2022年8月15日月曜日

幸福主義からの決別

  最近「毎日何してる(してはる)」と問われることがよくあります。「ぼちぼちやな」としか答えませんが内心「コロナでやることないんやなぁ」と同情しています。誰でもそうだと思うのですが、これまで「生活」のほとんどの部分を「消費」で埋め尽くしていたのです。習慣的な行きつけの喫茶店、お出掛けとショッピング、旅行、そしてソファに寝そべってのテレビなどなどすべて「商品」のお世話が無かったら生活できていなかったのです。それがコロナで全部「自粛」させられてしまって、為す術なく「無聊」の毎日になっているわけです。

 そんな状況になって、フト、「幸福とは?」という根本的な疑問に直面している人もすくなくありません。その結果「コロナうつ」の症状を示す人が増えているらしいのです。感染に対する不安と「欲望」を「禁止」されたことによる「ストレス」が原因となっていろいろの精神症状を呈するのです。

 

 そんな毎日がつづく中でよく思い出すのが、終戦直後のことと「金さん銀さん」です。

 「金さん銀さん」というのは1990年代国民的人気を誇った「おばあちゃんアイドル」のことで、長寿の双子姉妹は100才を過ぎても至って元気でその天真爛漫な振る舞いと発言がマスコミで「金さん銀さん」ともてはやされました。「100才100才」というコマーシャルなどのマスコミ出演でギャラが入って「お金を何に使いますか」という問いに「老後の蓄えにします」と答えて大いに笑いを振り巻く一方で足首に重りを下げてストレッチをするなど健康にも留意する姿は「理想の老後像」として今でも印象に強く残っています。

 金さん銀さんを思い出すのは、彼女たちが自分たちに幸福を自問しただろうか、いやそんなことは無かったのではないかと思うからです。20代初めに結婚した二人は金さんは5男7女、銀さんは5女をもうけ孫にも恵まれました。共に農家に嫁いだ二人は農業に勤しみながら息つぐ暇もなく出産子育てに追われたにちがいありません。子育てが済めば次は孫の世話と追い立てられてやっと息を継ぐことが出来た晩年は姉妹仲良くおいしいものを食べ、姉妹とその家族とのだんらん、思いもしないマスコミ出演を楽しみながらそれぞれ金さんは107才(2000年)、銀さんは108才(2001年)で亡くなっています。1892年生まれの彼女たちは「産めよ増やせよ」の時代でしたからとにかく忙しかった、「幸せだろうか」などという疑問をさしはさむ時代ではなく食べることで精一杯だったにちがいありません。それでも晩年のマスコミ騒動は思いもかけない「注目」と「経済的豊かさ」をもたらしましたが、それを彼女たちは「しあわせ」と感じていたかどうか。

 私の想像ですが彼女たちの人生は「幸福主義」を超越したところにあったのではないでしょうか。

 

 今放送中のNHK朝ドラ「ちむどんどん」の一場面、主人公暢子の恋人青柳和彦の母重子は上流階級の「家格」をふりかざして結婚に頑強に反対するのですが、暢子と彼女の働くレストランテ・フォンターナのオーナー大城房子の工夫で終戦直後の闇市の「もどき料理」を振舞われて当時を思い出し、「何もなかったけどあの頃の方が幸せだったかも……」と呟く場面がありました。

 「もどき料理」というのは簡単にいえば「代用食」で、肉も無ければそもそも米もない物資不足の極限の時代でしたから、なんとか入手が可能だったトウモロコシや大豆で「肉らしきもの」を作ったりオカラで「寿司」まがいを設えたのです。

 食べ物がそうであったように「遊び」も玩具は勿論のことテーマパークなど影も形もないのですから子どもたち同士で工夫して「遊び」を作り出すのが当たり前でした。竹や枝に糸をくくりつけて釣り竿にし餌はクモや毛虫で間に合わす。カン蹴りといって空き缶を蹴っ飛ばしてオニがそれを拾いに行っている間に隠れてオニに探し当てさせるという遊びがありました。衣笠山の山肌で山水が流れ出しているところの肌土を削ると水晶が出てくることがあって「水晶採り」は上級生の遊びでした。

 満足な教科書はまだ発行されていませんでしたしそもそも学校(校舎)が無かったのですから近くのお寺が学校替りでガリ版刷りの手作りの薄っぺらい印刷物を教科書にして勉強した人も多かったでしょう。とにかく「学び――勉強」がしたかったからそれでも嬉しかったのです。

 「食べたい」「遊びたい」「勉強したい」という『渇望』があって、それを満たすためにみんなで力を合わせて「工夫」して『道具』をこしらえる。これって『本質』なのではないでしょうか。「食品ロス」が世界の「飢餓人口」をまかなうに十分なほど毎年排出される、ゲーム機であったりテーマパークのように「制作者」の「意図」通りに「遊び」を与えられる、親の経済力によって与えられる「教育程度」に格差があるのが当然とされる。こんな時代よりもみんな貧乏だったけど『平等』で『希望』のあった「終戦直後」の方が「今より幸せだったのでは……」と感じている人は結構多いのではないでしょうか。

 

 「いい学校に入って、いい会社に就職して」というのはその先に『既成の幸福』が約束されているからで日本中の人たちがそうした『幸福』を求めている。そのラインに乗れなかった人はどうあがいても「幸せな人生」から脱落して一生『不幸』な人生を歩まねばならないという『強迫観念』。多分安倍元総理を暗殺した犯人もこの強迫観念に犯行を強制されたのに違いありません。

 こうした「幸福主義」に強烈な「鉄槌」を下したのが平野啓一郎の『決壊』です。そのなかで「悪魔」がSNSを通じて行なう「呪詛」を引用します。幸福主義に冒された現代日本人の「病巣」がいかに深刻かを感じてほしいと思います。

 

 幸せになる!これは最早、人間が、決して疑ってみることをしなくなった、唯一至上の恐るべき目的だ!〈幸福〉こそは、現代のあらゆる人間が信仰する絶対神だ!あらゆる価値が、そのための手段へと貶められ、このたった一つの目的への寄与を迫られている!人間は、〈幸福〉という主人に首輪を嵌められた奴隷だ!家畜の豚だ!一切の労働、一切の消費、一切の人間関係が、ただこの排他的で、グロテスクなほど貪欲な飼い主の監視の目の下で、鞭打たれながら行われている!いいか!〈幸福〉とは、絶対に断つことのできない麻薬だ!それに比べれば、快楽などは、せいぜい、その門番程度の意味しかない!違うか?人間は、快楽を否定することはできる!しかし、〈幸福〉を否定することは絶対に許されない!このたった一つの残酷極まりない、凶悪な価値が、この社会のすべてを支配しているのだ!どんな人間でも絶対に〈幸福〉を目指さなければならない!どんな形であれ、それは全的に肯定され、称揚されなければならないのだ!〈幸福のためならば人間はどんな犠牲でも払うべきだ!全ての人格は、〈幸福〉のために総動員されなければならない!〈幸福〉を愛する心!それは、ファナティックで、エロティックで、熱烈極まりない、現代で最も洗練され、先鋭化したファシズムだ!

 

 幸福主義からの脱却または決別。それが新しい日本を創造する第一歩になる。

 コロナ禍で得た光明です。

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