2022年8月29日月曜日

古今集とランドセル

  古今集を読んでいます。今年の4月頃からはじめて読み切るのにあと1ヶ月ほどかかりそうですから半年仕事です。窪田空穂の評釈(『窪田空穂全集第20巻21巻』角川書店)を手引きに首づつ精読してテキストにしている角川ソフィア文庫『古今和歌集』に書き込み、特に重要と感じたことがあったら別にノートをつくっています。窪田評と異なった訳が思いつくとそれもノートに書くようにしています。まさかこの齢になってこんな面倒くさい根気のいる読書をするとは思ってもいませんでしたが、やってみてこれこそ「老人の読書」ではないかと思うようになりました。これからは『新古今集』『古事記』とそれぞれの泰斗の書を評釈として読みつづけていくつもりです。限りがありませんし齢が齢ですからいつどんなことがあって中断、いや終焉を迎えるかもしれませんがそれでいいのです。エンドレスでこの作業をつづけていきますがいつ終わってもそこまでが収穫となればいいのです。だれの為でもない自分の「実り」として我が国の古典を読むのを生涯の「事業」にしようと決めたのです。

 古今集は905年に撰集されていますから大体九世紀――800年代の人たちの和歌が収められているわけです。約1200年前の人々の生活、心理や感情、知識を表した和歌が1140首、現代に生きているわれわれにそのまま伝わっているのです。それも世界的に誇れる完成度の高い上級な文学として伝えられてきたのです。こんな素晴らしい歴史をもった民族が世界にどれほどあるでしょうか。その「民族の遺産」とも呼べる貴重な文学を80歳にもなってほとんど知らないことに気づいて、何のためにこれまで読書してきたのかと読書履歴の偏重に気づかされ慙愧の念におそわれました。知的好奇心のおもむくままジャンルにとらわれず「我々はどこから来たのか、何者か、どこへ行くのか」を追い求めてきたつもりでしたが、努力のいる粘りづよく継続して取り組まなければならない書物は敬して遠ざけてきたのは明らかです。

 還暦を超えて時間に余裕ができてから取り組んできた「晩年の読書」で僅かながら身につけた古文と漢文の読解力、難解な書物でも逃げないで取り組む姿勢、そしてなによりじっくりと根気よく継続して読書できる能力で準備体制は整ったはずです。チャレンジしていこうと思います。

 

 一日十首程度を目安に評釈を読み込んで納得のいく解釈を得ようとすると大体1時間半ほどがあっという間に過ぎてしまいます。半年近くこうした作業を続けているうちに夢中になって「古今集の世界」に溶け込むことが可能になって貫之や躬恒、忠岑の生きていた平安時代が肌感覚で感じられるようになってきました。すると「ちはやぶる神代もきかず竜田川唐紅に水くくるとは」や「久方のひかりのどけき春の日にしづこころなく花のちるらむ」のような有名な和歌だけでなく、今まで読みとばしていた――語句が難解で――和歌のなかに思いもかけず新鮮なものや現代感覚に近いものを発見できて、古今集ってこんなに面白いものなのかと驚かされるのです。そして我々の美意識や季節感の多くが古今集に淵源を持っていることを再認識するのです。そもそも正岡子規が『歌よみに与うる書』で古今集と貫之をコテンパンにこき下ろしたことで一挙に評価が地に堕ちたのですが、それは子規の短歌改革へのなみなみならぬ決意の暴走によるもので、それを読み違えた人たちが写生に偏向して短歌をつまらないものにしてしまったきらいがあるのです。トコトン読み込めば古今集には素晴らしい和歌があふれています。こころみに今私がもっとも気に入っているものを紹介してみましょう。

 

