2019年8月26日月曜日

日本という国はどんな国だったのか

 毎年のことだが八月十五日を迎えると「こんな日本でいいのだろうか?」と考えてしまう。昭和十六年生まれだから少しは戦争の記憶もあるし戦後の物資不足の「飢え」も経験している。戦後教育の一期生として今日までの教育の変遷は誰よりも分かっているつもりだ。記憶は美化されるから貧しかった子ども時代のほうが幸せだったように感じるのは年寄りの常だろう。
 でも、本当に「今の日本」は誇れる国だろうか。
 
 日露戦争のとき孫文はヨーロッパにおりましたが、戦争のあと、中国へ帰った。その途中、船がスエズに寄港すると、荷役のアラビア人が(略)「――日本が日露戦争に勝った。白人だけが優秀であると自分たちは諦めていた。(略)ところが、日本人が白人を戦争で破ったということを聞いて非常に嬉しい。解放の希望がもてた」、ということを言ったそうです。孫文自身が語っております。ですから、日本の近代国家の建設というものは、戦争によって有効性が証明されたわけで、それが植民地解放にとって非常に大きな力になっているらしい。(『「アジア学」の視点』―竹内好全集より
 産業革命の世界史への衝撃は強烈で、それを逸早く経験したヨーロッパ諸国の「優位性」は僅か二世紀で最も「野蛮」な国から世界最先端の国に変貌させ、非ヨーロッパ国のほとんどすべてを「植民地化」するまでに勢力を伸長させた。唯一植民地化を免れ、大国ロシアに戦勝した日本への憧憬は鮮烈であったにちがいなく、孫文を日本人に見誤ったアラビア人労働者の興奮した姿が目に浮かぶ。
 その憧憬が「日本に学べ」という流行となって現れ、「一九世紀末から二十世紀初頭にかけ、中国人留学生がぞくぞくと日本におしよせる、空前の日本留学ブームが到来することになる。西洋の科学・技術をうまくとりいれた日本を知ろうという、「知日」熱が一気に高まった(抗日 中国の起源武藤秀太郎著)」。中国、朝鮮、東南アジア諸国からの留学生がその後祖国に還って脱植民地闘争の強力な力となったことは歴史が証明している。
 さらに日本への尊敬――発展途上国だけでなく先進国も含めた――は関東大震災の復興時に見せたこんな小さな動きからももたらされた。
 関東大震災では東大は図書館が全壊し、大半の蔵書が焼失していた。それで海外にいる研究者たちに本を集めさせることになったという。(略)だが一月も経たないうちにヨーロッパ中の日本人が本を買い付けていると評判になり、日本は思いがけず諸外国の尊敬を集めることになった。(略)東洋の小さな国の図書館に世界中の注目が集まって、図書館の建物もアメリカのロックフェラーの寄付で再建されることが決まった。民族間に、あるいは国と国との間にどんな対立があるとしても、学問に敬意を抱くのは人類共通のことなのだ『夏の坂道』村木嵐著)。
 いまの政府は、震災復興の予算を「図書館の蔵書」整備のために使うことを許すだろうか。まず優先されるのは建物や理系の設備で、図書館はそのあとか、そのあとの後くらいになってしまうのではなかろうか。
 韓国との関係は現在最悪で対中、対ロも決して良好な関係とはいえない。アセアン(東南アジア)諸国がわが国を東アジアの指導的存在として尊敬してくれているかも怪しい。ADB(アジア開発銀行)の主要投資国であったりGDPが世界第三位であるというような経済力だけがそれらの国を「従わせている」のではないか。日本よりもアメリカを相手にするほうが話が早いと思われていないだろうか。
 いつのまに日本は「尊敬されたい」と思わなくなったのだろうか。
 
