2014年12月29日月曜日

医者の妻

 いつも行く小さな市立図書館は入ってすぐの左に推薦図書のコーナーがありその前に「本をかえすところ」と「本をかりるところ」がある。先日荷風全集第13巻を返しに行ったとき予約してあった第7巻がまだ届いていなかったので手ぶらで帰るのもなんだからと思って推薦コーナーにあった『医者の妻(松籟社刊)』というタイトルの翻訳本を借りて帰った。ブライアン・ムーアという20世紀半ばから後半にかけて活躍した北アイルランドの作家ははじめてで、もし推薦コーナーに展示されていなかったら多分一生読むことはなかったに違いない。読んでみて、伊藤範子の訳の良かったせいもあって、一気に読ませる魅力に富んだ小説であった。読みはじめてストーリーに没入する前にアイルランド問題が日常の市民感覚として当たり前のように突きつけられて少々戸惑った。というのもほんの少し前「スコットランド独立の国民投票」があったばかりでありイギリスという国が同じ小さな島国でありながら我国とは異なって相当複雑な歴史的背景のある國だということを思い知らされたからである。
 
 アイルランドからパリへバカンスにきた30代後半の人妻が11歳年下のヤンキー青年と恋に落ちアメリカに逃避行を試みようとするが直前に思いを断ち「自由なひとり」として歩みだす、というストーリーである。医者の夫は「遠出」嫌いで不承不承パリ行きを同意させられるが何かと都合を持ち出して一緒に出発するのを避けた後もパリへ行くのを躊躇う。そうしたうちに快活で裏のないアメリカの若者と出逢った彼女はたちまち性の快楽に溺れ込んでしまう。気がつけば、夫との間に埋めることのできない間隙のあることを知った彼女は若者との軋轢のない新天地―アメリカでの再出発に心を揺らせる。贖罪を求めて神に告解しようとするが神父を前にして一歩進むことができず、結局神の赦しも得られぬままに、夫からも子どもからも解放されてひとり自由に生きていくことを選択する。
 告解できなかったのは神を信じていなかったからであり、すべてを無くして新しい世界へ向うのは神のない現代での愛のあり方を捜そうとする姿を表しているのだろうか。圧巻は一瞬を境に愛欲に溺れていく女の脆さと性の高揚の表現で迫力に満ちている。
 訳者の伊藤範子はあとがきにこう記している。「神を見失った人間はどのように生きたらいいのか。できることならば、もう一度神を手に入れたい。だがそれは不可能である。主人公たちははっきりと言う、『神を信じない』と」。「現代は、神なきこの世界に浮遊する存在、人間をつなぎとめるものとして、科学など神に代わるものをこしらえた。恋愛は純粋性において信仰の情熱に勝るとも劣らないが、心理学によると、恋愛は、偏屈な心が作り出した妄想の域を出ないようだ。愛すら心の偏向ということになるのか」。
 
 神を失った現代人の愛については伊藤整の「近代日本における『愛』の虚偽」というすぐれた評論がある。伊藤はここで「宗教心の働きのないところに愛を輸入して、実質的な言葉であった惚れるや恋うるに対置し、それによって男女の関係を虚偽のものとしたのである」と日本における愛の不在と虚偽を解明し「(このことが)近代日本文学における停滞と薄弱さとを生んでいるにちがいない」と結論づけている。加えて「信仰の衰退とともに、キリスト教徒の間でも、夫婦が愛で結びつくことがいかに不可能であるかという物語りが、特に二十世紀に入ってから、次々と書かれている。夫婦の結びつきは現実には主我的人間の攻守同盟的結びつきに外ならないのであり、貞潔の約束は強制と隷属に変化しており、そこで最も無視されるのは愛である」と欧米キリスト教国での愛の変貌を究明している。そして最後に「人間は未来の怖れという強制のないところにおいて良心的であり得ないのだ」と宗教の形骸化した現代へ警鐘を鳴らす。
 
 フラリと図書館で手に取った一冊の本との出会いがこんな豊かな経験を与えてくれる。自分が今必要としているものだけをピンポイントで所有する方向にばかり世の中が進んでいるが余分なものやB面の楽しさを受け容れる余裕があったらいいのに、とフト思った。
 
 今年のコラムはこれが最終回です。一年のご愛読感謝いたします。
よいお年をお迎え下さい。

2014年12月22日月曜日

選挙の見方

 選挙が終って「自民圧勝!」という文字が躍っている。しかしこれは余りに皮相な見方である。「自民マイナス4、公明プラス4」「共産プラス13大幅増」「沖縄自民全敗」の意味するところは大きい。
 
 
 自公でプラス・マイナス4、の意味は「自民の暴走に歯止めをかけられるのは野党ではなく、連立を組む公明しかない」というところにある。集団的自衛権や特定秘密保護法など自民の偏向は多くの国民の危惧するところである。本来なら今回の選挙で自民に強く反省を促さねばならないところだが、現状の野党でそれを託するに足る存在は認められない。その苦肉の策が「公明プラス4」である。安倍首相は今回の選挙で自民単独で絶対的安定多数が取れれば公明との連立を解消したいという下心がミエミエであった。しかしこの結果では選挙前よりよけい公明に頼らざるを得ない状況に追い込まれた。実に『賢明な選択』であった。
 共産プラス13、は国民の『苦渋の選択』である。「反自民」の受け皿がない今回の選挙。アベノミクスの負の面が相当明らかになってきたうえ集団的自衛権などの憲法改革志向が強い自民党内右傾集団がこれ以上勢力を持つことは戦後民主主義の否定に繋がるという危機感を持っている国民は決して少数派ではない。しかしこれだけ「重いテーマ」を党として取り組むだけの成熟した野党は残念ながら今は無い。そこで政権与党になる可能性は極めて低い、されど最も戦後民主主義を擁護する共産党に今回は『一時』託そう、そう考えた人が相当多かったのである。だから野党が今後4年間で集約を進め政権党としての体裁を整えることができれば次回の選挙で共産党が勢力維持する可能性は極めて低いだろう。しかし「共産党の躍進」は不勉強な野党にはある種の「恐怖」をを覚えさせたに相違ない。
 沖縄で自民全敗、の結果は自民党だけでなく又政党だけの問題としてではなく国民全員が「安全保障と基地の問題」を根本的に考え直す契機にしなければならないことを示唆している。東アジアと東・南シナ海の緊張にどのように取り組んでいくか、中韓ロだけでなく東アジア、東南アジア諸国連合を含めた広いアジア諸国と現状打破に関して「賢明な選択」をしなければならない今、従来の日米安全保障体制のみに拠りかかった固定的な安全保障の考え方ではとても乗り切ることはできない。もし選択を誤れば基地・沖縄は攻撃目標になる可能性も否定できないのだから、この選挙結果は「積極的な現状変更」を求めるものとして重く受け取める必要がある。沖縄の選択に日本国民としてどう向き合っていくか。沖縄市民の突きつけた意思表示は深刻である。
 