 二九一 霜のたて露のぬきこそよわからし山の錦のおればかつちる せきお

 二三八 花にあかでなに帰るらむをみなへしおほかるのべにねなましものを 平さだふん

 前の歌は全山の紅葉に圧倒されながら風に吹かれて果てしなく落ち散る紅葉を惜しむこころを詠んだものですが、それを「錦」という織物を取り立てて「経糸」を霜、露を「緯(ぬき)糸」として経緯の閉まり具合が弱いから錦が織ったしりからほどけて散っていくではないかと嘆いているのです。なんと理屈っぽい和歌ではないですか。これはもう今どきの頭でっかちの若造の言い種です。これを読んで俵万智さんの〈「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日〉を思いだしました。この歌がブームになった頃なんと理屈っぽい短歌かと思ったのですが1200年前にその源流があったのです。

 あとの歌は、御所の若い下役人たちが嵯峨野に花見に行った帰り際の心情を詠んだもので、人々の花に飽かないでなぜ帰るのだろうか、帰らずに女である女郎花の多くある野に寝ようものを、が空穂さんの訳ですが私流はこうなります。若い頃「乳房」という字を見ただけでみょうに興奮したことを思いだして、「女郎花」なんて花をこんなに見たら「女抱きてぇ!」、日帰りなんか止めて「泊まっていこうぜ」なぁみんな。さだふん(貞文)という人は男前で浮名を流した色好みで有名な歌人だったのでこんな感覚に近かったのではと推察します。いずれにしても二首とも現代的な感性につながりを感じます。

 

 突然ですが「さんぽセル」というものをご存じですか。小学生が開発した「さんぽランドセル」で、重いランドセルにキャリーバックにする器具を着けてコロコロ運んだら楽チンだろうという小学生らしい発明品です。それほど今の教科書は多く、重いのです。そりゃあそうなるでしょう。知識は年々増加しますからそれを全部教え込もうとすればページ数が増えて当然で、おまけに科目(道徳、総合学習、英語、プログラミング)も増加の一途ですから重さに拍車がかかります。

 しかしこれでいいのでしょうか。1900年代後半灘校で国語を教えた橋本武という先生は『銀の匙(中勘助)』という小説一冊を教科書にして中学三年間を教えたといいます。三年間の国語教科プログラムを『銀の匙』から読み解くという教授方法は「精読」の技術を身に着けることであらゆる教科に必須の「読解力」を取得する最善の教授法であったかもしれません。

 

 広範な知識を広く浅く習得することに重点を置いた現在の教育制度は、グロバル化とイノベーション力の問われる現在に適さないのではないでしょうか。文科省も「特定分野に特異な才能のある児童生徒を支援」する体制を模索していますが、そうではなくて子どもたち全員に「根気よく、一つことに集中して学ぶ能力」を習得する教育に方針転換する必要があるのではないかと思うのです。

 

 古典を知ることは国の根本を理解することにつながる最良の方法だと思います。

 

 

 

2022年8月22日月曜日

補助金もらって最高益?

  石油元売り各社が4~6月期最高益を上げたという報道を見て「?」と思ったのですがみなさんはどうお感じですか。マスコミ各社はまったく反応を示しませんがこれでいいのでしょうか。

 プ―チンの不条理な戦争が原油価格の高騰を招きガソリン価格が異常な高値を記録し政府は「燃料油価格激変緩和補助金」制度いわゆるガソリン補助金を設定しました。ガソリンの全国平均小売価格1リットル当り170円を基準価格として、価格上昇分1リットル当り5円を上限として石油元売り会社に補助金を支給して小売価格の上昇を緩和しようという制度です。しかし価格上昇は想定を超えて上昇したために基準価格が4週間ごとに1円ずつ切り上げられるようになり補助金も25円に引き上げる追加対策が講じられました。こうした制度の変遷を経ながら補助金は2021年補正予算で800億円、2022年予算で1.3兆円が計上されています。ざっと2兆円がガソリン価格高騰を抑える予算として計上され6月現在既に1.8兆円が支給されています。

 一方元売り各社の利益は2022年3月期、2022年度4~6月期とも過去最高益を計上したのです。3月期の上位3社の利益合計は約7000億円、2022年4~6月期は約5000億円にも上っているのです。勿論これは原油高による備蓄原油の評価高が大きく影響しており加えて円安影響もあるのですが、補助金の影響も無視できません。