 話はそれるが現在放映されているNHKの朝ドラ『なつぞら』は広瀬すずという若手女優人気ナンバーワンが主演するというので期待していたが、最悪の脚本と広瀬すずの演技が下手すぎてまるで学芸会を見せられているようでたまったもんじゃない。そんなドラマで唯一心打たれるのは「戦災孤児をわが子同然に育てる」というドラマの設定だ。宮城まり子の『ガード下の靴みがき』に歌われているように戦後スグの街中には戦争で両親や身内を亡くした浮浪児があふれていた。しかし彼らが死んでしまったという話はあまり聞いたことがない、勿論少なからぬ子どもたちが飢餓のうちに命を断っているのかも知れないが……。かなりの戦災孤児は多くの人の善意によって生活し、成長して社会人となり戦後復興を担う力となっていったのだろう。彼らは自から望んで孤児になったわけでなく、戦争という個人では抗し得ない時代の力に翻弄されてそうなったのであり、彼らを救うのは大人の「共同責任」であるという気持ちが心の奥底にあったであろうことは想像できる。しかしそれだけでなくいたいけな子どもを引き取ってやろう、わが子として育てようという「純粋な善意」も孤児救済に働いていたことも事実だ。それだけ社会に『寛容さ』が備わっていたのだ。「人類みな兄弟」という思いが日本人の心に根づいていた。困ったらお互いさん、という近所つき合いが普通だった。
 生活保護を不当に攻撃する「今の社会の心」に寒々しさを感じる。
 
 最近読んだ本やドラマから「今」を考えている。最後に次ぎの一文を読んで欲しい。
 ――沖縄県民斯ク戦エリ。県民ニ対シ、後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ。/海軍の太田実司令官は、沖縄の悲惨な状況と県民の献身的な軍への協力を打電して自決した(『夏の坂道』村木嵐著)。
 戦後スグの東大総長を務めた南原繁を描くこの小説は、教育界から見た戦前戦後の日本がリアルに描かれた佳作で村木嵐という新しい作家を発見して嬉しかったのだが、この一節には胸を抉られた。「特別な御高配」どころかわが国米軍基地の七割を押しつけ、基地の県内移転のために世界に誇る辺野古の「美しい海」を、暴力的に壊滅させようとしている。太田実司令官の死を我々は『無残』にしてしまった。
 
 世界にはまだ10億人近い「貧困」にあえぐ人たちがいる。しかしそれは他人事でなく我国の7人に1人の子どもは貧困に苦しんでいる。
 我々が最も大切にするものをもう一度考え直すべきだと八月十五日に考えた、今年。
 
 
 
 
 
 
 

2019年8月19日月曜日

驕る平家は久しからず

 経済は我々の生活の基礎である。経済の仕組みが変われば社会の仕組みも変わり我々の生活にも大きな影響がある。平成時代の経済を振り返ってみると、デフレから抜け出せず給料も上らず非正規雇用の割合が3割を超え貧富の格差がどんどん拡がっている。右傾化が止まらず役人は国民よりも政府の方ばかり向いて仕事をするようになった。
 世界に目を向けると、アメリカにトランプという今までアメリカの進んできた方針とまったく逆の政策を推進する大統領が出現し、アメリカ以外にもミニ・トランプ的政治指導者が次ぎつぎと現われ極右政権が力を増す国が多くなっている。貧富の格差はどこでも拡大し移民受け入れを拒否する傾向が世界中の先進国で起きている。
 
 では経済でどんなことが起っているのか。先ず第一に上げるべきは「経済のグローバル化」で、第二は非正規雇用の増加だろう。そしてマスコミなどでは余り取り上げないが「税収構造の変化」がわが国では顕著になっている。財務省の資料に基づいて平成2年と30年を比較してみると、個人所得税が37.8%から31.5%とマイナス6.3%、法人税が30.4%から21.5%とマイナス8.9%、消費税は18.6%から32.9%プラス14.3%と大きな変動を示しているのだ(他に資産課税等が1%ほど増加している)。他国はさておきわが国のこの変化は見過ごすことのできない重要な経済の変化でありそれによる社会の変化はもっと追及されてしかるべきだ。
 グローバル化は世界的な潮流であるから避けることはできないが、このことを重要視したアベノミクスはグローバルな競争に勝てるように企業の競争力を強化する必要があるとして法人税軽減などの企業優遇策を次々と打ち出し、企業が儲かれば個人の所得も当然増えると公約してきた。しかし実際はサラリーマンの平均年収は平成19年437万円から平成29年432万円と僅かだが減少している(国税庁「民間給与実態統計調査」より)。この間女性の社会進出と高齢者の再雇用、非正規雇用の増大も手伝って雇用者の全体数は増えているから総雇用者所得は増えていると安倍首相は強弁するが1人当りの給料がが増えなければ意味がない。それが証拠に「景気拡大を実感していますか」という問いかけに「NO!」という答えが圧倒的に多いのだ。
 
