2020年1月27日月曜日

すでに起こってしまった未来(1)

 経営学者ピーター・ドラッカーは「未来のことは予測できないけれども、すでに起こってしまった未来を見つけることはできる」と教えた。目の前にある現実が永久不変であるかのように考えがちな我々に対するドラッカーの警告は彼の死後15年経った今更に重みを増している。
Ⅰ. 金融市場の機能不全
 一昨年の夏ころから気に掛かっている指標がある。東証一部の1日の出来高(売買高)だ。10年ほど前までは最低でも20億株は毎日売買されていたように憶えていたのが一昨年7月頃は15億株前後の日が多くなり、昨年になると10億株を割り込む日も珍しくなくなってきた。そこで2010年からの1日平均売買高推移を調べてみると2010~2012年は20億株平均だったのが2013年一挙に34億株を超え2014~2016年は25億株平均に落ち着いたが2017年には20億株を割り込み2018年には16億株にそして昨年は10月までの平均が13億株台に落ち込んでしまっている。最高時の4割弱にまで縮小した市場は決して正常とはいえない状態だし10億株を切って9億株台はいくらなんでも異常な数字ではないのか。
 ところがこの異常とも思える売買高の変調に関してマスコミも専門家筋も一向に関心を示さないでいる。
 2019年1月9日 東京証券取引所が発表した年間投資部門別売買動向(東証、名証2市場の1・2部合計)によると、外国人の現物株の売越額は5兆7449億円と2年ぶりに売り越しに転じたと報じている
 単純に推測すれば株式市場が異常に収縮し、日本株売買シェアの6~7割を占めていた外国人投資家が日本株に魅力を無くして日本株を見限り市場から逃避したことを物語っているのではないか。もう一つの見方は、縮小した市場を「巨大なクジラ」が市場を「恣意的」に操作していることに嫌気して撤退したという見方も一概に否定できない。
 
 ここ数年「GPIF相場」であったり「日銀相場」という風評が市場に流布したことは一度や二度ではない。縮小した市場はせいぜい2兆円から4兆円の規模である。日銀の資産は今や500兆円を超えGPIF(年金積立金管理運用独立行政法人)の運用資産は160兆円を超えている。1分間に高速、高頻度で自動売買を繰り返して市場を席巻している「超高速取引」がどのようなアルゴリズムを設定しているかは知る由もないが、市場の異常を察知した場合その傾向に素早く反応するであろうことは容易に推測できる。もしそうなら2兆円の市場規模ならその10分の1~2千億円程度の市場介入があればそれを異常と読み取って「変動益」を獲得できるプログラムは簡単に作成できるに違いない。ということはそうした「超高速取引」で構成されている今の市場なら日銀やGPIFの資産規模をもってすれば市場操作は決して不可能ではないということになる。昨年8月下旬(8月26日)に2万円を割り込みそうになった市場が僅か1ヶ月(11月5日)で2万3千円台を回復した株価の動きは、株価を神経質に意識して政権運営を行ってきた安倍政権の意向を反映した「GPIF相場」「日銀相場」でないというにはあまりに不自然な相場の動きといえないだろうか。この間我が国の経済動向は買い材料よりも、米中貿易戦争激化を反映した大企業12月決算の減収減益予想などマイナス材料ばかりであったことを考え合わせばこの株式動向の異常さはだれも否定できないはずだ。
 
 間接金融がゼロ金利政策で機能不全に陥り、債券市場も日銀の超緩和政策(年間80兆円の国債購入)によって市場流通量が払底、債券市場を通じた中央銀行の金利支配力が毀損されて景気への影響力が発揮できなくなっている。残された唯一の株式市場が「見えざる手」による経済合理的な運営ではなく『巨大クジラ』による『恣意的』な影響力下にあるとすれば、わが国の金融機能全般が『機能不全』に陥っていると言わざるを得ない。
 金融機能はその「信用創造」によって「資本主義のエンジン」と言われてきたが、一方でその信用創造の「審査機能」によって『資本主義の暴走』を食い止める『ブレーキ』役も務めてきた。そのブレーキが完全に破損されてしまった今、そして長くつづく「安倍一強」によって政治と行政が方向感覚を見失ってしまっている現状において、わが国経済の、いや日本国の『舵取り』は誰が担うのだろうか。
 
