2022年12月26日月曜日

子育てという発見

  泥沼化したウクライナ戦争、それに乗じた我が国の軍事大国化、安倍前総理の暗殺、終息の見えないコロナと世界経済の不調など暗いニュースばかりあったこの一年。唯一の明るい話題はワールドカップの日本チームの活躍で2022年が暮れようとしています。 

 世間様はそんな風なのに我が家は笑いが絶えなくて申し訳無い気持ちです。四月に授かった初孫の成長がLINEで写真や動画付きで送られてきますので一緒に暮らしているような臨場感です。月に二三度いに行くとコンニチワと大袈裟に挨拶するジジとババにコックリと訳も分からずうなずいてくれる孫のかわいさは一瞬に別世界に導いてくれます。

 孫は今のところ順調に成長しています。というか標準以上の成長ぶりなのですがそれは2つの偶然のお陰なのです。40日の産後保養を我が家で過ごして高槻の自宅に帰ったのですが早速難問が控えていました。ベビーベッドを二階の寝室に置いて家事は一階のリビングで行なうと赤ちゃんに目が届かないということに気づいた若夫婦は、毎日毎日ベッドを一階に下ろすというのは面倒だし、かと言ってもう一台ベッドを買うという選択には躊躇する。そこでふたりがとった、リビングの床に直接フトンを敷くという苦肉の策が思わぬ効果をあげることになったのです。そりゃあそうでしょう、僅か80センチと1メーターそこそこの柵に囲まれた檻のような空間から広大無辺(?孫はそう感じたにちがいありません)の地に解きはなたれたのですからその解放感に彼の「野生」は喜びの雄叫びを上げたにちがいありません。4ケ月頃からが標準といわれている「寝返り」は3ヶ月早々にするようになり、お座りと首の据わりも順調、ハイハイを7ヶ月でしたときには大喜びすると同時にイヨイヨ目が離せなくなったと嬉しい心配までしました。しかし現代の機械文明はかゆいところにも手が届いていて「見守りカメラ」があるのです。赤ちゃんの行動範囲をカバーできるカメラを設置すると映像が台所で仕事をする娘の前の小モニターに映されるのです。勿論モニターを2台3台設置すればどこでも見守りできるわけで本当によくできています。「つかまり立ち」をしたのは12月5日でしたが、気配を察知した娘がスマホを構える前で立った映像をスグ様LINEで送ってくれてジジ、ババは声を上げて「スゴイ!」と歓喜の声を上げました。生後8ヶ月、この間軽い風邪の症状(ハナ水)があった他はこれといった病気もせずここまで成長してくれたことは喜び以外ありません。それもこれも「子育て教科書」には載っていない「早期のベッドからの解放」がもたらした幸運でした。

 二つ目の偶然は「赤ちゃんフェンス」です。ハイハイが上手になって行動範囲の広がった孫が気がついたら台所で炊事をしている娘の足元にいるのにビックリした夫婦はこれではイカンと赤ちゃんフェンスを設置したのは7ヶ月になる頃でした。リビングが台所で区切りとなった1.5メートルほどにフェンスで遮断された孫はヒトリボッチにされると柵の向こうに去りかけた娘の背中に向かって悲し気なシクシクを浴びせたのです。何日かしてお母さんとお父さんがいる時には泣かなくなったのですが、それが引き金になって「人見知り」するようになりました。タイミングが悪いというか婿さんのご両親が久しぶりに会いにこられた時は人見知り全開で中々泣き止まず申し訳なくて恐縮したと娘はこぼしていました。

 この現象は「8ヶ月不安」というらしく「母子分離不安」ともいいます。8ヶ月頃になると赤ちゃんの「認識」と「記憶」の脳が成長することによって、親と自分がちがう人間だということに気づき、物理的にも距離があることも分かってきます。この成長により、ママが傍にいない、遠くにいる、姿が見えないということが分かるので不安になり泣くのです。別の面から言えば「お母さんが特別な存在」だと認識するようになったことになります。お母さんと別の人、見知った人とそうでない人が区別できるようになる発達段階で「人見知り」は起こるのです。小児科の先生がこう解説していますが、今までの「母子一体」の無意識な安心感が破られると同時に「母親」という「絶対的な保護者」を獲得するのです。お母さんが離れると泣いて傍にいてと訴える、見知らない人がいると泣くことでお母さんに知らせる、それが見慣れたおばあちゃんだったりおじいちゃんだと気づくと安心する――おかあさんの次に保護してくれる存在だと認識できるのでしょう。

 「母子一体の安心感」を「赤ちゃんフェンス」が強制的に破壊したのでしょうか。遅かれ早かれこの発達段階はどんな赤ちゃんにもくるのですが孫の場合は「赤ちゃんフェンス」という障害物の設置がその時期を明確に区切ったのかもしれません。ちょうど「母子教室」に参加し始めたこともあって孫の人見知りはやや強烈なようですが賢い子ですからそのうち克服することでしょう。

 

 いつからか「子育て」が母親の専権事項と見なされるようになって世のお母さんたちは孤独な強迫観念にさらされています。頼りは「子育て教科書」で本とインターネットのテキストに「支配」されて「分単位」の「子育て記録」と教科書を突き合わせて「標準」との乖離に一喜一憂の毎日です。そうしたお母さんの窮状をサポートする行政の施策も驚くほどの充実ぶりでそれはそれでいいのですがもう少し「子育てという発見」を楽しむ余裕があってもいいのでは――娘の奮闘ぶりを見ていてそんな感想を抱かずにはいられぬ時期もありましたが「離乳食」をおいしそうに「完食」する息子の成長を喜ぶ姿に「母親馴れ」した様子がうかがえ一安心しています。

 

 八十才にして初孫を授かるという幸運に「有頂天」の一年を過ごしました。一年最後のコラムをこんな私事で終わることに恐縮の念を禁じ得ませんが「ジジの孫育ち日記」のような「発見」は私たち高齢者の周囲にも満ちています。嬉しいこともあれば若い人たちの理不尽な格差に悩む現実であるかもしれません。喜びはひっそりと、怒りは力に変えてこれからの残りの人生の「はずみ」にしていけたら充実した「晩年」になるのではないでしょうか。

 よいお年をお迎え下さい。

2022年12月19日月曜日

今年は『水平線』が推しです

  今年も読書三昧の一年でした。そして読書にとって「書斎」の重要性をつくづくと思い知らされた一年でもありました。四年前に結婚した娘の部屋を書斎に設えたのですが、他の生活空間と隔絶していて扉を閉めると読書に没頭できるのがありがたく四畳に満たない狭さも小人にはかえって程よく、友人や知人から貰ったり購った絵と時おり妻が活けてくれる生花が今はない花のない花瓶も風情となって「わたしの書斎」という統一感を保ってくれています。ミニコンポで好きな音楽を聴く時間が次への弾みとなって読書に浸ることができ、こんな環境がなければ『古今和歌集(角川ソフィア文庫)』を窪田空穂の評釈(『窪田空穂全集20、21』)を手引きに一首一首を玩味しながら半年をかけて精読することはできなかったにちがいありません。今は古今集がらみで『伊勢物語(岩波文庫ワイド版)』を同じ窪田空穂(『窪田空穂全集25』)を頼りに読んでいます。芭蕉もじっくり読むことができました。『芭蕉の風景 上・下』(小澤實著・ウェッジ社)は芭蕉が句を詠んだ場所へ行ってその句を鑑賞するという贅沢だがなんともご苦労な著述スタイルの本ですが評釈と推敲の過程も書いてあって俳句をつくっている人には実作にも役立つ内容になっています。芭蕉は何度も紀行を行なっていますが行く先々で会った俳人仲間や後援者との行き交い、連歌を巻いた有り様などを詳細に記されていて「俳句鑑賞読本」として最適の本になっています。有名な句も多くある芭蕉ですが、これまでの読み方の浅薄さを思い知らされて勉強になりました。その継続で『くずし字で「おくの細道」を楽しむ(中野三敏著・角川学芸出版)』を芭蕉の原本の写真を見ながら苦労して読んでいます。非常に癖のあるくずし方の字ですから活字文と首っ引きで読まざるをえませんが毎日見開き2頁を楽しんでいます。

 今年は漢詩も読みました。60才代はじめに「晩年の読書」を始めるに当たって漢詩は必須科目だと思って大体の漢詩人――李白、杜甫、白楽天や中国名詩選などで一通り目を通してその後もポツポツと読むことはあったのですが今回は江戸漢詩が読みたくなったのです。『江戸漢詩選 上・下(岩波文庫・揖斐高編訳)』と『頼山陽とその時代 上・下(ちくま学芸文庫・中村真一郎著)』、併せて『江戸漢詩の情景(岩波新書・揖斐高著)』も読みました。この流れは古今集を読んで日本人の背骨のようなものに接して徳川時代の基底としての俳句と漢詩を読むべきだと思ったのです。秋ごろから仏教を知りたいという意欲が起り良寛と西行、『良寛(吉本隆明・春秋社)』『良寛(水上勉自選仏教文学全集3・河出書房新社)』と『山家集(新潮日本古典集成・後藤重郎校注)』を読みながら瀬戸内寂聴の『手毬(良寛を題材にした小説)』『白道(西行の小説)』(どちらも新潮社『瀬戸内寂聴全集十七』)を補助線として読みました(山家集は来年読むつもりです)。

 

 どうして読書がこのように古典へ傾斜したかを考えてみると、齢も八十才を超えると自己のルーツに対する探求と回帰の欲望が自然と起こってくるのではないでしょうか。そしてそれはいくら能天気でも近づく「死」への無意識の怖れが作用しているにちがいありません。私は毎朝仏壇のお世話をして称名と般若心経を唱えるのを日課にしていますがそのとき息災に過ごさせていただいていることを感謝し前日に起こったこと考えたことも先祖に話しかけるのですが、そんな習慣は先祖や佛との関係が日常化していてその分ルーツへの同体化欲求が強くなっているかもしれません。丁度父の三十三回忌が年末に迫っていることも影響して父を理解するためにルーツを遡ってみたいという欲求がめばえたのでしょうか。

 こんな読書をして気づいたことは現代に近づくほど「左脳―論理的思考」機能に過剰に頼るようになって「右脳―直観的芸術的思考」機能が劣化していることです。古今集の都人の夢と現の境に揺れながら生きている様は今の我々からみるとむしろ羨望さえ感じました。

 

 さて今年の小説ですが『水平線』が第一等の推しです。上のような読書傾向が『水平線(新潮社)』という過去と現在の境界のあやふやな実験的小説を高評価したにちがいありません。滝口悠生は新たな才能で文章力も確かで過去と現在の混交を無理なく表現しています。硫黄島に出自をもつ四世代の記録を現代に生きる四世代目の兄妹と曾祖父母世代をSNSで結びつけ硫黄島の理不尽な、発見、入植、強制退去、米軍の占領期への彷徨を小説化しています。生きているはずのない――生きていれば百才近い曾祖父の友と曾祖母の娘が現代の若者――曽孫世代の兄妹に別々のルートでSNSでつながりを求めてきて伊豆諸島の一島嶼に呼び寄せるのです。日本軍の基地造成によって理不尽に強制離島させられて内地に拠点を移し、そして突然蒸発した大叔母と硫黄島の軍属となって全滅したはずの大叔父の友人とのSNSを介した接近を現実感が揺らぐ中で交流するのですが、その関係性が不自然でないかたちで表現される、はじめて経験する小説です。決して声高に反戦を訴えるのではないのですが悲惨で不幸な戦前戦中世代と平成世代の不確実性の高い生活を対比させて現代の不安を描く滝口悠生に期待大です。

