2019年12月21日土曜日

わたしの有馬記念2019

 アーモンドアイの参戦で俄然有馬記念が盛り上がってきた。香港カップ(12月8日2000m)を微熱と体調不良で回避、急遽有馬記念の出走に切り替えてくれた。「最強馬」の出走で、勝っても負けても気持ちよく、楽しい年末競馬で新年を迎えられることは喜ばしい限りである。
 そこで競馬人生の全記憶をふり絞って「わたしの有馬記念2019」を書いてみよう。
 
 近年の有馬記念はJC(ジャパンカップ)を抜きにして語れない。ここ10年を振り返ってみても、天皇賞出走馬が2頭、エリザベス女王杯2頭、凱旋門賞2頭、金鯱賞2頭、アルゼンチン共和国杯、中日新聞杯各1頭の馬券がらみに比べて菊花賞の6頭は抜けているがJCはそんなものじゃない、圧倒的に優勢を誇っている。13頭が馬券対象になっているだけでなく、他レースが優勝馬優勢(除凱旋門賞、エリザベス女王杯)であるのにJCは優勝馬はたったの2頭で3、4着馬が多く8着11着馬も好走している。これだけの好相性を示せば「有馬はJCをはずして馬券は取れない」という鉄則が流布するのも当然だろう。
 だが今年のJCは史上「最弱」のメンバーだった。初めて外国馬の参加がなく3才クラッシク馬は1頭も出走せず春秋の天皇賞馬、宝塚記念優勝馬も不出走で唯一の今年のGⅠ勝馬がアルアイン(大阪杯)だけという低レベルのJCだった。勝ったスワーブリチャードにケチをつける気はないがそんなこともあって今年のJC出走馬の有馬参戦はわずか4頭にすぎない。今年もJC出走馬が馬券対象に食い込んでくるかの判断は悩みどころである。
 
 もうひとつ有馬記念には特徴がある。2500mという距離だ。大体競馬の競争体系は400mの倍数で構成されている。1200m、1600m、2000m、2400m、3200mという体系の中でこれをはみ出しているGⅠは菊花賞3000m、エリザベス女王杯の2200mと宝塚記念2200mと2500mの有馬記念しかない。ふたつのファン投票レースが400m倍数体系の「らち外」に設定されているのは日本中央競馬会の深慮だろうか?この2200mと2500mという距離には血統的な適性不適性があるとされているが専門知識がないので詳細は省くが、暮れの中山競馬場という事情も手伝ってこのレースには一筋縄でいかない秘密が潜んでいる。だから有馬記念は信じられない決着に終わることが少なくない。
 
 その象徴的なレースが1973年の第18回有馬記念だ。このレースには怪物ハイセイコーが出走して断然の1番人気、2番人気がタニノチカラ、3番人気はベルワイドが占め4番人気のイチフジイサミの4頭で「鉄板」と思われていた。したがって出走頭数もわずかに11頭で1977年の有馬記念、テンポイント、トウショウボーイ、グリーングラスの最強3頭で決着したときの8頭に次ぐ少頭数になった。単勝人気も上位4頭で75%を占める異常な人気の偏りで、ちなみに優勝したストロングエイトの単勝は10人気で4200円支持率1.8%だった。ハイセイコーは別格として、タニノチカラは天皇賞秋の優勝馬で翌年の有馬記念を制した名馬、ベルワイドは1972年天皇賞春の優勝馬、イチフジイサミも1975年春の天皇賞馬になっている。
 これだけの材料があれば1~4番人気で断然ムードになるのも当然で、実際実力もこの4頭がズバ抜けていたと今でも思う。ところが勝ったのは11頭立て10人気のストロングエイト、2着馬が7人気のニットウチドリになったのだ。(勝ち馬ストロングエイトはこの時点では重賞未勝利――のちに鳴尾記念勝ち、タケホープの勝った天皇賞春ではハイセイコーに先着2着に好走している――だったがニットウチドリは桜花賞優勝、オークス2着、ビクトリアカップ(現在の秋華賞)1着の名牝である。
 
 なぜハイセイコーが負けたのか?ここに「『大穴』レースの法則」が働いていた。「人気薄の逃げ馬」、これだ。人気が差し、追い込み馬に集中して逃げ、先行馬が人気薄で少頭数の場合、ノーマークになって逃げ切ってしまい人気馬が3着以下に沈んでしまう、こんなレースがどれほどあったことか!特に大レースにそれが多かった(ように記憶している)。まさにハイセイコーもこの魔術にひっかかった。先行2頭のうしろでハイセイコー、タニノチカラ、ベルワイドが互いに牽制しあい、動くに動けず膠着状態に陥り直線を向いて追い込んだが間に合わずハイセイコーは3着に沈んで大波乱――三連単のなかった時代には珍しい枠連13,300円の大穴馬券になった。
 レースは快速馬キシュウローレルの2番手で桜花賞、オークスを好走したニットウチドリが意表をついて逃げ戦法に出、ストロングエイトは勝ちパターンの2番手追走で淡々とレースが進みそのまま、という決着だった。
 
 今年の有馬記念に波乱はあるのか。アーモンドアイが一本かぶりの1番人気になるのは確実で2番人気のリスグラシューとの断然の2強対決になる可能性が高い。「大波乱」はこんなときにこそ起こる。
 このレースにはアエロリット、キセキ、クロコスミアの3頭の逃げ馬がいる。人気薄のクロコスミアが逃げて2、3番手に折り合いをつけてキセキとアエロリットが先行する。淡々とレースが進み先行集団と後続の差が10馬身ほどになる(かもしれない)。アエロリットは距離に疑問があるので勝負どころの3コーナーあたりからクロコとキセキが抜け出して4コーナーを回る。直線で後続のアーモンドアイ、リスグラシュー、ワールドプレミア、フィエールマンが追い込む展開になって、もし届かなければ波乱になる。ただ大胆騎乗の外人騎手が増えた今年の有馬記念でこれまでのような好位での「膠着状態」があるのかどうか?悩ましいところである。
 
 さてここからが「わたしの有馬記念2019」になる(したがって「予想」ではないことをお断りしておく)。今年はJC出走馬の連がらみはないと決めつける(エタリ7、シュバル9、スワーヴ1、レイデオロ11)。アーモンドは出走過程に若干の懸念がある?リスグラは春と秋に海外遠征をしたことで目に見えない疲労が残っていないか?本来なら3才牡馬最強と評価している菊花賞勝馬だが今年はここ10年で不良だったキセキ、エピファネイアのときを除いて勝ち時計が3秒以上遅く昨年のフィエールマンと同じ3分6秒台だったからレベル的に劣っていたと断定する(ヴェロックス3、ワールド1、フィエール)。
 ということは1973年の再現の可能性に賭ける価値がある、という結論になる。まだ枠順の決まっていない段階で結論を出すのは拙速だが(この10年で12番枠より外枠が馬券にからんだのは3回だけで15番から外はすべて4着以下、1、2着に限っても同じ傾向で3頭しかない)1、2着をキセキとクロコで固定、3着にアーモンド、リスグラという大胆な推理をするか、4頭ボックスにするか?キセキとクロコの単勝と複勝に妙味があるかもしれない。(他馬では中山に変わってサートゥルナーリアが恐いが……?)
 