 こう考えてくると「自民圧勝!」などと簡単に論評できる結果でないことは明らかで、未成熟な政治状況の中で国民は『極めて賢明な選択』を行ったことに気づくべきである。
 
 さて「投票率」についてである。戦後最低の52.6%で「民主主義の危機」とマスコミは国民の覚醒を促している。しかし最も反省すべきは「政党」と「マスコミ」ではないのか。政権交替で政治の転換を容易に行える「小選挙区制」を実現したにもかかわらずそれに対応する政党(自民党を含めて)が『成熟』していない現状は国民から『選択肢』を剥奪し結果として『白紙委任』させてしまった。その責任が国民にあることは言うまでもないが、それ以上に国民と政党を媒介して「政治の成熟」を導く機能を担う『マスコミの怠慢』こそ最も糾弾されるべきであり、首相不在の中で「官邸主導」の選挙モードを誘導したのはマスコミであったし、『大義なし』と喧伝して政党―とりわけ政権与党から「説明責任と明確な選択肢の提示」を引き出せなかったのもマスコミである。これからの4年間、漂流する野党に「再編と成熟」を促す重要な責任をマスコミが負担することを自覚して欲しい。
 一方で現在検察が捜査中の「小渕優子」氏が圧倒的多数で当選するような「古いムラ社会」の形骸を一日も早く一掃する「選挙の近代化」も進められなければならない。都市では「地盤、看板、カバン」から解放された「無党派層」が選挙結果を左右する勢力になっている。地方でも選挙年齢の若年化に伴って「無党化」が進展するに違いない。そしてそれは一時的に「投票率の低下」に繋がるかもしれないがしかしそれは「望ましい選挙」へ進展するための過程として捉えるべきで悲観する必要はない。
 
 今回の選挙は国民の『絶妙で賢明』な選択であったと思う。
 
 

2014年12月15日月曜日

「読書ばなれ」を糺す

 青空文庫で「夏の花・原民喜著」を読んだ。最近良く利用する。青空文庫あおぞらぶんこ)は日本国内著作権が消滅した文学作品著作権は消滅していない著作権者が当該サイトにおいて閲覧を許諾した文学作品を収集・公開しているインターネット上の電子図書館である。文学作品11230件社会科学関係660件哲学歴史関係783件他が公開されており夏目漱石は「坊ちゃん」「吾輩は猫である」などの名作は殆んど網羅されているし森鴎外、宮沢賢治は勿論のこと人気作家の新刊本を望まない限りそこそこ充実したラインナップで重宝している。
 「読書ばなれ」「活字ばなれ」がいわれて久しい。しかし電車や喫茶店で読書する若者は多いし、図書館へ行けば利用者で溢れている。「朝の読書運動」も盛んで小学生の読書量は相当伸びているようだ。漫画喫茶(ネットカフェ)も少なくないし町の喫茶店で漫画を売り物にしている店も結構多い。
 読書は決して廃っていないのではないか。こんな私の疑問に答えてくれる記事が日経「本の小径(26.12.7)」にあった。
 
 永江朗氏の『「本が売れない」というけれど』(ポプラ新書)を引用して次のようにまとめている。
 電子メディアの普及で雑誌が売れなくなり出版不況になって「読書ばなれ」が進んだという出版界の定説は、新聞社の世論調査や全国学校図書館協議会の調査で否定されている。新古本のブックオフの売上高は約800億円に達しインターネット書店アマゾンも成長著しい、公共図書館は昨年までの13年間に約600館も増えた。不況は出版社―取次―書店という旧来の新刊販売システムでのことで市民の読書ニーズは決して衰えていない、そうしたニーズに応える努力が必要で「目先のおカネほしさに新刊をジャブジャブ書店にばらまく」本の「多産多死」を見直し、読者を置き去りにしてきた近年の出版界の覚醒が望まれる。
 青空文庫に象徴されているように、本を「所有」することから「体験」するもの「(書かれている情報を)消費」することへ読書の形態が変わったとみるのが正しいのではないか。20年前には普通にあった「百科事典」や「文学全集」を仰々しく揃えた家庭を今や殆んど見なくなったことがその間の事情を如実に物語っているように思う。
 
 むしろ問題は読書傾向が他の商品と同じように「ピンポイント」になっていることではなかろうか。話題のベストセラーや「必読書」と呼ばれるもの、学校や有名人の推薦図書を無批判に乱読して満足いるように思う。若いうちはそれでも良いが、それから脱皮して「自分の視点=価値観」で選択した読書をしてほしい。そうでないと知識や情報が体系化できず単なる「もの知り」で終ってしまうから。
 
 本の楽しさのひとつは「書店(図書館)での偶然の出会い」にある。目当ての本を探しているうちたまたま目についた本をツイ買ってしまってそれが思いがけず面白かったり、図書館で目的の本の隣にあった本に興味を引かれ読んでみると同じテーマがまったく別の視点で書かれていて新発見をした、という経験が後になってしみじみその僥倖を有り難く思うことが多くあった。
 最近は時間の余裕ができて引用文献や参考図書にある書籍を読むことが多くなり、これまでとは比較にならないくらい興味が深まるのを感じる。知識の体系化が出来て物の見方に幅が出、本の知識に縛られない自分の切り口で考えを展開するようになった。
 コラムを書くようになって、書くために読むこともありそれが読書の楽しみを広げてくれた。また読んで書くことを促されたこともある。その繰り返しが「奔放」な読書と「自由」な視点を形づくってくれた。
 