 

 今年読んだ小説NO1は『水平線』ですが以下が決めづらいので羅列します。

 『天路』(リービ英雄・講談社)、『砂に埋もれる犬』(桐野夏生・新潮社)、『春のこわいもの』(川上未映子・新潮社)、『じい散歩』(藤野千夜)、『ひとりでカラカサさしてゆく』(江國香織)、『「坊ちゃん」の時代1~5』(関口夏央・谷口ジロー・双葉社)、『サウンド・ポスト』(岩城けい・筑摩書房)。

 7冊中5冊が女性ですから圧倒的に女性優位です。他にもいい小説がありますがそれも女性作家がほとんどです。一般に言えることは総じて女性作家の文章力は確かてテーマの現在性、時代的緊張感も優れています。女性の時代です。

 高齢社会ですし私自身が高齢者ですからどうしてもそのジャンルにひかれます。そんななかで旧刊でマンガでしたが『「ぼっちゃん」の時代』は明治大正の歴史的背景と文学者の相関図が詳細に描かれていて読みごたえがありました。

 

 古典と新刊の小説、社会科学系の専門書(文庫、新書を含めて)。蔵書と図書館の本。書評と読んだ本の参考図書・引用文献。こんな要素の組み合わせで本を選定して来年も読書に耽ることになるでしょう。それに耐える体力と集中力。81才、まだまだやれる。愉しみたいと願っています。

 

 

 

2022年12月12日月曜日

なりたい総理となったら総理

  正に「天の配剤」というべき日本のワールドカップでした。敗れたのは残念でしたがこれほど有意義な『敗戦』はありません。これで日本はまた一段と高い世界レベルに達することでしょう。

 外国でプレーする選手が19人もいる今回のチームが善戦するであろうことは予想出来ました。ドイツ戦がまるで勝てないような、引き分けの勝ち点1で十分だなどという「専門家」のご意見に首を傾げていました。結果はご存じの通り2勝1敗、ドイツ、スペインに勝利して1stステージを突破しベスト18へ、そして決勝ラウンド、クロアチアに敗戦して日本のワールドカップ2022は終わったのです。しかしクロアチア戦、1―1で決着がつかず延長戦も前後半30分ドローでPK戦へ。ここまでの試合展開は日本チームの実力が世界レベルに完全に到達していることを証明しています。前回準優勝チームが相手です、堂々と胸を張って言えるでしょう。しかしPK戦で両チームの歴史の違いがはっきりしました。100年の歴史(1930年開始)を誇るFIFAワールドカップですがわが国プロリーグは僅か30年(1991年設立)の歴史です。この間クロアチアはヨーロッパサッカー界で数々の試練をくぐってきたにちがいありません。歴史は「痛み」の積みかさねで重みが生まれます。PKのボールを前にしてクロアチアの選手は100年の間に繰り返されてきた多くの先輩選手たちの痛い経験の歴史が無意識のうちにあったはずです。失敗も暗黙知として備わっていたでしょう。一方のわが国の選手たちにとって決勝リーグのPK戦は初めての経験です、自分のひと蹴りが歴史の一歩を刻むのです。この彼我の差はあまりに大きすぎます。日本の選手がガチガチになって当然でした。とりわけゴールキーパーの権田選手にとっては耐え難い緊張であったことでしょう。

 貴重な敗戦です。もう世界の一線で勝負できるだけの戦力を我が日本は備えています。これからは世界レベルでの経験を積み重ねて「歴史」を紡いでいくしかないのです。2026年の日本チームはまた一歩新しいステージに上っていることはまちがいないでしょう。

 

 政治ジャーナリストの伊藤惇夫さんが「総理にはなりたい総理となったら総理の二種類がある」というのを聞いたことがあります。元総理の中曽根康弘さんの言葉だそうですが「なったら」の方は総理になったらあれをやりたい、これもやりたいという「政治家タイプ」、「なりたい」の方はとにかく総理になりたいだけの「権力者タイプ」をいうのだそうです。

 岸田さんが総理になって1年が過ぎました。就任当時「新しい資本主義」を掲げてこれぞ「なったら総理」と期待を抱かせたのですが今に至るや典型的な「なりたい総理」の馬脚があらわでガッカリです。宏池会出身ですからリベラルな政策中心主義の清新な総理の登場と思わせたのですが実際は『鵺(ぬえ)』の如き「実体不在の得体の知れない食わせ物」で、ひたすら『延命』を願うだけの「右傾保守の守旧政治政策」を総ざらえした「自民党保守系右派政策在庫一掃内閣」に堕しています。「憲法改正」「反撃能力保有の自衛隊戦力大拡大」、無原則の「原発運転の大長期化」、そして旧統一教会「解体法案」の『骨抜き』化。統一教会法の骨抜きは公明党の「反撃能力保有」受けいれとの取引による『野合』であり、これによってこれまで公明党の存在理由であった「自民党右傾化チェック機能」が消滅してしまいましたから今後の自公連立政権はひたすら右傾化の一途をたどるにちがいありません。

 

 今の政治家に「戦争」を経験した国会議員はいません。最高齢は衆議院二階俊博83才、参議院山崎正昭80才です。敗戦時二階さんで6才ですから記憶もおぼろでしょう。ということは今「反撃能力」を議論している政治家の「戦争」は映像などの2次経験と資料によって構成された「観念としての戦争」でしかないのです。だから戦争についての具体的な「詰め」が非常に甘いのです。

 たとえば反撃能力の「シビリアンコントロール」はどうなるのでしょうか。最初の一発のボタンは誰が、どのタイミングで押すのでしょうか。

 反撃能力の攻撃ポイントをどのように探知するのでしょうか。それはタイミンブ的に反撃を可能とするのでしょうか。

 原発を攻撃されたときの対応と被害状況は完全に想定されているでしょうか。

 相手国の攻撃による被害状況はどの程度、どの段階まで想定されているのでしょうか。

 死者はどの程度、どの段階まで想定されているのでしょうか。

 被害者の補償はどの範囲まで、どの程度の額まで法制化されているでしょうか。自衛隊員、軍属以外の一般国民も当然補償対象になっているのでしょうね。

 

 ちょっと考えただけでもこれだけの「準備」が必要ですがこれまでのところ国会でこれらを論議された形跡はありません。本気で戦争するのなら最低でもこの程度の具体的な準備はするべきです。被害に遇うのは一般国民です、戦場へ行くのも一般国民です。国会で紙の上で「数字合わせ」と「銭勘定」している議員さんでも官僚でもないのです。

 無責任に、自分の親や祖父さんたちがどれだけ虐げられたか、死んでしまったのかも忘れてしまって、戦争へひた走る「若い人たち(決して子どもではない立派な大人の)」を「たしなめない」でウクライナ戦争に「浮かれ」て5兆円の軍備増強にもろ手を挙げて賛成している「老人たち」よ、あの辛酸の記憶を思いだそうよ!

 

 「常備軍があるうちは平和は戦間期の休戦状態に過ぎない」といういましめを今こそ思いだすべきです。

 

 

 

 

2022年12月5日月曜日

鞘の内

  サッカーワールドカップの対コスタリカ戦の敗因を「球を持たされた」と解説した専門家が一人いました(私の見た範囲で)。ボールの支配は圧倒的に我が日本なのにジリジリと前線が押し上げられるのにズッと不安を感じていました。コート中央あたりでボールを奪って攻撃を仕掛けようとボール回ししているのですが一向にスキを見出せず右に左にボールを回して一旦ゴールキーパーにボールが戻るたびに敵方が前に攻め上がってくるのです(日本側に詰め寄ってくるのです)。ヒタッヒタッという表現がピッタリの静かな対決が何度も繰り返されてジリジリと時間だけが過ぎていきます。均衡が破れて初めてコスタリカが突破を図った一瞬のスキにゴールが決まっていました。まさに「ボールを持たされて」わが方の武器であるスピードを封じられ、ただ時間だけが経過してアセリがつのって心理的に窮地に追いつめられたイラ立ちの一瞬を突かれた我が方は混乱に陥り考えられないミスをさらしてしまったのです。静かな「守りの攻め」にしてやられた日本は悔やんでも悔やみきれない敗戦でした。

 

 「守りの攻め」と似たような言葉に剣道の「鞘の内」があります。元々は居合術の言葉で「勝ちは鞘の内にあり」などと言われいろいろな解釈があるのですが「圧倒的な技術と心を兼ね備えた達人は、そのオーラ(威圧感)だけで刀を抜く事なく相手を制圧することができる」と理解するのが一般的なようです。相手を殺めることのできる技ですが生涯使わずに人生を終えることができる刀こそ「最高の剣」だというのです。

 戦争の絶えなかった戦国時代にはそんな悠長なことは言っておられなかったでしょう。全国が平定され平和のつづいた徳川時代も百年も過ぎれば「武士道」にも変化が生じます。安泰した幕府権力は少しの反権力に対しても容赦なく、僅かな兆しを利用して「取り潰し」、領地召し上げを狙っていました。したがって隣国との訴訟沙汰は決して実力行使に至らないようにするのが藩経営の要諦となりました。刀――武力を使わずにもめ事の解決を図る、外交努力で平和的解決を図らねばたとえ勝ったところでお家安泰が保証されるとは限らない、そんな危惧を抱かざるを得なかった武士社会の影響が「剣術」に反映して「鞘の内」という哲学が生まれたのかも知れません。

 

 勝っても自国に甚大な損害が生じる上に開戦理由に国際的信認が得られなければ「戦争犯罪」にも問われ兼ねない「現代の戦争」は決して「国際紛争の解決策」にはなりません。戦力は「鞘の内」の「刀」なのです。しかしいくら圧倒的な戦力を保持しても「心」に他を制圧する「威厳」がなければ「鞘の内」ではないのです。相手国に尊敬されその国の国際政治に占める地位が「世界平和」に真摯に向き合っていると信認されて初めて「鞘の内」の国になれるのです。現在の米中関係において、米ロ関係において、互いが平和を志向した真摯な国であると尊敬しあっているとはとても言えません。ということは米中ロの三国は世界平和を実現する国際社会の主導者にはなれないのです。

 こうした認識に立つとき、我が国は世界平和の主導者として最も適格な存在になり得る可能性を持っていると言えないでしょうか。米中の二極体制への「勢力均衡」を模索する混乱を極めた現在の世界情勢において目先の戦力増強策ばかりでなく、その先の世界の「協調体制」の構築に向けた「指導体制」も見据えた「賢明」な外交力をどう発揮するか、今のわが国に求められるのはこうした「冷静な外交思考」なのだということを政治家の誰かが声にするべきです。

