2014年12月15日月曜日

「読書ばなれ」を糺す

 青空文庫で「夏の花・原民喜著」を読んだ。最近良く利用する。青空文庫あおぞらぶんこ)は日本国内著作権が消滅した文学作品著作権は消滅していない著作権者が当該サイトにおいて閲覧を許諾した文学作品を収集・公開しているインターネット上の電子図書館である。文学作品11230件社会科学関係660件哲学歴史関係783件他が公開されており夏目漱石は「坊ちゃん」「吾輩は猫である」などの名作は殆んど網羅されているし森鴎外、宮沢賢治は勿論のこと人気作家の新刊本を望まない限りそこそこ充実したラインナップで重宝している。
 「読書ばなれ」「活字ばなれ」がいわれて久しい。しかし電車や喫茶店で読書する若者は多いし、図書館へ行けば利用者で溢れている。「朝の読書運動」も盛んで小学生の読書量は相当伸びているようだ。漫画喫茶(ネットカフェ)も少なくないし町の喫茶店で漫画を売り物にしている店も結構多い。
 読書は決して廃っていないのではないか。こんな私の疑問に答えてくれる記事が日経「本の小径(26.12.7)」にあった。
 
 永江朗氏の『「本が売れない」というけれど』(ポプラ新書)を引用して次のようにまとめている。
 電子メディアの普及で雑誌が売れなくなり出版不況になって「読書ばなれ」が進んだという出版界の定説は、新聞社の世論調査や全国学校図書館協議会の調査で否定されている。新古本のブックオフの売上高は約800億円に達しインターネット書店アマゾンも成長著しい、公共図書館は昨年までの13年間に約600館も増えた。不況は出版社―取次―書店という旧来の新刊販売システムでのことで市民の読書ニーズは決して衰えていない、そうしたニーズに応える努力が必要で「目先のおカネほしさに新刊をジャブジャブ書店にばらまく」本の「多産多死」を見直し、読者を置き去りにしてきた近年の出版界の覚醒が望まれる。
 青空文庫に象徴されているように、本を「所有」することから「体験」するもの「(書かれている情報を)消費」することへ読書の形態が変わったとみるのが正しいのではないか。20年前には普通にあった「百科事典」や「文学全集」を仰々しく揃えた家庭を今や殆んど見なくなったことがその間の事情を如実に物語っているように思う。
 
 むしろ問題は読書傾向が他の商品と同じように「ピンポイント」になっていることではなかろうか。話題のベストセラーや「必読書」と呼ばれるもの、学校や有名人の推薦図書を無批判に乱読して満足いるように思う。若いうちはそれでも良いが、それから脱皮して「自分の視点=価値観」で選択した読書をしてほしい。そうでないと知識や情報が体系化できず単なる「もの知り」で終ってしまうから。
 
 本の楽しさのひとつは「書店(図書館)での偶然の出会い」にある。目当ての本を探しているうちたまたま目についた本をツイ買ってしまってそれが思いがけず面白かったり、図書館で目的の本の隣にあった本に興味を引かれ読んでみると同じテーマがまったく別の視点で書かれていて新発見をした、という経験が後になってしみじみその僥倖を有り難く思うことが多くあった。
 最近は時間の余裕ができて引用文献や参考図書にある書籍を読むことが多くなり、これまでとは比較にならないくらい興味が深まるのを感じる。知識の体系化が出来て物の見方に幅が出、本の知識に縛られない自分の切り口で考えを展開するようになった。
 コラムを書くようになって、書くために読むこともありそれが読書の楽しみを広げてくれた。また読んで書くことを促されたこともある。その繰り返しが「奔放」な読書と「自由」な視点を形づくってくれた。
 
 「読書の愉しみ」を継承していく環境を整えることが大人の責任であろう。
 

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