 「読書の愉しみ」を継承していく環境を整えることが大人の責任であろう。
 

2014年12月8日月曜日

12月2日に思う

 1941(昭和16)年12月2日に生まれた。73歳になってこんなことを考えている。 
 
 経済学はアダム・スミスを父とし「国富論」を嚆矢として「見えざる手」によって市場が最適運用されると一般に考えられているがこれには重要な前提がある。産業革命後、キリスト教の倫理と「利潤」の相克を如何に調停するかが課題となったが、『利潤の私蔵を戒め追加投資(と分配)に利潤を転換』していくことを要諦として「利潤追求を資本主義経済の根本的動因」とすることが承認されるようになる。「見えざる手」が真実機能するのはこうした「了解事項の共有圏」においてであることが忘れられている。
 資本主義経済は「有限な資源の最適利用」を市場を通じて行う経済といえる。19世紀後半に有力なNation-state(国民国家)が成立し「資源獲得競争」が発生、20世紀初頭に競争が激化して第1次世界大戦を惹起した。戦争による国土の破壊は「不況」を齎し戦争と戦争の間は「軍備の備蓄」が国富を侵食して、「不況」を常態化するようになる。戦争も軍備備蓄も資源と資金の市場からの収奪であり不競争下の非効率の拡大が結果として「不況」を必然化する。ケインズの「不況の経済学」は「20世紀という戦争の世紀」の生んだ経済学であった。
 21世紀は「グローバル化」の時代でありNation-state(国民国家)『群』が「有限な資源」を必要とする結果これまでのように『限られた』有力国民国家の「無制限の資源利用」による「最適化=効率の追求」は不可能になる。市場機能を絶対とした資本主義自由経済は修正を迫られている。数年前の世界的金融危機に起因して世界的な「低成長時代」を迎えているが、先進国においては「格差の拡大」が「利潤の私蔵」を極大化すると共に「企業利潤の再投資と分配」が十分でないから成長力が低下するのであり、新興国は獲得資源と流入資金の不足が成長を制限している。
 宇沢弘文のいう「自然・インフラ・制度(教育・医療・金融)=社会的共通資本」の「市場メカニズムとの調整」を如何に実現するかがグローバル時代の資本主義の在り方に繋がるに違いない。
 
 我国の混迷は安倍首相の年末解散によってその極に達している。何故に斯くも無惨な世態を招来したのであろうか。思うにその淵源は明治維新にあり「近代化=西欧化」を無批判に受容れ追求してきたことにあるのではないか。そして先人は早くにそれを啓発している。
 「数え年八つの娘」の「わかる」とか「わからない」という発言が、聖書の意味が「わかる」ということにおいて、何の関係があるのだろうか。本来が、聖書は、聖書の意味は、「数え年八つの娘」には「わからない」ものである。「わからない」で当たり前である。(略)日本の「近代」とは、人間の基軸をいわば「数え年八つの娘」に置いた時代であったのではなかったろうか。(略)この決定的な誤りが、「近代」の誤りではなかったであろうか。(略)もはや現代においては人間そのものが、人間の中の「八つの娘」的部分と等しくなってしまいつつあるように思われるが、そしていったん、人間の基軸がこのようにずれてしまうと、とどまるところを知らず人間は限りなく幼稚化していき、それは風俗面において最もどぎつく現れてくることになるのである(新保祐司著「内村鑑三」より)。先進する西欧文明をその基底にある倫理や哲学を抜きにして摂取し拙速に追及してきたことを改悛すべきである。
 蓋し賃金及び俸給はその結果が具体的なる、把握し得べき、量定し得べき仕事に対してのみ支払はれ得る。然るに教育に於いて為される最善の仕事―則ち霊魂の啓発(僧侶の仕事を含む)は、具体的、把握的、量定的でない。量定し得ざるものであるから、価値の外見的尺度たる貨幣を用ふるに適しないのである。弟子が一年中或る季節に金品を師に贈ることは慣例上認められたが、之は支払いではなくして献げ物であった。従って通常厳正なる性行の人として清貧を誇り、手を以て労働するには余りに威厳を保ち、物乞ひするには余りに自尊心の強き師も、事実喜んで之を受けたのである。(新渡戸稲造著「武士道」より)。社会的共通資本の市場との調整、企業利潤の再投資の円滑化多様化と公正な分配を模索する必要がある。
 科学は自然の実態を探るとはいうものの、けっきょく広い意味での人間の利益に役だつように見た自然の姿が、すなわち科学の眼で見た自然の実態なのである(略)自然というものは、広大無辺のもので、その中から科学の方法に適した現象を抜き出して調べる。それでそういう方法に適した面が発達するのである(中谷宇吉郎著「科学の方法」より)。使用済み核燃料の処理方法も廃炉技術も確立することなく原発を実用化したことや過剰な検査と投薬に依存する医療制度を齎したのは科学を盲信した酬いであろう。
 
 馬齢を重ねた老書生、73歳の妄言である。

2014年12月1日月曜日

生活者の景気感

 今年7~9月のGDPが4~6月のマイナス7.6%(年率)に続いてマイナス1.6%(年率)と2期連続マイナスになったために、消費税10%増税を来年10月から17年4月実施に18ヶ月先延ばしする政治判断を首相が行いそれに伴って衆議院を解散することになった。経済の専門家や政治家の多くは7~9月はプラスに、それも2%近いプラスになると予想していただけにショックは大きいとマスコミは伝えている。しかしこの専門家筋の予想にはいささか違和感を覚える。
 
 素朴なことだが発表になるGDPの成長率は3ヶ月毎の前3ヶ月分に対する増減率でありこれまでは3ヶ月の増減率の形で発表されるのが通常であって年率が表立って発表されることはまれであった。それが今回マスコミが主に年率で発表したのは何か意図があったのだろうか。単純に年率は3ヶ月の数字の4倍からマイナスのショック大げさに伝わるそのあたりに発表側(政府筋)の狙いがあったのだろうか。
 今年になってからのGDP成長率を3ヶ月の数字で見てみると次のようになっている。《1~3月》プラス1.6%(年率6.4%)《4~6月》マイナス1.9%(7.6%)《7~9月》マイナス0.4%(1.6%)と年率よりも随分緩やかな変化に感じられる。これを実額表示すると同じくプラス8兆5千6百億円、マイナス10兆3百億円マイナス2兆1千7百億円である。3月期は駆け込み需要によるものは明らかだし6月期はその反動であろうことも納得できる。そこで7~9月期のマイナス2兆1千7百億円マイナス0.4%をどうみるかである。
 マイナス幅が10兆円からマイナス2兆円にまで減少したという数字は市民の日常の購買行動から類推できる実感と程遠い数字で、企業活動が随分活発化し回復しているのだろうと思わせる。主婦目線からいえば8%の外税は相当衝撃感の強いものであり、しかも増税前298円(5%の消費税込み)のものがそのまま298円の本体価格にしたといった例が多くの商品で見られたから8%の消費税が掛けられる質的には消費税13%ではないのかというのが実際の感覚だった増税に慣れて萎縮した消費者心理が徐々に緩み、年末ボーナスが少しでもあれば来年から消費も少しプラスになるのではないか、そんなところが正直な市民感情。円高がプラスに働いて企業活動に良い影響が出れば10~12月期はプラス成長に転ずるかも知れないし、円高が過剰に亢進すればマイナス成長のままかもしれない。
 ちなみに内閣府の実施している「街角景気」は9月―消費税率引上げに伴う駆込み需要の反動減の影響も薄れつつある。ただし、先行きについては、エネルギー価格等の上昇への懸念等がみられる10月―景気は、このところ弱さがみられるが、緩やかな回復基調が続いている。先行きについては、エネルギー価格の上昇等による物価上昇への懸念等がみられるとまとめられている。
 
