2013年12月9日月曜日

仮面と欲望

 「もしその使い方を知るなら、老年(セネックス)は快楽に満ちている(p282)」というセネカの言葉で終わる中村真一郎の「仮面と欲望(中央公論社)」を読んだ。南欧の女優と日本人男性とのハーフである60歳の女性と70歳で現役国際経済コンサルタントの男性の恋愛を往復書簡形式で書き綴ったこの作品は「愛のなかの性、セックスのなかの愛、現代日本文学がはじめて描きえた崇高で過激なポルノグラフィー」である。(この小説が作者74歳の作品であるように川端康成の「眠れる美女」、谷崎潤一郎の「鍵」「瘋癲老人日記」など何故か我国の文学者は老年期に過激な性描写のある名作を書いている。興味ある傾向ではある)。

 読み始めてスグ「未経験の少年は、若い同年輩の娘と性的交渉を持つことには、ぼく自身も経験があるんだが、何か本能的タブーを感じ(p117)」という件に出会ったとき、性欲の暴発を持て余しながらもプラトニックな恋に終わった我が青春の懊悩を懐かしく思い出された。
 この小説はポルノグラフィーだがこんな記述も随所にある。
本当の勇気は必要に応じて臆病にもなれる人のものなのかも知れません(p174)。
「二人の夫を持つ妻」という、(略)離婚をしないカトリックの国のラテン型の女性のあいだではありふれた生き方なのかしら(p147)。
これは近代の日本人に宗教的習慣が失われ、自分の行為を、一定期間をおいて、反省するために瞑想する、というようなことがなくなり、又、神または仏が自分を見ているという、外から強制的に良心を監視するものの存在を意識しなくなったこととも関係があるのでしょうが(p242)、

だが何といってもこの小説の魅力は上質な官能描写にある。
まず最初に報告しておきますが、ぼくは七十歳を過ぎて、ようやく女性の乳房の美しさに気が付きました。その形、その柔らかさと硬さ、その息づかい、乳首が頭をもたげて行く動きの微妙さ、その色の夕空の刻々の移り行きに似た変化など。/これは、ぼくの欲望がようやく沈潜し、愛の行為のさなかでも、幾分かの冷静さを保てるようになった証拠でしょう(p269)。
相手の女性―妻であれ恋人であれ―を心から愛おしみ丁寧に触れ合って歳月を重ねた男性のみが感じ取れる発見であり、「生活という日常」に埋没しないためにこうした『発見』を積み重ねる賢明さを備えたカップルだけに与えられる豊穣な歓びである。
そして作者は最後に老年期の心得もちゃんと用意している。「尤も七十歳のぼくにとって、このあなたの乳房に触れながら、浅い眠りのなかを意識の徨っている状態は、あるいは近い死の前触れ、あの世の生活の予行演習のようなものかとも思われます。死との和解の感情は老年を自ら受け入れる心の傾向でしょうか。/一方で、この頃、時々、ぼくがいきなり引きずりこまれる、あの暗黒の地獄の意識も、また死の予徴でしょうか。この平和と、この孤独との、老人特有の精神現象が、古代の人類に、天国と地獄という、彼岸のふたつの領域を夢見させたに違いありません(p270)」。

主人公の男性は70歳である。しかし現在の我国ではまだまだ『若輩』であり今後の可能性も少なくない。そこで北斎の次の言葉をはなむけにしてこのカップルのこれからの幸せを祈ろう、勿論現実の我々への励みとしても。

自分は6歳から物の形を写す癖があった。50歳から多数絵図を描いてきたが、70歳までのものは取るに足らず、73歳でやや生き物や植物のことが分かり、さらに研鑽し、90歳で奥義をきわめ、100歳で神の域、それを越えて描く一点一画はまさに生きているものであろう。長生きの人は私の言葉が妄言でないことをどうか見届けてほしい。

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