 グローバル化の根本は、市場万能主義と成長至上主義だ。市場という「隠れた万能の手」に経済の運営を委ねれば「大量生産」が有利になるのは自明だから、企業は「大きな市場」と「安いコスト」を求めて世界展開していく。その結果、発展途上国であった国々の1人当りGDPがどんどん上昇し貧困国レベルから抜け出すようになっているが、反対に先進諸国の労働者の雇用は奪われ平均給与は減り続けるという悪循環をもたらし「反移民」「反グローバル」を唱える「極右勢力」が政権に影響力を強めている。
 このような世界情勢の中で市場の有効性を信じ続けて「市場原理主義」にまかせ、「成長」を最重要目標として社会を運営していっていいのだろう。成長の最大目的は「個人の豊かさ」だが、では一体、どれほどになれば「豊か」なのだろうか。一般には1人当りGDPが2万ドル以上を「豊かな国」という見方があり、OECD(経済協力開発機構)では1人当り国民所得(GNI)約1万2千ドル以上を豊かさの基準としている(GDPとGNIはほぼ同じと考えていいだろう)。
 IMF(国際通貨基金)の「世界の1人当たり名目GDP 国別ランキング2019.4)」によれば世界192の国・地域のうち2万ドル以上の国は44ヶ国、1万2千ドル以上の国は62ケ国に過ぎない(日本39,306ドル、韓国31,346ドル、中国9,608ドル、インド2,036ドル、ロシア11,327ドル)。もし中国とインドを2万ドル以上の国に成長させようとすれば今ある地球上の資源の2~3倍の資源が必要だといわれており、ロシアも含めて世界中のすべての国を「豊かな国」にするためには地球がいくつあっても足らない計算になる。
 
 だとすれば今や「豊かさ」を最重要目標として世界の経済運営を行うことは非現実的なことになってくる(IMFの世界経済見通しによる世界経済の成長率は2018年3.7%、2019年3.5%、2020年3.6%に止まっている)。なぜなら発展途上国の成長を優先すれば現先進諸国は低成長を受け入れなければならなくなるが果たして国民はそれを納得するだろうか。そうでなくても格差拡大の不満が鬱積して国の行く末を危うくしている現状があるのに。
 グローバル化への規制はGAFA(グーグル、アマゾン、フェイスブック、アップル)など国境をまたぐ企業への徴税強化策が各国・地域で始まっているように今後も対象企業の範囲拡大と税率の高率化として進行していくに違いない。またIMFの主導する革新的資金メカニズムのひとつとして「国際連帯税構想」もスタートしている。これは富裕層から税金を徴収し、一元管理して、世界の貧困や感染症や気候変動への対策費にしようとするもので、航空券連帯税や出国税などがそれに相当する。国連のSDGs〔エスディジーズ(持続可能な開発目標)〕に各国が積極的に関与する機運が高まれば自ずと、市場主義、成長主義への修正が実現することだろう。
 上記した「税収構造」の「企業・富裕層」優遇の傾向見直しも重要で、世界各国の低成長、格差拡大は「需要不足」によるものだという認識が有力になりつつあり、アメリカのバーニー・サンダース氏やギリシャのヤニス・バルファキス氏などの『反緊縮』の運動が今後加速するにちがいない。
 
 「需要不足」がデフレの原因だとすれば10月に予定されている「消費税10%引き上げ」はわが国の需要不足をさらに拡大する方向に作用する。単に税率の2%に止まらず将来不安が亢進すれば住宅や耐久消費財の消費を落ち込ませる恐れがあり、世界的な経済不安と相乗すると想定外の事態になる可能性も否定できない。
 
 「驕る平家は久しからず」という俚言がよぎる。
 
 
 
 

