2022年11月21日月曜日

いつまで車が主人公なのですか

  白髭神社の前の道路に琵琶湖側に下りられないように高さ1メートルほどの柵を設置するという報道がありました。テレビ画面に映し出された映像では白髭の浜が歩道柵で遮られていて下りていくことが出来なくなっているのですが柵の高さが50センチメートルほどなので容易く乗り越えられるので更に1メートルの柵を上乗せして1.5メートルにして乗り越えられなくしようというのです。この報道に接して憤りよりも哀しさを感じました。

 

 私が白髭神社にはじめて行ったのは小学校4、5年の頃ですからもう70年も前のことです。父が鉄工所を営んでいて夏休みのリクレーションで従業員と家族を60人乗りの帝産バス2台で白髭神社のちょっと先にある萩の浜へ日帰り旅行を毎年行っていたのです。座席に若干の余裕があって町内の子どもたちも10人ほど招待されましたから私は友達と遊べるので楽しみでした。白髭神社の手前にソロバン街道というのがあってその頃はまだ道路が未整備だったせいで大きな石ころが多い道が何百メートルかあってゴトンゴトンとバスが揺れるのも子どもに取ってはひとつで楽しみになっていました。白髭神社につくと休憩になり、砂浜から穏やかな琵琶湖の湖面に浮かぶ朱塗りの鳥居を拝みました。不思議と晴れた日に恵まれ白い砂浜と湖面の青い水、そして朱色の鳥居の景色が幼心にも神秘なたたずまいを訴え心しずかに手を合わせたものでした。萩の浜は遠浅の子供向けの遊泳浜でお昼のお弁当時間を挟んで半日のリクレーションは夏休みの一大イベントでした。当時としては(昭和30年にもなっていなかった頃です)社員リクレーションなどほとんどなかった時代でしたから父の先見性はすぐれていたと思います。

 40才ころまでは何年かに1回家族と出かけることもありましたがその頃もまだ白髭浜には自由に出入りできたように記憶しています。

 

 滋賀県が工業化して全国有数の工業県になるにつれて交通量も飛躍的に増え、道路整備も充実してソロバン街道などしのぶ余地もなくなる過程で歩道が整備されたのでしょう。入浜禁止にはいつ頃なったのか、交通量の多いところですから見物に駐停車する車両が増えれば交通に支障がでるのも当然でいつしか入浜禁止になったのでしょう。それでも絶景ですから違法駐車してでも景色を見たい、どうせなら浜に下りて鳥居を背景に写りたいというのが人情です。柵ができれば乗り越えるのが当たり前になり、交通規制と違法駐車、違法入浜と柵越えのいたちごっこになって今回の防護柵設置に至ったのでしょう。

 不思議なのは写真で見る限りは横断歩道も信号機も鳥居前にはありません。とすると神社に詣って鳥居を間近かに見るにも、鳥居を背景に写真を撮るにも車道を横断する以外に方法はありません。横断歩道も信号もないのであれば車の通行を見て素早く車道を渡る以外に方法はないことになります。最低でも「徐行」、それも「最徐行」の措置はするべきで、それすら行なっていないのでは事故が起こって当然でなぜこんなことが放置されてきたのでしょうか。

 琵琶湖有数の景色が車両の増加と共に人が遠ざけられ、妨げられ排除されてきたのです。「車優先」「車が主人公」の思想が徹底されたのです。

 

 同じような話があります。「道路遊び禁止」が常識になっているのです。輸送の幹線道路になっている主要国道は別にして新興住宅地の生活道路や町家の多い古い、しかも狭い市街地でも子どもの道路遊びは禁止状態で、まちがって遊ぼうものなら通報されて警察沙汰になってしまうのです。道路で遊ばずに公園や学校の校庭で遊ぶしか今の子供たちは遊び場がないのです。子どもたちの道路遊びに対する苦情や非難はネット上に溢れています。「道路族」などということばもあって、今や道路はどこも「御車様」の『専用』になっているのです。昭和のわれわれ世代にはなんとも納得のいかない現状です。

 「車社会」になって半世紀以上になりますが、高度成長期から現在に至るまで「車が主人公」で経済最優先の社会がつづいています。しかしそろそろそんな社会、考え方は「変革」される時代になっているのではないでしょうか。

 75才で免許証を返納して、歩きと自転車で交通するようになって気づいたことは「車の横暴」です。どんな狭い道路でも車が交通の主人公で歩行者と自転車は肩身の狭い思いを強いられています。片側一車線で電信柱がありますから車がすれ違いすると歩行者は遠慮して車の「離合」を待つしかありません。住宅地の片側二車線の生活道路でつけ足しで設けられた人ひとりがようやく通れるような歩道を自転車が通ると歩行者は危険を感じます。

 完全に道路は「車が主人公」になっているのです。京都の四条通りが歩行者優先の考えで歩道拡張されて歩行が非常に楽になりました。その分車の運転は不便になったのですが、便利で歩行が楽になった歩行者の便益と車が被った不便を比較したとき「社会の合計」としたらどちらが多いでしょうか。そして車が不便になったことで派生した「経済的不利益」はどれほど発生したのでしょうか。

 

 そろそろ車社会の「車優先」による『社会的便益』の『社会的経済的分析』を真剣に行い車を日本社会にどう位置づけるのかの「社会的合意」をわれわれは形成するべきです。最早経済成長で遍く国民を幸福に導ける時代ではありません。経済は重要ですがそれ以外の価値も見直さねばならない時代になっているのです。そしてまたこれまでのように、車に社会的費用を何百兆円も投入できる国力もわが国にはありません。

 車の社会的費用に関しては1970年代はじめに宇沢弘文の秀れた分析があります(岩波新書『自動車の社会的費用』など)。われわれは気がつかないで車社会のために厖大な負担をしてきているのです。これまでは経済成長という果実によって「帳消し」にできてきたのですが昨今の「給料の低さ」で分かるように成長の成果が公平に分配されなくなっているのですから、いつまでも国の言うままに、企業の要求のままに、だまって負担を受け入れる必要はないのです。

 

 それが「かたち」になったのが「四条通りの歩道拡張」であり、白髭神社の浜に入れるように信号を設置し徐行を義務付けるようにしなければならないのです。物流幹線道路以外は人の歩行と自転車の通行が優先されるべきで車の一方通行や通行禁止ゾーンの拡大なども進めれれるべきで、「道路遊び」が非難されるような常識がのさばっているうちは「子どもは社会の宝」などという言葉は嘘っぱちの建て前に過ぎないのです。

 

 道の主人公はひとだということが常識になる社会に早くなって欲しいのです。

 

 

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