 

 にもかかわらず「日米共同で反撃能力発動」であるとか「韓国国会議員、在日米軍基地視察計画」などという敵対していると想定されている相手国を逆撫でするような報道がこのところひっきりなしにつづいています。「5年以内に軍事費GDP2%に増額」方針が「既定事実化」してはや「財源確保」策まで自民党では論議に上る事態に至っています。そんな時に上のような報道が飛び交うと東南アジアの緊張はいやが上にも高まるばかりです。反撃能力が日米共同発動ということになれば「集団的自衛権」行使容認は絶対的前提になりますし、韓国が在日米軍との連携をあからさまにすれば沖縄や横田基地が北朝鮮の攻撃目標にされることが現実味を帯びてきます。

 

 プーチンのウクライナ侵攻をはじめ現在の国際緊張を喜んでいるのはアメリカをはじめとした「軍需産業」であることは世界の周知するところです。最大の軍需産業国はアメリカですがイギリスもフランスもオランダもスイスもそうですからEUのウクライナ支援ではこれらの国の軍需企業も潤っていますし、中国もロシアもトルコもパキスタンも北朝鮮も兵器生産国であることは明らかです。そこへ遅ればせながら我が国も参加しようとしているのですからその愚かさに驚きを禁じえません。

 

 北朝鮮が韓国にミサイル攻撃を数発行なったとしたら米韓はすぐさま反撃するにちがいありません。圧倒的な戦力を保持していますから北朝鮮は壊滅的被害を受ける可能性は極めて高いでしょう。万が一ICBMでアメリカ本土を核攻撃すればその結末は悲劇的でしょう。ロシアと中国とアメリカは国土が広大ですから北朝鮮と同一視できませんが現代戦争においてその被害の大きさと広さは世界壊滅につながることも覚悟しなければならないでしょう。

 

 今の世界の要人には心――相手国に尊敬され国際政治に占める地位が「世界平和」に真摯に向き合っていると信認されている人はまったく存在していません。こんなことはかってなかったのではないでしょうか。キューバ危機を救ったのはケネディとフルシチョフの知性でした。最近ではメルケルがEUを指導的地位に導く存在となっていました。

 二極化した国際緊張が無極化し混沌の極みに陥る可能性をはらむ今、緊張緩和と世界平和をもたらす「協調体制」の理想を掲げる「知性」が必要です。我が国の政治家はその可能性を有していることを自覚するべきです。

 

2022年11月28日月曜日

東大一直線でいいのか

  岸田内閣の閣僚辞任ドミノがつづいています。しかしここでちょっと考えてみなければならないのは彼らのやったことは閣僚だから辞任しなければならないのかということです。そもそも国会議員として不適任ではないでしょうか。旧統一教会との不適切な関係とか政治資金の不法な支出などは議員としても責めを負うべき所業として非難されるべきで閣僚が辞任になるなら議員としても不適格になるのでは、と思うのですがどうでしょうか。 

 唯一「死刑のハンコ」発言だけは「法務大臣」として完全に不適格として断罪されるべきです。彼は東大卒の警察官僚のエリートですが、この種の「東大卒の政治家やエリート官僚」の不祥事や倫理的に批判される例は枚挙にいとまがありません。東大に関してはこんな話もあります。東大理三は偏差値78で全国最難関の学部なのですが、ただそれだけの理由で全国の勉強のできる生徒がここを受検するというのです。彼らは自分が全国トップレベルの大学の学部に合格したという「勲章」が欲しいだけなのです。なぜなら今の学校制度の頂点――「共通一次(現在の「大学入試センター試験」)」で最高得点を獲得することを目指しているからです。問題はこの「東大理三」という学部が『医学部』だということです。正式には「東京大学理科三類」といい、同大学「教養学部前期課程」に設置されている科類です。理三の対称にあるのが二浪三浪して医学部を受検する生徒や女子生徒で彼らは「使命感」をもって「医学」の道に進みたいと願って医学部を受検しているのですが不当に差別され排除されています。「適性」も「意欲」も「使命感」もない――希薄なのにただ「偏差値が全国トップ」という理由だけで東大「医学部」に進学する生徒の存在が堂々とまかり通っている現在の学校制度はグローバル化の今、曲がり角に来ていることは間違いありません。

 

 ところが文科省の打ち出した学校制度の改革案が「リスキリング」と「ギフテッド教育支援」なのです。

 「ギフテッド教育」というのは元々はIQ(知能指数)などを基準に「特異な才能のある」生徒を見出してその才能を伸ばそうという教育をいいます(専門的には領域非依存的才能を伸長する教育などと言いますがここでは大ざっぱに先に述べたように表現しておきます)。要するに知能指数が高かったり特定の分野に異常な才能と興味があるために、現行の画一的な教育課程に「なじめない」――レベルが低すぎて学校の学習に興味が湧かなかったり、興味のない教科に意欲がわかなかったりして、落ちこぼれたり登校拒否したりする生徒をすくい上げ、特別学級(学校)に集めて特殊教育を施して才能を伸ばし、発明・発見につなげたり経済のイノベーションに生かしたりしようというのです。

 一方の「リスキリング」は「技術革新やビジネスモデルの変化に対応するために、新しい知識やスキルを学ぶこと」で2020年のダボス会議において「リスキリング革命」が発表されて一躍わが国でも脚光を浴び経産省が主導しています。経済成長のためには企業のDX(デジタルトランスフォーメーション)推進が不可欠でありその人材育成が喫緊の施策であるという認識のもと2021年「デジタル時代の人材政策に関する検討会」を設置して本格始動したところです。現在ではデジタル関係のスキルに限らずイノベーションや個人のキャリアアップのための多面的な支援を図ろうとする動きも起こっています。

 

 果たしてこれらの対策で沈滞したわが国の「経済力」を改善できるでしょうか。劣化した「イノベーション力」を再生できるでしょうか。可能性は極めて低いでしょう、それもほとんどゼロに近い。

 まずギフテッド教育支援策について言えば「選択される人材数」が分母(人口あるいは学齢人口)に対してあまりに少ないですし、選択基準もあいまいで選択する人、組織が信用できるかどうかという問題さえあります。更に教育システムがキチンと整備できるかどうかもあやしいものです。大海に竿を下ろして一本釣りするようなもので何ともあぶなっかしい政策といわねばなりません。

 リスキリング支援策はそもそも「経済成長のため」「DX推進」という制限がかかっている時点で我が国全体の教育レベルアップとイノベーション力向上には結びつかないでしょう。まず我が国の「経済成長」が沈滞から脱却するために何が必要かは今のところ誰にも分っていませんし国民的同意も形成されていません。そのうえ「DX」分野に特定して教育を集中したところで現状の世界レベルに追いつけるかどうかも不安ですしそもそも「プラットフォーム(ITビジネスや文化の場の提供者)」をアメリカに握られている現状を突き破れないならばいくら個人的な知識レベルをアップしたところで国際競争で我が国が成長の最前線に立つことは不可能です。

 とにかく「追いつけ、追い越せ」モデルでない、「目標」が明確でない市場では、政府が上から主導するような成長モデルが機能しないことはこれまでつぎ込んできた何百兆円という予算の無駄遣いで学習しているはずです。

 

 たったひとつ言えることは、高等教育を含む教育機会を平等に汎く国民に与えること以外に停滞脱却の道はないということです。現状は一定以上の所得(資産)を保有する家庭以外は良好な教育環境が整えられていませんし優秀な才能・知能を持っているにもかかわらず高等教育を受けられずそれを社会的に開花せずに終わっている子どもたちが非常に多く存在しているのです。あたら優れた才能が利用されず捨てられているのです。貧しいけれど意欲に溢れた有為の人材が、恵まれた環境でただ「入試学力の誇示」だけのために多くの税金をつぎ込んだ有名大学に入学している人たちに教育の道を妨げられているのです。

 こうした現状を打破するには『教育の無償化(大学まで)』しかありません。現在の教育制度から落ちこぼれている多くの有為の人材をすべてすくい上げるためにはこれしかないのです。そのうえで現状の「東大一直線」の「単線型教育システム」を「複線化(総合学習型、専門学習型、職業技能習得型など)」して多様な子どもの能力を「洩らさない」教育制度に改革するのです。試算ですが「教育無償化」に要する費用はおよそ2兆円――消費税1%アップで賄えると言われていますから国民も気持ちよく増税に応じるのではないでしょうか。

 

 最近10年のノーベル賞受賞者10人を生年月日別に分類してみると、戦前から1951年(小学校入学時点が戦前戦後の貧しい時代に過ごした)までに生まれた方が7人も占めています。貧しいことは教育にとって決してマイナスではなくむしろ「意欲」と「問題意識」を先鋭化するには有効に機能すると見ることも可能なのです。

 政治はウクライナ戦争に乗じて防衛費を5兆円増額することに血眼ですが我が国の100年先――いや30年先を見据えるならむしろ「教育費」こそ最も『戦略的費用』なのではないでしょうか。


 

 

 

 

 

2022年11月21日月曜日

いつまで車が主人公なのですか

  白髭神社の前の道路に琵琶湖側に下りられないように高さ1メートルほどの柵を設置するという報道がありました。テレビ画面に映し出された映像では白髭の浜が歩道柵で遮られていて下りていくことが出来なくなっているのですが柵の高さが50センチメートルほどなので容易く乗り越えられるので更に1メートルの柵を上乗せして1.5メートルにして乗り越えられなくしようというのです。この報道に接して憤りよりも哀しさを感じました。

 

 私が白髭神社にはじめて行ったのは小学校4、5年の頃ですからもう70年も前のことです。父が鉄工所を営んでいて夏休みのリクレーションで従業員と家族を60人乗りの帝産バス2台で白髭神社のちょっと先にある萩の浜へ日帰り旅行を毎年行っていたのです。座席に若干の余裕があって町内の子どもたちも10人ほど招待されましたから私は友達と遊べるので楽しみでした。白髭神社の手前にソロバン街道というのがあってその頃はまだ道路が未整備だったせいで大きな石ころが多い道が何百メートルかあってゴトンゴトンとバスが揺れるのも子どもに取ってはひとつで楽しみになっていました。白髭神社につくと休憩になり、砂浜から穏やかな琵琶湖の湖面に浮かぶ朱塗りの鳥居を拝みました。不思議と晴れた日に恵まれ白い砂浜と湖面の青い水、そして朱色の鳥居の景色が幼心にも神秘なたたずまいを訴え心しずかに手を合わせたものでした。萩の浜は遠浅の子供向けの遊泳浜でお昼のお弁当時間を挟んで半日のリクレーションは夏休みの一大イベントでした。当時としては(昭和30年にもなっていなかった頃です)社員リクレーションなどほとんどなかった時代でしたから父の先見性はすぐれていたと思います。

 40才ころまでは何年かに1回家族と出かけることもありましたがその頃もまだ白髭浜には自由に出入りできたように記憶しています。

 