 (追記)枠順が決まって逃げ馬で唯一内枠に入ったスティッフェリアをクロコスミア(逃げ馬に12番枠はツライ!)と入れ替えて、馬券はサートゥルナーリアを加えた5頭の3連複にする。格下だがスティッフェリアが粘っておいしい配当になることを期待しよう。
 
 以上「わたしの有馬記念2019」である、結果や如何に?
(どなた様もよいお年を)
 
  
 
 
 
 
 
 
 
 

2019年12月16日月曜日

文字、言葉、顔

 遠い親戚の三回忌の法事があった。夫を亡くした妻になる私にとって姉のようなひとの余りの変わりように胸を打たれた。葬儀からまだ二年になるかならないかなのにすっかり老いていた。足元が覚束なくなっていて軽い認知症の気配も感じられた。彼女は私の祖母の兄弟の養女で占領時代の朝鮮から引き揚げてきて戦後の何年か我が家に寄宿したことがありたまたま年齢が4才しかはなれていないこともあって姉のように可愛がってくれた。賢く控え目な彼女の結婚した男性が学校の先生で、努力して大学教授になったと聞いた時には我がことのようにうれしかった。しかし私が彼を本当に尊敬したのは晩年の彼で、著作を精力的に出版したことは羨ましかったが、テニスに打ち込んだり、もともと嫌いでなかった絵画に65才ころから本格的(油絵)に取り組んでその腕前の進歩が驚くほどはやくまたたくうちに賞を取るほどになった。具象で泰西名画的な画風が私の趣味に合っていたのかもしれないが好きな絵だった。おととしの晩秋に同人の展覧会があって久しぶりに再会して、教え子に囲まれながら談笑する彼の姿に「教師稼業」のすばらしさをみて改めて羨望を感じた。それから二ケ月もたたない、年も押し詰まった寒い日に彼の急逝を知った。
 われわれの知っている表の顔とは別に亭主関白の頑固親父だったようで家族は大変だったことが明かされたがそれでも彼に対する敬慕の気持ちはかわらなかった。それは彼女も同じで散々てこずらせた厄介な存在だったのに、その手のかかる存在が居なくなってぽっかりと心に穴が空いたようになって、しかも都心から離れた郊外の新興住宅地の家にひとり住まいになって、月に何回かは娘が世話をしに来てくれるものの足が不自由になったこともあって出歩くこともなく、姉妹兄弟のいない彼女が女性特有の日常のたわいもないおしゃべりを交わす相手に事欠いて……。
 ひとり暮らしになって、電話やメールで話すことはあっても、人の顔を見て話すことがなくなると「意味」だけが遊離して「肉体化」された「ことば」でなくなって、肉体と意識の統一体として自己の存在が「あやふや」になっていってしまうのではなかろうか……。そうでないとあれだけ賢く凛としていた彼女が短時日でこれほど老いさらばえるはずがない、たとえ足が不自由になったとしても……。
 
 流行のSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービスに「あやうさ」を感じるのもそこにある。SNSは「文字」によるやり取り――コミュニケーションだ(写真や動画を添付するものもあるが今はそれは言わないことにする)。人間のコミュニケーションは《文字←言葉←顔(体と身振り手振り)》の順で幅が狭まってくる。文字は人間のコミュニケーション総体の十分の一もない小さな部分しか担っていない「不確か」なツールに過ぎない。齢を取って老眼が進んで遠くのものの判別が覚束なくなっても人混みのはるか向こうにいる妻の見分けがつくのは、すがた形のぼんやりとした「たたずまい」で判断しているからだ。赤ちゃんは泣くことでしか自分の感情や欲求を訴えることができないがそれでも母親や周りのおとなが理解できるのは泣き声の大きさやトーンで空腹、オシッコ濡れの不快感などを判断できるからで、そのうちあっあっえっえっあうーおぉーなどの母音の連なりで感情と発声法を学習すると「喃語」――意味のない声で言葉のようなものに到達し、やがて親の言葉をまねて赤ちゃん言葉を覚えるようになり5歳ころには一応「言語」というものを習得する。言葉の発達は年齢とともに急速に進行し、文字の学習がはじまりレベルアップするに連れて文字から言葉を覚えるという経験もする。特に「概念」に関する言葉は文字と音声としてのことばの習得段階が逆になることもある。
 
 感情のすべてを言葉だけで表現することは少なく、身振り手振りと合わせないと相手に正確に、強く訴えることはできない。また多様な感情を表現するには習得している言語の数では間に合わないことも経験する。子供が癇癪(かんしゃく)を起こして「ダダをこねる」状態はその例の一つだし、ヒステリー状態や最近頻繁に見受けられるようになったおとなの「キレる」のも感情に言葉が追い付いていない状態と言っていいだろう。「概念操作」は習得している言葉数、活用例の多少によって、伝達しようとする「概念」にぴったり当てはまる言葉を見つけられるかどうかが左右されるしどうしても既存の言葉で「概念」が表現できないという場合は「新語」を作ることになる。
 感情も意思も概念も言葉だけで表現することは相当困難な作業であり、ましてそれを「文字」で表すことは至難の技である。ベタな例だがラブレターを書いて翌日見直して恥ずかしい経験をした人はゴマンといるはずだ。卒論を書こうとして、論点のまとめを計画してそれを表現する言葉の選択に四苦八苦した経験は鮮明に残っている。
 感情も意思も概念もそれを言葉にすることさえ困難な作業であるのだから、それを文字化することの困難なことは冷静に考えてみれば誰でも納得できるはずだ。
 そんな不完全な「つぶやき」に「いいね!」を平気で打つことの無責任さをだれも言い出さないことに不安と危うさを感じていたが、最近その「いいね!」の数を把握できないようにする動きが出てきた。書き込みをする人は閲覧回数と「いいね!」の数を指標に自分の評価を確認し投稿の方向性を操作してアフィリエイト(ネット上の広告収入)を期待している。今や「ユーチューバー」なるものが「職業」として若者のあこがれの職業になっているらしいが放置しておいていいのか。
 コミュニケーションのほんの僅かな機能を担うだけの不完全な「文字」という記号で成立しているSNSをなんの「社会的干渉」もなく「野放し」にしておくことに危険を感じている。
 
 フィクションとノンフィクションという言葉の成り立ちをどう考えるか。フィクション――つくりごとがまずあってノンフィクション――史実や記録に基づいた事実がつづいたにちがいない。ということは文字で書かれたものではなく言葉で言い伝えられてきたもの――言葉というあやふやなものの方が文字で書かれた「事実」よりも最初にあったし「文字」よりも真実に近い――多くの情報量を含んでいるから多様な判断を下す「可能性」がある、ということではないのか。
 
 原子力発電が人類最大の失敗であったようにSNS21世紀のそう遠くないうちに人類に最大の災厄をもたらした「過誤」として後悔する日が来るのではないかとおそれている
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

2019年12月9日月曜日

令和の大変革

 と言っても、日本国であったり世界のそれではなく「私ごと」の「大変化」のことである。ちょうど喜寿(12月2日が誕生日)の年に当たった令和元年――2019年は、振り返ってみれば生活の多方面にわたって信じられないほどの変化があった。
  
 来年早々にwindows7がサポート終了になるから10に切り替える必要があり、また携帯が耐用期限に達したようでコンデンサの保ちがいちじるしく短くなってきたのでスマホに乗り換えようと考えていて、そのふたつの時期がたまたま10月末から11月に重なって、消費税が10月から10%に増税になってキャッシュレス決済のポイント還元制度に対応するためにこれまでほとんど使ったことのなかったクレジットカードを盛んに利用するようになってそのカードがAU系のカードだったので他社のスマホに乗り換えたせいでそれまで請求額が自動的に携帯に通知されていたのがこなくなって、AUに問い合わせると仮IDナンバーとパスワードで専用サイトにログインして請求額と明細を確認しなければならないことが分かり……。80才手前で電子メディア環境が一挙に変化してどれもこれも不慣れでなかなか習熟できず混乱を極めているなかで、カードの請求書まで専用サイトで確認しなければならず簡単にログインできるかどうか「不安」になって、生活基盤が一挙に不安定な状況に追い込まれたように感じて、異常な不安な感情に全身が固まってしまって「パニック」に陥ってしまった。妻には気取られぬように振舞っていた積りが何でもないつまらないことで「これどうしましょう」と訊ねられて思わず「自分でやってくれよ!」とわめいてしまった。妻はけげんな顔をして去っていったが残された自分に、なんと無様な…、と自己嫌悪におそわれた。
 70才代のスマホ普及率がガラケーを超えたとはいえまだ50%以下であり、PCのwindows10への切り替えはスマホが普及するのに伴ってPCばなれが多くなり、高齢者のPCは10年以上古いタイプが多く10に対応するにはメモリー不足になって切り替えがスムースにゆかないことがしばしばだということもあって専門店にまかせた。もちろんスマホははじめてだから携帯とはまるっきり勝手が違い1ケ月ほどたってようやくおさまりがつくようになってきて何とか環境に馴染める可能性を感じるようになった。
 今の社会で電子メディアがいかに生活に組み込まれているか、年寄りには厳しい状況だ。
 