 最も冷静な市場監視役と目されていた外国人投資家の市場からの逃避はわが国経済の『異常』さが決して「座視」できるものでないことを示唆しているのではないか。

2020年1月20日月曜日

思考力ということについて

 何年か前、フランスのある哲学者が「中国共産党の独裁は2025年に終焉する」と書いているのを読んで随分大胆な推論を行うものだと驚いたことを覚えている。たしか毎日新聞の「時代の風」だったと思うのだがスクラップが残っていないから確かではない。詳しい論拠は覚えていないが確かな論理になるほど可能性は十分あると考えさせられた。
 アメリカの覇権に陰りが出てトランプの虚勢と虚言の一方で習近平の強権・独裁の強化は逆に足元の危うさの反映を思わせる。数年前まで国内の反政府活動の状況が公開されていて年二万件以上あることが明らかになってていたがその後中国政府の公表数字は閲覧できていない。それはもう二万や三万では収まらなくなって公表するのを憚ったせいなのだろうか。ひとつの有力な変化は香港の反政府運動の高まりと台湾の反中国勢力の総統選挙の結果がある。
 中国を考えるとき「易姓革命」という歴史観がある。は己に成り代わって王朝に地上を治めさせるが、を失った王朝に天が見切りをつけ革命(天める)が起きるというもので、中国人民は三千年の歴史の中でそれを実践してきた。中国の歴史は漢民族と異民族の絶えざる覇権闘争の歴史であり民衆はその暴虐の繰り返しに耐えながら、しかししぶとく生き抜いてきた。チベット、モンゴル、ウイグルは中国を征服した異民族であったし清王朝は満州に成立した台湾族の王朝であった。いま中国はこうした異民族を国家に取り込んで一大帝国を維持しようとしているが果たして可能なのだろうか。
 中国共産党政府はこれまで高度成長を糧として国民の貧困を解消することで抑圧的国家経営を浸潤させてきた。2000年と2018年の名目GDP(国民総生産)の伸びを比較してみると1兆2149億ドル(世界の6位)から世界2位の13兆3680億ドル、11倍という驚異的な成長を遂げている。このままいけば2030年ころにはアメリカを抜いて世界1位に躍り出るだろう。これを1人当たりのGDPでみてみるとこの間の飛躍がいかに国民を潤してきたかが鮮明になる。2000年958ドル(125位)から2018年9580ドル(70位)への伸びは最貧国レベルから中所得国(1万ドル以上)にまで上昇したのだから国民の満足感はいや増しているに違いない。しかし世界の通説として「高所得国」は1人当たりGDPが2万ドル以上とされている。高所得国への変化がどんなものであるかは戦後の日本を考えてみれば明らかで、郊外の団地に住んで三種の神器―3C(カラーテレビ、クーラー、カー)を持つのが庶民の夢だった高度成長時代、これが日本人の平均的な生活レベルに達すると戸建ての持ち家、子供の高学歴、そしてセントラルヒーティング、食洗器、4Kテレビと欲望の拡大は止まるところがない。中国は今三種の神器の時代なのだろう、次は戸建ての持ち家という欲望の時代に進行していくことは明らかだ。
 ところが肝心のGDPが2010年ころまでの安定した10%台を上回る高度成長から急激に減速、2019年には辛うじて6%が維持できるかどうかのレベルまで低下している。成長の果実を国民全般に及ぼすためには10%の成長が最低必要だとされている。ということは共産主義国であるにもかかわらず成長の配分が偏って格差の拡大が顕著になることを意味しており、今でも沿岸部と内陸部との格差が取りざたされている『矛盾』がますます深まってゆき年間2万件レベルに収まっていた反政府運動が加速度的に増加していくに違いない。そこに民族問題が絡まると「共産党独裁」は盤石とは言えなくなってくる。まして中国民族の歴史観は三千年の長きにわたって「易姓革命」であった、徳を失った王朝が天から見切りをつけられてきた歴史を負っている。2025年という期限の設定が現実味を帯びてきたように感じるのは私だけだろうか。
 