 これっておかしくないですか。もし補助金がなく原油高がそのまま小売額に反映されていたらガソリン需要は大きく減少して元売り各社の売上げも減少し[売上げ減→利益減]になっていたはずです。勿論ガソリン高が各種商品の価格に反映されて「物価高」も尋常でなかったかもしれません。しかし補助金は元売りへ支給する形ではなく小売価格を直接引き下げる制度設計も可能だったはずです。それを税金を使った「補助金」を元売りに支給する制度になって、元売り各社の利益を「最高益」に繋げた結果になったのは、どこかおかしいのではないでしょうか。税金で元売り各社の利益を最大化したとなるとわれわれ国民としては納得いかない気持ちに襲われるのも当然なのではないでしょうか。なのにマスコミもどこからも文句がつかない――批判の声が上がらないのはどうしてでしょうか。

 これってどこか変ですよね……。

 

 不採算の在来線の存廃基準を官民で検討しようという動きが表面化しています。はっきりいえば「不採算のローカル線は廃止する」という方針を有無を言わせず「国民に納得させよう」という気運を盛り上げようとしているのです。これまでも北海道を中心にローカル線の廃止は着々と進められてきたのですが、コロナ禍で利用者数が激減したこと、今後の学生数の減少による定期券購入の減少、テレワークの一般化と企業の地方誘致進展による大都市圏通勤客の減少などが相乗化して鉄道需要の大幅減少が見込まれる現状は鉄道事業の大幅縮小が予想され「不採算の在来線廃止」を進めざるを得ないと鉄道事業者と政府が国民に納得させようというのです。

 ちょっと待ってください、『地方創生』はどうなるのですか。地方創生は国家百年の計で歴代政府与党の一大政策だったはずじゃないですか。鉄道が廃線になって疲弊していった地方の例は枚挙にいとまがありません。不採算在来線の廃止と地方創生の『整合性』はどこにあるのですか。

 コロナ禍がわれわれに教えたのは「東京一極集中」「大都市圓中心」の成長政策の危険性でした。一方で企業の地方移転も「パソナ」の淡路島移転やIT企業の「白浜移転」などによって徐々にではありますが現実性を帯びてきています。地方の大学と企業の連携も増加しています。コロナという圧倒的な強制力がいままで掛け声ばかりだった企業に真剣さをもたらしたのです。

 なぜいま、「在来線の廃止」なのですか。これってどこか変ですよねぇ……。

 

 安倍元総理が暗殺されました。犯人は旧統一教会への恨みを安倍さんに捩じ曲げて犯行に及んだといいます。身に覚えのない安倍さんにはお気の毒というしかないのですが(しかしその後の展開をみるとあながち身に覚えがないとも言えないようですが)問題は自民党の、そして議員さんたちの態度です。安倍さんといえば党内最大派閥の領袖であり総理在任期間史上最長という自民党の大看板です。いわば安倍派の「親分」であり自民党の「大親分」です。その親分が理不尽な旧統一教会への逆恨みで暗殺されたというのに旧統一教会への「怒り」がまったく無いのはどうしたことでしょうか。安倍派は勿論のこと自民党として旧統一教会への厳しい追求が行なわれ宗教法人の認証取り消し、解散が求められるべきだと思うのですが一切そうした動きはありません。それどころか無関係を装って沈黙を決め込むばかりです。

 大体保守系右派の人たちは「嫌中嫌韓」が信条で「韓国侮蔑」が通り相場のはずが旧統一教会に限ってはひたすら「かばい」だて、むしろ「尻尾を振って」選挙応援を「乞い願う」ばかりで、見方を変えると「跪坐低頭(きざていとう)」という卑屈な姿とさえ見えるのはどうしたことでしょうか。

 LGBTSへの侮蔑差別発言や障碍者や生活保護者への「自己責任論」の押しつけなど「弱いものいじめ」は勇ましい自民党議員さんたちですが、選挙のためなら信条も矜持も投げ捨てることを愧じない情けなさは一体どうしたことでしょうか。

