2020年1月20日月曜日

思考力ということについて

 何年か前、フランスのある哲学者が「中国共産党の独裁は2025年に終焉する」と書いているのを読んで随分大胆な推論を行うものだと驚いたことを覚えている。たしか毎日新聞の「時代の風」だったと思うのだがスクラップが残っていないから確かではない。詳しい論拠は覚えていないが確かな論理になるほど可能性は十分あると考えさせられた。
 アメリカの覇権に陰りが出てトランプの虚勢と虚言の一方で習近平の強権・独裁の強化は逆に足元の危うさの反映を思わせる。数年前まで国内の反政府活動の状況が公開されていて年二万件以上あることが明らかになってていたがその後中国政府の公表数字は閲覧できていない。それはもう二万や三万では収まらなくなって公表するのを憚ったせいなのだろうか。ひとつの有力な変化は香港の反政府運動の高まりと台湾の反中国勢力の総統選挙の結果がある。
 中国を考えるとき「易姓革命」という歴史観がある。は己に成り代わって王朝に地上を治めさせるが、を失った王朝に天が見切りをつけ革命(天める)が起きるというもので、中国人民は三千年の歴史の中でそれを実践してきた。中国の歴史は漢民族と異民族の絶えざる覇権闘争の歴史であり民衆はその暴虐の繰り返しに耐えながら、しかししぶとく生き抜いてきた。チベット、モンゴル、ウイグルは中国を征服した異民族であったし清王朝は満州に成立した台湾族の王朝であった。いま中国はこうした異民族を国家に取り込んで一大帝国を維持しようとしているが果たして可能なのだろうか。
 中国共産党政府はこれまで高度成長を糧として国民の貧困を解消することで抑圧的国家経営を浸潤させてきた。2000年と2018年の名目GDP(国民総生産)の伸びを比較してみると1兆2149億ドル(世界の6位)から世界2位の13兆3680億ドル、11倍という驚異的な成長を遂げている。このままいけば2030年ころにはアメリカを抜いて世界1位に躍り出るだろう。これを1人当たりのGDPでみてみるとこの間の飛躍がいかに国民を潤してきたかが鮮明になる。2000年958ドル(125位)から2018年9580ドル(70位)への伸びは最貧国レベルから中所得国(1万ドル以上)にまで上昇したのだから国民の満足感はいや増しているに違いない。しかし世界の通説として「高所得国」は1人当たりGDPが2万ドル以上とされている。高所得国への変化がどんなものであるかは戦後の日本を考えてみれば明らかで、郊外の団地に住んで三種の神器―3C(カラーテレビ、クーラー、カー)を持つのが庶民の夢だった高度成長時代、これが日本人の平均的な生活レベルに達すると戸建ての持ち家、子供の高学歴、そしてセントラルヒーティング、食洗器、4Kテレビと欲望の拡大は止まるところがない。中国は今三種の神器の時代なのだろう、次は戸建ての持ち家という欲望の時代に進行していくことは明らかだ。
 ところが肝心のGDPが2010年ころまでの安定した10%台を上回る高度成長から急激に減速、2019年には辛うじて6%が維持できるかどうかのレベルまで低下している。成長の果実を国民全般に及ぼすためには10%の成長が最低必要だとされている。ということは共産主義国であるにもかかわらず成長の配分が偏って格差の拡大が顕著になることを意味しており、今でも沿岸部と内陸部との格差が取りざたされている『矛盾』がますます深まってゆき年間2万件レベルに収まっていた反政府運動が加速度的に増加していくに違いない。そこに民族問題が絡まると「共産党独裁」は盤石とは言えなくなってくる。まして中国民族の歴史観は三千年の長きにわたって「易姓革命」であった、徳を失った王朝が天から見切りをつけられてきた歴史を負っている。2025年という期限の設定が現実味を帯びてきたように感じるのは私だけだろうか。
 
 彼の哲学者が2025年共産党政権終焉説を表わしたのは五年以上前のことだ。この時点でここまで踏み込んで共産党の危機を予測できた彼の「想像力・思考力」は驚くものがある。彼は現実とは最も遠いところにあると思われている「哲学者」だ。最新の科学にも、現実を映していると思われている統計数字にもアナリストたちに比べれば明るくないに違いない。その彼が何故こんな予測を樹てられたのか(彼の予測が正しいかどうかは定かでないが)。ここに学問の深遠さがある。
 
 昨年文部科学省が拙速に、強権的に進めてきた大学入試英語への民間試験の活用と国語・数学の記述式問題導入が白紙撤回された(また執拗に復活を目指すかもしれないが)。英語試験への民間導入は論外として、何故記述式が「誤った」改革だったのか。
 
 知識偏重の詰込みではダメで考える力や表現する力が大事だといった俗耳に入りやすい理屈が「思考力、判断力、表現力」導入という大学入試改革を後押ししてきた。先進国に追いつけ追い越せという「キャッチアップ型近代」の終焉という時代認識のもと、模範とすべきモデルのない、変化の激しい不透明な時代において、自分の頭で考え主体的に行動できる、個性的で創造的な人間を育成しなければならないという「時代の要請」――特に企業側からの強い要請で国公立大学への成果主義の導入などと共に『自明の改革』として民間識者の意見などもひろく取り入れて改革は進められてきた。しかし、数十万人が受験する試験で測定できる「思考力、判断力、表現力」とはいったい何なのか、そしてそれは可能なのか。「予測できない未来に対応するために」「社会の変化に」「主体的に向き合ってかかわり合う」ことを可能にする能力・資質とは具体的にいかなるものなのか。実体がないままに、本当らしい現実認識と時代(企業)の要請に基づいてやみくもに、多分文科省の担当者も自信をもってこれだという具体的な「指標」も「その内容」も『措定』できないまま、「上の方針」に従ってお役所仕事として大学入試改革は進められてきたに違いない。
 
 独断だが「思考力」は『批判力』だと思う。知識を理解して、咀嚼して、自分の考え方を確立して、現実の底にある「真実」と「変化」を読み解く力、これが批判力だ。しかし往々にして知識の理解で止まっているし、現実の表面的なスケッチ――統計数字や流行の理論で装飾されているが――で満足してしまうのが一般的なレベルだ。自分らしい独自の考え方をもち現実の底ですでに始まっている変化を読み取る力をもっている人はめったにいない。それは文科省の高級官僚でもそうだし企業のトップにもめったにいない、まして大学教授にそれを見出すことは至難の技である。それが証拠に官僚の立案する政策にまともなものはほとんどないし、世界経済を牽引するイノベーションは三十年に二個か三個しか出ないし、革新的な理論は五十年に一人の発表しかない。
 
 一介の文科省官僚が一国の教育改革を立案するなど「傲慢」の極みだ。多くの教育者が多様な教育分野で、試行錯誤を積み重ねて、少しづつ改良を加えていく。その過程で「革新的」な方法が発明されてはじめて「教育改革」が実施される。これしかない。
 学問に対する謙虚な姿勢、これが人類の長い歴史で培われてきた「智慧」というものだ。
 
 
 
 
 
 
 

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