 彼の哲学者が2025年共産党政権終焉説を表わしたのは五年以上前のことだ。この時点でここまで踏み込んで共産党の危機を予測できた彼の「想像力・思考力」は驚くものがある。彼は現実とは最も遠いところにあると思われている「哲学者」だ。最新の科学にも、現実を映していると思われている統計数字にもアナリストたちに比べれば明るくないに違いない。その彼が何故こんな予測を樹てられたのか(彼の予測が正しいかどうかは定かでないが)。ここに学問の深遠さがある。
 
 昨年文部科学省が拙速に、強権的に進めてきた大学入試英語への民間試験の活用と国語・数学の記述式問題導入が白紙撤回された(また執拗に復活を目指すかもしれないが)。英語試験への民間導入は論外として、何故記述式が「誤った」改革だったのか。
 
 知識偏重の詰込みではダメで考える力や表現する力が大事だといった俗耳に入りやすい理屈が「思考力、判断力、表現力」導入という大学入試改革を後押ししてきた。先進国に追いつけ追い越せという「キャッチアップ型近代」の終焉という時代認識のもと、模範とすべきモデルのない、変化の激しい不透明な時代において、自分の頭で考え主体的に行動できる、個性的で創造的な人間を育成しなければならないという「時代の要請」――特に企業側からの強い要請で国公立大学への成果主義の導入などと共に『自明の改革』として民間識者の意見などもひろく取り入れて改革は進められてきた。しかし、数十万人が受験する試験で測定できる「思考力、判断力、表現力」とはいったい何なのか、そしてそれは可能なのか。「予測できない未来に対応するために」「社会の変化に」「主体的に向き合ってかかわり合う」ことを可能にする能力・資質とは具体的にいかなるものなのか。実体がないままに、本当らしい現実認識と時代(企業)の要請に基づいてやみくもに、多分文科省の担当者も自信をもってこれだという具体的な「指標」も「その内容」も『措定』できないまま、「上の方針」に従ってお役所仕事として大学入試改革は進められてきたに違いない。
 
 独断だが「思考力」は『批判力』だと思う。知識を理解して、咀嚼して、自分の考え方を確立して、現実の底にある「真実」と「変化」を読み解く力、これが批判力だ。しかし往々にして知識の理解で止まっているし、現実の表面的なスケッチ――統計数字や流行の理論で装飾されているが――で満足してしまうのが一般的なレベルだ。自分らしい独自の考え方をもち現実の底ですでに始まっている変化を読み取る力をもっている人はめったにいない。それは文科省の高級官僚でもそうだし企業のトップにもめったにいない、まして大学教授にそれを見出すことは至難の技である。それが証拠に官僚の立案する政策にまともなものはほとんどないし、世界経済を牽引するイノベーションは三十年に二個か三個しか出ないし、革新的な理論は五十年に一人の発表しかない。
 
 一介の文科省官僚が一国の教育改革を立案するなど「傲慢」の極みだ。多くの教育者が多様な教育分野で、試行錯誤を積み重ねて、少しづつ改良を加えていく。その過程で「革新的」な方法が発明されてはじめて「教育改革」が実施される。これしかない。
 学問に対する謙虚な姿勢、これが人類の長い歴史で培われてきた「智慧」というものだ。
 
 
 
 
 
 
 

2020年1月13日月曜日

初詣

 今年の初詣は下鴨さんへ行った。去年娘が結婚式を下鴨神社でやらせてもらったお礼を兼ねてお参りすることにした。これまで初詣は若いころは地元の氏神さんの今宮さんか学業成就を願って北野の天神さんが定番だったが、結婚してからは西賀茂に住んだこともあって上賀茂神社に参るのが習慣になり桂に越してからもずっと上賀茂さんで通してきた。
 混雑を避けて四日に参ったのだがあてが外れて想像以上の人出に驚いた。本殿に干支別の社が設えてあり巳年の私と未年の妻が同じ社になっているのは新たな発見だった。五十年近く連れ添ってここまで来れたのは神様のお陰だったのだろう。このお社の集まりは「言社(ことしゃ)」といっていずれも大国主命が祀ってあり、言霊のはたらきによって呼び名が変わるとされている。子年が大国主命、丑・亥年大物主命巳・未年大国魂命午年顕国魂命卯・酉年志固男神寅・戌年大己貴神辰・申年八千矛神と呼ばれ干支別の守護神となっている。京都に永く住んでいながらまったく知らなかった下鴨さんの言社にお参りできて縁起のいい初詣ができた。
 
