2023年12月25日月曜日

理念なき政治の末路

  昨今の安倍派の裏金疑惑を見ていると「盛者必衰、驕る者久しからず」という言葉の余りの符号に愕然としてしまいます。この事件の行く末を見通し沈没する船を早々と見限り派閥への忠誠心を放擲して保身に走る「小賢しい輩」がしたり顔にメディアに顔を曝していますが、その言い訳を国民が見抜けないとでも思っているのでしょうか。安倍派の議員、いや自民党議員は「政治資金規正法」を読んだことがあるのでしょうか。

 この法律は(略)政治活動が国民の不断の監視と批判の下に行われるように(略)政治資金の授受の規正その他の措置を講ずることにより、政治活動の公明と公正を確保し、もつて民主政治の健全な発達に寄与することを目的とする。(略)政治資金の収受に当たつては、いやしくも国民の疑惑を招くことのないように、この法律に基づいて公明正大に行わなければならない。

 こうした基本理念を肝に銘じるのが「政治家一年生」の心得であり覚悟の第一歩のはずですが、「安倍一強」を頼みに派閥に従属した多くの議員は「派閥の論理」を最高位の倫理として、国民に向かうのではなく派閥の親分の顔色を窺うのを議員活動の要諦としたのでありましょう。

 事件の顛末がどうなるか予想もつきませんが「国民感情」に沿った改革を施さなければ「政治不信」は一層拡大するにちがいありません。

 

 岸田さん肝いりの「異次元の少子化対策」として「児童手当の拡充」が目玉政策となっていますがその陰で「わが国税制の根幹」が蔑ろにされようとしています。高校生など(16才~18才)の扶養控除額を現行の38万円から25万円に引き下げようというのです。

 わが国所得税制度の最大の特徴のひとつが「源泉徴収制度」です。われわれは給料から税金や社会保険料が天引きされているのを当然のように受け入れていますが、実はこの制度は世界の少数派なのです。主流は「申告納税制度」で源泉徴収を採用している国はわが国以外ではインド、ドイツ、韓国などごくわずかです。源泉徴収制度は徴収側には都合のいい制度で、取りっぱぐれがありませんし税務署の役人の数を申告制度に比べて著しく少なくすることができます。手間はかかりますが、毎年家庭を維持するために必要な経費を収入から差し引いた残額を「課税所得」として税金が計算されるのが最も納税者の事情を反映した「公平」な制度のはずですが納税者はみな事情が異なりますから千差万別で事務作業が煩雑を極めます。納税者の納税手続きに要する手間と時間を考えると申告制度が必ずしも納税者のすべてが歓迎する制度とも言い切れません。そこで納税者の「標準型」を想定し各人をそれに当てはめて税を計算し給料の支払時に徴収する「源泉徴収制度」が取り入れられたのです。収入額別にクラス分けしクラス別の想定必要経費を差し引いて概算の「課税所得」を算定、そこから更に扶養家族や障害者、ひとり親、医療費、生命保険代など各人の事情を反映した経費を控除して最終的な「課税所得」を算定しそれに所得別の税率を掛けて「税額」を算定する制度です。国民一人ひとりの事情を可能な限り反映できる「経費」を標準化して所得から差し引き「課税所得」を算定する制度ですからこの「所得控除」は「源泉徴収制度」の『肝』になります。

 ところが今回の「児童手当」の高校生までの拡充(月額1万円)するにともなって扶養控除を現行の38万円から25万円に引き下げようとしているのです。扶養控除は義務教育を終えて高校、大学に進学する子どもがほとんど100%近くになって学費などの負担が全家庭共通になったのに応じて高校生は38万円大学生は63万円を必要経費として認めようとしたものです。38万円といえば月3万円ちょっと、微妙な金額で国民の納得できるかどうかのギリギリの設定ですが決まったものは仕方ないからシブシブ納得しているのが現状です。