 海外メディアは「日本は景気後退期に入った」という見方がある一方「企業の予想外の在庫調整がなければ、わずかにプラス成長だった可能性」を指摘するものや「機械受注など他の経済指標で改善が見られる」という見方もある(2014.11.23日経「海外メディア」より)。
 消費関連統計の分析を見ると「小売業売上高は8月以降顕著な回復が見られる。また実質家計消費は8月まで横ばいの後、9月に持ち直しの動きがある」が「消費増税後の物価上昇幅が大きいため、この影響は来年3月まで残る」と結論している(2014.11.24日経「日本総研・湯元健治副理事長/ここに注目」より)。
 
 いずれにせよ、今回の解散騒ぎもそうであった、マスコミが首相官邸や政府筋の情報操作にいいように操られてお膳立てする例が目立って多くなっている。今回の解散は「大義がない」と批判するがそういう流れに世論をもっていったのはマスコミ自身である。安倍政権の強権姿勢に屈したのか、マスコミの矜持が試されている。
 ともあれ、解散時のテレビで「失職した議員さん…」という表現が使用され、「政治家」が「職業」であることに何の疑問も抱かれなくなってしまったことに「政治の劣化」を哀しみをもって実感した。
 
 
 
 

2014年11月24日月曜日

良い思いで

 いつも行く公園で去年の5月頃から近くの小学校の子どもたちがランニングをするようになった。週に4、5回朝6時半頃から7時半近くまで12~13人が野球場周囲の約350mの周回路を使って練習している。このグループの特徴は親たちも一緒になって走っていることで特にリーダー格のお父さんはよく走る。お母さんもたまに走るが大概はラップをとったり応援専門だったりである。
 年寄りが口を出すとり難くかろうと遠巻きに見ていたがあんまり熱心に続くのである日訊いてみた。「何をしているのですか?」「来年の大文字駅伝の地区代表を目指しています」。
 大文字駅伝というのは京都の小学生たちが毎年2月、大文字のふもと―金閣寺の近くからスタートして下賀茂神社あたりで川の河川敷に下り岡崎公園までの約2kmを10人で走る名物レースでもう30年近い歴史がある。京都の駅伝―とりわけに女子が強いのはこのレースが基礎になっているといってもあながち間違いではない。最近は南西部(西京区など)が強い傾向にありこの小学校も激戦のその地区にあるがそれにしても年前から練習を開始するとは凄い意気込みだ。
 毎朝のことだからそのうち応援の気持ちが湧いてくる。そうなると遅い子ども、なかなかタイムの詰まらない子贔屓(ひいき)したくなるの人情だ、心のなかで「ガンバレガンバレ」と応援するようになった。若いということは素晴しいことで目に見えてグイグイ上達する。これはリーダーのお父さんの指導が良かったことも力になっていると思う練習をはじめたころは女子が優勢だったがおいおい男子が追いついて実力拮抗、体つきも女子の方が大きかったがこの夏頃には男子が並んだいいゾ、カンガレ!
 
 そしてついに先日、11月12日に予選会があった。このメンバーの多くが学校代表になっていたに違いないが残念なことに地区代表には選ばれなかった。数日して顔馴染みの幾人かに「あの子たちどうでしたか」と訊かれたところをみると年寄り連中は皆、陰ながら応援していたようだ。「可哀そうに…」と呟く彼らはこの1年何ヶ月か、子どもたちと親たちの練習を見て随分力を貰っていたに違いない。朝一番にひたむきな子どもの姿に接して気持ちの好い一日を送っていたことだろう。若い人たちの一所懸命な姿ほど勇気を与えてくれるものはない。
 
 あとで知ったのだが強い学校では3、4年生から練習しているというから1年半くらいでは練習が足らなかったのかも知れない。しかし子どもたちはいい思い出を持ったと思う。大人になって、結婚して子どもができて「あのとき親父らようやってくれたなぁ、今の俺ら絶対できひんもんなぁ」と語り合っている姿が目に浮かぶ。結果は出なかったけれども懸命に努力できたことに満足していると思う。口惜しさを感じた子どもはこのつぎ何かに挑戦したとき、中途半端なことでは決して妥協しないに違いない。
 今どきの親は…、と一括りにして批判されがちだが、こんなに愛情に満ちた子育てに奮闘している親がいる。尊敬できる人たちだ。
 元気を与えてくれた彼らに応援の気持ちを込めて次の一文を贈ろう。 
 
 何か良い思い出、とくに子ども時代の、両親といっしょに暮らした時代の思い出ほど、その後の一生にとって大切で、力強くて、健全で、有益なものはないのです。きみたちは、きみたちの教育についていろんな話を聞かされているはずですけど、子どものときから大事にしてきたすばらしい神聖な思い出、もしかするとそれこそが、いちばんよい教育なのかもしれません。/自分たちが生きていくなかで、そうした思い出をたくさんあつめれば、人は一生、救われるのです。もしも、自分たちの心に、たとえひとつでもよい思い出が残っていれば、いつかはそれがぼくらを救ってくれるのです(『カラマーゾフの兄弟』トルストイ著亀山郁夫訳・光文社古典新訳文庫より)

2014年11月17日月曜日

明治維新の目指したもの(2)

 世界経済は今(2013年)74兆7000億ドルまでに拡大しアメリカは16兆768億ドルで1位、以下中国9兆4691億ドル日本4兆8985億ドルだが1人当りGDPで見るとアメリカ5万3千ドル中国6千960ドル日本3万8千500ドルとなっている。ちなみにインドは1千510ドル(国のGDPは1兆8800億ドル)にすぎない。今年になって世界経済はひとりアメリカだけが不況を克服して量的緩和を終了したが日本はデフレ脱却したばかりで成長ゾーンへはまだまだ先の状況であるしEUは最大国のドイツまでがあやしくなってセロ成長に近い。新興国経済も中国、ロシア、インドを含めて低成長に陥っている。特に中国は成長のエンジンであった労働力が減少傾向に転じて人口ボーナス期を過ぎ構造転換を図らなければ「中所得国の罠」に陥りかねない状況にあるから深刻である。
 一方世界の人口は今年遂に70億を超え70億4400万人に達し中国が13億8400万人インドが12億3600万人で上位を形成している。世界のすべての国が「経済成長」を目標として国の運営をするのは結局のところ国民が豊かになるためであり現在の目安では1人当りGDP2万ドル以上が「豊かさの尺度」となっている。現在の状況で中国インドという人口超大国がしゃにむに2万ドルの経済規模をめざしたとすると(香港の1人当りGDPは3万7千900ドル台湾は2万900ドルである)中国のGDPは276兆7000億ドル、インドは247兆2000億ドルにならなければならず、現在の規模からの増分の両国合計は512兆6500億ドルになり現在の世界経済規模74兆7000億ドルの約7倍になる。半分の1万ドルでも増分は3.4倍に近い。これは実現不可能な数字であり、地球を7個増やすしか実現できない経済規模である。
 
