2013年12月30日月曜日

靖国を考える

阿部首相の不用意で突発的な靖国参拝が物議を醸している。この洞察力のなさは彼がこのまま暴走を続けるようなら命取りにもなりかねない。特定秘密保護法で50%を割り込んだ支持率が靖国で40%、来年の消費増税で35%も微妙になり、もし年央に115円以下の予期せぬ円安が出来(しゅったい)するようなことがあれば30%も割り込む危険性をはらんでいる。

さて靖国はふたつの視点から考える必要がある。ひとつは「戦没者の慰霊は善か」でありもうひとつは「靖国がそれにふさわしい施設かどうか」という視点である。更に靖国については対外的視点と国内問題としての是非の両面から検討されるべきである。

第2次世界大戦に連なる維新以来の数度の戦争で国のために命を落とされた戦没者を悼みその御霊を慰霊する行為は誰憚ることのない『善』であり、中韓も首相は当然のこと天皇の参拝に関しても78年のA級戦犯合祀までは無関心であった。
問題は『靖国』にある。明治2年(1869)に明治政府が戊辰戦争の戦没者慰霊のために建立した「東京鎮魂社」が、その後幾度も『正統性』について検証の機会がありながら今日まで我国戦没者慰霊の唯一の施設として有り続けたことが今日の靖国問題の根本である。明治政府を形成した「尊王倒幕」勢力は「廃仏毀釈」という文化破壊を通じて「神道」を『国教』に準じる地位に位置づけた。2001年のターリバンによるアフガニスタンのバーミヤン仏教遺跡の破壊は世界的な批判を浴びた『蛮行』であったが廃仏毀釈はそれ以上の文化破壊であった。その象徴的存在が「靖国」であり、戦前陸海軍両省の共同管理により国家神道の精神的支柱にまで登りつめた。そして戦後1978年、当時の宮司の独断でA級戦犯の合祀を強行し今日に及んでいる。A級戦犯は先の戦争の主導的戦争責任者であり、72年日中国交正常化時の「日本の戦略戦争は一部の軍国主義者によるもので一般の日本国民は被害者である」とした中国の国内向けの説得の基盤となる存在であるから、日本の政治指導者たる首相が「公式参拝」すれば戦争責任に対する暗黙の了解事項が揺らぎかねないことになる。また本年10月3日ケリー米国務長官とヘーゲル米国防長官が来日した際、東京の「千鳥ケ淵戦没者墓苑」を訪れ献花したこともこうした日中の戦没者慰霊に関する了解事項を考慮したものとして象徴的である。更に天皇の参拝が75年以降途絶えていることも「靖国」の正統性について重大な影響を与えている。
靖国を最も保護し庇護する保守系右派の人たちはこの天皇不参拝をどう説明するのだろうか。

靖国についてのもうひとつの視点―国内的事情を考えてみると国内には仏教を始めキリスト教など多くの宗教が存在し信者がいる。当然戦没者にも神道以外の宗教を信仰していた人も少なくない。戦没者でありながら西郷隆盛など時の政府にとって反対勢力とみなされた人々も祀られていない。合祀の問題も含めて「靖国」が『我国の戦没者慰霊施設として適格かどうか』という正統性については大いに疑問がある。
我が国の要人が米国アーリントン墓地へ献花するように外国の国賓や要人が我が国戦没者への慰霊と献花を何の蟠りもなく行える施設を建立すべきであり、それは同時にわが国国民の総意に基く施設でなければならない。そのような施設を造ることができれば保守系右派の人たちの精神的支柱である天皇も安心して参拝できる施設になるはずである。


「明治維新」についてもこの辺りできちんと評価するべき時期に来ているのではないか。廃仏毀釈は当然のことながら、150年近くの間営々と進めてきた「近代化=西欧化・米国化」はオーム真理教地下鉄サリン事件と3.11東日本大震災・福島原発事故で決定的に否定されたのであり、リーマンショックによる金融危機は米国式資本主義・民主主義の終焉を告げていることを銘記するべきである。

