2019年12月16日月曜日

文字、言葉、顔

 遠い親戚の三回忌の法事があった。夫を亡くした妻になる私にとって姉のようなひとの余りの変わりように胸を打たれた。葬儀からまだ二年になるかならないかなのにすっかり老いていた。足元が覚束なくなっていて軽い認知症の気配も感じられた。彼女は私の祖母の兄弟の養女で占領時代の朝鮮から引き揚げてきて戦後の何年か我が家に寄宿したことがありたまたま年齢が4才しかはなれていないこともあって姉のように可愛がってくれた。賢く控え目な彼女の結婚した男性が学校の先生で、努力して大学教授になったと聞いた時には我がことのようにうれしかった。しかし私が彼を本当に尊敬したのは晩年の彼で、著作を精力的に出版したことは羨ましかったが、テニスに打ち込んだり、もともと嫌いでなかった絵画に65才ころから本格的(油絵)に取り組んでその腕前の進歩が驚くほどはやくまたたくうちに賞を取るほどになった。具象で泰西名画的な画風が私の趣味に合っていたのかもしれないが好きな絵だった。おととしの晩秋に同人の展覧会があって久しぶりに再会して、教え子に囲まれながら談笑する彼の姿に「教師稼業」のすばらしさをみて改めて羨望を感じた。それから二ケ月もたたない、年も押し詰まった寒い日に彼の急逝を知った。
 われわれの知っている表の顔とは別に亭主関白の頑固親父だったようで家族は大変だったことが明かされたがそれでも彼に対する敬慕の気持ちはかわらなかった。それは彼女も同じで散々てこずらせた厄介な存在だったのに、その手のかかる存在が居なくなってぽっかりと心に穴が空いたようになって、しかも都心から離れた郊外の新興住宅地の家にひとり住まいになって、月に何回かは娘が世話をしに来てくれるものの足が不自由になったこともあって出歩くこともなく、姉妹兄弟のいない彼女が女性特有の日常のたわいもないおしゃべりを交わす相手に事欠いて……。
 ひとり暮らしになって、電話やメールで話すことはあっても、人の顔を見て話すことがなくなると「意味」だけが遊離して「肉体化」された「ことば」でなくなって、肉体と意識の統一体として自己の存在が「あやふや」になっていってしまうのではなかろうか……。そうでないとあれだけ賢く凛としていた彼女が短時日でこれほど老いさらばえるはずがない、たとえ足が不自由になったとしても……。
 
 流行のSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービスに「あやうさ」を感じるのもそこにある。SNSは「文字」によるやり取り――コミュニケーションだ(写真や動画を添付するものもあるが今はそれは言わないことにする)。人間のコミュニケーションは《文字←言葉←顔(体と身振り手振り)》の順で幅が狭まってくる。文字は人間のコミュニケーション総体の十分の一もない小さな部分しか担っていない「不確か」なツールに過ぎない。齢を取って老眼が進んで遠くのものの判別が覚束なくなっても人混みのはるか向こうにいる妻の見分けがつくのは、すがた形のぼんやりとした「たたずまい」で判断しているからだ。赤ちゃんは泣くことでしか自分の感情や欲求を訴えることができないがそれでも母親や周りのおとなが理解できるのは泣き声の大きさやトーンで空腹、オシッコ濡れの不快感などを判断できるからで、そのうちあっあっえっえっあうーおぉーなどの母音の連なりで感情と発声法を学習すると「喃語」――意味のない声で言葉のようなものに到達し、やがて親の言葉をまねて赤ちゃん言葉を覚えるようになり5歳ころには一応「言語」というものを習得する。言葉の発達は年齢とともに急速に進行し、文字の学習がはじまりレベルアップするに連れて文字から言葉を覚えるという経験もする。特に「概念」に関する言葉は文字と音声としてのことばの習得段階が逆になることもある。
 
 感情のすべてを言葉だけで表現することは少なく、身振り手振りと合わせないと相手に正確に、強く訴えることはできない。また多様な感情を表現するには習得している言語の数では間に合わないことも経験する。子供が癇癪(かんしゃく)を起こして「ダダをこねる」状態はその例の一つだし、ヒステリー状態や最近頻繁に見受けられるようになったおとなの「キレる」のも感情に言葉が追い付いていない状態と言っていいだろう。「概念操作」は習得している言葉数、活用例の多少によって、伝達しようとする「概念」にぴったり当てはまる言葉を見つけられるかどうかが左右されるしどうしても既存の言葉で「概念」が表現できないという場合は「新語」を作ることになる。
 感情も意思も概念も言葉だけで表現することは相当困難な作業であり、ましてそれを「文字」で表すことは至難の技である。ベタな例だがラブレターを書いて翌日見直して恥ずかしい経験をした人はゴマンといるはずだ。卒論を書こうとして、論点のまとめを計画してそれを表現する言葉の選択に四苦八苦した経験は鮮明に残っている。
 感情も意思も概念もそれを言葉にすることさえ困難な作業であるのだから、それを文字化することの困難なことは冷静に考えてみれば誰でも納得できるはずだ。
 そんな不完全な「つぶやき」に「いいね!」を平気で打つことの無責任さをだれも言い出さないことに不安と危うさを感じていたが、最近その「いいね!」の数を把握できないようにする動きが出てきた。書き込みをする人は閲覧回数と「いいね!」の数を指標に自分の評価を確認し投稿の方向性を操作してアフィリエイト(ネット上の広告収入)を期待している。今や「ユーチューバー」なるものが「職業」として若者のあこがれの職業になっているらしいが放置しておいていいのか。
 コミュニケーションのほんの僅かな機能を担うだけの不完全な「文字」という記号で成立しているSNSをなんの「社会的干渉」もなく「野放し」にしておくことに危険を感じている。
 
 フィクションとノンフィクションという言葉の成り立ちをどう考えるか。フィクション――つくりごとがまずあってノンフィクション――史実や記録に基づいた事実がつづいたにちがいない。ということは文字で書かれたものではなく言葉で言い伝えられてきたもの――言葉というあやふやなものの方が文字で書かれた「事実」よりも最初にあったし「文字」よりも真実に近い――多くの情報量を含んでいるから多様な判断を下す「可能性」がある、ということではないのか。
 
 原子力発電が人類最大の失敗であったようにSNS21世紀のそう遠くないうちに人類に最大の災厄をもたらした「過誤」として後悔する日が来るのではないかとおそれている
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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