 ポルトガル、スペイン、オランダ、イギリスと覇権国が変遷するなかで世界経済は膨張を続け20世紀になってアメリカが覇権国として世界経済を牽引してきた。冷戦が終結し資本主義自由主義経済が唯一の経済原理となってグローバル化し世界経済が統合された。しかし今や「経済成長」を唯一の『尺度』として『世界運営』の行える可能性は極めてゼロに近いことを認識すべき時期に差しかかっている。
 中国が近隣国との友好関係を無視して海洋覇権に執着し世界中の資源の収奪をねらって行動しているが、有能な中国指導者たちにしてみれば近い将来の世界経済を見通した至極当然の戦略と考えているに違いない。遅れてきた「インド」もまた現状のままの『運営指針』で世界が運営されていくのであれば中国の跡を追うのは当然だろう。
 『遅れてきた超大国』をいかに世界に取り込むか。先進国の『賢明な包容力』が求められるが具体的に世界経済をどのように展開していけば良いのだろうか。
 
 「有限な資源の効率的活用による世界の人々の豊かさの実現」即ち「貧困からの解放」を基本理念にすれば「個人の豊かさ」とは無縁の「戦力」に資源を利用する余裕は全く無いことは明らかだ。当然『戦力のゼロ化』は選択すべき最大の手段である。
 「気候温暖化のもたらす地球規模での異常気象」はまったなしの危機水準にある。一日も早い温暖化対策を世界規模で取り組む必要がある。そこで『炭素税』を先進国に課し先進国の成長にブレーキをかけそれを世界ODA(政府開発援助)として途上国に配分する仕組みは考慮に値するのではないか。不満をもつ先進国があれば『共通ではあるが差異のある責任』を基準として世界的に負担を求める方法もある。
 豊かな社会の「格差」をを是正して『不必要な豊かさ』を削除し国全体の大きさ(GDPの)を『理由のあるダウンサイジング』するという考え方は先進国の「勇気ある撤退」の覚悟が試される選択肢である。
 こうした施策を実行するためにこれからの社会はどんな価値を尊重して運営すればよいかについては先に揚げた「じゅうぶん豊かで、貧しい社会」が「現代社会には、お金に換えられない健康、安定、尊敬、人格、自然との調和、友情、余暇という7つの基本価値がある」と提言している。検討する価値は十分にあろう。
 
 我国の明治維新が踏み出した「近代化=西欧化」という「成長基準」の国家運営を多くの「遅れてきた国々」が採用せざるを得ない状況に追い込まれて「今日」がある。しかしこの「価値基準」は「限られた強国の連合」という『部分』では機能したが『世界大』という『全体』を管理する基準としては『自己破壊』に繋がる『矛盾』を孕んだものであったことに気づかされた。『成長』は「戦争の世紀」であった『20世紀の遺物』に成り果てる運命にある。
 ではどうするべきか。大問題である。

2014年11月10日月曜日

明治維新の目指したもの(1)

 
 何冊かの本を併行して読んでいてその日読んだ、或いは数日の間に読んだそれぞれの書中の一文が互いに響きあうということがある。最近もそれがあってそのことが数年来の蟠(わだかま)りを解(ほど)く契機になった。
 
 ひとつは大江健三郎の「定義集・民族は個人と同じく失敗し過つ」にあった1963年12月東京・豊島会館で行われた「わだつみの会主催『学徒出陣20周年記念・不戦の誓いを新たに』」に共に参加した老哲学者南原繁と大江の師・フランス文学者渡辺一夫の講演のことばである。渡辺については「渡辺さんは今ある『平和』を良い平和にする苦しさに耐えねば、と話されました」と書いている。南原は、戦争末期、学生に何を助言できるかが辛く苦しかった、と語られた、としたあとこうつづけている。「国家が今存亡の関頭に立っているとき、個々人の意志がどうであろうとも、われわれは国民全体の意志によって行動しなければならない。われわれはこの祖国を愛する、祖国と運命を共にすべきである。ただ、民族は個人と同じように、多くの失敗と過誤を冒すものである。そのために、わが民族は大きな犠牲と償いを払わねばならぬかも知れない。しかし、それはやがて日本民族と国家の真の自覚と発展への道となるであろう」。
 南原が日本民族と国家の真の自覚と発展の道になるであろうと期待した犠牲と償いが、20年たって、「今ある『平和』を良い平和にする苦しさに耐えねば」と言わざるを得ない状況に陥っていたことに渡辺は忸怩たる思いを抱いたに違いない。しかし70年後の今、事態はその時よりなお一層苦しく苛酷な状況を呈している。
 
 同じ状況を隠棲の逸民・永井荷風はこう慨嘆する。「江戸三百年の事業は崩壊した。そしてその浮浪の士と辺陬の書生に名と富と権力とを与へた。彼等のつくった国家と社会とは百年を保たずして滅びた。徳川氏の治世より短きこと三分の一に過ぎない。徳川氏の世を覆したものは米利堅(メリケン)の黒船であった。浪士をして華族とならしめた新日本の軍国は北米合衆国の飛行機に粉砕されてしまった。儒教を基礎となした江戸時代の文化は滅びた後まで国民の木鐸となった。薩長浪士の構成した新国家は我々に何を残していったろう。まさか闇相場と豹変主義のみでもないだろう(「冬日の窓」より)。
 明治維新以降の我国がめざした「近代化=西欧化」を苦々しく吐き捨てた荷風がもし今日まで生きておれば「地下鉄サリン事件で精神的に、3.11東日本大震災・福島第一原子力発電所事故で物質的に、近代化は完全に否定された」と明言するに違いない。
 そしてこのことは我国に止まらず世界的視点でも行き詰まっていることを「じゅうぶん豊かで、貧しい社会(ロバート&エドワード・スキルデルスキー共著村井章子訳・筑摩書房)」は次のように厳しく突きつけている。「貧しい国にとって、物質的な成長は豊かさの実現につながり、それに寄与する資本主義の役割は重要になる。ただ、経済が十分に豊かになれば、成長への動機は社会的に容認されなくなり、資本主義は富の創造という任務を終える。そこでは、無限の欲望を満足させるために希少の資源を使うことは『目的のない合目的行動』にすぎない」。
 
