2023年12月4日月曜日

出版社よ、ガンバレ!

  今年ももう12月、早かったですね。齢のせいもありますがコロナの影響が大きかったのではないでしょうか。毎日単調な暮しの繰り返しであっという間に3年経って、その間に80才を超えて体力が衰えて、「自粛明け」といってももう以前に復することはできずにコロナ禍中と同じような毎日になってしまって1年が過ぎてしまったのです。

 私の今年のひとつのエポックは「くずし字」で百人一首を書きはじめたことです。『くずし字で「百人一首」を楽しむ』(中野三敏・角川学芸出版)をお手本に筆ペンで半紙(半切)に一日一首か二首手習いしています。この本は10年ほど前「書」――美術展に行ったときまったく読めなかった――が読めるようになりたいと思って買ったのですが二度読んでも覚えられなかったので本箱のホコリにまみれていました。今年改めて挑戦してみようと思い立ち、しかしただ読むだけでは同じことになるから書いて覚えてみようと計画しました。最初はメモに太字のボールペンで書いていたのですがスグどうせやるなら筆でやってみようと思いなおしやってみると、これがなかなかいいのです。感じが出るというか、字の運びがボールペンでは硬かったのが筆に変えてみると下手なりにお手本の流れを真似ることが出来たのです。

 一ヶ月も経たないうちにそこそこ恰好がつくようになり二周目に入った夏ころになると八割程度は読めるようになって字も、ただなぞるだけでなく自分なりに計画を立てて書くようになりました。三周目の今は「元字」――くずしの元となっている漢字を思いながら書くようにしています。元字は万葉集の頃には約四千字ありましたが平安中期の11世紀には約350字に集約され新古今集が編まれたころに120字にまとめられて江戸時代末まで、そして今でもその字がくずし字として残されています。仮名文字は46音ですからその3倍ある勘定になります。変化の経過を見るのも面白く、毎朝はじめに行なうこの修行は続けられるだけ長く、習慣にしていきたいと思っています。今は筆ペンですが来年は本物の筆にも挑戦して、半紙も一枚丸々使って気分よく、書を楽しむくらいになれば嬉しいのですが……。

 不思議なもので下手くそが恥ずかしくて金封の表書きは筆耕屋さんに頼むか――一昔前までは町の文具屋さんならどこでも書いてくれたのですが今やわが町には一軒になってしまいました(探せばもっとあるはずですが)――習字を習っていた娘に書いてもらっていたのですが今は下手なりに自分で書くようになりました。たまに気に入った漢詩があると書いてみることもあります。書くことが楽しくなってきたのです。

 

 改めて思うのですが「書く」という行為は人間の営みの奥底にある記憶や学びに深く影響していると思います。何回も覚えようとして果たせなかったくずし字が書くことによって短時日に覚えられるようになったのは「書く」ことの霊妙なる力によるのだと思います。よく作家が修行時代尊敬する作家の本を懸命に書き写して創作の基本を学んだと告白しています。他人の文章をただ写すことが何故小説家の基本的な訓練になるのか、書く行為が作家の思索の後追いとなって思いを文字化し思考の連続過程を再現するからではないでしょうか。口承であった呪文や歴史を文字で書くことで多くの人に伝える力を具えるようになった、文字のもつ不思議な力。これなくして人間の文化の継承と発展はなかったのです。文字を書くという行為に込められた人類の貴重な「知力」を捨て去ろうとしている今の「IT情報時代」に非常な危惧を感じています。百年といわず十年後にも人間の文化に重大な破綻が生じるのではないか。そんな危機感を抑えることが出来ません。

 

 ところで「古筆切(こひつぎれ)」というものをご存じでしょうか。昔裕福なおうちへ行くと立派な屏風があって金箔の生地のうえにくずし字で和歌の書かれた扇子の扇画が何枚か貼ってあるのを見たことがあると思いますがあれが古筆切です。扇形以外に半紙のものも多くありますが、平安時代から鎌倉時代にかけて主に和歌を書いた冊子や扇の断簡、断片を古筆切といいます。印刷機ができるまでは原本を「書写」して自分用の本にして読書したりお手本にしていましたから、たとえば「伊勢物語」は在原業平(?)の書いたものを何人もが書写していますから何百冊も伊勢物語の本が流通したはずで、そのうちで「名筆」と評価された何冊かが「――本」「××本」という形で後世に伝えられたのです。お茶が流行すると茶席に墨跡を掛ける様式ができて、最も貴重とされたのが有名古筆切を貼った掛け軸とされました。掛け軸以外に屏風もありますし立派なお屋敷の襖などにも古筆切は使われています。

 問題は元は書物ですから一冊の本が切れ切れに和歌一首ごとに切り離されることです。百人一首なら百首が最大百人に分有されることもありますからこれを復元するのは大変困難な作業になります。この複雑で面倒な作業が学問となったのが「古筆学」です。旧い筆跡の筆者、書写年代、内容などを明かにしてそれらを系統的に分類整理する学問が古筆学です。小松茂美は古筆学の泰斗ですが小松さんが大変な偉業を成し遂げたのです。

 

 『古筆学大成』全30巻がそれです。価格はなんと180万円、1巻6万円です。古今和歌集から新古今集、万葉集などの和歌集と和漢朗詠集、歌合せ、漢籍、仏書そして論文も含む30巻です。膨大な古筆切を収集して一巻に仕立てるだけでも目のくらむような作業量ですからもし古今和歌集を完成させるとなれば大変な苦労になります。それを30巻ですから想像を絶する作業です。勿論何人いや何十人というスタッフのもと各地に協力者があってできたことですが、どのように情報網を築いたのか、一枚あったという連絡があれば飛んでいって写真を撮る、四国だろうが東北の山深い里の元村長さんの宅に定家の和歌が一首あったとなればそこへ行かなければならないのですから並大抵の苦労ではありません。膨大なな時間と人員が要ったはずですがそれを組織して統率して、継続しつづけた小松さんは「凄い!」人です。

 しかしその小松さんを、夢物語のような起案の段階から完成まで30年近く抱えて湯水のごとく費用を賄いつづけた「講談社」という出版社の懐の深さには驚きを禁じ得ません。そしてそれ以上に日本文化への深い造詣と出版という形で後世に伝えなければならないという「使命感」は、出版業という「文化的事業・企業」の究極のあり方を示してくれているではありませんか。

 

 ネット時代になってスマホ隆盛となりSNS全盛の時代になって、「紙媒体」――「本」という形は絶滅危惧種のように見なされていますが、『古筆学大成』のような「情報態」は紙媒体でないと実現できません。そして講談社のような歴史と財政的基盤を具えた企業が必要です。

 

 スマホは便利です。しかし文化の創造と伝承のためには「出版業」は不可欠です。苦難の時代ですが、講談社ガンバレ!出版業のみなさん、ガンバッて下さい。

 

 

 

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