 税制の根幹である「所得税」の「源泉徴収制度」が国民の納得を得るために設定された「所得控除」を変更するためには、所得(給料)を得るため、生計を維持するための事情に根本的な変更があった場合にのみ認められるのが本道で、たとえば「ひとり親控除」は2020年(令和2年)に創設されたもので世間の事情が無視できない状況に至ったのを反映したものです。高校生にかかる費用にまったく変更がないのですから必要経費を減額する事情はどこにも存在していません。児童手当の支給は別次元の問題です。政治家や厚労省の役人は収入全体で見れば増額になるのだから扶養控除を13万円ばかり削ってもいいじゃないか、という大ざっぱな考えでいるのでしょうがそれは「原理原則」を無視したもので『理念』を重んじる気配は微塵もありません。

 

 同様なことは「第3子以降の大学無償化」制度にも言えます。「異次元の少子化対策」の一環として創設されようとしていますが「的外れ」もはなはだしい施策です。この制度があるから結婚しようと思う男女は絶無でしょうし、第3子を考えようという夫婦も稀なケースでしょう。それよりも晩婚化が進んで結婚年齢が30才前後になった今、せいぜい子どもふたりが限界の夫婦がほとんどですから彼らにとってはまったく無用の制度です。

 

 とにかく今の政治には「理念」がなく目先の「選挙」に有利に働くかどうかが判断基準になっていますから、根本的な改革よりは「やっている感」が演出できればそれでいいのです。上の二策もしかりで選挙対策のために打ち出した「増税めがね」の「減税」「子育て」対策以外の何ものでもありません。一方目を転じれば戦争がウクライナとガザで戦われており地球温暖化は待ったなしですし、わが国の少子高齢化は厳しい状況に至っています。「理念」なしでは解決の道筋を見つけることはできない状況です。

 「指導者」の出現が待たれます。

 

 今年もこれで最後のコラムになります。82才は体力の衰えを痛感させられた一年でした。もし初孫がいなかったらここまで頑張れたかどうか。晩年に至ってこんな嬉しいプレゼントを与えていただいた神仏に感謝せずにはいられません。

 どうか皆さま、良いお年をお迎えください。

   

 

 

 

 

 

2023年12月18日月曜日

時事雑感

   パー券のノルマ、売上高、キックバック。これ、キャバクラの話ではありません、政治の話なのです。こうした言葉が政治の世界で平気に使われることが今の政治状況を赤裸々に表しているのではないでしょうか。政治が風俗業と同レベルに堕しているということです(キャバクラで懸命に働いているみなさん、ごめんなさい)。政治家がこうした言葉を使っているとしたら彼らは自分をそう見られても何ら恥じることがないのだろうし、彼らにそうした表現を当てはめているメディアは政治家をその程度のものと見下しているからに他なりません。

 驚いたことは安倍派の権力構造――重要ポストを構成している力関係が見事に「パーティー券売上高」に『比例』していることです。1千万円以上のキックバックを受けている連中が重要閣僚と政務三役についているのですからそれ以外には考えられません。いつからそうなったのかは分かりませんが、少なくとも安倍さんは彼ら(と近い人たち)を重用していました。憲政史上最長を誇った「安倍一強」の実態が「パーティー券売上高競争政権」だったとしたら何とも情けない話です。

 

 この騒動をいかに収拾するかについて「安倍派一掃」案が浮上して岸田さんにその覚悟があるかが問われていますが、一方でそれじゃ見せしめじゃないかという反論が安倍派からも他派からも、そして識者の一部からも出ていますが、みせしめて当然なのではありませんか。安倍派が「パーティー券売上力権力構造」になっていることは派内の誰もが承知していて誰ひとり反旗を翻すこともなくその組織に自ら望んで所属していたのですから売上高の多少にかかわらず同罪だと思うのですがおかしいでしょうか。

 政治家の皆さんは10年前(平成25年)「いじめ防止対策推進法」を制定しました。そのなかにこんな条文があります。

 「いじめの防止等のための対策は、全ての児童等がいじめを行わず、及び他の児童等に対して行われるいじめを認識しながらこれを放置することがないようにするため(基本理念)」(略)いじめの防止等のための対策は(略)行われなければならない。