 「数年来の蟠り」というのは、「近代化=西欧化」が「物質的豊かさの享受」でありそのためには「資本主義による効率性の追求」にすべてが収斂せざるをえないとしてきた「進化の論理」が完全に行き詰まっているのではないか、ということである。少なくとも「経済が十分に豊かにな」った先進諸国においては「経済成長」を「進化の尺度」とする論理は終焉したと思わざるを得ない状況が差し迫っている。
 
 ほんの30年前まで世界経済は10ヶ国に満たない国々が主たるプレーヤーとして資源を使いたいだけ使って牽引していたが21世紀になってG20となり更にグローバル化が進展して今や世界経済は一体化した緊密な連帯関係を構築するに至っている。世界経済の一体性はギリシャ危機に見られるように世界経済の1%にも満たないヨーロッパの1国の経済変調がたちまち世界経済に重篤な影響を与えるようになっていることで如実に理解できるであろう。
 
 ここまで一体化した世界経済は、先に豊かになった國も遅れてきてまだ豊かに成り切っていない国も、同じ「成長という尺度」で市場の自由競争に任せて運営したのではそう遠くないうちに『破綻』してしまうことは明らかだ。何故なら世界経済(GDPの成長)は資源の制約以上に成長することは不可能だからである。

2014年11月4日火曜日

政治と言葉

 またぞろ「政治とカネ」である。しかし今度の小渕優子議員の場合は程度が低すぎる。父の代からのスタッフを『信頼』して任せ切っていたから「裏切られた」思いです、と言っているが根本的に政治家というものを勘違いしているのではないか。そもそも彼女は何を「信頼」していたのか。父の代からのスタッフに「丸投げ」するのが「信頼」することなのか。5期14年も議員を続けているのだから組織の末端にまで「目配り」できる組織に改変してこそ「政治家」である。父からの「地盤、看板、かばん」に乗っかって「政治もどき」の仕事をこなすだけでは到底政治家とは言えまい。一からの出直しが必要である。
 
 政治家の基本機能は「価値判断」だと思う。それも突き詰めれば「所得再配分」の判断だと思う。「再配分」を大きくするか最小で済ますのか、リベラルか保守か、重要な価値判断である。農業部門の再配分を社会保障に移転する―農家の米作生産調整(減反政策)の補償金を減額又は削減してその分を社会保障に回すということになれば既得権者の農家を納得させる必要があり政治家が覚悟を持って挑まなければ成就は難しい。農政に限らない、経済・社会の変動は急であり大きな転換期に差し掛かっている。政治家の価値判断が益々重要度を増してくることは間違いない。
 
 価値判断は理屈で無い部分が大きいから「言葉」が重要になってくる。従って政治家にとって「言葉」は極めて重要なツールになる。それにしては昨今の政治家の「言葉」は余りに貧弱であり弁舌が拙い。一番の問題は「言葉」というものを誤解していることにある。
 「A.N.ホワイトヘッドは言っている)多くの思い違いのなかに、完璧な辞書が存在するという思い違いがある。あらゆる知覚に対して、あらゆる言説に対して、あらゆる抽象概念に対して、人はそれに対応するものを、正確な記号を辞書の内に見出し得ると考える錯誤がある、と。(J.L.ボルヘス著鼓 直訳『詩という仕事について』より)」。
 「言葉が記号の代数学であるという、われわれの考えは辞書に始まると考えられます。(略)しかし私の考えでは、単語と定義の長々しいカタログを所有するという事実のせいで、われわれは、定義が単語を説明し尽くしていると(略)その単語のすべてが互いに交換可能であると、信じ込まされているのです(同上書より)」。
 ボルヘスがいうように我々はえてして「言葉」は出来上がったものであり不変なものであると勘違いしている。「言葉」を無造作に選択しても伝えたいと願っている内容が間違いなく相手に受け取ってもらえると安心している。しかしそれは余りに『楽観的』過ぎる。役人の地元説明会などを見ていればそれは如実に分かるであろう、役人が言葉を尽くしても行き違いを繰り返すばかりであるのを。
 深く考えることも無くその場の思いつきで「言葉」を繋ぎ合わせば文章になり弁論になると思い込んでいるから『文章作成(弁論)技術の訓練』がナオザリにされてしまう。「詩というものは単に或る瞬間の感情の定着ではなくて、多くの体験をずうっと蒸留していった末に一行だけ書かれるような種類のものだ、ということをリルケが言っている(大岡信・谷川俊太郎対談集『批評の生理』より)」。「詩」を言葉や弁論に置き換えれば「政治家の言葉」の『重さ』を理解できるだろう。
 「削るということは組織化していくことだ(略)できるだけ多くのものを取り込んで、それを組織化することで複雑なものが単純になる(略)具体的な肉体で感じられる多くのものを、組織化することによって単純化していく(前掲書より)」。
 
 既得権を剥奪されたり削減されたりすることは人間の最も承服しかねることである。それを仕事とする政治家はよほどの「言葉の練達者」であらねばならない。一昔前の政治家に大学の「弁論部」出身者が多かったのも由無いことでない。アメリカの政治家が「ライター」を活用しているのもそれだけ「言葉」であり「弁論」を重要視している証であろう。
 
 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった(聖書「ヨハネ福音書」から)。
 
 

2014年10月27日月曜日

名監督の罠

 今年のセ・リーグCS(クライマックスシリーズ)のファイナルステージは阪神の4連勝であっけなく幕を閉じた。日本シリーズでの阪神の健闘を祈る。
 
 今年のペナントレースを巨人軍が優勝できたのはまったくの僥倖で戦力的には到底優勝を勝ち取れるものではなかった。昨年優勝をもたらした内海、沢村、宮国のローテーション・ピッチャーが秋口までほとんど戦力にならず杉内も衰えを見せた先発陣に加えて山口、西村、マシソンの救援陣にも昨年ほどの安定感はなく投手力では広島、阪神と比べて相当劣っていた。打撃陣に至っては打撃10傑に一人も入らず長野の2割9分7厘を筆頭に坂本0.279、村田0.256、阿部0.248のクリーナップでは首位打者マートン打点王ゴメスを擁する阪神、菊池・丸の若手が躍進する広島と格段の差があった。特に打点が長野、坂本、村田が60点台ソコソコで阿部57点という決定力の無さではこれでよく優勝できたものだと呆れるほどの体たらくだ。2年目菅野が防御率トップ勝利数2位の12勝(トップがメッセンジャー、山井の13勝だから今年のハーラーダービーは低調だった)でひとり気を吐いたのが唯一の光明である。
 この戦力で優勝したのだから原監督の手腕が賞讃されるわけだが、それにはちょっと疑問がある。今や通算勝利数882勝(11年)で歴代15位、野村、西本、上田、川上、王、長島、星野に次ぐ存在だから『名監督』といってもあながち褒め過ぎに当らない地位に達しているのだが、今年の采配には大いに不満がある。
 