 もうひとつの大変化は娘の結婚だった。今年はじめ友人の紹介で交際を始めたのがウマが合ったのか六月末には両家の紹介までになり十月末に結婚する急展開だった。四十才を前にしてまったくその気配がなかったからひょっとしたら……と気持ちを固めていたほどだったからまさにあれよあれよという成り行きだった。それだけに嬉しさと安心感は格別で、まわりから「花嫁の父」感を盛んにあおられたがまったくそれはなくひたすら祝福するだけだった。だいたいがそうしう性情なようで、大学の追い出しコンパで他の同期の連中が涙顔で別れを惜しんでいた中で私ひとりがニコニコ嬉しさにはちきれて、「市村さん、わたしらと別れることさみしないの!」と女性後輩たちのヒンシュクを買った。社会人になること、それも東京で広告会社に入ってコピーライターになることが嬉しくて――実際はコピーライターでなく管理部門に配属されたのだが――希望に満ちていたから別れの寂しさを喜びが凌駕していたというのが実情で。娘の結婚も娘の幸せばかりが喜こばしくて、夫さんも小柄だけれども健康そうで相手を思いやる気持ちが感じられてふたりでいい家庭を作ってくれそうなので心配するところがほとんどなく、娘はわたしとちがって堅実な生活感覚を持っているから安心していられるから彼と仲良く賢く生きていってくれるにちがいないと思っているから……、心配することがほとんどなくそれに今はスマホもPCもあって、LINEになれればいつでも会話できるわけで、いわゆる「別離感」は薄く、新居も阪急で十分ほどのところだしいつでも行き来できるから……。私も妻も子どもべったりというところがなかったのも幸いしたのかもしれない。
 
 それより妻との二人暮らしの方が「変化感」十分だった。娘が使っていた洋間への移りを妻も娘も頑強に薦めるので仕方なく同意して布団からベッドに変えて、五十年以上使い込んだ座り机を廃棄して洋机とこれも五十年以上愛用のロッキングチェアで書斎を設えた。小型テレビと年代物のラジカセ以外には本箱しかない殺風景な書斎はドアで仕切られているので独立性が保たれておまけに集合住宅の昼間は隣近所の住人は不在なのでラジカセの音量をビンビンに高めても苦情が来ないことを知ってCDで音楽を堪能している。最近股関節に不調を覚えていたのが椅子に変わってそれも解決、朝昼三時間づつ読書が楽しめて俄然「知的好奇心」が高揚してきた。フィジカル面のケアを怠らなければあと五年や十年は生活をエンジョイできそうだ。ただドアを閉ざして個人的生活を満喫しているので妻の相手をしてやれないので申し訳ないと思っていたら同年配の女性に、奥さんも自分の生活が確保できるからかえっていいのじゃないといわれて、そういえば天皇陛下と皇后陛下が京都に来られた時にひとりで駅までお見送りに行って日の丸を持って帰ってきて満足気であったから、バスに乗ってイオンモールへバーゲンをひやかしに行ったり、なるほど生活をエンジョしているふうだからウインウインなのかもしれない。ふたりとも今のところ健康に不安はないから子どもたちに面倒をかけないで後期高齢期を満喫できそうだ。
 
 喜寿のお祝いに娘たちと家族旅行も楽しめて――そのころは結婚のケの字もなかったから家族の紐帯を感じられたしそろそろ娘たちも社会人として一本立ちできた時期だったからおとな同士の関係を意識しながらの旅だったから今から思うと貴重な時間だった。
 
 多事多難の喜寿の年の締めくくりは「免許返納」になった。運転技術は今が一番旨いように感じているが雨模様の夕方にゴルフ練習場の側溝に雨ガッパ姿の黒っぽい恰好の作業員を発見できずにスレスレに通り過ぎてから気づいてヒヤッとしたなど結構ヤバイことを繰り返していたから、とにかく咄嗟の非通常事態への反応にパニクルことが多かったから「しおどき」だと思う。確かに「一時代の終焉」を圧しつけられるようにも感じるけれども時間だけはいくらでもあるのだからゆっくり公共交通で移動することに慣れるようにしよう。
 
 いよいよ「隠居生活」だ、しかし今どきの『隠居』ってどんな振る舞いをすればいいのだろう。
 
 
 
 
 
 
 
 

2019年12月2日月曜日

競馬必勝法

 「競馬は人生の縮図だ」などということを書こうとしているわけではない。五十何年競馬をやってきてやっと勝てないという諦念に至って、そのせいか競馬が少し分かったつもりになって「法則」めいたものが幾つか発見できた、それを書いてみたい。
 その一、「勝つ奴(馬)と勝てない奴(馬)がいる」。
 その二、「一流と二流の差」。 
 その三、「GⅠを連勝することはむつかしい」。
 その四、「ステップ・レースの重要性」。
 
 必勝法その一。今年の菊花賞は皐月賞馬サートゥルナーリア天皇賞(秋)へ日本ダービー馬ロジャーバローズは故障により引退と、春のクラシックホースが不在になって1番人気に支持されたのは皐月賞2着・日本ダービー3着と惜敗に終わったヴェロックスだった。単勝2.2倍は2人気ニシノデイジーの6.0倍に比べて圧倒的な人気になっている。皐月賞(2000米)はアタマ差、ダービー(2400米)は2馬身半差で神戸新聞杯(2400米)もサートゥルナーリアの3馬身差の2着に終わっている。2000米でアタマ差だったのが2400米のダービーと神戸新聞杯では2馬身半、3馬身差と完敗しているのに負けた2頭が抜けたからといって3000米の菊花賞で優勝できるほど競馬は簡単なものではない。
 勝負事は「勝つ奴」と「勝てない奴」の差は決定的だ。この1番人気は危うい!、ヴェロックスは勝てない奴(馬)ではないのか?直観だった。
 結果は武豊騎乗のワールドプレミアが勝って平成の菊花賞男が令和でも戴冠した。ヴェロックスは辛うじて3着で面目を保った。しかし勝てなかった、やっぱり「勝てない奴」だったのか?
 