 滋賀県が工業化して全国有数の工業県になるにつれて交通量も飛躍的に増え、道路整備も充実してソロバン街道などしのぶ余地もなくなる過程で歩道が整備されたのでしょう。入浜禁止にはいつ頃なったのか、交通量の多いところですから見物に駐停車する車両が増えれば交通に支障がでるのも当然でいつしか入浜禁止になったのでしょう。それでも絶景ですから違法駐車してでも景色を見たい、どうせなら浜に下りて鳥居を背景に写りたいというのが人情です。柵ができれば乗り越えるのが当たり前になり、交通規制と違法駐車、違法入浜と柵越えのいたちごっこになって今回の防護柵設置に至ったのでしょう。

 不思議なのは写真で見る限りは横断歩道も信号機も鳥居前にはありません。とすると神社に詣って鳥居を間近かに見るにも、鳥居を背景に写真を撮るにも車道を横断する以外に方法はありません。横断歩道も信号もないのであれば車の通行を見て素早く車道を渡る以外に方法はないことになります。最低でも「徐行」、それも「最徐行」の措置はするべきで、それすら行なっていないのでは事故が起こって当然でなぜこんなことが放置されてきたのでしょうか。

 琵琶湖有数の景色が車両の増加と共に人が遠ざけられ、妨げられ排除されてきたのです。「車優先」「車が主人公」の思想が徹底されたのです。

 

 同じような話があります。「道路遊び禁止」が常識になっているのです。輸送の幹線道路になっている主要国道は別にして新興住宅地の生活道路や町家の多い古い、しかも狭い市街地でも子どもの道路遊びは禁止状態で、まちがって遊ぼうものなら通報されて警察沙汰になってしまうのです。道路で遊ばずに公園や学校の校庭で遊ぶしか今の子供たちは遊び場がないのです。子どもたちの道路遊びに対する苦情や非難はネット上に溢れています。「道路族」などということばもあって、今や道路はどこも「御車様」の『専用』になっているのです。昭和のわれわれ世代にはなんとも納得のいかない現状です。

 「車社会」になって半世紀以上になりますが、高度成長期から現在に至るまで「車が主人公」で経済最優先の社会がつづいています。しかしそろそろそんな社会、考え方は「変革」される時代になっているのではないでしょうか。

 75才で免許証を返納して、歩きと自転車で交通するようになって気づいたことは「車の横暴」です。どんな狭い道路でも車が交通の主人公で歩行者と自転車は肩身の狭い思いを強いられています。片側一車線で電信柱がありますから車がすれ違いすると歩行者は遠慮して車の「離合」を待つしかありません。住宅地の片側二車線の生活道路でつけ足しで設けられた人ひとりがようやく通れるような歩道を自転車が通ると歩行者は危険を感じます。

 完全に道路は「車が主人公」になっているのです。京都の四条通りが歩行者優先の考えで歩道拡張されて歩行が非常に楽になりました。その分車の運転は不便になったのですが、便利で歩行が楽になった歩行者の便益と車が被った不便を比較したとき「社会の合計」としたらどちらが多いでしょうか。そして車が不便になったことで派生した「経済的不利益」はどれほど発生したのでしょうか。

 

 そろそろ車社会の「車優先」による『社会的便益』の『社会的経済的分析』を真剣に行い車を日本社会にどう位置づけるのかの「社会的合意」をわれわれは形成するべきです。最早経済成長で遍く国民を幸福に導ける時代ではありません。経済は重要ですがそれ以外の価値も見直さねばならない時代になっているのです。そしてまたこれまでのように、車に社会的費用を何百兆円も投入できる国力もわが国にはありません。

 車の社会的費用に関しては1970年代はじめに宇沢弘文の秀れた分析があります(岩波新書『自動車の社会的費用』など)。われわれは気がつかないで車社会のために厖大な負担をしてきているのです。これまでは経済成長という果実によって「帳消し」にできてきたのですが昨今の「給料の低さ」で分かるように成長の成果が公平に分配されなくなっているのですから、いつまでも国の言うままに、企業の要求のままに、だまって負担を受け入れる必要はないのです。

 

 それが「かたち」になったのが「四条通りの歩道拡張」であり、白髭神社の浜に入れるように信号を設置し徐行を義務付けるようにしなければならないのです。物流幹線道路以外は人の歩行と自転車の通行が優先されるべきで車の一方通行や通行禁止ゾーンの拡大なども進めれれるべきで、「道路遊び」が非難されるような常識がのさばっているうちは「子どもは社会の宝」などという言葉は嘘っぱちの建て前に過ぎないのです。

 

 道の主人公はひとだということが常識になる社会に早くなって欲しいのです。

 

 

2022年11月14日月曜日

国連を見直す

  プーチンと金正恩の狂気によるウクライナ侵攻と異常なミサイル発射が国際的な緊張を高め、国連不信が世界的に拡がっています。極端な論調は「国連不要論」まで言及するようになっていますがちょっと待ってください。国連にはロシアも北朝鮮も参加しています、これは非常に大事なことです。参加しているからこそ国連のロシアや北朝鮮への「制裁」が発動出来ますし、それによって徐々にではありますがロシアにも北朝鮮にも影響を及ぼすことができるのです。あまりにも効果が限定的で即効性がないので疑問をもつ向きもありますがそうではありません。確実に両国の疲弊は進行しています。ここは粘り強く外交努力と制裁を繰り返すしかないのです。チャーチルも言っているように「民主主義はいろいろ厄介な問題があるが、これにまさる政治のかたちはない」のです。

 

 国連は周知の通り「国際連盟」の失敗を繰り返さない覚悟のもとに絞りだされた交際協調の体制です。第1次世界大戦は人類に未曾有の被害をもたらし「総力戦」の怖ろしさを教えました。二度と愚かな世界戦争を起こさないためにアメリカのウィルソン大統領の提案に基づいて設立されたのが「国際連盟」でしたが世界平和の願いは無残にも失敗に帰しました。なぜ成功しなかったのか。

 アメリカは提案国にもかかわらず創立当時から参加していません。それはモンロー主義(アメリカ第一主義)が優勢だった議会に参加を否定されたためです。ソ連も1920年の発足に遅れて参加しましたがフィンランド侵攻によって追放されます。日本は満州撤退を勧告され1933年3月に撤退しましたしナチスドイツは同じ年の10月に脱退しています。イタリアが1937年に脱退して1939年に第2次世界大戦が勃発するに至るのです。このように大国が連盟から脱退するとその存立基盤が崩壊してしまうのです。だからどんなことがあっても国連という協調の場から追い出すことは避けねばならないのです。

 常任理事国の「拒否権」もロシアや中国の度重なる発動によって問題視されていますがこれにも「付与」の理由があるのです。国際連盟は最高58ヶ国参加した時期がありましたが「全会一位の原則」があったために機能不全に陥ったのです。こうした背景があって「大国」に「拒否権」を付与することで「脱退」の可能性を防御しているのです。国連は勢力均衡を背景として存立していますから参加諸国の多様な意見は米英仏ロ中の5大国の意見に集約できるのが通常で拒否権は功罪ありますが天秤にかけたら「あった方が良い」と考えられているのです。

 

 確かに今の国連は脆弱性を露にしています。ウクライナ侵攻も防ぐことはできませんでしたし北朝鮮のミサイル発射実験も阻止出来ずにいます。しかし二つの国を追放するのではなく、内に留めておいて説得を繰り返してなんとか「暴発」を防ぐように外交努力を積み重ねる「忍耐」が今最も求められているのです。

 

 国際緊張のもう一つは「中国の拡張」です。冷戦終結後の「アメリカ一強支配」の体制が揺らいで中国が急速に影響力を高めている現状を西側陣営が深刻に受け止め「不安」を募らせているのです。特に台湾と我が国の神経質な動きが危惧されます。

 しかし過去を振り返れば「一強支配」が異常なのであって多極の「勢力均衡」が普通のかたちなのです。フランスとドイツ、ドイツとイギリス、旧大陸ヨーロッパ陣営と新興国アメリカ、日本、ソ連の対立など世界の歴史は絶えず「勢力均衡」を求めて平和の構築を模索してきたのです。何故なら「常備軍」を諸国が保持している限り『平和』は「戦間期」の一時的(大体30年間)状態と見る方が理屈に適っているという見方が国際社会では常識です。従って1991年のソ連崩壊からの30年超のアメリカ一強時代は特異な時代だったと見る方が歴史的には正常なのです。

 この30年間アメリカは製造業の衰退と金融・情報産業の興隆という産業構造の大転換を経て「格差の拡大」と「国民分断」が国力を疲弊させました。一方中国は「人口ボーナス」という恩恵を最大限生かして「高度成長」を遂げ世界第2位の経済大国に上りつめると同時に「軍事大国化」したのです。アメリカが等閑視したアフリカ、アジア、中南米を経済力で篭絡し「債務の罠」に陥らせて勢力圏に引き込んでしまったのです。そしてここに至って西側主体の「国際秩序」がそこに後から組み込まれた中国、ロシアなどの諸国が「異議申し立て」しているというのが今の世界情勢なのです。

 

 アメリカ一強という西側陣営にとって「心地よい」世界秩序が中国の急速な「大国化」によって脅かされ「地殻変動」を起こしています。アメリカと中国の「二極化」を『均衡』に導く「仲介国」が必要なのですが、これまでその役を務めてきたイギリスが「ブレグジット――EU離脱」という『愚挙』を犯してしまいましたから「仲介役」不在なのです。明治・大正時代は日本がアジアの「指導的地位」を担っていたのですが現状は「アメリカ追随」に安住して「仲介役」を買って出る『気概』と『創造力』を失っています。

 

 アメリカと中国に最も近い国はわが国をおいて他にありません。両国を仲介して新たな「国際秩序――勢力均衡」を構築するために「国連」を活性化する。我が国は今、国際情勢の中で重要な役割を期待されているのです。「アメリカ追随」を脱してアメリカと中国を『善導』する、そんな国に成長しなければならない時期をわが国は迎えているのです。それにしては今の政治家も企業人もあまりに『未熟』です。

 

 国連は曲がり角を迎えています。しかし「必要」な組織です。何とか時代に即した組織に改革するために人類の叡知を結集しなければなりません。そのためには混沌としたこの時代をまとめる「世界の共通価値」を提案できる「知性」が求められます。その役を担えるのはやはりイギリスとフランスとドイツと、そして日本です。

 そんな時代認識をもった政治家をわれわれが育てなければならないのです。

 

 

 

2022年11月7日月曜日

女心は昔も今も

  古今集を読んでいると「女心」と「老い」の想いは今も昔も変わらないものだと改めて思い知らされます。特に「誹諧歌(はいかいか)」には今に通ずる感覚が多くあり面白く鑑賞できました。このジャンルには当時の本流である真面目な歌からはずれた滑稽味のある歌が収められていて、恋の歌でも「あわれ」の少ないもの、ないものはここに入っています。

 

※ 一〇六一 世の中の憂きたび毎に身を投げば深き谷こそ浅くなりなめ(よみ人しらず)

