしまった未来」が明らかになり、今の世界の見方が変わってくる。それについてこれから述べていこう。
 
(1)中国は富裕国になることは難しい
   ということと
   COP25の「温暖化ガスの排出権」問題の意味していること
 「中国は富裕国になることは難しい」などと書くと不謹慎だと思われるだろうが、これを事実として白日にさらすところからいま世界が直面している重大な問題点が浮上してくる。
 
 中国はこれまで驚異的な高度成長を達成してきた。2000年と2018年の名目GDP(国民総生産)の伸びを比較してみると1兆2149億ドル(世界の6位)から世界2位の13兆3680億ドル、11倍という高度成長を遂げている。このままいけば2030年ころにはアメリカを抜いて世界1位に躍り出るだろう。これを1人当たりのGDPでみてみると2000年958ドル(125位)から2018年9580ドル(70位)へ伸び、最貧国レベルから中所得国(1万ドル以上)にまで上昇したのだから国民の満足感はいや増しているに違いない。しかし世界の通説として「高所得国」は1人当たりGDPが2万ドル以上とされているから単純に考えれば今の2倍のGDPを達成しなければならないことになる。そのとき中国の名目GDPは26兆ドルになるから2018年の数字と置き換えると、アメリカのGDP20兆5800億ドルと合算すると46.58兆ドルになり世界のGDP84兆9300億ドルの54.85%を占めることになる。こんなことは可能だろうか。中国ばかりではない、インドもインドネシアもこれから世界で存在感を増してくるはずで、それぞれの国民は豊かな生活を求める権利を有しており世界中の貧しい国々も豊かな国に成長したいと願っているはずだ。
 インドの人口は2018年13億2417万人で中国の14億1141万人に次いで世界2位の人口を有しているがGDPは2兆718億ドル(世界の7位)、1人当りGDPは僅かに2,038ドルで世界の144位に留まっている。この大国インドが富裕国に成るためには今の10倍(27兆ドル)のGDPを要するから単純に合計すれば米中印の3国で73兆ドル、2018年世界のGDPの86%を占めてしまう。こんな偏ったGDP分布は絶対不可能だということは誰にでも分かる道理だ。
 
 これはどういうことを意味しているのか。
 世界に存在している資源は限られている。その限られた資源を世界の7カ国か8カ国で分け合っているうちは「自由競争」という原理は最適合理性を有していた。各国の需要量を満たすに十分な資源供給量が保証されていたから。しかし8カ国が20カ国に、50カ国にと増えるに従って需要と供給の均衡が崩れだし、「自由競争の原理」では資源の行き渡らない国が出てきたり、以前と比べて数倍する高値で買わなければならい状況が出てくる。卑近な例が魚(たとえばマグロ)だ。中国では魚を食う習慣がなかった、とくに内陸部ではその傾向が顕著だった。ところが生活が豊かになってくるとこれまで高級食材で高嶺の花だったものが一般庶民にも手が届く食材になって魚を食べる中国人がどんどん増えるようになってくる。その影響はスグ日本の食卓に表れマグロが高値になったりサンマが入手困難になったりするようになった。魚だけでなくあらゆる資源が今後「分捕り合戦」の様相を呈するにちがいない。
 「一つになってしまった」世界(市場)で「有限な資源」を配分するには「自由競争」という原理は不適当なのだということに我々は気づかなければならない。世界中の国々が自分勝手に豊かさを求めて自由競争を繰り広げることは不可能だということを、「温暖化ガスの排出権」という資源利用を巡ってCOP25で繰り広げられている先進国と途上国の間の合意形成できない現実が証明しているのだ。
 
 ではどうすればいいのか。
 そのまえにもう一つの「すでに起こってしまった未来」について語らねばならない。
 
 