 その二。2019ジャパンカップの出走予定馬を見て「史上最弱のジャパンカップ!」と思った。外国産馬が一頭も出走しないだけでなく天皇賞馬フィーエールマン(春)、アーモンドアイ(秋)、宝塚記念のリスグラシューもダービー馬も出走しない、要するに今年の最強馬と目される馬が一頭も出走しないのだからドングリの背比べのジャパンカップという印象が強く残った。これなら絶好の1枠に入った3歳牝馬カレンブーケドールで十分に勝負になる、そう確信した。とにかく3歳牝馬は負担重量が53kgで4キロ恩恵があることもあって4歳牝馬(55kg)ともどもジャパンカップでは牝馬の活躍が顕著なレースなのだ。問題は優勝できるかどうかだ。1枠1番はこのところ3年連続優勝馬が出ているラッキー枠。力関係からも枠順からも1枠1番3歳牝馬カレンブーケドールの優勝確率は限りなく100%に近い。しかしどうしても強気になれない、それは騎手の津村明秀にある。1986年生まれ、15年目の中堅だがいまだにGⅢクラス―ーそれも地方場所の重賞レースの勝鞍がほとんどだ、今年は世界中の超一流騎手7名と国内の名だたる騎手が騎乗している、余りにも見劣りする。
 レースは予想通りインの経済コースの4、5番手をじっと我慢して津村はレースを進めている。このまま、このまま。4コーナーを回って直線を向く、「あっ!?」、なんでや?なんで外へ行く!津村は先頭を走るダイワギャクニーの外にカレンを導いた。その瞬間、じっとカレンをマークしていたスワーヴリチャードのマーフィーが内に潜り込んだ。戦前のリポートで最内1頭分は芝の具合がいいと報告していた。直線を向いてあと300m、徐々に進出したリチャードはあと100mの地点で力強く抜け出しカレンに4分の3馬身差をつけていた。
 なぜ内を開けたのか、内らちギリギリに潜り込むのは勇気のいる決断だ、しかしその勇気の有る、無しの差が「一流と二流の差」、マーフィーと津村の差だ。しかしこの差は絶望的に隔たっている。 
 
 その三。GⅠレースは年間26レース組まれていてそのうち障害とダートのレースがそれぞれ2レース、2歳3歳限定レースが10レース、3歳以上牝馬限定が2レースあるから古馬牡馬(4歳以上の牡馬)が出走できるレースは10レースに限られている。短距離と中長距離で分類すると春・秋冬とも短距離(1200m、1600m)レースが2レースづつあるから中長距離のGⅠレースは春・秋冬とも3レースづつ、春は大阪杯2000m、天皇賞(春)3200m、宝塚記念2200m、秋冬は天皇賞(秋)2000m、ジャパンカップ2400m、有馬記念2500mというラインアップになっている。このうち春の大阪杯は2017年創設でまだ3年目と歴史が浅く、しかも3月最終週という早い時期に設定されたことによって従来なら4月末の天皇賞と6月3週目の宝塚記念を目標としていたローテーションに微妙な影響を与えている。馬券を買う側としては大阪杯、天皇賞と連勝してきた馬には「最強」というイメージを抱いてしまうがこれが「落とし穴」になる。大阪杯ができてから春のGⅠを連勝した馬はキタサンブラックだけでそのキタサンも3連勝を狙った宝塚記念では1.4倍の断然人気を裏切って信じられない9着に沈んでしまった。秋の天皇賞と同じ位置づけを企図したに違いない2000mの大阪杯の出現は春の古馬牡馬GⅠレースの展望に一大変革をもたらした。
 今年はアーモンドアイという超絶の一流馬がいるがこれは十年に一度の特殊な例で、血統、調教方法など育成術の進化によって競走馬のレベルアップと実力の平準化がすすんだ現在、GⅠレースの連勝は至難の業となってきたことを認識すべきだ。
 
 その四。先にも述べたように今年のジャパンカップは実力伯仲でどの馬にもチャンスがあった。予想を立てていると頭がこんぐらがって結論をどう導いていいか決め手がなかった。そんなときふと過去十年のレース結果をみていて歴然とした傾向があることに気づいた。勝馬と馬券圏内の馬は天皇賞(秋)に出走しているのだ。次に目立つのは秋華賞の上位馬、それに京都大賞典の出走馬を加えればほとんど100%がカバーできる。これほど顕著にステップレースの傾向が表れているレースは珍しい。迷っていた勝馬検討が一挙に決断に至った。
 GⅠレースはホースマンの究極の悲願だから、永い歴史の中で試行錯誤が繰り返されて最適のステップレースが選ばれている。だから各GⅠレースのステップレースを順調にこなしてきた馬は勝利の最短距離にいることになる。しかしジャパンカップほどそれが顕著な例は珍しい。これからも馬券必勝のキーポイントになるかもしれない。
 
 競馬は馬という畜生(サラブレッドごめんなさい)に他人の騎手が乗って勝ち負けが決まる、きわめて「不確定要素」の多い「賭け事」だ。だから勝つことは―ー年間通じてプラスを勝ち取ることなど『至難』至極であるにもかかわらずロマンを感じるのはなぜだろうか?昔、虫明亜呂無という競馬評論家がいた、彼はどんなレースも複勝200円馬券一枚で競馬を楽しんだと伝わっている。
 彼ほどの境地は凡人には至り難いが、競馬は負けるものと観念して「楽しみに徹する」競馬をめざしたいと願っている今日この頃である。
 

2019年11月26日火曜日

経済と政治への素朴な疑問

 私の周囲にはいわゆる〝経済の専門家〟と目される人が少なくない。元銀行マンや証券マン、また大学で経済学・経営学を学んで社会人となって企業で働いてきたタイプなどいろいろだが皆一家言を持っている。そんな彼らに最近の株高について納得のいく説明を求めるのだが一向に埒が明かない。そこで無謀だが素人の私が自分なりに疑問を解明しようと試みることにした。
 
 今年8月末(8月26日20,261円)に2万円を割り込みそうになった後一本調子で上り続け、9月5日21,000円台回復、以降9月19日に22,000円台、11月5日には23,251円をつけている。なぜここまで株価が上るのだろうか?経済のファンダメンタルズ(基礎条件)は米中の貿易戦争のあおりを食って貿易量が急激に減少し経常収支が悪化しているうえに、日韓関係が最悪の状況にあって韓国からの旅行インバウンドが半減するなどによって12月期の大企業の収益は軒並み大幅な〝減益予想〟になっている。こうした直近の経済指標の悪化ばかりでなく外人投資家の日本株からの逃避現象が長期的傾向として定着しているのだ。東証一部の内国株の1日平均売買高が2013年の34億4800万株を頂点に、2014年から2016年は25億株から24億株と高位安定していたのが2017年19億8800万株と急減すると2018年は16億6200万株とぎりぎり15億株(市場安定の下限売買株数とされている)をキープしたが今年ここまでの平均は13億8300万株にまで低下し日によっては10億株を割り込む日も少なくない。これは外国人投資家が昨年中期以降売り越しに転じた影響と市場関係者は分析しているが外国人にとって日本株の魅力が失われていることの証である。
 なぜ魅力がないのか?国民経済の成長率は1%内外で世界の成長率3%台後半、先進国平均の2%台と比べて相当劣っているし、民間平均給与は平成18年440万円でこれは1997年の467万円より1割近く減少しているわけでこれでは国民総支出の6割以上を占める消費が増えるはずもなく、10月の消費税の10%へのアップも加わって経済が好転する可能性は殆ど望めない。消費の活性化が短期的にはほとんど期待できない現状は労働分配率(企業の稼ぎに占める賃金の割合)が一時70%を超えていたものが2018年には60.1%まで低下してることからも明らかだ。アメリカはGAFAなどのスーパースター企業の比率が年々上昇してきたことから労働分配率の低下が説明できるが、わが国の場合は内部留保のやみくもな積み上げ志向を是正する以外に解決策は見出せない。
 
 日本経済の近年の趨勢、外国人投資家の日本株の評価、いずれをみても株価上昇の原因が見出せない中の今年8月末以降の異常な株価上昇をどう判断するか。有力な市場関係者の分析は「株式市場の巨鯨――GPIF(年金積立金管理運用独立行政法人)」の存在を指摘する。東証一部の1日の売買代金はおよそ2~3兆円だがGPIFの運用資産額は160兆円を有しているからGPIFが市場に影響力を及ぼそうとすれば決して不可能なことではない。これまでもGPIF相場をささやかれたことは何度もあった。しかもそれは選挙前であったり議員不祥事で政権人気にかげりがでかかったとき、というような政治がらみが疑われるときが少なくなかった。今回の2万円割り寸前から1ヶ月少々での急激な回復は、消費税10%アップに伴う景気悪化を株価上昇で打ち消そうとする「政権の思惑」が透けてみえるが、真実は?
 
