2020年1月6日月曜日

新年雑感

 令和になっての初めての正月は娘婿と初めて酒を交わし男同士で話に打ち興じることができて誠に結構なものであった。娘夫婦が帰って書斎でひとりクラシックを聴きながらチビリチビリ、ぼーっと反醒半睡の境をさまよっているとこんな妄念が去来した。
 
 昨年南方熊楠(明治~昭和戦前期に活躍した博物学、民俗学などを専門とした思想家)の思想評伝のような『森のバロック』(中沢新一著)を読んで「(熊楠がある新種の藻を発見したことについて)明治三十五年ちょっと和歌山に帰りし際、白昼に幽霊が教えしままにその所にゆきて発見致し候。今日の多くの人間は利慾我執事に惑うのあまり、脳力くもりてかかること一切なきが、全く閑寂の地におり、心に世の煩いなきときは、いろいろの不思議な脳力がはたらき出すものに候。」という件に接したとき、ここ何年かの蟠りがサーッと吹き払わられたように感じた。現代人は利欲我執という雑念――欲望や既成概念に捉われて、又都会の雑音という物理的障害に邪魔されて心(脳)が解放されることがないから人間が本来持っている諸力のほんのわずかしか発揮できないでいる。ところが熊楠のように人里から隔絶された熊野の原野でひとり渉猟していると――世事一切を放擲して山野と同化しながら思索と粘菌(変形体と呼ばれる動物的植物的生物)の発見に専念していると、精神が解放されて幽霊や幻覚――俗界では世故や知識が邪魔して受け入れを拒否する――さえも素直に受け入れ自己の能力としてしまうことができて思いもよらない発見や思索の飛躍を果たすことができる。今「知識」ということばを使ったが、それは主に明治以降わが国が性急に採り入れてきた「西欧の知識」をいっている、そしてそれはほんの百数十年前までわが国で普通に通用していた学識や美的感覚を否定し去ったものである。したがって日本人は百数十年前にそれ以前と完全に「断絶」した『民族』に成り果ててしまったのだ。
 
 フロイトが「無意識」を引きずり出し、「個」を超越した世代の共通意識を発見して「実証主義」の明かしうるものが人間のほんの一部に過ぎないことを露呈して見せた。夢と現(うつつ)を厳然と峻別していた通念を破壊して健常と異常(精神病)の境を解放しそれまで「言語」というものに万全の信頼をおいて「自我」の存在を成立させていた「構造」を拡大した。言葉の表象するものが「人間存在の総体」のほんの一部でしかないことが明らかにされて言語――特に「文字」の「危うさ」に向き合うことが避けられないことを思い知らせた。精神分析が「言葉」の裏に潜む「多層」な人間存在の真実を解析して、言語の「束縛」と、その結果としての「権威」への従属と「自己喪失」から人間を解放する可能性を切り拓いたにもかかわらず、メディアの独走的な進歩は『文字』への無意識の『隷従』を再びもたらしている。
 
 齢を重ねるとともに目覚めが早くなり四時ころには起きている(ということは就寝時間も早まっているわけで九時に寝るのが習慣になっている)。四時と言えば夏でもまだ夜は明けていない。自動車やバイクも走っておらず無音の時間帯である。陽の昇る少し前に風が止む「凪」の時がありまるで「真空」のなかに放り込まれたように感じる。そんなとき、自分の肉体が空間に溶け込んで存在が浮遊して「思念」だけがうごめいている、いろんな想念が前後の脈絡なく湧いて、また湧いて重なり合って、それが絡まりあって、突然ここ何日か考えつづけてきた疑問・課題の解決や解決の方向性に結び付くことがある。そんななかにこれまで積み重ねてきた知識からは導きえない飛躍がある。考えつづけて、知識と知識を結合してその先に血路を見つけようとして見つけられなかったものが、深夜の無音のなかでまったく領域の異なる思念の次の瞬間に突然新たな発見に気づかされる、そんなことがここ数年決して珍しいことでなかったから、先の熊楠の言葉に接したとき「そうだ!」と合点した。
 
 世の中には読書好きは数多いる。私もそうなのだが大抵の読書好きは、学校で先生に褒められようとして一所懸命理解して発表しよう、それを評価されて先生に頭を撫でてもらおう、そんな意識が深層心理に残っていてそんな読書を今でも――八十才になろうかというこの期に及んでもそんな読書姿勢でいる読書好きがあまりに多い。あれだけ賢くて批判的で斬新な意見をもっていたはずの人たちが、今頃になると大概「演歌と歴史小説」フリークになっているのはそんな読書姿勢を長年継続してきた結果であって、ほとんど「現状肯定」の現実主義者になっている。書かれたものを――それが学問であれ詩であり小説であっても理解することにもっぱらで、咀嚼して批判して自分の考えに再構築する手順がなければ当然そうなってしまう。悲しいのは「小説」であるのに、小説を読んで「勉強」しようという読み方をする読書好きがあふれていることだ。そしてそれはほとんど、学校で先生に褒められたいという読み方の延長なのだ。
 それとはちょっと違うかもしれないけれど、リビングでソファーに寝っ転がってテレビで『災害』の報道を見ることになんら抵抗を感じない感覚とつながっているようにも思う。
 
 それはどういうことかというと、勉強をする、小説を読む、本を読む、という行為が「自分の外」にあってそれを「内的化」する、自分のことに置き換えて取り込むという作業がそうした行為にはないのだ。
 最近「終活」というものが流行っているがそれは「死」を自分の支配下に置こうとしていることではないのか。死というものは経験できないから――医者が死について持っている知識は「生理的」な死についてであってそれは死のほんの一部でしかない。死がどんなものであるか、その総体は人類にはいまだ不明のものである。そんなことを言っているのではない、死後の経済的社会的整理を事前に決めておこうとしているのだ、と終活論者の反論があるかもしれない。たしかにそうだろう、そうだと思う。しかしどうしてもある種の「不遜さ」「傲慢さ」を感じてしまうのだ。
 
 とにかく、知らないことを知ったかぶりする、知らないことを知らないといえない賢い人が多すぎる。その典型が日本経済の成長戦略として「IR事業」を進めようとしている人たちだろう。世界各国の成功例をみて、日本でも経済効果が大きく低成長から脱却する起爆剤になると期待しているが、ほんとうにそうだろうか。この狭い国土に3ヵ所も(4か所も)カジノというバクチ場がある『美しい日本』を想像してみよう。パチンコがあり競馬があり、競輪に競艇がある、そこに年間1兆円とも1.5兆円とも予想されているカジノが加わるのだ。パチンコが18兆円、公営ギャンブルが6兆円もあるこの国にさらに1兆円以上のバクチが増える「国のかたち」で良いのか。
 賢い人たちはそうした『日本』でいいと思っているのだろうか。
 
 本で読んだ知識に縛られていると平気でそんな考え方になってしまう。
 書を捨てよ!
 
 
 
 
 
 
 

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