2013年12月23日月曜日

便利さと贅沢

 最近ショックなことが三つあった。「グルチャ殺人事件」「ヘリコプター配送」そして「日本語では無理だと思ってフランス語訳の『好色一代男』を買った」という女性のはなしである。

 グルチャというのは今はやりのLINEのアプリで、決められたグループ内でチャットするものだが中・高校生の間で爆発的に流行しているという。メールを開くと即時それが送信側に分かるようになっているため送られた方はスグ返信しないと「無視」ととられることが多い。そのため参加しているメンバーが多くなると絶えず送信―返信を繰り返す必要があり、勉強や健康にも影響が出ているらしい。7月新聞を賑わした「広島16歳少女殺人事件」はこのグルチャが原因だった。16歳の少女同士がチャットで「殺す」「死ね」と興奮してやり取りするのに10人近いメンバーが加勢し、バーチャル世界のはずがいつの間にかリアルに転換、仲間はずれされた少女が山中に呼び出されて集団暴行を受け、殺人―死体遺棄事件にまで進展した。我々世代には理解の及ばない世界だが、思春期の多感で敏感な『極めて視野の狭い』年代の子供たちは親などグループ外の人とのコミュニケーションから隔絶されると、簡単に仲間はずれ、イジメ、暴行に走る危険性が高いと専門家は伝えている。
ヘリコプター配送は、インターネット小売り最大手の米アマゾン・ドット・コムが小型無人ヘリコプターを利用して商品を配送する計画をしている、というのだ。注文から配送まで30分以内を目指し2015年にサービスを始められるようにしたいとしている。ヘリコプターは最大2.3キログラム程度の荷物を運ぶことができ、同社が扱う商品の86%が対象になって物流センターから10マイル(約16キロメートル)以内に住む利用者を対象にするという。
最後の「好色一代男」をフランス語訳で買ったというのは中村真一郎の小説「仮面と欲望」の中の話なのだが、決してありえないことではない。それというのも最近は樋口一葉や二葉亭四迷は勿論のこと森鴎外や漱石までもが現代語訳が出るご時世になっているから、小説の女主人公のようにハーフのインテリでフランス語が堪能なら原文(日本語の古文)は読めなくてもフランス語訳で「好色一代男」を楽しむという選択肢は十分あり得る話である。

この三つの出来事或いは事件に共通しているのは「便利さと引き換えに何かを失っている」ことを誰も指摘していないことだ。グルチャについて言えば、文字特に『日本語の書き言葉』という極めて不完全な道具を使いこなすための学習をなおざりにして、短文で会話が成立すると仮定したグルチャというツールをインターネット上に解放している『危うさ』を誰も批判しない。ヘリコプター配送についていえば、今でもネット通販はほとんど翌日配達が常態化しているのにそれ以上の『早さ』が何故必要なのか。大資本の圧倒的な物量と組織力で街の商店はシャッター商店街へ追い詰められているのに…。フランス語訳で日本の古典を読む話は、我国国語教育の根本的な欠陥の結果であり、このままでは母国語でさえ深く考えることができないために―英語では十分な思索などできるはずもなく―『理解力』と『創造力』の決定的に劣った人間ばかりになってグローバル化する世界の中で競争にもならない『劣化国家』に落ちぶれてしまうに違いない。
便利さを無批判に追求した究極こそ『原発』ではないのか。もういい加減に「便利さ」「効率性」一辺倒の選択から脱却しようではないか。

最近私は近所の書店で本を買うようにしている。インターネットでなく大型書店で実物を手にとって買っていたが近所の書店をこれ以上減らさないためにささやかな貢献をしようと思ってである。本の届くのに2、3日かかるがそれ位の我慢は何でもない。