 これってどこか変ですよねぇ……。

 

 明治の先人たちは「百年の大計」で先進西欧諸国に伍するべく努力しました。今の人たちには一体「百年の大計」などあるのでしょうか。

 

 

 

2022年8月15日月曜日

幸福主義からの決別

  最近「毎日何してる(してはる)」と問われることがよくあります。「ぼちぼちやな」としか答えませんが内心「コロナでやることないんやなぁ」と同情しています。誰でもそうだと思うのですが、これまで「生活」のほとんどの部分を「消費」で埋め尽くしていたのです。習慣的な行きつけの喫茶店、お出掛けとショッピング、旅行、そしてソファに寝そべってのテレビなどなどすべて「商品」のお世話が無かったら生活できていなかったのです。それがコロナで全部「自粛」させられてしまって、為す術なく「無聊」の毎日になっているわけです。

 そんな状況になって、フト、「幸福とは?」という根本的な疑問に直面している人もすくなくありません。その結果「コロナうつ」の症状を示す人が増えているらしいのです。感染に対する不安と「欲望」を「禁止」されたことによる「ストレス」が原因となっていろいろの精神症状を呈するのです。

 

 そんな毎日がつづく中でよく思い出すのが、終戦直後のことと「金さん銀さん」です。

 「金さん銀さん」というのは1990年代国民的人気を誇った「おばあちゃんアイドル」のことで、長寿の双子姉妹は100才を過ぎても至って元気でその天真爛漫な振る舞いと発言がマスコミで「金さん銀さん」ともてはやされました。「100才100才」というコマーシャルなどのマスコミ出演でギャラが入って「お金を何に使いますか」という問いに「老後の蓄えにします」と答えて大いに笑いを振り巻く一方で足首に重りを下げてストレッチをするなど健康にも留意する姿は「理想の老後像」として今でも印象に強く残っています。

 金さん銀さんを思い出すのは、彼女たちが自分たちに幸福を自問しただろうか、いやそんなことは無かったのではないかと思うからです。20代初めに結婚した二人は金さんは5男7女、銀さんは5女をもうけ孫にも恵まれました。共に農家に嫁いだ二人は農業に勤しみながら息つぐ暇もなく出産子育てに追われたにちがいありません。子育てが済めば次は孫の世話と追い立てられてやっと息を継ぐことが出来た晩年は姉妹仲良くおいしいものを食べ、姉妹とその家族とのだんらん、思いもしないマスコミ出演を楽しみながらそれぞれ金さんは107才(2000年)、銀さんは108才(2001年)で亡くなっています。1892年生まれの彼女たちは「産めよ増やせよ」の時代でしたからとにかく忙しかった、「幸せだろうか」などという疑問をさしはさむ時代ではなく食べることで精一杯だったにちがいありません。それでも晩年のマスコミ騒動は思いもかけない「注目」と「経済的豊かさ」をもたらしましたが、それを彼女たちは「しあわせ」と感じていたかどうか。

 私の想像ですが彼女たちの人生は「幸福主義」を超越したところにあったのではないでしょうか。

 

 今放送中のNHK朝ドラ「ちむどんどん」の一場面、主人公暢子の恋人青柳和彦の母重子は上流階級の「家格」をふりかざして結婚に頑強に反対するのですが、暢子と彼女の働くレストランテ・フォンターナのオーナー大城房子の工夫で終戦直後の闇市の「もどき料理」を振舞われて当時を思い出し、「何もなかったけどあの頃の方が幸せだったかも……」と呟く場面がありました。

 「もどき料理」というのは簡単にいえば「代用食」で、肉も無ければそもそも米もない物資不足の極限の時代でしたから、なんとか入手が可能だったトウモロコシや大豆で「肉らしきもの」を作ったりオカラで「寿司」まがいを設えたのです。