 この条文はいじめをする子どもも見ていながら、知っていながら見逃す子どもも同じように「いじめをしている」とみなして対策を講じるとしているのです。この伝でいけば安倍派で多額の売上げを達成して1千万以上のキックバックを受けていた政治家も、集金力がなくてノルマ負けした政治家も同罪だということにならないでしょうか。

 子どもには「罪を見逃す罪」を説いておきながらおとなは、それも国家公務員特別職の政治家さんは知らんぷりするというのはいかがなものでしょうか。

 

 部員が大麻を使用したということで日大アメリカンフットボール部が廃部になろうとしていますが、これに抗議や廃部取り止めを歎願しているひとがいますがどうなのでしょうか。

 日大アメフト部廃部というと2009年の近大ボクシン部の廃部を思い出します。元ボクシング部員が通行人を相次いで襲い現金を奪うなどした事件で、元部員人が逮捕。現金やキャッシュカードを奪うなど16、17件の強盗致傷や恐喝などの事件に関与していたとして2人は退学処分となりボクシング部が廃部になった事件です。同部はその後OBの赤井英和さんらの尽力によって3年後復活していますが近大ボクシング部は大学日本一に11度も輝いた名門でした。

 大麻使用は大麻取締法違反の罪に問われることになりますが強盗致傷、恐喝とどちらが重罪かは判断しかねます。近大は2人だったのに比べて日大は今のところ3名が逮捕されていますが今後10人以上に逮捕者が増える可能性も高いと言われています。問題はアメフト部の寮が犯罪の現場であったことと逮捕されている現役部員だけでなく卒業生にも大麻法違反者がいたことでひょっとしたら何年も前から、アメフト部ぐるみであったかもしれません(部員全員ではなく上級生の一部が長年にわたって組織的に行なっていたことも含めて)。

 ボクシングとアメフトという競技のイメージがあるのは否めませんが、近大のボクシング部が廃部当然と見るなら日大アメフト部も廃部になって当然ではないでしょうか。時代の趨勢として現在の麻薬に対する罪罰感は厳罰化しています。その違反者が同一の部から10人以上も出る(可能性)としたらこれは相当反社会性は強いのではないでしょうか。加えて責任者の副理事長が証拠隠滅めいた行動もとっていますし数年前には「悪質タックル事件」もありました。廃部当然ではないでしょうか。

 歴史ある日大アメフト部ですからアメフト界にとっては痛手でしょうし、OBのみなさんにとっては悔やんでも悔やみきれないでしょうから赤井さんのように身を切って再建を目ざす人も出てくるにちがいありません。たとえ廃部になっても日大を上げて、現役、OB、保護者及び関係者の熱意で早期に復活することでありましょう。

 

 この問題でメディアも全く触れていない問題があります。「田中元理事長」の存在です。元理事長の影響力は日大大学競技スポーツ部全般にわたって強力だったはずです。理事長は退任しましたが彼の影響力は完全に排除されたのでしょうか。スポーツ界は上下関係(現役、OB、競技界)が厳しく、コーチ・監督の指導力と政治力(スポーツ界のヒエラルキー)の影響が強いといわれています。そうした状況を考えると田中さんは形の上で理事長職は辞したとしてもその影響下にあるコーチや監督が多く残っているのではないでしょうか。今回の騒動でアメフト部の監督・コーチがまったく表に出てこないのは異常です。メディアがなぜ切り込まないのか不思議です。

 

 ところで林真理子さんにわれわれは何を期待したのでしょうか。そして日大の関係者は何を期待してどんなバックアップで迎えたのでしょうか。今の彼女は哀れで醜悪です。残念至極です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2023年12月11日月曜日

もし今が幕末だったら

  今年は幕末ものを何冊か読みました。たとえば川路聖謨(かわじとしあきら)を描いた吉村昭の『落日の宴』(講談社文庫)や最近なら阿部正弘の『群青のとき』(今井絵美子著角川文庫)など。なぜ幕末に興味が湧くかを考えてみると歴史の大変革期だからではではないでしょうか。幕末は「泰平の眠りを覚ます上喜撰(蒸気船)」と庶民が落首したように、250年の鎖国の間に産業革命を経て圧倒的な経済力を蓄えた欧米列強の軍事力に開国を迫られた「外圧による政治制度の大変革期」。今はやっと欧米先進国に追いつけ追い越せたと思ったら国際情勢が溶解して国際新秩序を求める混沌の時代となった世界の大変革期のなかでわが国をどのような国家に改造すべきか「模索の大変革期」です。どちらも既存の社会制度の大変革期であることは共通ですが、幕末には明らかなモデルが存在していたのに対して現在は新しい価値体系を創造しなければならないだけ乗り越える困難さは断然現在の方がハードルは高いでしょう。それにしては現在の政治家、財界人のレベルに疑問符が付かないでしょうか。