 神さん詣りとは別に墓参りする家も多いのではないか。我が家では元旦にまずうちのお寺に参って次に妻の実家のお墓へ行く。六条富小路にある長講堂がうちの旦那寺でここは後白河法皇開基となっており平家物語にも出てくる由緒あるお寺だ。妻の実家の墓は大谷本廟にありここへのお参りが年々堪えるようになってきた。五条通りから清水寺へ通じる参道は爪先上がりでお墓はちょうど中腹にあるのだが今年は去年よりさらにしんどい登りに感じた。墓参が終わると伏見にある妻の実家に一族郎党集まって、改めて新年の挨拶を交わして宴会となる。古民家然とした八畳二間をぶち抜いた広間に黒の漆塗りの和机と特製の長机をつなげて馴染みの仕出し屋のお節のお重と持ち寄りのちょっと上等のお酒を振舞われて上機嫌でうちに帰るとベットに直行、翌朝までぐっすり寝むることができ今年も恙無く元旦を過ごすことができた。
 
 考えてみれば神と佛をなんら憚ることなく同じように拝む日本の習わしは独特のものだろう。とりわけ一神教の国の人から見れば理解に苦しむにちがいない。しかし西欧文明発祥のギリシャも多神教だからユダヤ教やキリスト教が興るまでのヨーロッパやイスラム教が制圧するまでの中東諸国なども多分多神教だったに違いない。というよりも人類文明の始原期は意識と自然の分離・分割があいまいだったからシャーマニズムが人間社会の統治に深く関係していたはずで、そうなると自然物の霊性に憑依したり依存することで生活が円滑に営まれていただろうから必然的に多神教にならざるをえなかったと考えるのが妥当だろう。
 ユダヤ教は砂漠という過酷な自然状況のなかで生まれたから「自然と共存」というような祈りが生まれることにはならなかった。対立物としての自然を「克服する」必然性があった。大自然と対立するためには人間を超越する巨大な存在が求められたにちがいないから「唯一神」が渇望された必然があった。
 
 わが日本は島国で温暖な自然環境の中で高温多雨な梅雨期と酷暑の夏という季節のめぐりが安定的な稲作という恵みをもたらす国土を基盤として成立している。他国の侵略という恐怖もなかったから平穏に国を治める民族性が育った。シャーマニズムから派生したに違いない民族神と渡来した「新文明の仏教」も円滑に併存して多様な「信仰生活」が営まれた。ここに「亀裂」をはしらせたのが明治維新の「神道国教主義」だった。下級武士団が徳川政権から簒奪した新政府の正統性を権威づけるためには武力を超越した「宗教性」に依存するしか方途がなかった。そこで神代からの「万世一系」という天皇制に宗教性を付与して新たな「宗教」を創造し民衆の信仰生活に踏み込んで「天皇制」を正統づけて「信仰の対象」とすることが必要だった。そこで強権をもって民衆の信仰生活を収奪しようとした。「神仏分離」と「廃仏毀釈」がそれだった。徳川政権の「宗門改め」と「寺請け制度」は仏教を最大限に利用した宗教的社会制度であったがそのために仏教教団の経済力と民衆支配力は絶大だったから仏教を叩き潰しにかかったというわけだ。喜んだのは長年仏教の下に位置づけられ屈辱に耐えてきた神官や神道家たちで仏像・仏具を破壊するばかりか寺そのものを焼き払う輩もいたという。最も悲惨な攻撃を受けたのは比叡山麓の日枝山王社で延暦寺の鎮守神であったから本尊は仏像で仏具・経巻も多い寺内に諸国の神官出身者の志士からなる神威隊ら百数十人が乱入して本尊を凌辱、仏具などを破壊消却し尽くした。同様の各地で行われた廃仏毀釈の暴虐は明治二三年ころには沈静化し明治十年には真宗を中心に仏教も明治新政府の宗教政策のなかに処を得るに至る。それは何より財政基盤の脆弱な新政府が仏教教団の寄付を必要としたことと、数百年に及ぶ民衆教導の技術が国民の国家神道教育に欠かせないことを行政トップが痛感したことによる。しかし諸寺の統廃合は強力に行われ寺社からはみでた修験や呪術的な祭事、地蔵などの淫祠はことごとく禁止・廃却された。
 