 なんとまんがチックな歌でしょうか。1200年も前の平安びとがこんな感覚をもっていたということはユーモアのセンスはいつの世にもあったし必要なものだったことが分かります。「生きていてツライことがある度に身投げなどしていたらどんな深い谷でも浅くなってしまうだろう」、とは。

 

※ 一〇一六 秋の野になまめき立てる女郎花(おみなえし)あなかしがまし花も一時(僧正遍照)

 「秋の野に媚びを含んで立っている女郎花よ、ああ、物言いがやかましい。美しい盛りはしばらくの間よ」。この歌の肝は「あな、かしがまし」「花も一時」にあります。ああなんてうっとうしい、やかましいという感情、「美しい盛りなんてほんの一時のことなのよ」という冷罵が潜んでいます。詠み人が遍照ですから「盛者必衰(じょうしゃひっすい)」の仏の教えを読み取るのが表の意味でしょうがその底には、若い盛りのピチピチの娘たちの傍若無人な振る舞いに対する成人女性の嫉妬と冷めた目があります。多分当時今でいう若いギャルの一団が都にのさばって若い男やおとなの男たちにチヤホヤされていたのでしょう。「秋の野になまめき立てる」という辞からそんな雰囲気があります。「あなたたち、いい加減にしなさいよ。そんなに浮かれているのも今のうちよ。明日になったら私たちと同じ立場になるのよ」と冷たく突き離した女心が浮かんできます。一夫多妻時代の女性の立場は極めて弱いものでしたからなおさら若い女への嫉妬は強かったにちがいありません。「あなかしがまし」ということばにイマイマしさがにじみ出ています。

 

※ 一〇二二 石の上(いそのかみ)ふりにし恋の神さびてたたるに我はいぞ寝かねつる(よみ人しらず)

 「古くなった恋が神怪化して、祟るであろうか、我は安眠できずにいることであるよ」。この歌は「神さびて」が理解できるかどうかにかかっています。当時「物が余りに古くなると神怪が顕れる」という俗信があってそれを作者はおそれているのです。この歌はこう読むと現代に通じるものがあります。通い婚で長いご無沙汰の女のもとへ通ってきた男がシツッコク離れてくれない女の「深情け」にヘキエキして「これは祟りじゃないか」と恐れを抱いた心境なのです。「神さびて」などという言葉が男女の仲に出てくるところに男の心底恐れを抱いている気持ちが現れているではありませんか。

 

※ 一〇三七 ことならば思はずとやはいひ果てぬなぞ世の中の玉襷(たまだすき)なる(よみ人しらず)

 「このようならば、今は思わないといい切らないのか、いい切ればよいに。何だって二人の仲が行きちがいになっていることか」。これも現代感覚ならこうなるでしょう。こんなことならイッソ「お前にはもう飽きた」と言えばいいじゃないの、どうしてこんなに二人の心は行き違ってしまったのだろうか。通い婚で段々間遠になって、たまに来てもお義理の交わりで隙間風がふたりを隔てているのがアリアリと感じられる。こんなことなら「別れましょうよ」と言いたいのだがそうも言えない弱みが女にはある。やるせない女心。「玉襷」――襷は背なかで十文字に斜め掛けになっているところから「行き違い」を雅な言葉づかいで表しているところが古今集なのです。

 

※ 一〇四三 出でて行かむ人をとどめむよしもなきに隣の方に鼻もひぬかな(よみ人しらず)

 「出て行こうとする人を、引き留める方法もないのに、隣の方で、くさめをする人もないことよなァ」。

 この歌は今の人にはまったく理解できないかもしれません。「鼻ひる」は嚏(くしゃみ)の古語ですが、当時はくしゃみは悪いことの前兆で、家を出ようとするとき近くの人がそれをすると忌んで見合わせる風習がありました。従ってこの歌は、通ってきた男が帰ろうとするのを引き留めようとするのですが男はつれない素振りです。せめて隣の人がくしゃみでもしてくれたら験をかついで出るのを控えてくれるだろうに、というあわれをさそう女心を示しているのです。これもまた一夫多妻制の女性の弱い立場を表しています。

 

※ まめなれど何ぞはよけく刈る萱の乱れてあれどあしけくもなし (よみ人しらず)

 「真実にしていたが、何のいい事があるか。浮気をしていたが、悪いということもない」。これは堅物男の嘆きです。正妻を思ってひたすら愛を貫いたけれども妻はそれほど感謝もしていない。ひょっとしたら変わった人とさえ思っているかもしれない。それに引き換えあいつはとっかえひっかえ女漁りをしているのにバチが当たったという話も聞かない。こんなことなら俺も……、といった男の切ない心情ですが今に通じるものがありますねぇ。

 

※ 一〇六三 何をして身のいたづらに老いぬらむ年の思はむことぞやさしき(よみ人しらず)

 「何をして、我が身はなすこともなく老いたのだろうか。年そのものの思うだろうことがはずかしいことであるよ」。

 この歌で注意すべきは「やさし」がはずかしいという意味で使われていることです。「やさし」の原義は「痩せ」と同根で、「ひとの見る眼が気になって身も瘦せ細る気がする」が転じて、遠慮がちに細やかな気づかいをする、となりその結果として「繊細だ、優美だ」となったり「恥ずかしい」という意味にもなったのです。

 これといった浮き沈みもなく無難な一生だったなぁという感懐は今に通じます。それを「年」というものを擬人化して、年が自分の来し方を顧みれば「恥ずかしい」と思うだろうなぁ、と表現しているところが面白いのです。

 

 誹諧歌は古今集の中ではあまり評価されることのない「部」ですが私は非常に面白く鑑賞しました。それは窪田空穂という先達の秀れた手引きに連れられてじっくりと千幾首読み込んだからだと思います。秀れた書物を時間をかけてゆっくり、じくりと、言葉のひとつひとつに心をを注いで読み込む読書。

 「言葉が壊れた時代」の今こそこんな読書が必要なのではないでしょうか、紙の本を手に取って。 

評釈は「窪田空穂全集」に拠っています

 

 

 

 

2022年10月31日月曜日

見えないもの、分からないこと

  プーチンは卑怯者だと思います。この期に及んでたとえニ十万三十万の兵を手当てしたところで戦況好転の可能性はほとんどなく、ましてわずか三日ばかりの訓練で武器も糧秣も不足する状況では、戦地に送り込むということは「自殺」に追いやるに等しく、そこまでするプーチンの狙いは絶対的不利な状況のなかで停戦の時間稼ぎをして少しでも自分に有利な条件を引き出そうとする他にありません。このまま泥沼の長期戦がつづけば敗戦は必至でそうなると自分の生命も危険にさらされることは自明の理ですから、プーチンは必死で命永らえる策を得んがために無辜の国民を戦地へ赴かせようとしているのです。

 なぜプーチンがこのような無謀な戦争に突き進んだかといえば、見えないもの、分からないことへの畏怖の精神がなかったからです。「傲慢」だったのです。狂信的な世界観(ロシア正教的宗教感と歴史観に基づく)とそれを補強する情報のみを収集(イエスマンの取り巻きから)して戦術を組み立てたからです。結果として同盟関係にある中国、インドとさえ価値観を共有することができなかったのです。

 

 しかしこうした傾向は決してプーチンだけではありません。ここ3世紀ほど人類を制御し世界を蹂躙してきた主たる考え方――工業化を土台とした欧米の近代主義は概ね「科学主義」を奉じて「見えないもの」から目を逸らし「分からないこと」を分からないままに「結果」だけを功利的に利用してきました。その最悪の例が「原子爆弾」と「原子力発電」です。原子核のエネルギーを一挙に解放してその破壊力を活用したのが「原爆」であり、原子核のエネルギーをコントロールしてその熱エネルギーを電力に転用したのが「原発」です。しかし爆発がもたらす破壊力以外の原子核エネルギーの人体や自然への影響を解明する過程は研究せずに実用化してしまいました。発電したあとの廃棄物の処分、発電装置の廃棄技術は分からないままに世界中に原発を設置してしまいました。「安全神話」は分からないことを放置したまま偽装されたものです。そこには「見えないもの」を「畏れ」る精神は微塵もなかったのです。

 科学は「科学の方法」で分かるもの、分かり易いものに特化して発達してきました。北朝鮮がミサイル実験を繰り返していますが、これは超音速における空気の流体力学のロケットが飛ぶのに必要な知識だけをうまく利用しているのですが、超音速流体力学についてのその他の現象についてはほとんど分かっていないので実験を繰り返しているのです。流体力学でいえば、ビルの屋上からチリ紙を落としたときの「軌跡」と「落下地点」を現在の科学で予測することはできません。ヒトゲノム解析が99.9%完成したと言われていますが、機能不明な暗黒物質(ダークマター)というDNA配列が存在しこれらの分子が制御する生命機能の全体像はまだ解明されていないのです。 

 私たちは理科の教科書を勉強すれば科学のすべてが分かるように思い込んでいますが実は「見えていないもの」「分かっていないこと」の方がずっと多いということに気づいていません。というかそんな教育を受けてこなかったのです。だから「専門家」のいうことに疑問を持つという習慣がないのです。原子力の専門家が「安全」だといえば信用してしまいますし、医者に「あなたの余命は3ヶ月」ですと告げられるとそうなのだと覚悟するのです。しかし原発は安全ではなかったし、ガンの余命宣告を受けても2年も3年も生きた患者は決して少なくありません。

 

 突然変なことを言いますが、人類が知性を持つ以前、自分の頭で考えることができる前、さらにいえば意識を持つまでは、どのようにして行動していたのか考えたことがありますか(この3つは厳密にはまったく異なる現象ですが今は深く突き詰めないでおきましょう)。「本能で動いていた」というひとが多いでしょうがでは、本能はどう行動に結びついたのでしょうか。

 人間の脳は右脳と左脳に分かれています。論理的思考などの知的な機能は左脳が、一方右脳は感性に基づく芸術などの機能を担っています。読み書きや会話などは左脳の分野ですし顔や図形の認識、声や音の認識は右脳の働きです。古代の人たちは太陽の光や温度、風の感触や音の認識を右脳で受けてそれがDNAに埋め込まれている食糧を獲得する動作や有毒な食物を避ける本能などを刺激されていたのでしょう。今と違って右脳が人類の行動の多くを支配していたにちがいありません。やがて言語を習得し文字を発明するなど左脳の領域が拡大して今日に到っているのです。

 古代で活躍していた右脳の働きが退化して左脳ばかり酷使されているのが現代なのです。

 

 現在の国際的緊張も見方を変えると経済や戦力など左脳領域ばかりで考えているから解決不能に陥るのであって、右脳を働かすと西側の価値観と異なる中国やロシアなどの文明の力が増大してこれまでの従属に耐え切れなくなった『文明の衝突』と捉えることが可能になります。そうなると戦力による暴力的な解決ではなく「文明の融和」というより大きな視野でこの危機を乗り超える展望も開けてくるのではないでしょうか。

 

 「秩序」というものはそれで守られている人にとっては心地よいものでしょうがそこへ後から入った人には居心地の悪いものですし理不尽でもあります。別の言い方をすれば「秩序という価値」を共有できる人とできない人がいるということです。今の世界はわれわれ「西側の人間」にとっては勝手の良い「秩序」ですが中国やロシアにとっては理不尽なものと映っているにちがいありません。