 

 幕末の幕閣にとって「アヘン戦争」は強烈な脅迫意識であったにちがいありません。千年以上に亘って国の進むべきお手本としてきた「大中国帝国」がいとも易々と新興イギリスに征服されたのですから驚天動地と感じたにちがいありません。加えて国内は「尊王攘夷」の嵐が吹き荒れていましたから執政者はかじ取りに悩んだことでしょう。国力=軍事力の差は歴然でしたから戦火を交える選択肢はありません。しかし攘夷論者たちは「竹槍戦法」でも「玉砕覚悟」で主戦論を唱えるばかりです。いかに戦端を開かずに不利な条件を可能な限り少なく「和親条約」を締結できるか、それが彼ら幕閣の生命線でした。

 反して現在は無極化した国際情勢のなか米中ロの覇権闘争の狭間で確たる進路を見出せずに竦み脅えるばかりの自民党=岸田政権。断然たる列強が存在した幕末と覇権に陰りが見えるアメリカに盲従するばかりの現在。

 

 攘夷論の「夷」は欧米列強ですが現在の「夷」は中国でありロシア、そして北朝鮮になるでしょう。国是は幕末は祖法――国交断絶、鎖国政策だとしたら現在は憲法――九条と非核三原則が相当するのでしょうか。

戦争の脅威のなかで開国を迫られた幕末の執政者は「祖法とは国を護るための法、今、祖法を破るのが国の安全を護ることになる(『群青のとき』より)」と開国を選択しました。攘夷論者も開国派の執政者も「国を憂う心はひとつ。だが、憂うだけで、現実に目を向けないのであれば、真にわが国の未来を考えているとは思えない(『群青のとき』より)」と阿部正弘をはじめとした幕閣は開国を選択したのです。しかし国力の圧倒的差は如何ともし難く「日米和親条約」にせよ「日露和親条約」にせよ片務的不平等条約ならざるを得なかったのです。この国辱を晴らすために明治新政府は臥薪嘗胆、苦節50年――明治44年(1911)遂に条約改正を勝ち取ったのです。陸奥宗光、小村寿太郎たちの不屈の執念が明治政府の最重要外交課題を解決に導いたのです。

 第二次世界大戦に敗戦したわが国はその教訓を憲法九条に昇華させて「戦争放棄」と「非核武装」を国是としました。米ソ冷戦の緊張状態の高まりは日本政府に「日米安全保障条約」の締結という選択肢を取らざるを得ない状況に追い込みました。しかしこの条約も彼我の国力の差と軍事力を持たないという非対称性によって「日米地位協定」という不平等条約とならざるを得ませんでした。しかし1960年から早や60年以上経ちますが未だに改定の兆しもありません。最近もオスプレイの墜落事故がありましたがわが国の飛行停止要求は無視され事故調査権もわが国には無いのです。明治政府は不平等の解消を国辱を晴らすための最重要課題として取組みましたが戦後保守政権が不平等解消に真剣に取り組んだ形跡を認めることはできません。

 

 幕末政府で老中首座として執政した阿部伊勢守正弘は備後福山藩第七代藩主で25才で老中になり12年間首座として混沌期の幕末を戦争を回避しながら開国に導きました。彼の下で日ロ和親条約締結に尽力したのが川路聖謨です。アメリカが高圧的な脅迫外交を展開したのに比べてロシアのプチャーチンが終始紳士的な交渉姿勢を崩さなかったのは相手国でさえも魅了した川路の外交手腕に負うところが大きかったのです。この条約にある国境策定条文を精査すれば現在紛糾している日ロ国境問題に新たな展開があるのではないでしょうか。