2020年2月17日月曜日

老巧者

 「すでに起こってしまった未来」は今週は中休み。『部長の大晩年(城山三郎著)』から「老い巧者(おいこうしゃ)」の成り方を学んでみよう。
 
 この本の初読は六十才をすぎてスグの頃だったと思う。当時は彼の「壮快な老い方」に瞠目させられたが、再読して老いの愉しさとすばらしさを強く感じた。それは多分、自身が八十才近くなって老いを実感するようになり、でも健康で先行きに区切りがつかない宙ぶらりんな状態の中で何かに挑戦したいと思うようになって、その恰好の先達を見出した悦びなのだろう。
 
 本編の主人公、永田耕衣は1900年生まれで97才の長寿を享受した俳人で本名は軍二である。戦前の関西では有数の大工場を誇った高砂の三菱製紙に就職し製造部長まで勤め上げ実社会でも名を遂げた人だが、彼にとって仕事は「つまらんもの」だったらしく、自身が主宰した「琴座(リラざ)」などを活動拠点とした「俳人」としての活躍、また禅に深くかかわり書や画なども含めた芸術・趣味生活に人生の重きをおいた生き方をした人だった。だから、「いや、第二の人生という言葉も当てはまらない。退職後の人生のほうが長いだけでない。晩年まで一年一年、成長し開花し続けた耕衣。/それも、「人間、出会いは絶景」とし、「マルマル人間」たらんとする親しみやすい形での成長である。しかも、あの大震災にもひるまぬ芯の強さを保って」という評価になる。
 耕衣は趣味生活について「ものの味わいを吸いとって、これによって己が生活を豊富にする、深める、高める、且その事を楽しむという、命ある者の最も正しく普遍的な催しに外ならず」と考えていた。こうした考えと「出会いは絶景」という人との接し方だから、棟方志功や西東三鬼のような「マルマル人間」と親密な交際を重ね豊かな人生を歩んだ。「マルマル人間」を私なりに解釈すると、自分を表と裏、本音と建前につくらず、丸っぽの自分を曝けて生きている人、なのではないか。そんな彼が一度だけ自分を曲げたことがあった。戦前の大政翼賛会の時代、節を曲げずに生きると職さえも失う危機に見舞われ俳句の世界から一時身を引いた時である。時代に阿った俳句はつくらずサッと表舞台から退いた彼の胸中はどんなだっただろうか。
 
 さて彼の老いへの対し方だが七十才の時こんな風に云っている。
 「(七十才になったからといって)べつに大したことではない」(略)「大したことは、一身の晩年をいかに立体的に充実して生きつらぬくかということだけである。一切のムダを排除し、秀れた人物に接し、秀れた書をよみ、秀れた芸術を教えられ、かつ発見してゆく以外、充実の道はない」(略)人生への出場宣言とでもいった趣である。
 さらに長生きの秘訣をこんな言葉で語っている。
 「人生を弾ませ、長生を導くものこそ好奇心である。筋のいい好奇心を創造してゆきたい」(略)「文章を書くことも、自己の心身脱落(しんしんだつらく)の道である」と、すすめている。禅による自己救済と同じというニュアンスである。
 これらを総合してみると、晩年を設計する能力が必要で、いくつになっても好奇心を創造しつづけることで生きる力が継続されるようになる。人生にいったん区切りをつけて、諸々の関わりや欲望を整理して一切を晩年の充実に振り向ける。
 そんな生き方をつづけていると「欲深」になると耕衣はいう。「年をとると、生きている喜びが深くなる。深くなるというよりも、その歓びを深く求めるようになる。つまり欲が深くなる。精神的な欲がふかくなる。私にあっては、旅をすることでもなく、世間に存在を媚びることでもない。古人今人の秀れた文章を毛穴から読みとることである」。
 
 そんな彼でも九十才を超えると「死を怖れざりしはむかし老の春」という富安風生の句が気に懸かるようになる。しのびよる衰えがさすがの耕衣にも「ひるみ」をおぼえさせたのか。しかし「生物には『衰弱のエネルギー』というものがある」ともいっている。ただ衰えに隷従するのでなく、衰えに上手に馴れていくためにもエネルギーが必要だといっているのだろう。
 