 

「秩序」というもので「見えなくなっているもの」があることに気づかないといつまでたってもひとつの地球をつくることはできないことに気づくべきです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2022年10月24日月曜日

自白しない政治家は罪にならないのですか

  「記憶にない」といえば政治家は罪にならないようです。旧統一教会(以下統一教会とする)の創始者や幹部との写真や教会の大会で挨拶する動画、教会への賛辞を記した文書などがいくつ提示されても「記憶がない」といえば政治家は罪にならないという何ともおかしな論理が政治の世界でまかり通っているのです。司法の現場では「自白偏重」を見直して取り調べの可視化や客観的事実を示す証拠重視の制度改革を推進しているというのに政治の社会はまるで逆を行っているのです。この摩訶不思議な論理をマスコミも知識人も一切不問に付しているのはどうしてなのでしょうか。この論理の淵源を辿ると1976年のロッキード事件で贈収賄の嫌疑をかけられた小佐野賢治被疑者が国会の証人喚問で「記憶にございません」の一言で逃げ切ったことにあります。以来政治家は糾弾の場でことごとくこの「記憶にない」を多用して犯罪を糊塗してきつづけているのです。しかしどう考えても厳然とした客観的事実を示す証拠が提示されているのを「記憶にない」という一言で逃れるという論理はありえません。こんな論理――自白偏重の論理をヌケヌケと展開する政治家の姿を見た子どもたちに我々大人はどう説明すればいいのでしょうか。(統一教会がらみの政治家の言動が厳密に罪に相当するかの論議はここでは省略します)。

 

 もうひとつ、論理的におかしいのが現今の「円安、物価高」の対策です。150円を超える円安をアメリカのインフレ対策としての大幅な利上げと金融緩和継続を維持する我が国との金利差にもとづくドル買い円売り相場を直接の原因とし、円安による輸入物価の上昇が物価全般の上昇を引き起こし家計や企業経営を直撃している一方で国力低下に伴う「日本売り」も影響していると分析しています。政府はガソリン代の補助や電気・ガス代などのエネルギー価格抑制策、子育て世帯や低所得層への現金給付で対応しているが、そうした小手先の対応は一時しのぎの弥縫策であり、経済構造を根本から立て直すことが不可欠だとして、脱炭素やデジタル化などで世界の潮流を先取りする事業を強化し政府がそれを後押しして国力の向上につなげる戦略が求められる、というのがおおよその今の論調になっています。こうした論調の問題点をふたつ上げることにします。

 

 まず第一は「アメリカの身勝手」です。アメリカは世界経済の主導者です。だから「基軸通貨国」という絶大な『権力』を付与しているのです。どんなに「国力低下」――工業生産力が劣化して我が国に追い越されても、GDPが低下する危機に瀕しても、ドルを無尽蔵に刷ることができるという『特権』で時間稼ぎして「金融」「情報」という次世代技術を涵養する余裕をもつことができたのです。

 それだけにアメリカは世界経済の主導者という『責任』があります。自国の経済政策が世界経済にどれほどの影響を及ぼすかを分析して冷静に行動する責任があるのです。今回のインフレ対策としての「利上げ」は正当性の認められる政策です。しかしそれにも限度があります。アメリカはFRB(アメリカの中央銀行)の3会合(FOMC)で連続0.75%利上げを実施したのです。その結果アメリカのFF(フェデラル・ファンド)の金利は3.0~3.25%になりさらに年末には4.0%を目ざすと言われています。通常利上げは0.25%を幅として段階的に切り上げられます。ところがアメリカはその3倍の0.75%を3度も実施したのです、余りの物価騰貴になりふり構わず国民の不満を抑えるために利上げしたのです。我が国の物価上昇ばかりが報道されていますがヨーロッパを含めて世界中が物価高に見舞われているのです。勿論ウクライナ戦争の影響は無視できません。しかしドル建てて国債を発行して財政運営している経済弱小国の被害は「国家経済崩壊」クラスです。たしかにアメリカの物価騰貴は激烈ですがそれは「金融要因」だけに拠るものではありません。それこそ「構造要因」によるものも多分にあるのです。それを解決するのはアメリカ政府です。それをせずに、する能力もないバイデン政権がすべてを「金利アップ」という金融政策だけで解決しようとしているのです。ヨーロッパはこうしたアメリカの「わがまま」にこれまで何度も抗議してきました、今度もしています。我が国は一度も「反抗」したことがありません。唯々諾々とその軍門に下って――国民を犠牲にしてアメリカに服従してきたのです。どうしてマスコミや知識人はアメリカを非難しないのでしょうか。今回もまた国民と中小零細企業だけが泣かされるのでしょうか。

 

 二つ目、「国力低下」って何のことですか。「指標」を上げて具体的に示してください。これまでも繰り返してきたように経済力の総合指標である「GDP」は世界第3位を維持しています。確かに1位2位のアメリカ、中国との差は拡大の一途です。だとしたらドイツもイギリスもフランスも国力低下しているというのですか。そうは誰も言わないではないですか。

 我が国の現状は『経済問題』が原因ではないのです。国全体――社会制度であったり学校制度であったり文化の問題も関係しているのだということにどうして目が向かないのでしょうか。大体今の経済制度は高度成長期からのもので半世紀以上経過しています。この変化の激しい時代にそれではグローバル化に適応できるはずもありません。女性の力が半分も活用されていない、学校制度は高度成長期に求められた「単一モデル」の大量生産システムのままです。言葉上は「グローバル化に適応した」多様性、創造性を謳っていますが入試制度が50年前からまったく同じ評価尺度では変化するはずがありません。労働組合を企業経営の阻害要因と捉えて、政治も加担して組織率低下を図ってきたのですから経営力の「多様性」が損なわれて当然です。若者の活用の半分は非正規雇用ですから新しいものを生み出す力が衰えるのも当然で、おまけに教育への公的資金の投入量がOECD最低では成長力を望むこと自体がまちがっています。純経済問題と捉えて日銀を「子会社化」して中央銀行の「国債引き受け」という禁じ手を10年間実施したのですから我が国が世界で一番「インフレに弱い国」に成り下がって当然です。ここからの脱却は至難の業で日銀黒田総裁の責任は重大です。

 

 国難国難と政治家は時局を都合のいいように利用しますが現在のわが国の状況は生やさしいものではありません。「国のかたち」を本気になって改革する覚悟がないと立ち向かうことはできません。自分を国に差し出すつもりで――自分の有利な立場を投げだすことを厭わずに率先垂範できる政治家が今ほど求められている時代はないでしょう。「記憶にない」と自分の過ちの責任を負わない政治家など今すぐ退場願いたいものです。

 

 

2022年10月17日月曜日

つながる

  父が死んで33年になります。もうそんなになるのかと時の移ろいの早さに驚きを禁じえません。過去帳を繰ってみると享年82才となっていますが数え齢ですから満81才で亡くなったことになります。ということはとうとう私の年齢が追いついたのです。元中尉さんで頑健な人でしたからもっと長命と思い込んでいましたが、それよりも虚弱な私が父を追い越すことになったのは思いもかけないことです。

 毎日の朝トレでラジオ体操をやっていますが、これは父が戦後すぐに電蓄を響かせて近所の子供たちを集めた「朝のラジオ体操」が今日につづいているのです。また毎朝お仏壇のお世話をして般若心経を唱えていますがこれは小学生の頃お祖母ちゃんに躾られたもので、そう考えると今の私の肉体と心の健康の礎が幼い頃の父と祖母のお陰になりますからその恩は感謝してもしきれません。それに比べて私が子どもたちにどれほどのことを残したかを考えるとその不甲斐なさは恥ずかしい限りです。

 

 毎朝の勤行――勤行と呼べるほどのものではありませんが、とりあえず手を合わせて称名と般若心経を唱え、昨日生かしていただいた事を感謝し昨日あったことの報告をします。今なら孫の成長ぶりが報告のほとんどですが、たまに妻と諍いをしたときはそれも伝えるとともに原因や感情のもつれなども伝えます。すると不思議とわだかまりが解けて妻に普段通り「お早う」と挨拶ができるのです。要するに毎朝ご先祖と話をしているのです。これが精神衛生上とても良い結果をもたらしているように感じています。この齢になると日々の細々とした報告など誰にもできるものではありませんから気持ちの整理ができて新たな今日に向き合えるのかもしれません。

 

 核家族になって、SNSの生活に占める割合が大きくなって、家族などのラディカル空間とSNSのバーチャル空間のつながりの中で、どこまでが「人間関係」と呼べるのかあいまいになっていますがそれでもそれで満足している人が多いのですからそうした状況を認めざるを得ないのでしょう。しかしその関係性は「今、ここ、私」だけで「どこから、どこへ」がありません。つまり「横」の関係はあっても「縦――時間的歴史的」のつながりがないのです。たしかにSNSの関係は物理的な制約を超えてこれまでよりも広い人間関係が結べますが何か「はかない」関係に思えるのは縦の関係――過去とのつながりがないから「浮草」のような頼りなさがつきまとうのではないでしょうか。何人も友だちがあるのに「孤独」に陥るのはこれが原因ではないでしょうか。つまり「どこから」来たのかという自分の出自がつまびらかでないことが一種の「不安」を感じる原因になっているとは考えられないでしょうか。父母、祖父母、そして友だち――みな「今」のつながりです、「今」は瞬間瞬間に消えていくものです。祖父母、父母は自分より先に死ぬのが普通ですし友だちとの関係もいずれは消滅します。「今」のつながりの底には「消えるもの」というはかなさ、頼りなさが潜んでいるのです。これが「孤独」感を生みだしているのです。

 核家族になる前、先祖とのつながりが当たり前だったころ、未開の呪術的支配が優勢だったころ――卑弥呼のまだ以前から戦後間もないころまで先祖との交わりは生活に確然とした影響を及ぼしていました。こんなことをしたらご先祖に叱られるとか、ひとに後ろ指さされるようなことをしたらご先祖を汚すことになると言った風に。もっと具体的には今と違ってサラリーマンは少なく家業を継いで生計を営む家庭が多かったから先祖の残してくれた仕事を粗末にしてはバチが当たると懸命に家業に勤しむ人が多かったのです。高度成長の頃から地元で親の後を引き継ぐより東京へ出て、都会へ出てサラリーマンとして働く傾向が全国的に広まりました。今ではサラリーマンの割合は9割に近くなっていますし都市(東京、大阪、愛知、福岡圏)への集中度は7割近くに上っています。サラリーマン化都市化核家族化はこの70年で究極まで進展してきたのです。これを即「孤独化」と結びつけるのは早計ですが、多くの日本人の先祖とのつながりが希薄になっていることはうかがえます。

 

