2021年3月1日月曜日

コロナ随想

  コロナ禍で一年たって「終戦直後みたいやなぁ」という思いが浮かんできました。といってもおぼろげな記憶の残っている小学年二年――昭和二十二、三年ころのことで当時西陣のど真ん中、智恵光院通(千本通と堀川通の真ん中)の一条に住んでいましたが道路疎開(建物疎開)で拡張された通りはまだ瓦礫が残されたままのような状態でした。その頃の私の生活圏は北西は天神さん、南は二条城、東は御所という各辺一キロ米内に限られていて、交通機関といっては市電しかなかった時代です。たまに年長の高学年のあとについて衣笠山か等持院に連れて行ってもらうのが遠出で、衣笠山は水晶取り、等持院はエビガニ(ザリガニ)釣りが目的でした。放課後は橘公園(智恵光院通笹屋町)かゴウサン(浄福寺をそう呼び習わしていました)、学校の校庭(正親小学校―中立売通浄福寺)で遊ぶのが常でしたから行動範囲はほぼ半径五百米以内という狭いものだったのです。かといって親の普段の買い物も魚は一条(東)の田中魚店、野菜は中立売通の佐野さん(?)、塩砂糖味噌は田中さんの隣の塩芳さん、醤油と酒は一条(西)の並川酒店、お肉屋さんはちょっと遠いといっても中立売通黒門の品川亭でしたから歩いて十分足らずのところにありほとんど私の生活圏と変わらない狭いものです。母は息抜きもかねてたまに北野市場や下ノ森の商店街に出かけることもあり帰りには一条通りをえらんで千本の呉服屋さんをひやかすこともあったようです。お米屋さんだけは東山の安田米穀店から持ってきてもらっていたのはご主人が父親の軍隊仲間という関係からのことだったのですが、この安田さんというのが筋金入りの道楽者で呑む打つ買うの三拍子の上にお妾さんまで囲っているという念の入りようでした。そしてあろうことか父に(幼いとはいえ私のいる前で)「おい、お前も妾をもてよ」とけしかけたことがあって、いつもなら昼間は向かいの祖母のところにいるはずの母がその日に限って襖一枚隔てた奥の部屋にいたものですから安田さんの声は筒抜けで「安田はん、帰っておくれやす」と追い立てた後父親と一悶着あったことなどが懐かしく思いだされます。

 月に一回は北野のチンチン電車――北野神社から中立売通を通って堀川通りを下(しも)に京都駅までを走っていた日本最古の路面電車――で六条富小路の長講堂へ墓参りをするのが常で、帰りに四条の田ごとたまとじ(卵とじうどん)を食べて大丸か新京極(蛸薬師)の野沢玩具店でおもちゃを買ってもらうのが楽しみでした。ほかに年に二回ほど南座で松竹家庭劇や大江美智子の女剣劇を観たり新京極(蛸薬師)の富貴の寄席をのぞくこともありました。祖母はそんな母を「俄(にわか)みたいなもん、子どもに見せて」と見下げるのですが母は平気で「歌舞伎なんか辛気臭い」というひとでした。そんなことから祖母は何度か歌舞伎に連れて行ってくれましたがそれが下敷きになって文学好きになったのかもしれません。あるとき「清英ちゃんは歌舞伎の演目(だしもの)のうちの何が好きや」ときかれて「鳴神」と答えると「まあこの子はおマセさんやね」とまわりのおとなに笑われたことが印象に残っています。解説しますと、鳴神というお芝居は鳴神という呪術師がなにかのいきがかりで怒ってしまって竜神様(雨を降らす神様)を滝壺に閉じ込めてしまったために干ばつになってしまいます。困った人々が妙令のお姫様に鳴神を誘惑させて「呪力」を解き雨を降らそうとする話なのですが、お姫様が鳴神に抱き寄せられながら胸や足のあいだに鳴神の手を誘(いざな)い露骨に「チチ」とか「ホト」とかを言葉にする場面があるのです。まだ小学低学年の身ではそこまで具体的に演技を理解することはできず、ただ極彩色の場面の美しさと竜神が滝壺から解き放たれたときの「ドドドドドーッ」という音響の凄まじさに興奮するだけなのですが、おとなたちにはそんな子供っぽい興味の持ち方は想像もできませんから「マセた子やな」と言ったのでしょう。でも私は何か猥(いや)らしいことを口にしたのではないかと恥ずかしかったことを覚えています。

 子どもの買い物と言えば駄菓子と文房具と本でしょう、駄菓子屋さんは一条の角に武内さんがあり本屋さんは千本今出川の森安心堂が出入りの本屋さんになっていました。文房具は千本中立売の梅棹化粧品・文具店が一番大きなお店でしたが、この店は万博公園にある国立民族学博物館の館長などを務めたあの有名な梅棹忠夫さんのご実家で学区内では有名なお店でした。

 

 ながながと昔語りをつづけてきましたが、言いたいことはほんの七十年前ころまではおとなであれ子どもであれ生活圏は狭い地域に限られていたということなのです。コロナの今、交通機関の利用が制限され徒歩で行ける半径1キロ米に閉じ込められて息が詰まりそうだと不平を言っている人たち、昔はこんなものだったのですよ、旅行など一生に何度もない贅沢で一生行けなくて半径1キロ米か2キロ米の範囲で生涯を終える人さえ少なくなかったのです。

 外食はせいぜい月に一回の「ごっつぉ」があればいい方でその日は「よそ行き」を着せてもらえるので「晴れがましい」気持ちで出かけるまえから気分が高揚したものです。今では健康のために「ウォーキング」する時代ですが昔は必要にせまられて歩くしかなかったのです。ずうっと昔(12世紀末から13世紀にかけてのころ)藤原定家――百人一首を選んだひと――は朝九条の東洞院をでて三条室町から御所へ、さらに一条烏丸を経て又三条室町へ戻りそこからもう一度一条烏丸へ行ってから九条の自宅へ帰っています。総行程約22km、五里余り、勿論彼は騎馬だったでしょうが御付きは徒歩ですから昔の人の「健脚」は尋常ではなかったようです(村井康彦『「明月記」の世界』より)。今でも旅行から帰ってきてタクシー待ちの行列が多ければ京都駅から桂まで歩いて帰る知人もいます。

 

 家の内を見渡してみて終戦直後にあったもので残っているのは俎板包丁と食器、本くらいでほとんどが新しく生まれたものです。ざっといえばかっての「主婦労働」を代替するものと「情報機器」です。この間収入は大体40倍以上(1人当GDPが1955年約10万円から400万円になっています)になっていますから随分豊かになったものです。便利にもなっています。なによりも女性が家事から解放されたために社会参加が促進されて男女平等が相当程度実現されました。移動の範囲も飛躍的に広がって海外旅行など夢のまた夢だったのが毎年2千万人近い人が旅行するようになっています。

 

 では、あなたは、いま、『幸せ』ですか?

 

 成長を追い求め、豊かさと便利さがすべてに優先する「生き方」を正しいと信じてきました。それでいいのか?そこをもういちど考え直してみようではないか。

 コロナは私たちにそう問いかけているのではないでしょうか。

 

 

 

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