 

 阿部正弘の出た備後福山藩は現在の広島県福山市周辺を領していましたから奇しくも岸田総理と同じ広島出身の日本国最高政治権力者になります。阿部正弘は混沌の幕末を破綻なく列強支配の国際情勢の中へ軟着陸することに成功しました。川路聖謨という優秀な外交官も存在しました。同じ広島出身である岸田総理は「新しい資本主義」という現在の混迷する国際世界を新秩序に導く可能性を感じさせるキャッチフレーズで登場しながら何ひとつ改変することなく、ただ既存政治勢力の「大棚ざらえ」政策で調整――ご機嫌を取りながら総理の座に執着するだけの「鵺(ぬえ)的存在」として日本政治史に汚点を残すことになりそうです、自民党政権最低の政権支持率で総裁交代したという。

 

 幕末の若い幕閣と現在の政治家を比較したとき、理念と矜持のあまりの差に愕然とするばかりです。勿論政治には権力闘争の側面は否定できません。しかし国と国民をあるべき方向に導く「理念」のない政治は単なる「政治ゴッコ」です。そして矜持のない政治家は権力の亡者に堕するばかりです。

 阿部正弘と川路聖謨。彼らに比肩しうる人材の出現が待たれます。

 

2023年12月4日月曜日

出版社よ、ガンバレ!

  今年ももう12月、早かったですね。齢のせいもありますがコロナの影響が大きかったのではないでしょうか。毎日単調な暮しの繰り返しであっという間に3年経って、その間に80才を超えて体力が衰えて、「自粛明け」といってももう以前に復することはできずにコロナ禍中と同じような毎日になってしまって1年が過ぎてしまったのです。

 私の今年のひとつのエポックは「くずし字」で百人一首を書きはじめたことです。『くずし字で「百人一首」を楽しむ』(中野三敏・角川学芸出版)をお手本に筆ペンで半紙(半切)に一日一首か二首手習いしています。この本は10年ほど前「書」――美術展に行ったときまったく読めなかった――が読めるようになりたいと思って買ったのですが二度読んでも覚えられなかったので本箱のホコリにまみれていました。今年改めて挑戦してみようと思い立ち、しかしただ読むだけでは同じことになるから書いて覚えてみようと計画しました。最初はメモに太字のボールペンで書いていたのですがスグどうせやるなら筆でやってみようと思いなおしやってみると、これがなかなかいいのです。感じが出るというか、字の運びがボールペンでは硬かったのが筆に変えてみると下手なりにお手本の流れを真似ることが出来たのです。

 一ヶ月も経たないうちにそこそこ恰好がつくようになり二周目に入った夏ころになると八割程度は読めるようになって字も、ただなぞるだけでなく自分なりに計画を立てて書くようになりました。三周目の今は「元字」――くずしの元となっている漢字を思いながら書くようにしています。元字は万葉集の頃には約四千字ありましたが平安中期の11世紀には約350字に集約され新古今集が編まれたころに120字にまとめられて江戸時代末まで、そして今でもその字がくずし字として残されています。仮名文字は46音ですからその3倍ある勘定になります。変化の経過を見るのも面白く、毎朝はじめに行なうこの修行は続けられるだけ長く、習慣にしていきたいと思っています。今は筆ペンですが来年は本物の筆にも挑戦して、半紙も一枚丸々使って気分よく、書を楽しむくらいになれば嬉しいのですが……。

 不思議なもので下手くそが恥ずかしくて金封の表書きは筆耕屋さんに頼むか――一昔前までは町の文具屋さんならどこでも書いてくれたのですが今やわが町には一軒になってしまいました(探せばもっとあるはずですが)――習字を習っていた娘に書いてもらっていたのですが今は下手なりに自分で書くようになりました。たまに気に入った漢詩があると書いてみることもあります。書くことが楽しくなってきたのです。

 

