2022年8月29日月曜日

古今集とランドセル

  古今集を読んでいます。今年の4月頃からはじめて読み切るのにあと1ヶ月ほどかかりそうですから半年仕事です。窪田空穂の評釈(『窪田空穂全集第20巻21巻』角川書店)を手引きに首づつ精読してテキストにしている角川ソフィア文庫『古今和歌集』に書き込み、特に重要と感じたことがあったら別にノートをつくっています。窪田評と異なった訳が思いつくとそれもノートに書くようにしています。まさかこの齢になってこんな面倒くさい根気のいる読書をするとは思ってもいませんでしたが、やってみてこれこそ「老人の読書」ではないかと思うようになりました。これからは『新古今集』『古事記』とそれぞれの泰斗の書を評釈として読みつづけていくつもりです。限りがありませんし齢が齢ですからいつどんなことがあって中断、いや終焉を迎えるかもしれませんがそれでいいのです。エンドレスでこの作業をつづけていきますがいつ終わってもそこまでが収穫となればいいのです。だれの為でもない自分の「実り」として我が国の古典を読むのを生涯の「事業」にしようと決めたのです。

 古今集は905年に撰集されていますから大体九世紀――800年代の人たちの和歌が収められているわけです。約1200年前の人々の生活、心理や感情、知識を表した和歌が1140首、現代に生きているわれわれにそのまま伝わっているのです。それも世界的に誇れる完成度の高い上級な文学として伝えられてきたのです。こんな素晴らしい歴史をもった民族が世界にどれほどあるでしょうか。その「民族の遺産」とも呼べる貴重な文学を80歳にもなってほとんど知らないことに気づいて、何のためにこれまで読書してきたのかと読書履歴の偏重に気づかされ慙愧の念におそわれました。知的好奇心のおもむくままジャンルにとらわれず「我々はどこから来たのか、何者か、どこへ行くのか」を追い求めてきたつもりでしたが、努力のいる粘りづよく継続して取り組まなければならない書物は敬して遠ざけてきたのは明らかです。

 還暦を超えて時間に余裕ができてから取り組んできた「晩年の読書」で僅かながら身につけた古文と漢文の読解力、難解な書物でも逃げないで取り組む姿勢、そしてなによりじっくりと根気よく継続して読書できる能力で準備体制は整ったはずです。チャレンジしていこうと思います。

 

 一日十首程度を目安に評釈を読み込んで納得のいく解釈を得ようとすると大体1時間半ほどがあっという間に過ぎてしまいます。半年近くこうした作業を続けているうちに夢中になって「古今集の世界」に溶け込むことが可能になって貫之や躬恒、忠岑の生きていた平安時代が肌感覚で感じられるようになってきました。すると「ちはやぶる神代もきかず竜田川唐紅に水くくるとは」や「久方のひかりのどけき春の日にしづこころなく花のちるらむ」のような有名な和歌だけでなく、今まで読みとばしていた――語句が難解で――和歌のなかに思いもかけず新鮮なものや現代感覚に近いものを発見できて、古今集ってこんなに面白いものなのかと驚かされるのです。そして我々の美意識や季節感の多くが古今集に淵源を持っていることを再認識するのです。そもそも正岡子規が『歌よみに与うる書』で古今集と貫之をコテンパンにこき下ろしたことで一挙に評価が地に堕ちたのですが、それは子規の短歌改革へのなみなみならぬ決意の暴走によるもので、それを読み違えた人たちが写生に偏向して短歌をつまらないものにしてしまったきらいがあるのです。トコトン読み込めば古今集には素晴らしい和歌があふれています。こころみに今私がもっとも気に入っているものを紹介してみましょう。

 

 二九一 霜のたて露のぬきこそよわからし山の錦のおればかつちる せきお

 二三八 花にあかでなに帰るらむをみなへしおほかるのべにねなましものを 平さだふん

 前の歌は全山の紅葉に圧倒されながら風に吹かれて果てしなく落ち散る紅葉を惜しむこころを詠んだものですが、それを「錦」という織物を取り立てて「経糸」を霜、露を「緯(ぬき)糸」として経緯の閉まり具合が弱いから錦が織ったしりからほどけて散っていくではないかと嘆いているのです。なんと理屈っぽい和歌ではないですか。これはもう今どきの頭でっかちの若造の言い種です。これを読んで俵万智さんの〈「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日〉を思いだしました。この歌がブームになった頃なんと理屈っぽい短歌かと思ったのですが1200年前にその源流があったのです。

 あとの歌は、御所の若い下役人たちが嵯峨野に花見に行った帰り際の心情を詠んだもので、人々の花に飽かないでなぜ帰るのだろうか、帰らずに女である女郎花の多くある野に寝ようものを、が空穂さんの訳ですが私流はこうなります。若い頃「乳房」という字を見ただけでみょうに興奮したことを思いだして、「女郎花」なんて花をこんなに見たら「女抱きてぇ!」、日帰りなんか止めて「泊まっていこうぜ」なぁみんな。さだふん(貞文)という人は男前で浮名を流した色好みで有名な歌人だったのでこんな感覚に近かったのではと推察します。いずれにしても二首とも現代的な感性につながりを感じます。

 

 突然ですが「さんぽセル」というものをご存じですか。小学生が開発した「さんぽランドセル」で、重いランドセルにキャリーバックにする器具を着けてコロコロ運んだら楽チンだろうという小学生らしい発明品です。それほど今の教科書は多く、重いのです。そりゃあそうなるでしょう。知識は年々増加しますからそれを全部教え込もうとすればページ数が増えて当然で、おまけに科目(道徳、総合学習、英語、プログラミング)も増加の一途ですから重さに拍車がかかります。

 しかしこれでいいのでしょうか。1900年代後半灘校で国語を教えた橋本武という先生は『銀の匙(中勘助)』という小説一冊を教科書にして中学三年間を教えたといいます。三年間の国語教科プログラムを『銀の匙』から読み解くという教授方法は「精読」の技術を身に着けることであらゆる教科に必須の「読解力」を取得する最善の教授法であったかもしれません。

 

 広範な知識を広く浅く習得することに重点を置いた現在の教育制度は、グロバル化とイノベーション力の問われる現在に適さないのではないでしょうか。文科省も「特定分野に特異な才能のある児童生徒を支援」する体制を模索していますが、そうではなくて子どもたち全員に「根気よく、一つことに集中して学ぶ能力」を習得する教育に方針転換する必要があるのではないかと思うのです。

 

 古典を知ることは国の根本を理解することにつながる最良の方法だと思います。

 

 

 

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