 日本人は「信仰心」が薄いといわれる。しかし信仰心を培うのは細々とした「信仰生活」があるからで、明治政府の行った神仏分離と廃仏毀釈はこうした信仰生活を単純化し、葬儀と祖霊信仰に一元化するものであった。その結果、信仰心の衰滅と道義心の衰退をもたらしたのが今の日本人の宗教心となって表れているのではないか。しかし日常生活と年に何回かの神さん詣りと墓参の間にある空隙を不安定と感じる民衆は本殿の神拝作法を律義に「二礼二拍一礼」にこだわったり「神式婚礼」を順守したりしている。ところが神拝作法は神仏分離を徹底するために明治の神官が「手を合わす」のは仏式だとして新たに定めた作法だし、今の神式婚礼は大正天皇の結婚式の様式を庶民化したものだということを知れば最近はやりのパワースポットとかスピリチュアルなどと同様に商業主義にまみれた浅薄な「伝統志向」と切り捨てられる代物と言えよう。
 
 我々は2015年のISによるアフガニスタンのバーミヤン大仏破壊を蛮行と嘲笑したが、明治維新の「神仏分離・廃仏毀釈」はそれをはるかに上回る「民族的愚行」と言われても仕方のない蛮行であった。
 
 
 

2020年1月6日月曜日

新年雑感

 令和になっての初めての正月は娘婿と初めて酒を交わし男同士で話に打ち興じることができて誠に結構なものであった。娘夫婦が帰って書斎でひとりクラシックを聴きながらチビリチビリ、ぼーっと反醒半睡の境をさまよっているとこんな妄念が去来した。
 
 昨年南方熊楠(明治~昭和戦前期に活躍した博物学、民俗学などを専門とした思想家)の思想評伝のような『森のバロック』(中沢新一著)を読んで「(熊楠がある新種の藻を発見したことについて)明治三十五年ちょっと和歌山に帰りし際、白昼に幽霊が教えしままにその所にゆきて発見致し候。今日の多くの人間は利慾我執事に惑うのあまり、脳力くもりてかかること一切なきが、全く閑寂の地におり、心に世の煩いなきときは、いろいろの不思議な脳力がはたらき出すものに候。」という件に接したとき、ここ何年かの蟠りがサーッと吹き払わられたように感じた。現代人は利欲我執という雑念――欲望や既成概念に捉われて、又都会の雑音という物理的障害に邪魔されて心(脳)が解放されることがないから人間が本来持っている諸力のほんのわずかしか発揮できないでいる。ところが熊楠のように人里から隔絶された熊野の原野でひとり渉猟していると――世事一切を放擲して山野と同化しながら思索と粘菌(変形体と呼ばれる動物的植物的生物)の発見に専念していると、精神が解放されて幽霊や幻覚――俗界では世故や知識が邪魔して受け入れを拒否する――さえも素直に受け入れ自己の能力としてしまうことができて思いもよらない発見や思索の飛躍を果たすことができる。今「知識」ということばを使ったが、それは主に明治以降わが国が性急に採り入れてきた「西欧の知識」をいっている、そしてそれはほんの百数十年前までわが国で普通に通用していた学識や美的感覚を否定し去ったものである。したがって日本人は百数十年前にそれ以前と完全に「断絶」した『民族』に成り果ててしまったのだ。
 
 フロイトが「無意識」を引きずり出し、「個」を超越した世代の共通意識を発見して「実証主義」の明かしうるものが人間のほんの一部に過ぎないことを露呈して見せた。夢と現(うつつ)を厳然と峻別していた通念を破壊して健常と異常(精神病)の境を解放しそれまで「言語」というものに万全の信頼をおいて「自我」の存在を成立させていた「構造」を拡大した。言葉の表象するものが「人間存在の総体」のほんの一部でしかないことが明らかにされて言語――特に「文字」の「危うさ」に向き合うことが避けられないことを思い知らせた。精神分析が「言葉」の裏に潜む「多層」な人間存在の真実を解析して、言語の「束縛」と、その結果としての「権威」への従属と「自己喪失」から人間を解放する可能性を切り拓いたにもかかわらず、メディアの独走的な進歩は『文字』への無意識の『隷従』を再びもたらしている。
 