 食べ物がそうであったように「遊び」も玩具は勿論のことテーマパークなど影も形もないのですから子どもたち同士で工夫して「遊び」を作り出すのが当たり前でした。竹や枝に糸をくくりつけて釣り竿にし餌はクモや毛虫で間に合わす。カン蹴りといって空き缶を蹴っ飛ばしてオニがそれを拾いに行っている間に隠れてオニに探し当てさせるという遊びがありました。衣笠山の山肌で山水が流れ出しているところの肌土を削ると水晶が出てくることがあって「水晶採り」は上級生の遊びでした。

 満足な教科書はまだ発行されていませんでしたしそもそも学校(校舎)が無かったのですから近くのお寺が学校替りでガリ版刷りの手作りの薄っぺらい印刷物を教科書にして勉強した人も多かったでしょう。とにかく「学び――勉強」がしたかったからそれでも嬉しかったのです。

 「食べたい」「遊びたい」「勉強したい」という『渇望』があって、それを満たすためにみんなで力を合わせて「工夫」して『道具』をこしらえる。これって『本質』なのではないでしょうか。「食品ロス」が世界の「飢餓人口」をまかなうに十分なほど毎年排出される、ゲーム機であったりテーマパークのように「制作者」の「意図」通りに「遊び」を与えられる、親の経済力によって与えられる「教育程度」に格差があるのが当然とされる。こんな時代よりもみんな貧乏だったけど『平等』で『希望』のあった「終戦直後」の方が「今より幸せだったのでは……」と感じている人は結構多いのではないでしょうか。

 

 「いい学校に入って、いい会社に就職して」というのはその先に『既成の幸福』が約束されているからで日本中の人たちがそうした『幸福』を求めている。そのラインに乗れなかった人はどうあがいても「幸せな人生」から脱落して一生『不幸』な人生を歩まねばならないという『強迫観念』。多分安倍元総理を暗殺した犯人もこの強迫観念に犯行を強制されたのに違いありません。

 こうした「幸福主義」に強烈な「鉄槌」を下したのが平野啓一郎の『決壊』です。そのなかで「悪魔」がSNSを通じて行なう「呪詛」を引用します。幸福主義に冒された現代日本人の「病巣」がいかに深刻かを感じてほしいと思います。

 

 幸せになる!これは最早、人間が、決して疑ってみることをしなくなった、唯一至上の恐るべき目的だ!〈幸福〉こそは、現代のあらゆる人間が信仰する絶対神だ!あらゆる価値が、そのための手段へと貶められ、このたった一つの目的への寄与を迫られている!人間は、〈幸福〉という主人に首輪を嵌められた奴隷だ!家畜の豚だ!一切の労働、一切の消費、一切の人間関係が、ただこの排他的で、グロテスクなほど貪欲な飼い主の監視の目の下で、鞭打たれながら行われている!いいか!〈幸福〉とは、絶対に断つことのできない麻薬だ!それに比べれば、快楽などは、せいぜい、その門番程度の意味しかない!違うか?人間は、快楽を否定することはできる!しかし、〈幸福〉を否定することは絶対に許されない!このたった一つの残酷極まりない、凶悪な価値が、この社会のすべてを支配しているのだ!どんな人間でも絶対に〈幸福〉を目指さなければならない!どんな形であれ、それは全的に肯定され、称揚されなければならないのだ!〈幸福のためならば人間はどんな犠牲でも払うべきだ!全ての人格は、〈幸福〉のために総動員されなければならない!〈幸福〉を愛する心!それは、ファナティックで、エロティックで、熱烈極まりない、現代で最も洗練され、先鋭化したファシズムだ!