 今年4月に初孫を授かりました。思いがけないことで「有頂天」を実感しました。何カ月か経って、多分三ヶ月頃だったと思います。いつも通り仏壇に手を合わせて先祖に話しかけている時突然「つながった」という感情が走ったのです。先祖と私が未来という見えない時間の先に「つながった」と感じたのです。子どもたちはいずれ死ぬ――私との血脈が途切れるにちがいないという予感が絶えずありました。ところが孫はその先に広がる未来が、私の力の及ぶずっと先までつづいているのです。私の支配の圏外に私がつづいているのです。「つながった」という感覚は「私」というものの「存在圏」が無限に拡大する可能性に接続したのです。

 

 現在のわれわれは「今、ここ、わたし」に止まって自分という存在をそれ以上に拡大することがありません。「今」は瞬間瞬間に消えていく時間――発生(誕生)から消滅(死)までのブツブツした有限な線分にすぎません。いかに多くの友人とつながっているように思っても宙に浮遊するはかない点と点のつながりです。どこまでいっても頼りなさがつきまといます。だから現代人の孤独は癒しようがないのです。これが過去から未来へつづいた幅広の線のつながりとなった時ズッシリとした安定感が生まれるのです。

 

 その第一歩はは先祖とのつながりです。毎日仏壇に手を合わせるのもよし、墓参りで先祖と再会するのもよし、自分という存在を過去と結びつける習慣をもつことが精神の安定をもたらし孤独におちいる頼りなさから救ってくれるのです。

 最近そんな思いを抱くようになりました。老いのせでしょうか。

 

2022年10月10日月曜日

成長の先に(続)

  前回わが国のシステム――現在日本の経済・社会システムにはもう「成長の伸びしろ」が残されていないということを述べました。そりゃあそうでしょう、戦後のセロの状態、いやマイナスからわずか20年ちょっとで世界第2位の経済力を達成し、爾後42年間その地位を維持し中国に2位の座を取って替わられてからも3位を保ちつづけているのですからソロソロ限界に近づくのも当然なのではないでしょうか。というよりもこの変化の激しい時代に1つのシステムがよくも半世紀ももったというべきでしょう。そう考えればいまだに同じシステムに拘泥していること自体がおかしいのです。最後のあがきとして黒田日銀が非伝統的・異次元の「金融緩和」という「純経済的」施策で現状打破を企てましたがそんな弥縫策で乗り切れるほど現状は生やさしいものではありませんでした。それに気づくために10年も要したこと――貧富の格差の拡大と国民を分断に追い込んだことはかえすがえすも残念なことでした。

 

 ではどうすれば良いのか。純経済的システムだけでなく広く日本の社会システムの全体を新しく改革しなければ次のステージを切り拓くことができないとするならどんな社会に変革しなければならないのでしょうか。約2割も減少した給料を取り戻しそれ以上に国民が豊かになって格差が解消し分断した国民が豊かでぬくもりのある社会に生まれ変わるにはどうすれば良いのでしょうか。重要と思われる5つの分野を取り上げてみましょう。

(1)女性と若者の力の活用…はっきり言って今の停滞は男性に偏った――それも主におっさんの力ばかりで経済と社会を運用してきた結果であることは国際比較で明らかです。社会を構成している半分は女性なのですからこれを活用してこなかったこれまでが余りに異常なのです。男女雇用機会均等法は昭和60年に成立しましたが35年以上たった今でも「男女平等ランキング2021」は世界の120位という体たらくです。これでは世界に伍していく創造性や成長力が生まれるはずもありません。性根を据えて女性を前線に押し出さねばなりません。

 若者に関しては「教育投資の大幅拡大」で彼らの能力を高めることも必要です。教育への公的支出がOECD平均の4.9%(対GDP比)から大きく離れた4.0%(韓国5.1%)ではグローバル競争に耐える水準ではありません。

(2)企業と銀行(金融機関)の緊張を取り戻す…高度成長をもたらした大きな要因に「銀行と企業」の緊張関係があったことが忘れられています。投資(運転)資金の借入時に銀行の厳しい審査があって同意を促すために両者で緻密な協議と展望を重ねたことで投資の有効性を高めてきたのです。今や「ゼロ金利」ですから借り入れが容易になって企業の投資に関する意欲と熱意が極度に劣化しています。企業の競争力を高めるためには銀行との緊張感ある関係は欠かせないのです。

(3)企業と労働者の緊張感を高める…成長の要因として企業と労働者(組合)の緊張関係があったことも忘れられています。組合をつぶして企業側(経営者)の経営の自由度を高めることが成長につながると考えられて組合の無力化が進められてきました。しかし銀行と組合という経営者にとって大きな「対抗力」が消滅した結果は「イノベーション力」の劣化となってわが国の成長力を大きく毀損したのです。アメリカでさえアップル、アマゾン、ウォルマートという大企業で組合結成の機運が高まっているのです。「眠れる経営者」を目覚めさせることが成長力再生の決め手なのです。なお非正規雇用の存在が正規雇用者から緊張感を奪い能力向上意欲を阻害しているという側面は今後の研究課題でしょう。

(4)東京一極集中の解消と地方創生…国力を向上し「成熟期」に至るまでは東京一極集中は「必要悪」として認めざるを得ませんでした。しかし成熟を果たしたこれからは、放置されていた「地方の活力」を活用しなくては国全体を成長させることはできません。掛け声だけでなく本腰を据えてこの問題に取り組む時期に来ています。

(5)行政の専横を矯正する…昨今の政府内閣の暴走は目に余るものがあります。「国葬」の強行はその例のひとつですが、国会の軽視、多額の「予備費」は民主主義の崩壊をもたらします。なぜ政府の暴走が成長を阻害するかといえば、政権党――政府与党支持者の利益に政策が偏向するからです。これは「既得権者の擁護」につながり「新規参入」を拒絶して「イノベーション」を排除してしまうのです。

 

 最後に人口減の問題について。国立社会保障・人口問題研究所「日本の将来推計人口(平成14年推計)」によれば2050年には約1億人(1億59万人)に減少すると推計されています。しかしドイツは6千万人余で5万ドル強(1人当GDP)、英国6千万人余で4万7千ドル、仏国6千万人余で4万4千ドルと我が国の3万9千ドル強よりも豊かな生活水準を達成しています。それらの国との比較においてどこが違うのかを検討すると上記の5項目において明らかに我が国より上位に位置していることが分かります。そのうち女性活用の効用は相当大きいのではないでしょうか。そして特に注目するのはドイツや北欧圏での新たな動向として労働者の経営参画が進展していることです。それは「労使共同決定制度」といい、選出された従業員代表が大企業の取締役会の議席を半分まで占めることができるというもので、経済発展を妨げるのではないかという心配はむしろ逆の結果でその正当性が証明されています。先にも述べましたがアメリカの大企業でも組合結成の動きが加速しているように、経営者が株主利益を保証すればその地位が安定し経営的バーバリズムが減退する――成長力を阻害する悪弊を、労使・対金融機関との緊張感を醸成することで企業の成長力を高める効果をもたらすに違いありません。

 

 20世紀後半から資本主義は株主利益に偏向した短期の成長に拘泥しすぎました。しかし経済の究極の目的は国民の豊かな生活の達成にあります。豊かさは単なる経済的豊かさだけでなく格差の少ない国民皆が能力を発揮できる社会にあります。成長至上主義から脱却し国民の誰もが豊かさを共有できる不平等でない社会を成長の先に築きたいものです。

 

 

2022年10月3日月曜日

日本は世界3位ですぞ

  安倍さんの国葬で世界の要人現役トップ級の名がないのを「これが国力が衰えたわが国の現在の実力でしょう」と賢らに解説する連中の多いのに腹が立ちました。日頃は大言を吐く保守系右派の人たちもこれに反発しないのを見て猶更怒りを覚えます。反中嫌韓を愧じることのない「大日本主義者」がなぜ「日本はGDP世界3位の大国ですぞ!」と反論しないのでしょうか。しかも「国民皆保険」で「老齢年金」もカバーしている「範囲」、「支給金額」の両面で世界水準を達成している、こんな国がなぜ「国力の衰えている国」と『卑下』しなければならないのですか。国力世界最高のアメリカは健康保険も年金も不完全でその「格差」に99パーセントの人たちが不満を抱いています。2位の中国は共産党独裁の「専制国家」ですから「基本的人権」は十分に保障されていませんし国民の平均所得も1万ドル(約100万円)を少し超えたところで停滞していて今後上昇する可能性は厳しいと言われています。

 これでも日本は国力の衰えた『衰退国家』と蔑まれなければならないのですか。

 

 日本は1968年GNP(国民総生産)で西ドイツを抜いて世界第2位になりました。当時は今と違ってGDP(国内総生産)ではなくGNPで国家の経済規模を表していたのですが当時わが国はいざなぎ景気で経済は絶好調でした。以降2010年に中国に追い抜かれるまで42年間2位を堅持しつづけたのですから凄いものです。しかも中国に追い抜かれたとはいえ2010年から2021年まで3位を保っているのですから何のかのといわれながら日本は頑張っているのです、なに憚ることがあるものですか。4位以下のメンバーはドイツ、イギリス、インド、フランス、イタリア、カナダ、韓国(ブラジル)で異動ありませんから(6位以下は順に若干の異動があります)世界上位の国力はほとんど不変なのです。(ロシアは2013年の8位を最後に11、12位に低迷しています)。

 世界経済に占める日本経済の大きさ(比率)で国力を計ってみましょう。最も比率が大きかったのは1995年の17.8%です。以降2000年14.6%、2005年10.1%、2010年8.7%、2015年5.9%、2020年5.9%と急激に影響力がかげりましたがそれでも5~6%は保っています。アメリカは近年でも25%程度で安定しており、一方中国は2010年の9.1%、2015年14.8%、2020年17.8%、2021年18.1%と急激に存在感を高めていますが、2022年以後急激に成長が低下すると予想されていますから我が国同様20%手前で失速するかもしれません。

 問題は国民の豊かさを示すと言われている「1人当GDP」の推移です。ランキングでは2000年の世界2位(3万9千ドル)が最高でしたが金額的には2012年の49,175ドル(世界14位)が最高額でした。以後継続して低下の一途をたどり2015年3万5千ドル(27位)と最低を記録しました。現在は若干持ち直して2021年は3万9千ドル(28位)になっています。10年間で約1万ドル――約2割低下したのですから国民の生活は相当苦しい状態に陥っていることが数字に出ています。

 

 世界のGDPに占めるわが国の割合が2位から28位に低下したことをもって「国力低下」とするのならまちがいなく低下しています。問題はこの間に大企業の内部留保が2010年の266兆円から2021年485兆円とほとんど倍増していることです。GDPが500兆円台で横ばいの中で企業と国民の取り分が大企業に偏った配分に移行しているのです。

 これをどうみたらいいのでしょうか。戦後わが国は「護送船団方式」といわれる日本型経済運営で驚異的な経済成長を遂げました。行政が業界(企業)を保護しながら監視・監督するなかで資源と資金を成長目標分野に集中的に活用することで効率をはかるこの方式が、2000年代に入ってグローバル化に対応するため行政の関与を可能な限り排除して「規制改革」と「民営化」に舵を切り、市場の自由な活動に経済運営を委ねる「新自由主義」を打ち出したのです。その結果小泉政権から安倍政権の「失われた20年」となって今日に到っているのです。