 改めて思うのですが「書く」という行為は人間の営みの奥底にある記憶や学びに深く影響していると思います。何回も覚えようとして果たせなかったくずし字が書くことによって短時日に覚えられるようになったのは「書く」ことの霊妙なる力によるのだと思います。よく作家が修行時代尊敬する作家の本を懸命に書き写して創作の基本を学んだと告白しています。他人の文章をただ写すことが何故小説家の基本的な訓練になるのか、書く行為が作家の思索の後追いとなって思いを文字化し思考の連続過程を再現するからではないでしょうか。口承であった呪文や歴史を文字で書くことで多くの人に伝える力を具えるようになった、文字のもつ不思議な力。これなくして人間の文化の継承と発展はなかったのです。文字を書くという行為に込められた人類の貴重な「知力」を捨て去ろうとしている今の「IT情報時代」に非常な危惧を感じています。百年といわず十年後にも人間の文化に重大な破綻が生じるのではないか。そんな危機感を抑えることが出来ません。

 

 ところで「古筆切(こひつぎれ)」というものをご存じでしょうか。昔裕福なおうちへ行くと立派な屏風があって金箔の生地のうえにくずし字で和歌の書かれた扇子の扇画が何枚か貼ってあるのを見たことがあると思いますがあれが古筆切です。扇形以外に半紙のものも多くありますが、平安時代から鎌倉時代にかけて主に和歌を書いた冊子や扇の断簡、断片を古筆切といいます。印刷機ができるまでは原本を「書写」して自分用の本にして読書したりお手本にしていましたから、たとえば「伊勢物語」は在原業平(?)の書いたものを何人もが書写していますから何百冊も伊勢物語の本が流通したはずで、そのうちで「名筆」と評価された何冊かが「――本」「××本」という形で後世に伝えられたのです。お茶が流行すると茶席に墨跡を掛ける様式ができて、最も貴重とされたのが有名古筆切を貼った掛け軸とされました。掛け軸以外に屏風もありますし立派なお屋敷の襖などにも古筆切は使われています。

 問題は元は書物ですから一冊の本が切れ切れに和歌一首ごとに切り離されることです。百人一首なら百首が最大百人に分有されることもありますからこれを復元するのは大変困難な作業になります。この複雑で面倒な作業が学問となったのが「古筆学」です。旧い筆跡の筆者、書写年代、内容などを明かにしてそれらを系統的に分類整理する学問が古筆学です。小松茂美は古筆学の泰斗ですが小松さんが大変な偉業を成し遂げたのです。

 

 『古筆学大成』全30巻がそれです。価格はなんと180万円、1巻6万円です。古今和歌集から新古今集、万葉集などの和歌集と和漢朗詠集、歌合せ、漢籍、仏書そして論文も含む30巻です。膨大な古筆切を収集して一巻に仕立てるだけでも目のくらむような作業量ですからもし古今和歌集を完成させるとなれば大変な苦労になります。それを30巻ですから想像を絶する作業です。勿論何人いや何十人というスタッフのもと各地に協力者があってできたことですが、どのように情報網を築いたのか、一枚あったという連絡があれば飛んでいって写真を撮る、四国だろうが東北の山深い里の元村長さんの宅に定家の和歌が一首あったとなればそこへ行かなければならないのですから並大抵の苦労ではありません。膨大なな時間と人員が要ったはずですがそれを組織して統率して、継続しつづけた小松さんは「凄い!」人です。

 しかしその小松さんを、夢物語のような起案の段階から完成まで30年近く抱えて湯水のごとく費用を賄いつづけた「講談社」という出版社の懐の深さには驚きを禁じ得ません。そしてそれ以上に日本文化への深い造詣と出版という形で後世に伝えなければならないという「使命感」は、出版業という「文化的事業・企業」の究極のあり方を示してくれているではありませんか。

 

 ネット時代になってスマホ隆盛となりSNS全盛の時代になって、「紙媒体」――「本」という形は絶滅危惧種のように見なされていますが、『古筆学大成』のような「情報態」は紙媒体でないと実現できません。そして講談社のような歴史と財政的基盤を具えた企業が必要です。

 

 スマホは便利です。しかし文化の創造と伝承のためには「出版業」は不可欠です。苦難の時代ですが、講談社ガンバレ!出版業のみなさん、ガンバッて下さい。