 閑話休題。共通一次に代わる大学入学試験の「大学入学共通テスト」の最大の改革点であった「英語民間試験導入」が見送りになった。グローバル化の即戦力を大学に要求する企業の強い働きかけに対応して「読む」「聞く」以外に「話す」「書く」を含めた総合的な英語力を入学試験の合格判定要素に採用しようとした文科省が、既存の大学にはそれを判定する(一斉テストに対応して短期間に)能力が備わっていないと判断して『民間委託』に踏み切った措置を、政治と市民社会が見直しさせたことになる。しかし文科省の判断は考えてみれば大学側にとって失礼極まるものではないか。民間の予備校や学習塾にはあってわが国の最高教育機関にはその能力がないというのだから、ある意味ではわが国の教育制度(のある部分)が未熟であると、それを管理監督している主官庁が主張するのだからこんなおかしいことはない。これに怒りを覚えた?大学の大学『東大』が叛旗を翻したのだが安倍首相の最側近の「横やり」に腰くだけしてしまったのはなんとも情けない悲喜劇であった。
 さらにもうひとつの改革点であった国語と数学への「記述式の導入」もどうやら中止になる公算が強くなって、これで大学入試への『民間導入』は完全見直しになってしまった(「記述式」の採点は競争入札で通信教育・出版などを手がけるベネッセコーポレーションが落札していた)。
 今回の「民間導入」のいきさつについては不透明・不明朗で審議会の議事録にもその間の事情が「公文書」として記録・保管されていないらしい。
 
 「民間導入」ときいて多くの人は少子化に伴う教育関連産業先細りの『救済』であろうとスグに思いついたにちがいない。もしそうでないなら十分な時間をかけて現場も含めた「初等・中等学校」と「大学」、有識者、文科省そして教育関連産業の代表者が、それに父兄の代表も加えて、慎重に討議されるべきものだったのだ。それほど、大学入試への民間導入はわが国150年の教育制度への大改革であった、はずなのだ。予備校にしても学習塾にしても教育制度にとっては『徒花(あだばな)』であって決して「正規の」教育機関ではない。「必要悪」としての存在がいつの間にか正規の学校をも牛耳るような存在になって、文科省もうやむやのうちに『公認』してしまっていたのだ。
 
 正規の学校制度改革に「100年の大計」を打ち出せずにいる政治と官僚機構が、AIやロボットが社会に大変革をもたらすにちがいないこれからの十数年の行く末を、企業の巨大な力に阿(おもね)って「遣り過ごそう」とする『弥縫策』が「民間導入」だったのではないか?
 
 国民主権のわが国の経営を担う政治と官僚機構が、いつのまにか「国民そっちのけ」で権力維持のために、企業のために―――ということは「国民」の方を向かないで政治と行政を行うようになっている。それが「株高」であり大学入試への「民間導入」なのではないか。
 
 素人の素朴な疑問はこんな結論に至ってしまった。
 
 
 
 

2019年11月18日月曜日

喜寿の贈りもの

 
 やっと書斎が持てた。娘がくれた喜寿の年最後の贈り物だ。娘の使っていた部屋が空いて妻と娘がどうしてもそっちへ移れというのでいやいや承知した。今までの部屋は和室の六畳で仏壇と妻の洋ダンスと整理箪笥が納まった極めて狭い空間に五十余年前に社会人になってはじめて買った座り机を据えた書斎らしきつくりのものだった。朝晩布団を上げ下げするのが億劫だったが結構居心地は良かった。仏壇の古びと上質の家具と貧乏もの書きめいた和机の納まりが好みだった。妻も娘たちも他人を招じるのを好まなかったが私は平気だった。ひとつは机上の本と部屋のたたずまいに自負があった。狭いし日焼けした畳むきだしの六畳は友人たちの広い洋間のフローリングの部屋とは雲泥の差だが彼らの部屋にはなにかよそよそしさを感じた。いやそういうと少しちがうか、使い込んでいないと言ったほうがふさわしいかも知れない。木のまな板を何年も使い込んで何度も削ってきた料理人のまな板のような生活に馴染んだ道具のようなたたずまい。私の部屋がそんな上等なものとは言わないが生活の馴染みのようなものはまちがいなく有り、仏壇と道具と本の釣り合いが絶妙だった。もちろんこれは私だけの感覚で妻にも娘たちにも理解されなかったが、私にはひと様に誇れるたたずまいだったのだ。
 相当抵抗したが妻のたってのねがいを無碍にしりぞけることはできなかった。
 
 部屋うつりして十日。机は娘の使い古しだがおとなになってから買ったものだから少々落ち着き感がある。椅子はこれも五十余年使ってきたロッキングチェア。机が大きくなったので机上の本の数もこれまでよりも若干多く並べることができて、並べ方を文庫と新書を前の列に移し変えたので秩序立ってすっきり。小型のテレビと大き目の黒い年代物のラジカセを机の横に据えると部屋に馴染んでしっとりとする。西向きの二枚の掃き出しの窓は日当たりもよくロッキングチェアに揺られながらの読書はなかなか乙なものだ。なによりも独立の部屋になっているので居間とこの部屋のドアを締め切るとほとんど雑音が消えてしまうから読み書きが快適に行える。そのうえ想定外だったのはお隣さんを含めて殆どの住人が昼間は不在なので通路側に面していることもあって相当ヴォリュウムをあげてラジカセを鳴らしても苦情がこないことだ。イヤホンなしで好きなクラシックを堪能できるのはうれしい。
 お蔭で読書がはかどっていうことなしなのだが、ドアを締め切って完全に独りの空間を享受していると少々後ろめたさ――というか申し訳なさを感じる。「どこでも楽しめるのですね」という妻のことばも嫌味に聞こえる。八十才近くなって思いもかけず年来の望みであった書斎を手に入れ、毎日籠もってCDと読書を楽しみながら悦に入っている私に妻は僻まないだろうか。こんな虞を抱くとは自分に疚しいところがあるからで、齢をとっても私や娘の世話を焼くほかにテレビをみる程度の楽しみしかない妻に後ろめたいのだ。若い頃ならこうではなかったのに……。
 
 もうひとつおまけがあった。本の移動のついでにほこりをぱらぱらと掃っているなかに五千円札一枚と五百円の図書券二枚がでてきたのだ。もともと自分の物なのになにか儲かった気がするから可笑しい。早速東急ハンズで皮製のペンシルトレイとデジタルの置時計を買って机を飾るとムードがでる。図書券を手にして本の物色に書店をうろついていると新潮文庫の『O・ヘンリー傑作選Ⅰ~Ⅲ』の三分冊が目に入った。むかし英語の教科書で読んだ「賢者の贈りもの」や「さいごのひと葉」がみえる。まよわず購入。もし図書券がなかったら買わなかったにちがいないが千六百何十円が六百何十円なら高くない。決してO・ヘンリーがどうとかいうのではない。前から読みたいと思っていた作家なのだがなぜか買ってまで…とは思わなかった。そんな作家、というか作品があるものでO・ヘンリー短編集もそんな一冊だった。これでしばらく寝床で読む本に不自由しないで済む。
 