 この20年の間あらゆる経済施策を駆使してデフレ脱却を図ってきました。アベノミクスは究極の形で新自由主義的経済運営を行なったのですが結果を出せませんでした。黒田日銀の行なった「ゼロ金利」と市場にジャブジャブお金を供給する「異次元の金融緩和」は究極の「純経済的施策」でしたが物価も経済も上向くことはありませんでした。もはや『経済的』な施策で現状を改革することは出来ないということではないでしょうか。今の「日本の経済・社会システム」ではもう経済成長の「伸び代」は残っていないのです。

 としたら『経済外的』な我が国のシステムに目を向けなければならないということになるのではないでしょうか。経済以外の社会構造でまだ手を付けていない改革や世界的に遅れている分野を改善することが必要なのではないでしょうか。                                                          (つづく)       

2022年9月26日月曜日

変だぞ、日本

  とうとう今日(9月23日金曜日)は見たいテレビが1本もありませんでした。「おわコン」と言われて久しいテレビですがそれでも1日に何本かは――私の場合ドラマかドキュメント――見たいものがあったのですが徐々に減って来て遂に「ゼロ」になってしまったのです。しかし考えてみれば我々のような80才を超えた年寄りなどターゲットになっていないのですからこれも当然の成行きでおとなしく受け入れるしかないのでしょう。とはいえテレビは見ます、習慣ですから。今の人がスマホを手放せないのと同じです。そんななかでどうしても納得のいかないCMがあります。関電の「オール電化」のコマーシャルです。一日に何度流されるか数えたことはありませんが一度や二度ではありません。関電の人たちは何とも思わないのでしょうか。

 反原発の動きとウクライナ戦争の影響で天然ガス不足が「電力不足」をひき起こし、この夏「節電」が要請され一部では計画停電もありました。この状態は終息が見通せませんから当然この冬も夏季にもましての節電が求められるにちがいありません。なのに「オール電化」です。完全な関電の「自己矛盾」です。テレビのCMでは「タワーマンション」がニギニギしく宣伝されています。もし「停電」したら、と考えると身がすくみます。関電さんもマンション屋さんも「変」です。

 

 まだまだ「変」はあります。昨日(9月22日)日銀が「円買い介入」しました。ドルを売って円を買う日銀による為替市場への国家権力の介入は「ルール違反」です。本来は市場を通じた「見えざる手」に委ねられるべき市場の趨勢を強制的に日銀が「変更」しようとするのですからその背景には今の市場が「投機的」――ある種の金融筋による恣意的な市場価格の形成が行われているという認識がなければなりません。鈴木財務相も記者会見で「投機による過度な(相場)変動を見過ごすことはできない」と発言しています。しかしそうなのでしょうか。今の為替市場は「投機」によるものでしょうか。そうではないでしょう。世界がウクライナ戦争による物資不足や滞留による「過度な物価騰貴=インフレ」の抑制に動き「金利アップ」に動いているなかで唯一日本だけが「異次元の金融緩和=ゼロ金利」を継続しつづけている『矛盾』を市場が『獲物=日本』ととらえて「円売り」を浴びせて「円安」を加速させているのです。日銀の金融政策が「まちがっている」と市場が教えているにもかかわらず日銀がその教えに「逆らう」から円安がつづいているのです。決して「投機」によるものではありません。こんな簡単なことは専門家集団である日銀や財務省の役人が知らないはずがありません。それでも「ゼロ金利」と市場への貨幣の過度な投入=「異次元の金融緩和」を変更できないのは何らかの事情があるのでしょう。「物価の番人」が守るべき『国民』以外の誰かを日銀は守ろうとしているのです。

 円買い介入は一時的に「円安」を演出するかもしれません。しかしドル売りする手段=「米国債」の売却は米国債の下落をもたらしますからアメリカ(FRB)は国債の価格=「金利」を高くせざるを得なくなり日米の金利差を更に拡大する結果をもたらします。円安介入は決して物価高の解決策にはならないのです。またドル売り円買いは円がそれだけ日本市場に還流=円の流通量が増えるわけですからこれも結果として「金融緩和」につながりますから外国筋は円売りに走ることになるでしょう。

 日銀の円買い介入は決して物価を下げる効果はもたらさず、国民の汗と努力で貯め込んだ「米国債」を「安値」で「たたき売り」して財産を目減りさせるだけで、決して国民の利益にはならない『愚策』です。日銀は「変です」。

 

 いよいよ安倍元総理の「国葬」が9月27日(火曜日)に行なわれます。この国葬は本当に安倍さんの名誉を高め我が国と世界の敬意を集めることになるのでしょうか。

 安倍さんにとって不運だったのはイギリスのエリザベス女王の急逝でした。19日に行われた国葬は伝統にもとづく荘厳で華麗なものでした。イギリスの2800万人、世界の41億人の人びとがテレビの実況でその死を悼み敬意をもって葬送しました。おそらく英国国民のほとんどは女王の死に服喪したにちがいありません。ひるがえって我が国では国葬に反対する人が6割りを超えています(賛成派4割弱)。国葬であるのに「服喪」を国民に強制しないとも言います。これで「国葬」なのでしょうか。

 2千年以上の歴史を誇る国であるにもかかわらずエリザベス女王の国葬に比べて余りにも「貧相」な葬儀になることの屈辱に耐えられないという人も多いのではないでしょうか。伝統がありませんから式場や式典装備も整えられていませんし式次第も引継がれていませんからまったくの「急ごしらえ」の「バッタもん」の国葬になるのも仕方ないのです。

 国民の多くに「無視」され「貧相」極まる「儀式」で送られる安倍さんはこんな『国葬』を望んだでしょうか。拙速で「民意」を無視した「国葬」を決定した岸田さんと自民党のお偉いさん方は本当に安倍さんに「敬意」を抱いていたのでしょうか。

 

 岸田さん、麻生さん、そして安倍さんの信奉者の皆さん、「変」ですよ。

 

 

2022年9月19日月曜日

変だぞNHK

  NHKの不祥事が続いています。ひとつは昨年末に放送した東京五輪に関するドキュメンタリー番組で、反対デモの参加者が金銭で動員されているとの誤った字幕を付けた問題で、BPO(放送倫理・番組向上機構)が「重大な放送倫理違反がある」との意見書を発表しました。もうひとつは8月31日に放送されたNHK・BS1の「国際報道2022」の出入国在留管理庁の特集で、「入管側の主張を一方的かつ無批判に伝えるだけの番組内容だった」とNPO法人「移住者と連帯する全国ネットワーク(移住連)」から抗議声明を受けた件です。ふたつとも制作サイドの「思い込み」が十分な裏付けも取材されないで放送されたものです。

 

 五輪関係の番組は、東京五輪の公式記録映画の監督を務める河瀨直美さんに密着したドキュメンタリーで、取材で出会った男性の映像に「五輪反対のデモに参加している」「実はお金をもらって動員されていると打ち明けた」と字幕を付けました。実際はデモへの参加も金銭の授受も確認していなかったのです。意見書では、事実確認など取材の基本を怠ったことや、編集で男性が別のデモに関して述べた発言を五輪反対デモの発言にすり替えたことを問題点として挙げ、社会運動への関心の薄さから試写でチェックが甘くなったとも指摘しています。

 新型コロナウィルス禍の開催で賛否が分かれていた東京五輪を扱う番組にもかかわらず、取材のずさんさや制作スタッフの意識の低さは驚くばかりですが、その裏に開催を強行した政府への擁護の意識が働いていたのではないかという見方もあります。結果として、五輪を反対した人たちをおとしめたことになり、何らかの意図が働いていたのではないかという不信感も拭えません。

 問題を重く見た総務省は16日行政指導をしました。「視聴者の信頼を著しく損なうもので、誠に遺憾」と指摘し、再発防止策を徹底するように求めています。

 

 8月31日放送のBS1「国際報道2022」は、出入国在留管理庁への取材を中心に送還や医療の課題を紹介するものです。またその中で帰国を拒む外国人たちの滞在が長期化する傾向にあり在留資格を失った外国人数について2021年は5年前と比較して2万人ほど増えており、国の費用負担増につながっていると報じたのです。また批判の多い在留資格のない外国人を送還する際の入管の対応について「人道上の理由から、基本、身体拘束するなどして強制的に退去を強いることはない」と説明しています

 これに対して移住連は「長期化の客観的な根拠が一切示されていない」「入管側の発言をそのまま伝えたのだとしたら、報道機関としてあまりに無責任」として抗議するとともに報道姿勢の見直しと改善を求めました。

 NHKは批判にこたえて9月12日の放送で「22年のデータを使うことが適切だった」と謝罪したのですが、実は22年の人数は年前と比べてほぼ横ばいだったのです

 これも構図は五輪報道と同じで、政府と行政を擁護しようという意図が明らかです。昨年11月の名古屋入管に収容中のスリランカ女性死亡報道以来出入国管理庁と入管制度への激しい批判がつづいているなかで、明らかに忖度が働いているように見えてしまうのです。データの恣意的な利用はあまりにも視聴者を馬鹿にしています。

 

 最後に問題にしたいのは朝ドラ「ちむどんどん」です。放送の早くからネット上では炎上していて、脚本家への批判、抗議は「番組打ち切り」にまで及びました。実際何度見るのを止めようと思ったか知れません。ドラマの展開が読めるのだけでも作者としては落第ですが、それ以上に手垢のついたセリフと性格描写が視聴者を馬鹿にしていると思わせるのです。

 ただここで問題にするのはそうしたドラマづくりに関するものではありません。今年の朝ドラに「沖縄」を取り上げたのは「沖縄本土復帰50周年」を意識してのものであることは誰にでも想像できます。にもかかわらず「ちむどんどん」は素材を沖縄に取っただけで、沖縄問題への真摯な取り組みも沖縄県民と本土の間に横たわる不信を解きほぐそうとする姿勢もまったく見られなかったのです。別に沖縄料理でなくても道産子料理でも薩摩料理でも良かったドラマにしかなっていないです。沖縄県民の皆さんは今、復帰50周年という記念の年を迎えて憤懣と後悔の念におそわれているに違いありません。終わったばかりの知事選で普天間基地の辺野古移転に「ノー」の審判を政府に突き付けましたが、それにもかかわらず日本政府は「沖縄県民の意志」をまったく「無視」して「唯一の解決策」を繰り返すばかりです。それどころか2023年沖縄振興予算概算要求を10年ぶりに3千億円を割り込んだ2022年分より200億円減の2798億円にする「報復」で意趣返しするという非情を示したのです。こうした「不条理」をどうして沖縄県民は受けつづけなければならないのでしょうか。

 「ちむどんどん」は今年朝ドラになった意味はまったくありませんでした。

 

 NHKがBPOから重大な放送倫理違反とされたのは今回で2回目で、単なるチェック手続きの問題だけでなく、組織全体の報道姿勢や指摘された内容の検証にもとづく抜本的な改善を図らなければ、公共放送としての信頼回復を果たすことは難しいのではないでしょうか。