 

 幸福主義からの脱却または決別。それが新しい日本を創造する第一歩になる。

 コロナ禍で得た光明です。

2022年8月8日月曜日

防衛費を増やせば国土防衛は可能か

  防衛白書が発表されました。プーチンの狂気による国際関係の緊張の高まりを受けて防衛費の増大を正当化し既成事実化しようという思惑が透けて見えます。しかし問題は『戦争』が『概念』として語られるばかりで『リアリティ』が希薄なことです。

 

 我が国の防衛を考えるうえで次の5つの視点から考えてみようと思います

(1)戦争は人を殺す、殺される

(2)国土が狭い。弓状の狭くて長い本州を中心に主な3つの島と幾つかのその他の島で構成されている

(3)米軍基地が全国に存在している(130ケ所)

(4)原発が全国に存在している(54基)

(5)シビリアンコントロールについて

 

 まず「戦争と死者」について考えてみましょう。その前に日本人の「戦争観」を概観すると①好戦論者は間違いなく存在します。とにかく戦争がしたい人たちです。②攻撃に備えて軍備を充実させるべきだ、と考えている人たち。③攻撃を受けたら防衛上反撃しなければならない、と考えている人たち。④どんなことがあっても戦争はしてはならない、そのために外交力を不断に向上させていくべきだ、と考えている人たち。

 ②と③の区別は②の人たちは「敵基地攻撃能力/反撃能力」を是としている立場を取っています。③はそれは認めない考え方ですから立場として根本的な差があります。

 ④の立場の人はひとりも国民を死なせてはならないという考え方を頑なに貫いています。先の戦争を教訓に世界平和の理想を抱いて軍備保有にも反対していますし米軍基地の撤廃も祈願です。

 ①から③の考え方をしている人たちが問題なのです。一体何人の日本人の死亡を「現実に起こる」こととして戦争に賛成しているのか分かりません。そもそも「こんな設問」をした調査が無いのです。しかし程度の差はあっても戦争を肯定する人たちは「敵と想定されている国の人民」の何人かを殺さずには済まないことを当然考えるべきですし、戦争によって我が国も国民の幾人かは「必ず死ぬ」と想定していると考えないと理屈が通りません。敵方に死者は出るけど我が方には戦死者は出ないなどという「楽観」は非現実的な夢想です。数十人、数百人の死者が出るようなことがあれば可及的速やかに「停戦」に向かうべきだ、と考えるのが③の立場だと仮定すれば②の人は数万人程度の死者がわが国に出ることも覚悟しているという立場かもしれません。「好戦論者」の立場の人たちは、論の展開において戦死者の発生などということはそもそも想定せずに、我が国と敵国の戦力比較のもとにどうすれば敵方を敗戦に追い込むかを考えている人たちだと思います。そしてこのタイプの人たちは戦争が始まれば敗戦するまで国民を追い込んで、何百万人の戦死者が出ようと責任を取ろうとしないのです。

 立場に違いはありますが戦争を論じる場合には必ず戦死者が出ることを「現実問題」として考えるべきで、そんなことより「国土と国民を守ること」が重要なのだ、などという人は『嘘つき』です。

 

 プーチンの狂気がウクライナと戦争を始めて(2月24日)からもう5ヶ月を超えました。なぜこんなにロシアが手こずっているのか。その大きな要因が「国土の広さ」にあると思います。ウクライナの国土は60万㎢で我が国の約1.6倍になりますが注意すべきは国土の形状が「四角」なことです。我が国との比較でこれは重要なポイントになります。加えて地続きなことから「地上戦」が主戦場になったことです。ミサイルで大型爆弾をバンバン撃ち込む戦術であったならウクライナはとっくに制圧されていたにちがいありません。今後どうなるかは予断を許しませんが「地上戦」である限り戦況の長期化は免れないでしょう。