 短編なら日本の短編の名手、永井龍男に新潮文庫の『青梅雨』がある。このなかの「快晴」がいい。
 大学教授の磯崎が癌で死ぬ。会葬した友人や知人の回想から磯崎の生前の姿が浮かび上がる。教授としての給料は正妻に、小説だか随筆だかの雑文の収入を二号へ。財産分与も生前に抜かりなく行っていたのだが、思いのほかの参列者の法外な香典の配分をどうするのか。そんな厄介なお役目は勘弁してほしいと友人たちは斎場を後にする。参列者の中に香典に古びた革の靴べらを包んできた弔問客がいた、それが磯崎の頼みだったというミステリーも配した佳篇である。
 そのなかにこんな一節がある。「大都会の葬儀場に働く人々は、死者とその係累を無駄なく送迎する。応対が軽率であってはならないし、情におもねってもならない。過不足のない表情と物腰で、きわめて敏速に事務を片付けて行く。天国へ行く人のためにも、地獄へ行かなければならない人のためにも、またそれを見送る人々のためにも、航空会社以上の熟練で事務を処理して行く。/もしここの建物内に無駄があるとすれば、最上等、上等、中等と分かれた釜の周囲を装飾して、天国や極楽を思わす彫刻がなされているくらいのものだが、それとても無理にそれらを使用する必要はなかった。簡潔に故人をこの世から去らせたいと願う遺族たちのためには、無装飾の並等という釜も用意されてあった。」
 透徹した観察眼と言葉選びの巧さ、ユーモアも配した文体は今の私の齢にはぴったりの短編集だ。
 
 斎場がでてきたからではないが今週心に残ったのは、3.11の震災で娘さんを亡くされたご夫婦にやっと遺骨の一部が戻って安心されている報道だった。九年近いあいだ会いたくて会いたくて……。やっと会えて嬉しいです、とかすかに笑みを浮かべるご夫婦に不思議な感じを抱いた。娘さんが生きて帰ってきたわけではない、娘さんの一部が遺骨で帰ってきたことが嬉しいという。お骨ひとつを娘さんそのものに感じるとしたらお骨というものはそれだけ大切なものになってくる。そうだとするとアイヌや琉球人の墓を暴いて骨を持ち帰り「標本」として研究資料とした京大や東大、北大、東北大などは人として問題のある所業として非難されるべきだろう。時代だったからというのならどうして現在に至っても返還しないのか。もうひとつ最近の墓じまいや墓無しを当然とする風潮も気がかりだ。
 人間の生き死にが先祖や伝統と断絶したかたちで考えられることに、誰かが歯止めしてもういちどじっくりと考え直してみる必要があるのではないか。そんな思いにかられたご夫妻の姿だった。
 
 それにしても書斎はいいものだ。
 
 

2019年11月11日月曜日

行政には「心」がない 

 首里城の火災原因がどうやら「放火」ではないということが明らかになってホッとしている人が少なくないのではないか。一報を聞いたとき、辺野古移設問題など政府方針に頑強に反対運動をつづける沖縄県民に対して偏狭な右翼勢力のハネッ返りが逆恨みして放火したのではないか、そんな危惧が一瞬頭をかすめた人も多かったはずで、そうでなかったことがほぼ確実になって「よかった!」、と言ったらまた「不見識」と批判を受けるだろうか。でも昨今のわが国の風潮の中、「声なき声」の一市井人としては自然と上記のような懼れを抱いてしまう。たとえば、日本・オーストリア国交150年記念事業として首都ウィーンで9月下旬から開かれていた芸術展が今月に入って急にオーストリア日本大使館が公認を取り消した事案なども、現在わが国にはびこっている「表現の自由へのすくみ」を表わしているように思われてならない。日本での政治社会批判の自由と限界に焦点を当て、放射線防護服に日の丸の形に浮かんだ血が流れ落ちるオブジェや、安倍首相に扮した人物が歴史問題をめぐり韓国・中国に謝罪する動画の展示、昭和天皇を風刺する作品などもある内容だったらしいが「大使館の忖度」が働いたのではと推測させるもので、「自由は急になくなったりするものではない。いつもミリ単位で死んでいく。そしてわたしたち一人ひとり一ミリ分の責任を負っている」というクリストフ・ハインのことばが妙に身に沁みる今日この頃のわが日本である。
 
 最近腹立たしかったのは東京オリンピック2020のマラソン・競歩が東京から札幌に競技場が変更になった件に対する東京都の小池百合子知事の「東京は一銭も出しません」発言だった。おおざっぱに総予算を概算すると当初の7000億円が大きく膨らんで3兆円になり、東京都と政府が各1兆円づつ、組織委員会などで残りの1兆円弱を負担している。小池知事の言い様だとまるで全額を東京都が負担しているように聞こえるし、東京オリ・パラ2020は東京のみの力によって開催されるかのような「おごり」を感じる。費用分担だけでもそれが誤りであることがはっきりしているが、オリンピック開催にまつわるインフラ整備でどれだけ東京に恩恵が及んでおり開催に伴うインバウンドの観光収入で都民に莫大なウルオイがもたらされるなど、国民の協力に感謝する気持ちが一片でも小池知事にあったらあんな発言はなかったはずだ。そもそも東京に厖大な法人税収入がもたらされているのは本社機構が東京にあるからであって、生産工場や販売拠点などは全国に点在しておりそれら地方組織の生み出した利益が税法上の約束事で東京に集約されているだけで、一部が地方に配分されているとはいえ、東京の利益の多くは地方のお蔭であることをもっと謙虚に考えてほしいものだ。今回のオリンピックは「復興五輪」が重要なテーマであったはずで、それが逆にオリンピックのせいで東北をはじめ全国の災害復興が大幅に遅れているなど「復興五輪」が聞いて呆れる現状である。
 今でも東京オリ・パラ2020に反対している人が決して少なくないことを、被害地でおおっぴらに声を出せない人たちどんなにいることかマスコミからまったく聞けないことを残念に思うと同時に、亜熱帯の日本で8、9月開催を無理強いするアメリカの横暴に改めて怒りを覚える。
 
 腹立ちがらみをもうひとつ言わせてもらうと、紙おむつの消費税率がなぜ10%なのか、高齢者が免許返納して代わりの身分証明書―正式には「運転経歴証明書」の発行になぜ手数料を徴収する必要があるのか。言っていることとしていることがまるで逆ではないか。少子高齢化で若い人の出産を国をあげて推奨、援助しているかのように見せかけておきながら、育児の必要経費の中で負担の大きな紙おむつに軽減税率を適用しない理由が思い当たらない。紙おむつ代(1人当り)は大体1ヶ月で6000円以上、3年間で25万円弱になる。ふたり以上が望ましいのだから育児期間が重なることもありそんな場合1万円を超えることにもなるからたとえ2%の優遇措置でもありがたい。金額もそうだが国が細かいところまで気を配って応援してくれているという温かさの方がもっと嬉しいにちがいない。それは運転免許返納でもそうで、八十才手前でまだまだ自信もあるけど家族がうるさくいうから返納しようと免許センターへ行って身分証を発行してくださいと申し出たところ、「1100円発行手数料が要ります」と言われて「えっ!」と驚く人も多いのではないか。テレビなどではご褒美としてタクシーの優待乗車券や記念品などを支給しているところもあるのにこのギャップはおおきい。これも金額の問題ではない、気持ちだ。仕事をしなくなって車に乗るのは妻の買い物のお供とか、たまの役所への手続きに行くなどしかないけれど、それでもないと困るからなかなか踏ん切りがつかなかったのをやっと決心して……、やっぱりこの仕打ちは心に痛い。
 行政には心がない!いつも思い知らされる。
 