2019年8月12日月曜日

よくぞ男子に生まれけり

 暑い!とにかく暑い!連日の猛暑日(セ氏35度以上の日)は年寄りには堪える。テレビは熱中症予防を注意喚起しているがちょっと気にかかるのは「エアコンのつけっ放し」推奨。確かに猛暑日にエアコンをつけないで水分補給を怠れば熱中症になる確率は相当高くなるのは否めないが、だからと言って「エアコンつけっ放し」に結びつけるのはいかがなものか。
 まず言っておきたいのは「汗をトコトンかく」ことの体への効果について。75才までテニスをしていた経験からいうと夏の暑さのはじめに一度か二度、トコトン汗をかくと「毛穴が開いて」暑さの調整機能が発揮できるようになることだ。今の我々の生活は家でも会社でも交通機関や種々の施設でもエアコンが完備しているから全身汗みどろになるということがほとんどない。「毛穴が開く」ということのないまま夏をすごしている。こんな経験を繰り返していると身体が本来持っている「発汗による体温の調節機能」が衰えてしまうにちがいない。いわば「文明病」というやつで「肉体の退化」に他ならない。そうならないように夏のはじめに意識して汗をかくことが大事だと思うのだがどうだろう。
 もうひとつ忘れられているのが「湿度」。我が家は鉄筋コンクリートづくりの集合住宅だが外が35度を超えても室内はめったに30度以上にはならない。それより辛いのは湿度で60パーセント以上になるとたとえ室温が29度でも耐え難く反対に室温32度でも湿度が52パーセントなら不快に感じない。そこでわが家では室温30度で湿度60パーセント超えをエアコン使用の目安にしている。ちなみに今年湿度が60パーセントを超えた日はまだ五日もない。
 とにかく自分で判断基準をもつことが大事で最近はテレビが詳しい天気予報を伝えてくれるからその情報に「引っ張られて」しまっている場合があるから注意がいる。テレビは東京の情報が中心だから必ずしも地元ぴったりという訳ではないのについついその気になっていることもある。キチンと自分の判断基準で管理することが肝要だ。
 東京中心が目に余るのは、先日も東京の私鉄電車の停電事故があったがこんな情報は「東京ローカル」で放送すればいい訳でなにもNHKの「7時のニュース」で取り上げるニュースではない。こうした例は数々あって地方人には不愉快極まりない。付け加えれば「笑点」という長寿番組があるが、あの笑い(?)は「関西人」には絶対に受け付けられないもので、しかも「仲間内」だけで通用する「おふざけ」を見せつけられるなどたまったものではない。あの番組が全国で楽しまれていると考えているのは東京キー局の独りよがりであるということを肝に銘じて欲しい。
 
 独りよがりといえば先の「年金不足2000万円問題」もそうで、どこの年寄りが20万円そこそこの年金生活で借金するものか。20万円なら20万円なりの生活をするのが普通人の感覚で、エアコン費用節約のためならベランダのコンクリート塀に打ち水をする工夫もすれば、夫婦ふたりの気兼ねのない生活なのだから上半身はだかになって濡れタオルで身を拭って扇風機にあたって身体を冷やす、これだけやればエアコンは台所で火を使うとき位の使用で済ませられる。驚いたことに金融庁は独自に「3000万円」不足という試算もしていたが、それは自動車の乗換えや築30年も経てば家屋の改築・修繕も必要だろうとその費用も計上しての試算だというから恐れ入る。高齢者の交通事故の多い昨今、免許返納が薦められている状況をどう考えているのだろうか。築30年といえば80才近いはずでそんな齢になって改築できる人はお役人上がりの余程恵まれたクラスに限られている。お役人がお為ごかしに「しもじも」を慮って統計をひねくり回してパソコンで弾き出したような独りよがりなデータで「政策」を立案しないで頂きたい。そんな暇があるなら考慮の対象外として『無視』した「国民年金」だけの年金生活者の月10万円~15万円の不足額をいかにして「補填」するかの「政策」を考えるべきでそれこそ「健康で文化的な最低限度の生活」を保障する憲法の下にいる「国民の奉仕者」たる「公務員」の務めというものではないか。
 
