2022年11月7日月曜日

女心は昔も今も

  古今集を読んでいると「女心」と「老い」の想いは今も昔も変わらないものだと改めて思い知らされます。特に「誹諧歌(はいかいか)」には今に通ずる感覚が多くあり面白く鑑賞できました。このジャンルには当時の本流である真面目な歌からはずれた滑稽味のある歌が収められていて、恋の歌でも「あわれ」の少ないもの、ないものはここに入っています。

 

※ 一〇六一 世の中の憂きたび毎に身を投げば深き谷こそ浅くなりなめ(よみ人しらず)

 なんとまんがチックな歌でしょうか。1200年も前の平安びとがこんな感覚をもっていたということはユーモアのセンスはいつの世にもあったし必要なものだったことが分かります。「生きていてツライことがある度に身投げなどしていたらどんな深い谷でも浅くなってしまうだろう」、とは。

 

※ 一〇一六 秋の野になまめき立てる女郎花(おみなえし)あなかしがまし花も一時(僧正遍照)

 「秋の野に媚びを含んで立っている女郎花よ、ああ、物言いがやかましい。美しい盛りはしばらくの間よ」。この歌の肝は「あな、かしがまし」「花も一時」にあります。ああなんてうっとうしい、やかましいという感情、「美しい盛りなんてほんの一時のことなのよ」という冷罵が潜んでいます。詠み人が遍照ですから「盛者必衰(じょうしゃひっすい)」の仏の教えを読み取るのが表の意味でしょうがその底には、若い盛りのピチピチの娘たちの傍若無人な振る舞いに対する成人女性の嫉妬と冷めた目があります。多分当時今でいう若いギャルの一団が都にのさばって若い男やおとなの男たちにチヤホヤされていたのでしょう。「秋の野になまめき立てる」という辞からそんな雰囲気があります。「あなたたち、いい加減にしなさいよ。そんなに浮かれているのも今のうちよ。明日になったら私たちと同じ立場になるのよ」と冷たく突き離した女心が浮かんできます。一夫多妻時代の女性の立場は極めて弱いものでしたからなおさら若い女への嫉妬は強かったにちがいありません。「あなかしがまし」ということばにイマイマしさがにじみ出ています。

 

※ 一〇二二 石の上(いそのかみ)ふりにし恋の神さびてたたるに我はいぞ寝かねつる(よみ人しらず)

 「古くなった恋が神怪化して、祟るであろうか、我は安眠できずにいることであるよ」。この歌は「神さびて」が理解できるかどうかにかかっています。当時「物が余りに古くなると神怪が顕れる」という俗信があってそれを作者はおそれているのです。この歌はこう読むと現代に通じるものがあります。通い婚で長いご無沙汰の女のもとへ通ってきた男がシツッコク離れてくれない女の「深情け」にヘキエキして「これは祟りじゃないか」と恐れを抱いた心境なのです。「神さびて」などという言葉が男女の仲に出てくるところに男の心底恐れを抱いている気持ちが現れているではありませんか。

 

※ 一〇三七 ことならば思はずとやはいひ果てぬなぞ世の中の玉襷(たまだすき)なる(よみ人しらず)

 「このようならば、今は思わないといい切らないのか、いい切ればよいに。何だって二人の仲が行きちがいになっていることか」。これも現代感覚ならこうなるでしょう。こんなことならイッソ「お前にはもう飽きた」と言えばいいじゃないの、どうしてこんなに二人の心は行き違ってしまったのだろうか。通い婚で段々間遠になって、たまに来てもお義理の交わりで隙間風がふたりを隔てているのがアリアリと感じられる。こんなことなら「別れましょうよ」と言いたいのだがそうも言えない弱みが女にはある。やるせない女心。「玉襷」――襷は背なかで十文字に斜め掛けになっているところから「行き違い」を雅な言葉づかいで表しているところが古今集なのです。

 

※ 一〇四三 出でて行かむ人をとどめむよしもなきに隣の方に鼻もひぬかな(よみ人しらず)

 「出て行こうとする人を、引き留める方法もないのに、隣の方で、くさめをする人もないことよなァ」。

 この歌は今の人にはまったく理解できないかもしれません。「鼻ひる」は嚏(くしゃみ)の古語ですが、当時はくしゃみは悪いことの前兆で、家を出ようとするとき近くの人がそれをすると忌んで見合わせる風習がありました。従ってこの歌は、通ってきた男が帰ろうとするのを引き留めようとするのですが男はつれない素振りです。せめて隣の人がくしゃみでもしてくれたら験をかついで出るのを控えてくれるだろうに、というあわれをさそう女心を示しているのです。これもまた一夫多妻制の女性の弱い立場を表しています。

 

※ まめなれど何ぞはよけく刈る萱の乱れてあれどあしけくもなし (よみ人しらず)

 「真実にしていたが、何のいい事があるか。浮気をしていたが、悪いということもない」。これは堅物男の嘆きです。正妻を思ってひたすら愛を貫いたけれども妻はそれほど感謝もしていない。ひょっとしたら変わった人とさえ思っているかもしれない。それに引き換えあいつはとっかえひっかえ女漁りをしているのにバチが当たったという話も聞かない。こんなことなら俺も……、といった男の切ない心情ですが今に通じるものがありますねぇ。

 

※ 一〇六三 何をして身のいたづらに老いぬらむ年の思はむことぞやさしき(よみ人しらず)

 「何をして、我が身はなすこともなく老いたのだろうか。年そのものの思うだろうことがはずかしいことであるよ」。

 この歌で注意すべきは「やさし」がはずかしいという意味で使われていることです。「やさし」の原義は「痩せ」と同根で、「ひとの見る眼が気になって身も瘦せ細る気がする」が転じて、遠慮がちに細やかな気づかいをする、となりその結果として「繊細だ、優美だ」となったり「恥ずかしい」という意味にもなったのです。

 これといった浮き沈みもなく無難な一生だったなぁという感懐は今に通じます。それを「年」というものを擬人化して、年が自分の来し方を顧みれば「恥ずかしい」と思うだろうなぁ、と表現しているところが面白いのです。

 

 誹諧歌は古今集の中ではあまり評価されることのない「部」ですが私は非常に面白く鑑賞しました。それは窪田空穂という先達の秀れた手引きに連れられてじっくりと千幾首読み込んだからだと思います。秀れた書物を時間をかけてゆっくり、じくりと、言葉のひとつひとつに心をを注いで読み込む読書。

 「言葉が壊れた時代」の今こそこんな読書が必要なのではないでしょうか、紙の本を手に取って。 

評釈は「窪田空穂全集」に拠っています

 

 

 

 

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