 センター試験に代わる大学入試共通テスト英語民間試験の導入延期も「行政には心がない」の格好の例だろう。どうしてこのようなシステムが用いられるようになったのか非常に不透明だが、所得格差と地方格差を何ら顧慮せず「身の丈に合った」格差を『容認せよ』という理不尽な体制を野党もマスコミも徹底検証することなく実施されそうになっていたのだから恐るべき事態であった。文部科学大臣の不用意な発言が引き金となって問題が表面化し、勢いづいた野党やマスコミの批判によって事実上の廃案になったが、もし安倍側近の緩みきった「他人事」としての「心無い」発言がなければ規定方針通り実施されていたかと思うと背筋が寒くなる。それでなくても地方と都市の格差がどんどん拡がり地方の若者の教育機会が損なわれている中で知らないうちに格差が固定されてしまっていたかもしれないと思うと役人―「行政の心のなさ」をいつものことと済ますことはできない。
 財政の劣化に対する「効率化」の絶対性、企業の要請による「実用性」の圧迫。国語の教科書から「文学」が後退して取扱説明書や行政文書などの「論理国語」が新設されて「文学国語」と「国語」が分裂されるらしいが、こうした文科省の国語改革は終戦直後の「漢字廃止と国語のローマ字化」を思い出させる。当初GHQの圧力によって漢字廃止を押し付けられていた国語審議会がその後GHQが漢字の有用性を認識して廃止論を撤回したにもかかわらず日本人議員が「ローマ字化」を推進しようとした。今から思えばあのとき漢字を廃止しなかったことの「正しさ」は明らかでGHQという外圧に代わって「企業」という外圧に負けて国語の「実用性」――いや外国語も含めて「言語の実用性」ばかりに目を向けている文科省役人の『浅慮』は救いがたい。
 
 数字や机の上だけの作業で立案している行政の施策に心が通わないのは当然で、そのうえ内閣府の権力が絶大になって国民よりも内閣――総理大臣と官房長官の方ばかり向いて仕事をしている行政に「心」のあるはずもない。今の国の仕組みは絶対に間違っている。
 
  
 
 
 
 

2019年11月4日月曜日

安倍一強の弊害とトランプべったり

(先週とりあげた川上未映子氏の『夏物語』が「毎日出版文化賞2019」を受賞しました。長編ですが是非お読みください) 
 菅原経産相が辞任した。選挙違反につながる地元選挙民への寄付行為が常態化していた疑惑によるもので、当初は文春が暴露した十数年前のメロンやカニなどの贈答が問題視されていたので逃げ切れると思われていたが、今年十月にも秘書が香典を渡した事実が明らかになり事実上の更迭となった。
 この問題は二つの視点から糾弾せれるべきで、その第一は有権者がいまだにこんな寄付行為を受け入れていることだ。公職選挙法で議員の寄付行為が禁じられていることは有権者にも十分周知されているはずで応援している地元議員が違反を犯したらそれを戒めるのが望ましい有権者というものだろう。まして東京九区(練馬区)という大都市部の選挙区で起こったところになおさら情けなさを感じる。菅原氏は六期目の当選を誇る人だけに地元後援会の結束も固く長年応援してきた選挙民も多いはずで、長年の応援への返礼というような気持ちが強かったのだろうが、あえてそれを断り議員を戒める見識があって当然ではなかろうか。議員のレベルの劣化が明らかな昨今、有権者がそれを糺すくらいでないと政治の浄化実現は難しい。
 もうひとつは安倍総理の任命責任だ。第二次安倍政権発足以来これで閣僚の辞任は九人目だが、その都度総理は任命責任を口にしてきたが、口先だけの「お詫び」で、真相の究明、議員の処分、そして総理自身の実質的な責任の取り方は何ら示されずにきている。長くつづく安倍一強下だからこそこの程度で済んでいるが以前なら「内閣総辞職」があっても不思議でない不祥事の連続である。長期政権の驕りとゆるみを指摘されているが当然である。そもそも十数年前であろうと選挙違反を犯している(文春以外にも菅原氏の贈答疑惑は早くから報じられていた)議員を入閣させたのは当選回数の多い大臣待ち議員の在庫一層以外の何ものでもなく、たとえ辞任騒動が起っても頭のすげ替えで済むというタカをくくった政権上層部の驕りそのものの行為であり、政権を玩弄するの愚そのものである。
 これでは政治が正常に機能するはずもなく公務員の綱紀粛正の実現も望み薄でまさに長期政権の末期症状を呈している。
 
 現政権が受けるべき根本的な批判は「アメリカ・トランプ政権への盲従」である。アメリカは核兵器禁止条約も気候変動枠組条約にも参加していない。それにもかかわらずトランプ氏は米国とロシアの中距離核戦力(INF)廃棄条約失効を放置し、新戦略兵器削減条約(新START)延長にも消極的である。こんな状況下で日本が1994年から25年連続国連で提出し裁決されてきた「核廃絶決議案」から「核使用による壊滅的な人道上の結末への深い懸念」という文言を削除してトランプ氏の方向性に追従を示した。
 わが国は世界で唯一の被爆国として、核軍縮をめぐる保有国と非保有国の「橋渡し役」をはたすべきであるにもかかわらず安倍政権は一貫してその役割から逃げ腰姿勢をとっている。アメリカ一強が弱体化し核保有国間の勢力図がゆらぎ「核の暴発」の危険性が現実味を帯びてくるなか、今こそわが国が「世界の知性」として機能すべきなのに、むしろ「核の傘」のもとの「安全」を享受して「空いばり」するばかりですましている現状は、被爆までして先輩たちが手に入れてくれた『平和の重み』をないがしろにしていると叱責を受けても致し方あるまい。止まるところのない「国難」ともいべき財政悪化のもとで、防衛費だけは突出して膨張をつづけてきた安倍政権はトランプ・アメリカから数兆円の『兵器』を「いい値」で買い続けている。北朝鮮がステルス性を高めた核兵器をつぎつぎと開発・実験をすすめるなかで当初1基700億円といわれていたイージス・アショアを2基2500億円で強硬導入しようとしているなど税金の無駄遣いもはなはだしい仕業である。
 
 気候変動枠組条約に関してもトランプ追従姿勢が鮮明である。世界の二酸化炭素排出量に占める米中の割合は4割を超えているにもかかわらず両国とも条約に参加していない。先進国では唯一の不参加国であるアメリカは2018二酸化炭素CO2)排出量が前年比3・4%増になったと推計されている(米調査会社ロディウムグループ発表)。07年以来減少傾向にあったものが上昇に転じたことになる。トランプ氏は地球温暖化と二酸化炭素の関係に否定的な姿勢を貫いているから「シェール革命」によってアメリカが石油輸入国から輸出国へ転換しアメリカ歴代政権の課題であった「エネルギー自立」を達成したことになるから彼の手柄として選挙戦を有利に進める格好の「武器」と考えているにちがいない。貿易赤字解消を重要な公約としている彼にとってはいうまでもなく「追い風」で、軍備とエネルギーをテコにして今後ますます売り込みに精を出すことだろう。
 しかし米国本土を襲った大型のハリケーンは年々その数を増しており、異常乾燥による想像を絶する「山火事」も毎年のように被害をもたらしている。わが国でも「100年に一度」の台風による「想定外」の被害はここ数年全国を『破壊』している。こうした気象状況が二酸化炭素排出のもたらす地球温暖化と「無関係」であると主張するには無理があるのではないか。地球温暖化への対応は緊迫度を増しており今のまま放置しておくことは許されない情況に至っている。
 アメリカと中国の二大大国は軍備削減と地球温暖化に対して積極的に取組む重大な責任がある。
 
 アメリカの横暴はオリンピックでも目に余るものがあり、「東京2020」の暑さ対策をめぐる狂騒は今や亜熱帯化したわが国での8月開催という「暴挙」の当然の結果であって、アメリカ・テレビ局の国内事情優先の「ゴリ圧し」などもう許すべきではない。アメリカ覇権時代の終焉を告げる悪あがきは大概にしてほしい。
 