晴れた日曜日の昼下がり、フラッと近所の書店へ行って文庫本でも買って、行きつけの喫茶店でパラパラと斜め読みする『贅沢』を失いたくないからである。

2013年12月16日月曜日

日本昔ばなし

先日行きつけの喫茶店でこんな話を聞いた。5歳の孫を預けられた女性が「おばあちゃん、何か他にないの?」と今風のマンガCDを見終わった孫にせがまれて「日本昔ばなし」を見せようとした。「こんなんイヤや」と最初は興味を示さなかったがものの数分もしないうちに黙々と見るようになって、気がつくと3時間近くも経っていたという。
今風の動画のマンガは画面が細密で色彩も豊かだしストーリー展開にスピード感があるから子どもにとって魅力的なのだろう。しかしそれは「受身の楽しさ」で、一方的に与えられる面白さを経験しているのだと思う。ところが「日本昔ばなし」は古臭い絵柄で色彩も単調、話の内容も徳目(道徳)をテーマにした単純なものだ。徳目は日頃大人たち―両親や先生それにキビシイおばあちゃん―に口やかましく躾けられたが素直に納得できないでいたもの、それがお話でゆっくり語りかけられると心の中で会話が発生し自問自答しているうちにすーっと理解できるようになった。日頃の疑問が解けてみると今まで退屈だったものが結構面白い。そこで次のお話次のお話と見たくなったというのが真相ではないか。押し付けでなく双方向の会話を経て納得できたことがスムースな受け入れにつながったに違いない。
大体道徳などというものは「移ろいやすい」ものだ。50年ほど前『清貧』という言葉があったが今や死語に近い。不正をして贅沢をするよりもひとに迷惑をかけずつましく貧しさに甘んじて生きる方が『美徳』である、という時代があった。でも時代の都合に合わないものはいくら押付けようとして受け入れられなくなってしまう運命にあるのだ。

今月2日文科省の有識者会議が、現在正式教科でない小中学校の「道徳の時間」を「特別の教科(仮称)」に格上げし、検定教科書の使用を求める報告書をまとめた。文科省は中教審の議論を踏まえて2015年度の教科化を目指す、という小さな記事が目に付いた。ニーチェが「あることが〈善い〉とか〈悪い〉とか言う評価はその価値判断を語る者を分析しないと意味がない」と言っているが、特定秘密保護法といい安倍首相は一体何を目指しているのだろう。もし戦前の「儒教的道徳」を教科として教えることで今の我国に国民的アイデンティティを植え付けようとしているのだとしたら大変な誤解をしている。戦前の道徳教育が効果を発揮したのは教科単独の成果ではない。家父長制という家族制度があったうえに儒教思想を漢詩や論語など文化として日常的に受け入れる環境があった。娯楽も今ほど多くなく、映画(芸術作品は別にして)、歌舞伎や文楽、浪花節でもすべて儒教的色彩の濃いものだった。諸々のものが相乗的に作用して「道徳」が教科として成立していたのだ。こうした事情を安倍首相はまったく考慮していない。

安倍首相はグローバル化の時勢を捉えてTPP交渉に精力的に取組み英語教育を小学校の早い時期に繰り上げる試みも進めている。一方で武田薬品工業の次期社長が始めて外国人になり世界的に大企業の多くが「タックスヘイブン」を求めて無国籍化しているという一連の傾向もありグローバル化のもとでは「国民国家」という枠組みが最早成立しないという時代の趨勢を表している。
特定秘密保護法や道徳教育の制度化をTPP交渉や英語教育の早期化・充実化と同時に進めようとしている安倍首相は混乱しているし矛盾している。それは時代認識の洞察が浅いことと国家経営の哲学が定まっていないことに起因しているからに他ならない。

フーコーは「これまでの権力は『排除する』『抑圧する』『隠蔽する』『取り締まる』などの否定的な用語で考えられてきた」と語っているが、特定秘密保護法はまさに古い権力むき出しの法律である。