 翻ってわが国は弓状に狭く長く延びた島――本州(22.8万㎢)と3つの大きな島と幾つかの小さな島で構成されています(国土総面積37.8万㎢)。ということは「地上戦」は最終段階です(勿論他国への侵略や友好国との集団的自衛権行使の場合は別です)。考えられる初期のわが国への攻撃は空母や艦船からのミサイル攻撃か敵国基地からの長距離ミサイル攻撃になるはずです。原爆を初期攻撃に使用する可能性は少ないでしょうが、原爆でない爆弾の進歩はいちじるしく「全ての爆弾の母」と呼ばれる「MOABモアブ(米海軍保有)」や「全ての爆弾の父」という「モバリック爆弾(ロシア保有)」などTNT換算(広島型原爆は15kT相当)で11トン、44トンの超大型爆弾もある現状は、国家機能の中心部を狙い撃ちで攻撃されたらたちまち我が国は機能麻痺に陥るでしょうし、ロシアのように非戦闘施設を爆撃しておきながら「軍事施設」と虚偽の弁明を行ったり「誤射」と称して「原発」を攻撃されたらその被害が甚大なるのは間違いありません。アメリカが他国との戦争状態に至れば我が国の基地が攻撃目標になるのは覚悟しておくべきで全国にくまなく張りめぐされた基地網は「日本壊滅」の被攻撃地図となることでしょう。

 弓状の長く狭い国土は「防衛」を考えるとき究極の『脆弱』要素として重く受け止めて「戦争論」を展開すべきです。

 

 最後に「シビリアンコントロール」についてですが、われわれ国民は言葉の上で「自衛隊がシビリアンコントロールのもとにある」と知っているように思っていますが、本当でしょうか。敵国のミサイル攻撃で首都が攻撃された、というような「緊急事態」が発生したとき、一体シビリアンコントロールがどのような「経路」でどれほどの「速さ」で実行されるのかはほとんど知られていません。防衛費が倍増されて10兆円規模に達そうかというとき、シビリアンコントロールについての論議は併せて行なわれるべきです。

 

 軍事の専門家あるいは防衛の専門家にとって、現代戦においてわが国ほど防衛の困難な国はないでしょう。防衛の脆弱性は私のような素人にも明らかなのですから専門家にとって「解決不能」に近いかも知れません。ここにきて「敵基地攻撃能力」であったり「反撃能力」がさも「合理性」があるかのように装って論じられているのは、もはや「攻撃されてからの防衛」では国土を防衛することが不可能だということが明らかになってきたからにちがいありません。

 

 「軍備増強」が「国土防衛」に直結すると考えるのは「幻想」です。世界で唯一の「被爆国」というわが国の『原点』をもとに「核保有国」を巻き込んで「戦争をしない国際秩序」を樹立する『外交』に全力をそそぐべきなのです。

 「原爆の日」「敗戦の日」を前に「不戦の誓い」を強く思いました。

 

 

 

 

 

 

 

2022年8月1日月曜日

人間は自分の意志で動いているのか

  私は今だにどうして禁煙ができたのか納得がいっていません。2006年1月11日と日にちまではっきり覚えています、深夜に目が覚めて煙草を喫おうとしたのですが枕元のショートホープは空でした。いつもなら起き出して近くの自販機まで買いに行くのですがその時は「まぁいいか、出勤のときに買えばいい」とそのままにして寝てしまいました。そのあと出勤時の道端の自販機は「会社にいってからでいいや」となり、仕事がはじまると一段落してからと次から次と先延ばしして結局一日が過ぎ、二日が過ぎしていつの間にか今日に至っているのです。

 三年ほど前に妻がヘルペスに罹り、結婚してから風邪で一度寝込んだことがあったきりでまったく健康体であった妻が肩をすぼめて小さくなって果敢なげに前を歩く姿を見て、虚弱を言い訳にして面倒見てもらうのが当然と考えていた、その妻の頼りない姿にショックを受けて「禁煙しよう!健康になろう!」と決心しました。禁煙外来にもいき「禁煙ガム」「禁煙パッチ」などあれこれ試して挑戦したのですが結果をあげられずにダラダラと「禁煙修行」の毎日だったのです。それが突然1月11日の深夜を発端として何の「決意」もなくこれといった「手法」を用いるでもなく「禁煙」できたことが未だに疑問なのです。

 