 最近周りで「なんにもせんと毎日を過ごしていてええのやろか」と嘆く人が少なくない。そんな人には彼のこんな言葉をおくろう。「人間であるということが職業なんや。人間そのものの深化向上を切願する以外、何の手立てもありゃせんのや」(略)「人間死ぬまで成長変化すること。体中に情熱を燃え上がらせることや」、と。後半はなかなかむつかしいが、「人間であるということが職業なんや」という言葉は重要だ。人間を「生きる」と置き換えてもいい。ムダを省いて上手に生きる、だれでも「痛い」のはイヤだからそうならないように努力する。それだけで立派なもんだ。生きることを恥じることなど不要だ。
 
 最近「書斎」をもっていっぺんに生活が変わった。本を読むだけでなく中古のCD屋でクラシックとジャズのCDを買ってコンポで大音量で聞いたり、むかし画廊巡りして買った油絵を飾ったり、本棚の奥にホコリをかぶっていた硯と筆を取り出して「書」の真似ごとをしたり。居住空間を変えることで耕衣のいう「好奇心」が創造されたのだろうか。
 
 とにかく老いは愉しい。欲しいものはほとんど持っているし、結構な年金もいただいている。好きなことを好きな様にやって毎日をすごす。老巧者――永田耕衣という先達のあとをゆっくりと歩んでいこう。
 
 さて永田耕衣は俳人なのだから最後に彼のもっとも有名な句を書いてこの稿の筆を擱こう。
 コーヒ店永遠に在り秋の雨(耕衣)
 
 
 
 
 
 
 
 
 

2020年2月10日月曜日

すでに起こってしまった未来(3)