直近の共同通信の世論調査で安倍内閣の支持率がはじめて50%を割り込んで内閣成立以来最低になったという。改めて言おう、「自民党よ、驕る勿れ!」と。

2013年12月9日月曜日

仮面と欲望

 「もしその使い方を知るなら、老年(セネックス)は快楽に満ちている(p282)」というセネカの言葉で終わる中村真一郎の「仮面と欲望(中央公論社)」を読んだ。南欧の女優と日本人男性とのハーフである60歳の女性と70歳で現役国際経済コンサルタントの男性の恋愛を往復書簡形式で書き綴ったこの作品は「愛のなかの性、セックスのなかの愛、現代日本文学がはじめて描きえた崇高で過激なポルノグラフィー」である。(この小説が作者74歳の作品であるように川端康成の「眠れる美女」、谷崎潤一郎の「鍵」「瘋癲老人日記」など何故か我国の文学者は老年期に過激な性描写のある名作を書いている。興味ある傾向ではある)。

 読み始めてスグ「未経験の少年は、若い同年輩の娘と性的交渉を持つことには、ぼく自身も経験があるんだが、何か本能的タブーを感じ(p117)」という件に出会ったとき、性欲の暴発を持て余しながらもプラトニックな恋に終わった我が青春の懊悩を懐かしく思い出された。
 この小説はポルノグラフィーだがこんな記述も随所にある。
本当の勇気は必要に応じて臆病にもなれる人のものなのかも知れません(p174)。
「二人の夫を持つ妻」という、(略)離婚をしないカトリックの国のラテン型の女性のあいだではありふれた生き方なのかしら(p147)。
これは近代の日本人に宗教的習慣が失われ、自分の行為を、一定期間をおいて、反省するために瞑想する、というようなことがなくなり、又、神または仏が自分を見ているという、外から強制的に良心を監視するものの存在を意識しなくなったこととも関係があるのでしょうが(p242)、

だが何といってもこの小説の魅力は上質な官能描写にある。
まず最初に報告しておきますが、ぼくは七十歳を過ぎて、ようやく女性の乳房の美しさに気が付きました。その形、その柔らかさと硬さ、その息づかい、乳首が頭をもたげて行く動きの微妙さ、その色の夕空の刻々の移り行きに似た変化など。/これは、ぼくの欲望がようやく沈潜し、愛の行為のさなかでも、幾分かの冷静さを保てるようになった証拠でしょう(p269)。
相手の女性―妻であれ恋人であれ―を心から愛おしみ丁寧に触れ合って歳月を重ねた男性のみが感じ取れる発見であり、「生活という日常」に埋没しないためにこうした『発見』を積み重ねる賢明さを備えたカップルだけに与えられる豊穣な歓びである。
そして作者は最後に老年期の心得もちゃんと用意している。「尤も七十歳のぼくにとって、このあなたの乳房に触れながら、浅い眠りのなかを意識の徨っている状態は、あるいは近い死の前触れ、あの世の生活の予行演習のようなものかとも思われます。死との和解の感情は老年を自ら受け入れる心の傾向でしょうか。/一方で、この頃、時々、ぼくがいきなり引きずりこまれる、あの暗黒の地獄の意識も、また死の予徴でしょうか。この平和と、この孤独との、老人特有の精神現象が、古代の人類に、天国と地獄という、彼岸のふたつの領域を夢見させたに違いありません(p270)」。

主人公の男性は70歳である。しかし現在の我国ではまだまだ『若輩』であり今後の可能性も少なくない。そこで北斎の次の言葉をはなむけにしてこのカップルのこれからの幸せを祈ろう、勿論現実の我々への励みとしても。

自分は6歳から物の形を写す癖があった。50歳から多数絵図を描いてきたが、70歳までのものは取るに足らず、73歳でやや生き物や植物のことが分かり、さらに研鑽し、90歳で奥義をきわめ、100歳で神の域、それを越えて描く一点一画はまさに生きているものであろう。長生きの人は私の言葉が妄言でないことをどうか見届けてほしい。