 今年もっとも記憶に残っているシーンは7月11日の対阪神10回戦で見せた『西岡シフト』である。阪神が7連勝で1.5ゲーム差に迫ってきた大勝負の一戦で2対2で迎えた6回表、2点を勝ち越されなおも1死23塁で迎えた代打西岡のとき内野手を5人にする変則シフトを敷いたのだ。王シフトで知られるように変則シフトは野手全員を右側(ライトより)に寄せたり今回のように内野手を5人にするなどのシフトをとるのだが、王さんに代表されるように格段に実力が上位の選手に対して守備側が「降参します、左へ打つならどうぞ」と諦めて敬意を表す防御策である。西岡選手は決して並みの選手ではない、大リーグへもいったほどの実力者ではあるが変則シフトを敷くまでの選手とはいえない。にもかかわらずここで変則シフトを選択する意味はどこにあるのか?大いに疑問を感じた。結果は無人のセンターに2点タイムリー二塁打を許しリードを4点に広げられ奇策は失敗に終わった。だが、そんな結果はどうでもいい。何故に『王者巨人軍』が『宿敵阪神』に『屈辱的』な西岡シフトを敷いたのか!それが無念であり、そんな原辰徳が情けないのだ。 
 2006年2回目の監督就任以来10年でリーグ優勝6回日本一にも2回輝いている戦績は十分『名監督』の冠に相応しいものだがそれだけに、コーチをはじめとしたスタッフ陣は悪く言えば「イエスマン」集団になっていたし球団のバックアップも万全だから選手も全面的に監督に従わざるを得ない雰囲気にあった。
 こうした状況が伏線となって戦力に翳りの見えた今年の巨人軍のオーダーは150通り以上の「猫の目打線」になった。昨年までは長野、坂本、村田、阿部にはクリーンナップとしての役割を意識させた起用を貫いていた。しかし今年は選手にウムを言わせぬ『名監督』の権力をほしいままに昨日の4番打者に今日は7番を打たせたり1、2番打者も固定せず、結果打線が機能しなかったからCSの無残な結果を招いてしまった。西岡、上本で1、2番を固定し鳥谷、ゴメス、マートンでクリーンナップを任せた阪神に比べて決定力を欠いた打線の低調は結局、選手から『役割り意識』を剥奪した原監督の責任ではないだろうか。V9時代の不動のメンバーがそれぞれ役割りに徹して能力を磨き戦力を高めていったことを知っているだけに今年のオーダー編成は異常であったと思う。
 そんな経過があったからかファイナルステージの選手に覇気がまったく感じられなかった。負けて当然と思った。『名監督』の「驕り」と「油断」の招いた『厄災=罠』をそこに見た。
 
 ロペスにアンダーソンの外人勢を加わえた選手層は決して他チームに比べて遜色のある戦力ではないだけに選手の個性がキラリと光るチームづくりをして来シーズンはファンの納得できるゲームをして欲しい。そのためには原監督が『名監督の罠』に陥らぬ用心が肝要である。来シーズンの飛躍を期待する。
 
 
 

2014年10月20日月曜日

般若心経

 仏壇を開きお水を汲み般若心経を唱えるのが日課になっている。幼い頃から朝仏壇を拝むのを習慣としていたが十年ほど前念仏を声出して唱えるようにしたところ、諳誦(声を出さずに心で唱えること)とは異なる雰囲気を体感した。頭から緊張が解(ほど)けて軽い浮遊感におそわれ声を大きくするにつれて雑音が遠のいて「南無阿弥陀仏」というお念仏に包まれるようになる。ひょっとしたらこれが「法悦境」というのかもしれない、そう思った。「うちのお寺の坊さんにお念仏を出してと言われるのだが照れくさくてできないでいる」と友人の一人が言っていたのを思い出す
 たまたまEテレで「100分de名著―般若心経」をみてこのお経が世界中で受け入れられているのを知った。経中頻繁に出てくる『空』という語に文明人を『解放』する力があると佐々木閑花園大教授が解説していた。最終回「ギャテイ ギャテイ ハラギャテイ ハラソウギャテイ ボヂソワカ」というサンスクリット語をそのまま音訳した経文について「意味の無い音を呪文として受け入れることで救われる」と解説に「私はこれまでまったく逆の生き方をしてきたから素直に理解することができない」とやや嘯(うそぶ)き加減に反問するお笑い芸人が気にかかった。彼は、言葉を概念として正しく理解し論理的に勉強してきた、といいたかったのだろう。この太り気味の芸人は「賢(かしこ)タレント」に類しておりクイズ番組などで活躍しているのだが、このようなEテレの教養番組にレギュラー出演しているとは驚きであった。彼のこの発言(NHKのことだから台本にあったのかもしれないが)ははしなくも「言葉に対する誤った考え方」を如実にしている。
 
 言葉に「概念的機能」が付与されたのは歴史的にみればそんなに昔のことではない。むしろ初め言葉は呪文として表れたといった方が正しい。生きるための導きを求めて『憑依(ひょうい)』する力(神と同化し神の言葉を代言する)を有する呪術師に縋(すが)らざるをえなかった遠い古、彼女や彼の「お告げ」の言葉に霊力を感じてひとたちは「呪文」を唱えることで苦しみや怖れ、痛みから解放されていただろう。「詩」が生まれて「時間」が「かたち」になり氏族が形成された。記憶が「言い伝え」として連綿とつながれ、それが「文字」に写れたのはずっと後のことだ。「ことばの文字化」が『概念としての言葉』を生んだ。印刷が発明されて多くの人に「伝える」必要が高まって『概念としての言葉』が重要性を高めた。近代になって『概念としての言葉』が肥大化して「言葉」を貧しいものに貶(おとし)めた。「音」よりも「文字」が有力になり、「書かれた文字」よりも「文字の伝える概念」のみが「言葉」として流通するようになった。
 