 それにしても安倍首相の異常とも思える「アメリカ・トランプへの盲従」は、彼の祖父に当たる岸信介(および大叔父佐藤栄作)の「CIAエージェント説」を思い浮かばせる。直接の引き金は2007年10月4日号の週刊文春「岸信介はアメリカCIAのエージェントだった!」だが、この記事はピューリッツァー賞の受賞経験もあるニューヨーク・タイムズ紙在籍のティム・ワイナー氏の著書「Legacy of Ashes ;The History of the CIA」(翻訳本「CIA秘録(上下巻)」文藝春秋社刊)によっており、この本は、20年以上もの歳月をかけ機密解除され一般公開された5万点にも及ぶ公文書や、CIAに関与した300人以上もの人物に直接インタビューするなどして編集されたもので、1次資料に基づく1次情報と言っても間違いないものである。これに岸元首相が児玉誉士夫とともにCIAエージェントとしてアメリカ主導の下に日本復興を画策したという記述がある。戦犯であった岸氏が解除後たちまちのうちに自民党のトップに上り詰め総理総裁に就任、アメリカの望む日米安全保障条約の「軍事同盟化」を期す安保改訂を強行採決させたその裏にCIAの「自民党への秘密献金」があったというティム・ワイナーの言葉にはリアリティがある。
 こうした政治的背景をもつ安倍首相だからアメリカとの不適切な関係を疑われても仕方のないほどアメリカべったりの「トランプ盲従」を示してもなんら不思議さを感じない。それほど軍事予算の突出した膨張と「言い値」の軍備購入は異常過ぎる。
 
 一国の代表が国民の福祉向上よりも同盟国の主産業――アメリカ軍事産業にあからさまの利益誘導する姿勢はあまりにも異常である。
 
 
 
 
 
 

2019年10月28日月曜日

『夏物語』随想 

 川上未映子の『夏物語』という小説が話題ををよんでいる。AID(非配偶者間人工授精)を望む女性とAIDで生まれて苦悩する男性の関係を縦軸にしながら「生のつくられ方〟」への戸惑いをシリアスに描く作者の集大成的作品で、角田光代の『八日目の蝉』と双璧を成す現代文学の傑作と私は評価する。
 
 格差の拡大と貧困という現実があって、離婚がめずらしくなくなって――離婚率が40パーセント近くなって、シングルマザー、ファーザーが子持ち家庭の三割を超えている。生涯未婚も増えている。「生涯未婚率」とは、「調査年に50歳の男女のうち結婚歴がない人の割合」を指し、1990年の調査以降急増傾向にある。2015年の国勢調査では50歳男性の23.4%、50歳女性の14.1%一度も結婚歴がなかった。なお、90年には男性5.6%、女性4.3%と差はほとんどなかったから、こうした傾向をこのまま放置しておくことはできないこうした社会背景をつかんだうえで個人の問題として「出産」を考えてみると――とくに女性の立場から考えてみると問題は想像以上にシリアスだ。
 
 セックスができない女性――好きな相手でもセックスができない、痛いというだけでなく、肩を触られただけで嫌悪感を抱き、それ以上にすすむと、なんでこんなことをしなければならないのだろうと思ってしまう。アセクシャリティ(無性愛)未成熟なのか。こんな女性が少なくないらしい。そんな女性が三十才目前にして子どもが欲しくなる。小説はここからはじまる。
 「でもわたしはこのままいくんか ひとりでよ(略)わたしはこのままひとりでいい/いいけど、わたしは会わんでええんか(略)誰ともちがうわたしの子どもに/おまえは会わんで いっていいんか/会わんで このまま」
 彼女はAID非配偶者間人工授精)を選択肢の一つとして検討を始める。夫・パートナー以外の第三者から精子提供を受ける人工授精法のひとつ提供者の身元は伏せられることが多い。我国では病院勤務の若い医者の精子が多く提供されているという。地方都市の旧家の跡取りに子どもができない場合などに利用されることがあり数万人のAIDによる子どもが存在しているらしい。配偶者の男性が死んでから明らかにされることが多く、知らされたときの喪失感、欠落感の大きさ、深さは深刻である。
 「産んでくれと頼んだ覚えはない」というのが子どもの反抗的言動の定番だが、最近インドでそのような裁判があった。当人の同意なく産んだことで、子が親を訴えたのだ「僕を産んだ罪」が社会問題化し、「存在のない子供たち」――父親を知らない、半分出自のない子供の存在が無視できなくなっていて、なかには無戸籍の子どももいるわけで彼らの教育やセーフティーネットをどうするかは排除するわけにいかない問題だ。
 
 彼女はAIDで生まれた男性に出会う。地方の旧家の跡取り息子の父のもとに生まれる。結婚後数年子どもが生まれず嫁と折り合いの悪い姑の強制によってAIDで出産させられて生まれたのが彼だった。父の死後嫁姑の確執があって感情的になった姑が「お前にはこの家の血は一滴も流れていない」と喚き立てて真実が明かされる。突き放された彼は欠落感、喪失感におそわれ中年になっても立ち直れないでいる。AIDを語る会の世話役を務めている彼のもとにAIDを理解しようとしていた彼女が訪れ交際が始まる。
 無名の精子を提供されて、できた子どもが物心ついたときに打ち明けた方がよりよい対処法といえるだろうか。おとなになってから知ってもその後の人生に破滅的な影響があるのに幼い子どもが耐えられるはずがない。
 「僕がずっと思っていたのは、ずっと悔やんでいたのは、父に――僕をずっと育ててくれた父に、僕の父はあなたなんだと、そう言えなかったことが」/わたしは逢沢さんの顔を見た。/「父が生きているあいだに本当のことを知って、そのうえで、それでも僕は父に、僕の父はあなたなんだと――僕は父に、そう言いたかったんです」。
 中年に達した彼の心の底にあった思いだ。
 
 結局彼女は彼の精子を受けて受胎し出産する。しかし彼とは事実婚というかたちで――シングルマザーとして育て、彼とは会いたいときに会い、夫と子どもも普通につき合っていくという。
 出産のとき彼女はこんな感情に満たされる。
 わたしが知っている感情のすべてを足してもまだ足りない、名づけることのできないものが胸の底からこみあげて、それがまた涙を流させた。
 
 恋愛なり見合いなりで結婚して、セックスして出産して子どもをもうけて生涯添い遂げる……。こんなかたちを「当たり前」の「生循環」と考えている旧世代の常識と現実との乖離は計りしれないほど隔たっている。性的少数者としてのLGBTが社会的存在を認められつつある現在、レズのカップルが子どもを望むこともありえない話ではない。AIDはそんなカップルにとっては必要な制度であろうが倫理的な検討は深まっていない。
 
 出産については「反出生主義」という考え方が200年以上前から ショーペンハウアーやベネターなどの哲学者に支持されている。人を生みだすこと自体が悪であるという出産に対する否定的な反出生主義。子供を持たない人生の方が豊かであり、子供を作るつもりがないと考えるチャイルド・フリー」派もある一定程度いつも存在するし、現在は増加傾向にあるのではないだろうか。
 
 少子高齢化時代を迎えて出生率を高めることばかりが『善』であるかのような風潮が支配的であるが、「ひとつの生をこの世に送りだすプロセスと、その全過程を物理的にはほぼ女性だけが担うことの、暴力性と不均衡に対する違和感、懐疑、問いかけ」を描いた『夏物語』は、関西弁がバンバンでてくる飄逸な未映子節炸裂の文体と相俟ってまちがいなく今年の収獲である。