2013年12月2日月曜日

〝老人科〟が必要なわけ

「〈正常〉を救え」という本が精神科医の間で話題になっている。過剰診療、過剰投与で本来正常な患者を異常に導入してしまう精神科の現状への警告の書であるらしい。しかしこれは何も精神科に限った現象ではなく我国医療界全体を覆っている悪弊ではないのか。「とにかく病名を付けて、検査し、投薬し、手術する」『出来高払い』のシステムでは利益至上主義にはしる経営者は畢竟「過剰診療、過剰投与」による診療報酬の極大化を図って当然である。

 ここ数年、高齢者の健康と病について考えるようになって現在の西洋医学中心の我国医療制度は高齢者医療には根本的に適していないのではないかと思うようになった。
老人の持っている肉体的衰え、惚けというか精神的衰えは、どちらも単独ではないんです。精神科の医師に言わせれば、老人はみんな精神的に病んでいる。その病は精神的な衰えなのか、肉体的な衰えなのか判断しにくい。逆に言うと、老人の病気あるいは病的な状態や肉体的な衰えの治療は、整形外科的な療法でも精神的な療法のどちらでもいいんです(吉本隆明著「老いの超え方」朝日新聞社刊より)。
 吉本のこの言葉は老人の体験を重ねた人の貴重な実感だが、医者ではないからたまたま整形外科と精神科を持ち出しているだけで、要は今の極端に分科し専門科した西洋医学では老人の病に対応できないということを言いたかったのだと思う。

 「とにかく病名を付ける」という作業は「分類」であろう。しかし複雑化し多様化した現在の文明段階では「分類」という古典的な手法に馴染まない現実も多く発生している。そうした傾向が経済や政治の世界で起こると既存の経済学や政治学で対応しきれないで『混乱』し、「非伝統的手法」の「量的金融緩和」となり「出口戦略」を見出せずに漂流する結果となったり、原子力発電は「廃棄物処理方法」のないまま見切り発車して10万年後の人類に「負の負担」を背負い込ませる愚行となる。
古典主義の学問は、存在と理性のこの一致の確信から、生命をくみあげていた。(略)存在するものは分類できるし、分類は理性の働きである。古典主義の学問では、分類や図式化をとおして、存在と理性とがはっきりと結び合っていた。(略)生命の力は、「機能」という、これまた目に見えない力のアレンジメントをとおして、知覚と行動のパターンとなって、表にあらわれてくる。しかし、それ自体はかたちももたず、生存の意志となって、生命体を突き動かしている。分類する能力にたけた、古典的博物学の理性には、この不気味な力をとらえることはできなかった。生命の学は、新しいタイプの知性を必要としていた。こうして、古い博物学の壮大な体系を食い破って、その中から、近代の生物学が誕生してきたのである(「森のバロック」中沢新一著・講談社学術文庫より)。

 我国の平均寿命が男女共に70歳を超えたのは1971年、75歳を超えたのは1986年であるから本当の意味での高齢社会はせいぜい3040年に過ぎない。高齢者の医療にたづさわってきた医療現場の医師たちがこれまでの「専門化した医療体系」では対処しきれないと感じたとしても「老人科」ができるには時期尚早かもしれない。しかしそれにしても「高齢者医療を新たな総合的診療科」として学際的に捉えようという取組みはほとんど進捗していない。そしてそのことが高齢者医療費の高騰を招いているにもかかわらず、である。


 「自然というものは、広大無辺のもので、その中から科学の方法に適した現象を抜き出して調べる。それでそういう方法に適した面が発達するのである(「科学の方法」岩波新書)」という中谷宇吉郎が警告した『科学の限界』が半世紀以上経った今でも医学界に厳然と『岩盤』として存在している。規制改革の必要性の説かれる所以である。