 最近つくづく思うのだが、これだけAIやロボットがもてはやされてデータ、データという世の中になってしまったらデータ化が困難な『歴史』などはどう扱われるのだろうか。例えば、最近中ロが接近してわが国へ「共同干渉」するのではないかと危惧する向きもあるようだが、少しでも歴史を知る人なら中国とロシアが友好関係を結ぶことなど「絶対」にあり得ないと確信しているにちがいない(万が一共同歩調を示すことがあってもそれは一時的なもので終わること請け合いだ)。また韓国のここに至っての抗日姿勢の先鋭化も、かの国の二千年に及ぶ中国の属国としての歴史を考えれば致し方のないことで、虐げられた歴史のもたらした「猜疑心」の強い「ゆがんだ」物の見方「僻みっぽさ」は国民意識として当然のことと知っておくべきなのだ(決して貶める気持ちで言っているのではない)。二千年以上中国の朝貢国として隷属してきた桎梏からやっと解放されると思った日清戦争の後に日本の植民地に落としめられたのだから「怨み骨髄」になっても仕方がない。京都の人なら東山の豊国神社前にある「耳塚」を知っているはずで、これは秀吉の朝鮮征伐の時敵将を討ち取った証として首級の変わりに「耳」を持ち帰ったものを葬ったもので、朝鮮人の秀吉と日韓併合時の統監だった伊藤博文に対する恨みは根深いものがあり伊藤を暗殺した安重根は祖国の英雄として今でも尊敬を集めている。開高健が言っているように民族の恨みが消えるまでには「三代 百年」の時間が必要なのであって植民地時代の暴虐を経験した世代が完全にいなくなる「2050年」までわが国は朝鮮民族に対して『贖罪』を覚悟するべきなのである。
 
 中国をみるときも、中国三千年の歴史には『易姓革命』の思想が民族の深層心理に脈打っていることを知っておれば、高度経済成長が終わり国民への富の配分が先細るこれから、習近平体制は決して安泰でなく共産党独裁がこの先も永続していくかどうかも極めて危ういであろうことは習近平その人が一番よく知っているにちがいない。ちなみに『易姓革命』とは、天は己に代わって王朝に地上を治めさせるが徳を失った現在の王朝に天が見切りをつけたとき、革命が起きるという儒教に基づく思想である。
 
 ベランダのコンクリート塀に打ち水して濡れタオルで汗を拭い、扇風機の風に当たりながらパンツ一丁でタオルケットに寝そべって本を読む。
 よくぞ男子に生まれけり!
 
 
 
 
 

2019年8月5日月曜日

蝉と小鳥とどちらが早起きか

 答えは小鳥。窓の外がだんだん明るくなってもうすぐ日の出かなと思う頃ムクドリらしいちょっと濁った「キュルキュル」という鳴き声が道ひとつ隔てた公園の方から聞こえてくる。蝉は陽が昇ったらスグに鳴き声を上げ、それもはじめから「全開」でもうやかましいこと一挙に暑苦しさが湧き上ってくる。桂川畔の植栽の繁りの多いこの場所だけかもしれないが蝉より小鳥のほうが早起きということをはじめて知った。
 
 その公園の野球場の今週土日の予約が「ゼロ」。八月第一週の土日は家族旅行で子どもも親も野球はお休みという傾向がここ二三年前から定着したようだ。以前は夏休みになると少年野球で早朝六時からにぎわっていたのだが少年野球も随分変わった。先週、夏休みになってスグの木曜日の十時から六時まで、地元の名門チームで全国優勝を何度もしているチームの監督がバックネット裏の人目を避けたところで諄々とひとりの選手をコーチしているのを目にした。監督より少し背の高い少年がうつむいたまま監督の言葉に耳を傾けている。決して声を荒げることもなく低い声で諭すように話し続ける監督。十年前はこんなではなかった。割れるような大声で叱責罵倒、手こそ出さなかったが少年たちは怯み上って身をちぢこませていた。
 中学や高校でスポーツを指導する先生やコーチの暴力問題が後を絶たないが「学校以外」の場所では「コーチング方法」は格段の進歩をみせている。「学校」という閉鎖社会だけが取り残されている。
 
 少年野球もいろいろで、幼稚園の年中さんから小学二年までのチームがある。まだ二十代半ばのコーチは実に粘り強く子どもたちに接している。新チームがはじまったばかりのいまは投打とも手取り足取りの段階でテニスボールでティーバッティングを教えている。一球づつティーにボールをのせ、好きなスイングでこどもに打たせる。空振りもしょっちゅうで、それでも飽きることなく励まし続けてこどもとつきあっている。これが半年もすると立派に様になっているのだから彼の根気と粘りはすごいと思う。ちっちゃなこどもがユニフォームで走り回る姿はおもちゃのようでかわいい。十四五年毎朝毎夕、球場のカギの開閉をつづけているが少しも苦にならないしむしろ子どもや青年たちから若さを貰って元気の源になっている。
 