 ドラッカーの教えに従って「すでに起こってしまった未来」を見出して「日本経済の低迷」はなぜ長引いているのかを考えている。ひとつは「利子所得の消滅が消費を冷え込ませている」のではないかと考えた。次はGDPのもうひとつの構成要素「投資」の低迷原因を考えてみる。
 「信用創造の収縮」が投資の減少をもたらし日本経済を低迷させている
 2018年度の内部留保(利益剰余金)は463兆円を超えた。バブル崩壊後、特にリーマンショックを経た後の企業の投資活動は借入金に頼るのではなく内部留保を取り崩して自己資金の範囲内で行う健全経営に移行している。これは金融正常化のために不良債権処理を劇的に行った銀行の貸しはがしなどを経験した企業の防衛姿勢の表れとも言える。
 しかし別角度から見てみると、自己資金で行う投資は最大限内部留保と同額しか行えないことを意味している。戦後日本経済が急激な回復を果たしたのは間接金融による「信用創造」に負うところが大であった。信用創造がどれほどできるかをBIS(国際決済銀行)の自己資本比率8%を最大準備率として考えると自己資金の10倍から12倍まで「信用創造」(貸出)できることになる。内部留保に頼る投資(や創業資金)は内部留保と同額しか行えないのに対して銀行の融資(企業にとっては借金)が利用されると原資の10倍以上の投資や創業が行われる可能性があるのだ。
 京都には「京都企業」と呼ばれる一群の会社がある。京セラ、村田製作所、オムロンなどだがこれらの企業は戦後地元の金融機関の支援を受けて発展(創業)してきた。社内留保で投資する企業は既存企業であって、今から創業しようとしている「起業家」や長年低迷してきた中小企業がやっと作り出した成長の種子(新発見や発明)を育て上げようとするときには内部留保という「資金力」はない。「失われた20年」の間にも京セラや村田製作所になったかもしれない「成長の種子」――新規創業を目指す企業は少なからずあったにちがいない。また中小企業が心血を注いで研究開発した発明や発見の「種子」はそれ以上に多かったかもしれない。しかし資金力不足からそれを成長に結び付けることができず口惜しい思いをした会社はどれほどあっただろうか。メガバンクではなく地方の金融機関がそういう「目利き力」をノウハウとして持っていたとしても、「ゼロ金利」政策の下では5%も6%もの「高利」は取れるはずもないから、挑戦する企業にリスクを取って応えられずにきた地銀や信用金庫はすくなくないはずだ。そんな積み重ねの20年の結果、銀行の「信用創造」は収縮の一途をたどってきたのだ。
 政府は成長戦略として「地方創生」を称えてきた。安倍政権も2014年に「まち・ひと・しごと創生総合戦略」を策定して東京一局集中を是正しようとした。しかしいくら中央が主導して地方の活性化を図ろうとしても地方に根を下した地元企業(と産業)が興らなければ実現するはずがない。活性化のための成長の種子は芽生えているのに資金がないから埋もれている地方の企業を見出せるのは中央官庁の指導の下にある地方公共団体の出先機関ではない、長年地元で企業(と産業)を見てきた「目利き力」のある地方の金融機関なのだ。
 政府はゼロ金利下で「稼ぐ力」を失い疲弊する地方金融機関を見捨てて多くの官民ファンドを設立した。
平成29年12月に発表された「官民ファンドの運営にかかわるガイドラインによる検証報告(第8回)」によると13ファンド、総資金量約4兆円(政府、民間からの出資金1兆662億円、政府保証2兆9694億円)となっている。主だったものを挙げてみると㈱産業革新機構、独立行政法人・中小企業基盤整備機構、㈱地域経済活性化支援機構など産業別、産業技術別に網羅的にファンドが設定されている。なかには地域低炭素投資促進ファンド事業―別称グリーンファイナンス推進機構、などというものもラインアップされていて、いかにも「お役所仕事」的抜かりなさがうかがえる。しかしこれだけ多数のファンドがあり、その間の連携も錯綜して利用者の立場からは混乱もきたしているのだろう、「官民ファンド総括アドバイザリー委員会」などと称するものまで設けられている。しかしこれだけ網羅的に、多量の資金を用意して設立された官民ファンドだがこれといった目立った実績の報告はいまだ伝わっていない。
 それは当然のことで、利用者の立場からすれば「敷居が高く」「実施が遅い」大きすぎる組織なのだ。地元金融機関のように付き合いもなく、持ち込む案件の理解力にも欠け、三ヶ月か四ヶ月で結果が欲しいのに半年、いや一年近く待たされることもある、大きすぎる組織では使い勝手が悪すぎる。もしこれだけの資金が地元金融機関にあれば、大体一府県に一千億円の資金量があれば、五年もあれば相当な実績があったに違いない。
 お金は経済社会の血液に例えられる。銀行は企業国・自治体などにお金という血液を送り込む心臓のような存在だといえる。「ゼロ金利政策」で地方金融機関の息の根を止めておいて統合だ、業務停止だと締め上げる中央官庁の『不定見』な行政は、金融の中央集権化を行い乱立する中小銀行の整理を行って金融の合理化を進めようとしているように思える。しかしそれは誤りだ。金融ほど「中央集権」に馴染まない機能はないのではないか。人体に「毛細血管」があるように国の隅々にまで細かく張り巡らされた地域金融機関網があってこそ、第二の「京セラ」や「オムロン」の生まれる可能性があるのだ。
 地方経済の活性化は地方金融の活性化と両輪でなければ達成できない。いま政府が行おうとしている政府と中央官庁が主導して、地方金融を切り捨てた施策では地方創生は絶対に達成不可能である。
 
 地方のことは地方に、それは金融を含めたことなのだということを為政者は全く気づいていない。
 
 

2020年2月3日月曜日

すでに起こってしまった未来(2)

