2013年12月2日月曜日

〝老人科〟が必要なわけ

「〈正常〉を救え」という本が精神科医の間で話題になっている。過剰診療、過剰投与で本来正常な患者を異常に導入してしまう精神科の現状への警告の書であるらしい。しかしこれは何も精神科に限った現象ではなく我国医療界全体を覆っている悪弊ではないのか。「とにかく病名を付けて、検査し、投薬し、手術する」『出来高払い』のシステムでは利益至上主義にはしる経営者は畢竟「過剰診療、過剰投与」による診療報酬の極大化を図って当然である。

 ここ数年、高齢者の健康と病について考えるようになって現在の西洋医学中心の我国医療制度は高齢者医療には根本的に適していないのではないかと思うようになった。
老人の持っている肉体的衰え、惚けというか精神的衰えは、どちらも単独ではないんです。精神科の医師に言わせれば、老人はみんな精神的に病んでいる。その病は精神的な衰えなのか、肉体的な衰えなのか判断しにくい。逆に言うと、老人の病気あるいは病的な状態や肉体的な衰えの治療は、整形外科的な療法でも精神的な療法のどちらでもいいんです(吉本隆明著「老いの超え方」朝日新聞社刊より)。
 吉本のこの言葉は老人の体験を重ねた人の貴重な実感だが、医者ではないからたまたま整形外科と精神科を持ち出しているだけで、要は今の極端に分科し専門科した西洋医学では老人の病に対応できないということを言いたかったのだと思う。

 「とにかく病名を付ける」という作業は「分類」であろう。しかし複雑化し多様化した現在の文明段階では「分類」という古典的な手法に馴染まない現実も多く発生している。そうした傾向が経済や政治の世界で起こると既存の経済学や政治学で対応しきれないで『混乱』し、「非伝統的手法」の「量的金融緩和」となり「出口戦略」を見出せずに漂流する結果となったり、原子力発電は「廃棄物処理方法」のないまま見切り発車して10万年後の人類に「負の負担」を背負い込ませる愚行となる。
古典主義の学問は、存在と理性のこの一致の確信から、生命をくみあげていた。(略)存在するものは分類できるし、分類は理性の働きである。古典主義の学問では、分類や図式化をとおして、存在と理性とがはっきりと結び合っていた。(略)生命の力は、「機能」という、これまた目に見えない力のアレンジメントをとおして、知覚と行動のパターンとなって、表にあらわれてくる。しかし、それ自体はかたちももたず、生存の意志となって、生命体を突き動かしている。分類する能力にたけた、古典的博物学の理性には、この不気味な力をとらえることはできなかった。生命の学は、新しいタイプの知性を必要としていた。こうして、古い博物学の壮大な体系を食い破って、その中から、近代の生物学が誕生してきたのである(「森のバロック」中沢新一著・講談社学術文庫より)。

 我国の平均寿命が男女共に70歳を超えたのは1971年、75歳を超えたのは1986年であるから本当の意味での高齢社会はせいぜい3040年に過ぎない。高齢者の医療にたづさわってきた医療現場の医師たちがこれまでの「専門化した医療体系」では対処しきれないと感じたとしても「老人科」ができるには時期尚早かもしれない。しかしそれにしても「高齢者医療を新たな総合的診療科」として学際的に捉えようという取組みはほとんど進捗していない。そしてそのことが高齢者医療費の高騰を招いているにもかかわらず、である。


 「自然というものは、広大無辺のもので、その中から科学の方法に適した現象を抜き出して調べる。それでそういう方法に適した面が発達するのである(「科学の方法」岩波新書)」という中谷宇吉郎が警告した『科学の限界』が半世紀以上経った今でも医学界に厳然と『岩盤』として存在している。規制改革の必要性の説かれる所以である。

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