 『教育虐待』という言葉を知った。7月19日に判決のあった「2016年8月21日名古屋で12歳の中学受験生・佐竹崚太くんが父親に包丁で胸を刺され死亡した事件で、2019年7月19日名古屋地方裁判所は、父親の佐竹憲吾被告(51)に殺人の罪で懲役13年の実刑判決を言い渡した」事件を新聞で読んで知ったのだが、こんなことばが有るとは……、と唖然とすると同時に痛々しさを抑えることができなかった。
 
 被告は自分と同じ私立中高一貫校に合格させるため、日ごろから息子に暴言を浴びせ、暴力も加え、さらには刃物で脅してまで勉強をさせていた。
 佐竹被告は子煩悩な父親だった。しかし崚太君が中学受験塾に通い始めた小学4年生くらいから、崚太君に暴言を浴びせ、暴力を振るい、崚太君が大事にしていたゲーム機を壊すなどするようになる。勉強させるためだった。なかなか自分の思い通りに勉強の捗らない崚太君あるとき手元にあったカッターナイフを持ちだしたところ、怯えて勉強し始めたことに味をしめた。それがあるときからペティナイフになり、包丁になった。犯行に使われた包丁は、普段台所で使用していた包丁ではない。崚太君を脅す目的で購入した包丁だ。しかしなぜそこまでして中学受験にこだわったのか?
 佐竹被告の実家は祖父の代から薬局を営んでいた。被告人本人も被告人の父親も被告人の弟もみんな同じ名門私立中高一貫校の出身だ。国公立大医学部の進学実績では灘や開成をしのぐ、知る人ぞ知る超進学校である。しかしそれだけの理由でわが子に刃物で脅してまで勉強を強いる行動に出るとは思えない。
 それを明らかにする陳述が公判の中で行われた。被告人の父親T氏(78)「私も息子(被告人)を包丁で脅したことがある」という証言がそれだ。さらにはそのT氏も、その父親から教育虐待を受けていたようなのだ。名門進学校一家の親子3代にわたる『闇』がひそんでいる。
 求刑で検察側は、『教育』の名を借りた『虐待』といえ、身勝手な行動の末の犯行」と被告を非難した。
 
 「教育虐待」とは、「あなたのため」という大義名分のもと、子どもの受容限度を超えてまで行われる過度な教育やしつけのことである。折りしも1日、全国の児童相談所が2018年度に児童虐待の相談・通告を受けて対応した件数が15万9850件(速報値)に上ったと発表した。この中に「教育虐待」も含まれているだろうが、他の身体的・精神的な虐待とは異なり「教育」という大義名分があるだけに肉親でも表沙汰にしづらいにちがいない。峻太くんの母親も何度も被告を止めようとしたが「中学受験をしたことのないようなお前になにがわかるか」と一蹴され、峻太くんに「お母さんとふたりで家を出よう」と説得を試みても「お父さんとお母さんふたりがいい」と言って虐待に耐えていたという。
 
 共通一次試験を頂点とした文科行政は学校教育の多様性を毀損し序列化を亢進している。京都のように国の学制に先んじて地域で子どもの教育を育んできた都市でさえ、地域の公教育から逸脱して私立小学校、中学校への進学が過熱化している。入学試験に合格するためには、受験能力に特化した塾や予備校教育の横行を許してしまう。その結果、短期的に結果の出る「能力」ばかりが伸長されて、興味ある分野を自分で見出しじっくりと学習していくような能力は教育の場で評価されなくなってしまう。しかし、発見や発明はそうした能力の結果であって国の成長力はそうした「技術革新」によってもたらされる。もしそうなら今のわが国の教育の方向性は明らかに間違っている。
 
 幼稚園の年中さんの子にニコニコ笑いながらテニスボールをティーの上にセットしつづけるコーチ君の姿とそれを期待を込めて見やるお母さん、お父さんを心から応援している。