 齢を重ねるとともに目覚めが早くなり四時ころには起きている(ということは就寝時間も早まっているわけで九時に寝るのが習慣になっている)。四時と言えば夏でもまだ夜は明けていない。自動車やバイクも走っておらず無音の時間帯である。陽の昇る少し前に風が止む「凪」の時がありまるで「真空」のなかに放り込まれたように感じる。そんなとき、自分の肉体が空間に溶け込んで存在が浮遊して「思念」だけがうごめいている、いろんな想念が前後の脈絡なく湧いて、また湧いて重なり合って、それが絡まりあって、突然ここ何日か考えつづけてきた疑問・課題の解決や解決の方向性に結び付くことがある。そんななかにこれまで積み重ねてきた知識からは導きえない飛躍がある。考えつづけて、知識と知識を結合してその先に血路を見つけようとして見つけられなかったものが、深夜の無音のなかでまったく領域の異なる思念の次の瞬間に突然新たな発見に気づかされる、そんなことがここ数年決して珍しいことでなかったから、先の熊楠の言葉に接したとき「そうだ!」と合点した。
 
 世の中には読書好きは数多いる。私もそうなのだが大抵の読書好きは、学校で先生に褒められようとして一所懸命理解して発表しよう、それを評価されて先生に頭を撫でてもらおう、そんな意識が深層心理に残っていてそんな読書を今でも――八十才になろうかというこの期に及んでもそんな読書姿勢でいる読書好きがあまりに多い。あれだけ賢くて批判的で斬新な意見をもっていたはずの人たちが、今頃になると大概「演歌と歴史小説」フリークになっているのはそんな読書姿勢を長年継続してきた結果であって、ほとんど「現状肯定」の現実主義者になっている。書かれたものを――それが学問であれ詩であり小説であっても理解することにもっぱらで、咀嚼して批判して自分の考えに再構築する手順がなければ当然そうなってしまう。悲しいのは「小説」であるのに、小説を読んで「勉強」しようという読み方をする読書好きがあふれていることだ。そしてそれはほとんど、学校で先生に褒められたいという読み方の延長なのだ。
 それとはちょっと違うかもしれないけれど、リビングでソファーに寝っ転がってテレビで『災害』の報道を見ることになんら抵抗を感じない感覚とつながっているようにも思う。
 
 それはどういうことかというと、勉強をする、小説を読む、本を読む、という行為が「自分の外」にあってそれを「内的化」する、自分のことに置き換えて取り込むという作業がそうした行為にはないのだ。
 最近「終活」というものが流行っているがそれは「死」を自分の支配下に置こうとしていることではないのか。死というものは経験できないから――医者が死について持っている知識は「生理的」な死についてであってそれは死のほんの一部でしかない。死がどんなものであるか、その総体は人類にはいまだ不明のものである。そんなことを言っているのではない、死後の経済的社会的整理を事前に決めておこうとしているのだ、と終活論者の反論があるかもしれない。たしかにそうだろう、そうだと思う。しかしどうしてもある種の「不遜さ」「傲慢さ」を感じてしまうのだ。
 
 とにかく、知らないことを知ったかぶりする、知らないことを知らないといえない賢い人が多すぎる。その典型が日本経済の成長戦略として「IR事業」を進めようとしている人たちだろう。世界各国の成功例をみて、日本でも経済効果が大きく低成長から脱却する起爆剤になると期待しているが、ほんとうにそうだろうか。この狭い国土に3ヵ所も(4か所も)カジノというバクチ場がある『美しい日本』を想像してみよう。パチンコがあり競馬があり、競輪に競艇がある、そこに年間1兆円とも1.5兆円とも予想されているカジノが加わるのだ。パチンコが18兆円、公営ギャンブルが6兆円もあるこの国にさらに1兆円以上のバクチが増える「国のかたち」で良いのか。
 賢い人たちはそうした『日本』でいいと思っているのだろうか。
 
 本で読んだ知識に縛られていると平気でそんな考え方になってしまう。
 書を捨てよ!