 和歌は短冊(や木簡)に「筆書き」されたもの―印刷された文字の連なりだけでない、大きさと文字の姿かたちと墨のながれの「総体」が『和歌』なのであって、それを声出して唱和されて「完全な和歌」になる。そういうものであるらしい、しかし我々にはそれ理解できない。文字は「印刷文字」以外にも多くの形を持っているが明朝体かゴシックが大勢力を誇IT時代になってPC文字がハバを利かせるようになってきた。
 般若心経を声に出して唱える。漢字で書かれたお経を目で追っているとおぼろ気がながら「意味」が湧いてくる。音と文字と意味が渾然となって高揚してくるなかで「呪文」に出会い大声で唱えると、一挙に「自分が消えた」ように感じる。
 
 至るところ、悦びと、ぼろ儲けと、そこ抜けの騒ぎがあった。至るところ、明日の日のパンに対する確信があった。至るところ、生活力の熱狂的な爆発があった。しかるにここには、絶対の悲惨、最早技巧ではなく、真の必要がかえって巧みなコントラストを生んだ、異様ななりをした悲惨、滑稽な襤褸(らんる)に、加えるに恐怖を以て装われた悲惨がある。(ボードレール「パリの憂愁・年老いた香具師」福永武彦訳岩波文庫)。1860年代初頭に書かれた「散文詩」の伝える『格差』の悲惨さは「概念」で綴られたどんな「論文」より「直截的」に訴え、怒りを醸成する。詩のもつ呪術的情念は『概念としての言葉』では決して伝わってこない。
 
 った「賢(かしこ)お笑い芸人」を嘲笑(わら)うのは簡単だが彼ばかりを責めて済ませられないところが何とも悩ましい。
2014.10.21
文学文化1793文字
464/254 市村 清英
 

2014年10月13日月曜日

ノーベル賞と雇用の流動化

 今年も又日本人からノーベル賞受賞者が出た。ここ数年、毎年のように受賞者が現れて嬉しい限りである何よりなのは戦後教育を受けた人たちが現れてきたことだ。これまで多くの識者が戦後教育批判を繰り返してきた。その顕著な例としてノーベル賞受賞者が現れないと予言していたしその言には説得力もあってわが国のこれからに悲観的に成り勝ちだった光明がほのみえてひと安心である。
 それにしても毎年のように下馬評を賑わす村上春樹氏が今年も文学賞選から漏れたのは何故なのだろうか。我々一般人ばかりでなくジャーナリズムも囃し立てていることを思いあわすと、我々の考えている「文学」とノーベル賞が文学としているものが異なっているのではないか?そんな疑問さえ感じてしまう。彼の作品はほとんどがベストセラーになっている。ということは一面から見れば「読み易い」小説と言えなくもない「分かりやすい」と言い替えることも出来ようか。ということは、文学というものは何がしか「苦労」して「複雑な操作」求められるものなのかも知れない。文学についてこのへんのことを一度ジックリと考えてみる必要がありそうだ。
 ノーベル賞の季節に何時も考えるのは、ひとつ事をジックリと何十年とつづけることの偉大さなのだが今政府のやろうとしているのはそれとは逆の「雇用の流動化」である。しかもその一方でノーベル賞倍増を図って「大学改革」でエリート養成しようとしているスポーツ面でもオリンピック目指してエリートを育てようと目論んでいる。ということは、一握りのエリート以外は企業の都合のいいように「使い捨て」して「流動化=解雇し易い雇用関係」しようというのか。それでいながら「生産性」は高めたいというの少々虫が良すぎるとういうものだろう
 仕事(労働)を個人の立場からみてみると若い人の考え方が気がかりだ。定着率が非常に悪い。厚生労働省の「新規学卒就職者の在職期間別離職率の推移」をみると、大学卒の3割以上が3年以内に離職しておりかつ1年目での離職率の高さが目立っている。彼らの言い分は「自分探し」がしたいとか「自分にあった仕事」がしたいということらしいが具体性が乏しい。
 
 現在は職業の自由があって「職業の選択」は個人に任されているが戦前から戦後すぐの頃までは「家業」を継ぐのが当たり前で農家と自営業の割合は70%を超えていた。その後高度成長が続き「勤め人」が80%を上回るようになったのだが、「労働の喜び」といった面からは果たしてどういう「働き方」が良いのだろうか。
 
 「私はごく早いころから、家職のなかに生きることが、すなわち人間として正道を踏む生き方であることを、深く理解できた…。家職というものは、私たちに顔かたちが備わるように、人がこの世にある形にほかならぬ。私はそれを引きうけ、それに精魂をうちこみ、それをさらにお前たちに伝えることを、心から誇らしく思っている」。これは辻邦正の『嵯峨野明月記』にある本阿弥光悦のことばである。彼は刀剣の鑑定、研磨を家職とする家に生まれその道に精勤することで身を高め、寛永の三筆としての名声を博するとともに琳派の創始者として日本文化に大きな影響を与えた。その彼が仕事に生きるということについてこんなことも言っている。「私たちの日々も、同じように、何か形あるものに変えて、そのなかに閉じこめなくては、ただ流失するほかない。だが、ひとたびこうして一日、一日を、営々と閉じこめはじめれば、人はいつか十年二十年の歳月さえも、目に見える形で、閉じこめることができるようになるのだ」。その日暮らしに仕事をするのではなく、その日の糧を蓄積するよう工夫をこらせば、歳月を経て立派な業績とすることができると言っている。
 マックス・ヴェーバーは「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」で職業についてこう語っている。「職業の特化は、労働する者の熟練を可能にするため、労働の量的ならびに質的向上をもたらし、したがって公共の福祉に貢献することになるのだ(略)確定した職業でない場合は、労働は一定しない臨時労働にすぎず、人々は労働よりも怠惰に時間をついやすことが多い。(略)そして彼(天職である職業労働にしたがう者)は、そうでない人々がたえず乱雑で、その仕事時間も場所もはっきりしないのとはちがって、規律正しく労働する。…だから『確実な職業』は万人にとって最善のものなのだ」。雇用の多様性と流動化の美名の下に『望まれざる』非正規雇用の存在を是認し、衰退産業から成長産業への労働力の移転を円滑化するために「労働市場の流動化=解雇権の柔軟化」を実現しようとしている現政府の労働政策は『働く人間』にとって幸せな『仕事人生』を約束してくれるものではない。
 
 「自分探し」を『面的』に捉えるのではなく『深化=特化』と考えると選択肢が広がるのではないか。そのためにも若年労働者の『雇用拡大と安定』を政府をはじめ大人たちは考えるべきである。