 もうひとつ、その年の10月から始めたテニスも何の「脈絡」もなくある日ラケットを握っていたのです。勿論近くの公園に「壁打ち」の壁があったということや、禁煙して体調が良くなってスポーツをやりたいという意欲が湧いていたという前提はあったのですが、妻も娘たちも猛烈に反対したにもかかわらず「まぁちょっとやってみて、体力が追い付かないと観念したらスグ止めるから」と軽い気持ちでクラブに入会したのが10年もつづいたのですから我ながら驚きです。入門コースからゲームクラスまでいったのは予想外の展開でした。驚くのはその「取り組み方」で、食事、鍛錬、練習と生活の全方向をテニスの上達――技術だけでなく激しい運動に耐えられる体力アップと維持にストイックに挑戦しつづけたのです。

 幼年期に二度死線をさまよった、学校へ上れるまで生きられるかどうかさえ危ぶまれて小学校三年まで体育の時間はほとんど「見学」だった虚弱体質がテニスを続けた十年間で体重は52kgから58kgに、その他あらゆる健康診断項目が良化して生まれて今がいちばん「健康です」と明言できるほど健康になったのですから「テニスさまさま」です。

 

 80才になって、コロナもあって、ほとんど「自分の世界」のなかで生活するようになって、「世間のしばり」とか「向上心」とかから「解放」されてほとんどが「習慣化――ルーティン化」された時間の過ごし方が占めるなかで時折「隙間」ができ「思索が浮遊する」ことがあります。そんなとき「定説」にとらわれない「自由」な「自分の考え」がまとまることがあります。このコラムで「常識」や「定説――通念」とかけはなれた意見を述べることが最近多かったと思うのですが、すべてそうした時間に生まれたものです。

 「理論」にはすべて「前提」があります。それが明示的なこともありますし暗黙の了解事項として共通認識する過程を経ないこともありますが理論を構成するための「条件」は必ずあります。理論を勉強した人は前提を当然として受け入れていますが、ちょっと距離を置くと「あれ、この前提はおかしいぞ」というような「前提」「条件」も少なくないのです。齢を取るにしたがってそうした「解放」を経験する人とますます「固執」する人と二分されるようです。

 

 さてでは私はなぜ「禁煙」「テニス」に踏み出したのでしょうか。最近こんな風に考えるようになりました。「神の声」のお陰だったのではないか、そう思いだしたのです。ちょっと科学的な言い方をすれば「右脳」に届いた声が影響したのではないかと思うのです。

 人間の脳は「右脳」と「左脳」で構成されています。左脳は論理的思考をする分野で右脳は感覚的直観的な役割を担い芸術などが得意な分野です。赤ちゃんは生まれてスグは「右脳」で活動しています。考えてみれば当然のことで「論理展開」する能力が赤ちゃんに備わっているはずもありませんから。赤ちゃんだけでなく原始の時代の人類もほとんど右脳で動いたことは想像できます。巫女や呪術師も右脳に声を聞く能力が特異的に強力に備わっていたにちがいありません。今でも右脳は働きつづけているのですが左脳が強すぎて右脳の受け取った「声」を消してしまうのです。ところが左脳が休む睡眠時に夢を見たり起きている時に受け取った情報の整理や総合に右脳は機能しているのです。

 

 今の時代は「効率」や「生産性」が強く求められます。これらは「左脳」領域の機能です。我が国は長期低迷が続いていますがこれを「左脳」のせいにするのは乱暴でしょうか。人間に備わっているふたつの「脳の能力」の片方ばかりを活用していたのでは「全脳」を活用している国に後れを取っても当然です。たとえばGAFAの発明のいろいろは「右脳」が生みだしていると考えた方が納得がいきます。

 もしそうなら「左脳」能力ばかりをターゲットとしている現在のわが国「教育体系」は「失われた30年」を回復するためには不適当な教育と言っていいのではないでしょうか。

 

 安倍元総理を暗殺した犯人は論理的に殺人計画を遂行しながらたえず「右脳」に「安倍を殺せ」という神の声を聞いていたかも知れません。論理的思考だけで「問答無用」に至ったとするには無理があり「蛮行」の理由づけにならないのです。