 経営学者ピーター・ドラッカーの「未来のことは予測できないけれども、すでに起こってしまった未来は見つけることはできる」という警告に従って、日本ですでに起こってしまった未来を見つける作業をつづけている。今週は何故日本経済は成長できないのかについて考えてみた。
Ⅱ. 日本経済の低成長の原因
 日本経済の低成長がもう30年近く続いている(1991年~2018年の平均成長率は1.0%に低迷している)。
アベノミクス(2012年12月)は「大胆な金融政策」「機動的な財政政策」「投資を喚起する成長戦略」の三本の矢を放ったがいまだにデフレ脱却すら果たしていない。いくつかの経済研究所も大学の教授たちもデフレ脱却、成長政策を模索したがこれという決め手がないまま「IR(統合型リゾート)」というバクチ場をこの狭い国土に3つも4つも造るというもっとも愚策を成長戦略の中心に据えてしまった。せいぜい2、3兆円の波及効果しかないこの政策で年間550兆円以上ある日本経済の成長戦略と呼んで平然としている政策担当者の神経が知れない。
 そこで浅学菲才を顧みず私の「日本経済低成長の原因」を明らかにしてみたい。
 信用創造の急激な収縮家計の利子所得の消滅、これが日本経済低成長の最大の原因だと考ている。企業投資不振の原因は金融機関の信用創造が機能していないこと、家計の消費が振るわないのは銀行や郵便局から得ていた「利子所得」がゼロになってしまったこと、GDPの二大構成要素の「投資」と「消費」がこれによって低迷していることから日本経済の成長が停滞している、これが私の考えである。
 
(1)家計の利子所得の消滅が消費を低迷させている
 
 簡単な方から述べてみよう。30年前、銀行に100万円預けておけば10年経ったら200万円になっていた。だから安心してバンバン欲しいものを買うことができた。大体一般のサラリーマン家庭は給料(残業代を含めた月給)で生活費を賄ってボーナスと銀行の利息で大きな買い物をした。最大の買い物は家だが自動車も家電も旅行も余所(よそ)行きの豪華なファッションもボーナスと利子所得をアテにして買っていた。それが2008年のリーマンショックを期にアメリカに倣ってゼロ金利政策が導入されて以降銀行預金、郵便貯金の利息は実質ゼロに張り付いたまま今日に至っている。もし利息がゼロになる前のままだったらどれほどの利息収入があったか、これを「逸失利益」というがある研究者(立命館大学高橋伸彰教授)の試算によれば、バブル崩壊後の1992年から2015年までの逸失利益は600兆円を超えるとしている。ざっと25兆円の収入が毎年失われてきた計算になる。2017年の雇用者報酬の総額が約260兆円だから1割近い収入が減ったことを意味している。消費者心理を考えてみれば今の収入より将来の安定(10年先にどれほど安定した収入が保証されているか)が購買意欲に大きな影響があることが分かるだろう。銀行利子がゼロとなれば頼りは給料しかないが、近年労働分配率は長期低迷傾向にあり特に大企業では60%近くにまで低下している。
 結局現在の日本のサラリーマンは月給ボーナスはあまり上がらない、銀行利子はゼロ、おまけに雇用は不安定、こんな状況に置かれていては消費が大きく伸びる可能性などほとんど考えられない。こうした傾向は1人当たりGDPの推移からも明らかで2000年38,500ドルの世界2位から2018年39,300ドルで26位にまで低下している。
 確かに企業の経営者の立場からすれば固定費である人件費は経営の足かせになるから給料は低く抑えたい、正規社員は少ない方が望ましいだろう。しかし国全体で考えてみれば雇用者報酬の低下となって消費に悪影響が出るであろうことは想像できるはずで、これはいわゆる経済学者の好きな「合成の誤謬」そのものだ。そもそも企業のレゾンデートル(存在理由)は成熟した資本主義のもとでは「雇用」の保証にあるのではないか。アメリカの中央銀行FRBが「物価の安定と雇用の最大化」を目的としているのがそれを裏づけている。バブル崩壊から30年、そろそろ日本の経営者も縮こまった「アニマルスピリット」のない経営姿勢から抜け出して挑戦的な経営方針に転換すべき時期に至っているのではなかろうか。大体日本では無借金経営が優良企業の証であるとするが、技術革新をするわけでもなく人件費を削って内部留保の蓄積に努めるだけなど経営者として失格だという外国の識者が少なくないことを知るべきであろう。
2020.2.03
経済政治 1875文字
737/527 市村 清英)