2019年3月18日月曜日

ふたりのあいだ

 ふたりの「あいだ」はひとつ。でも三人のあいだはみっつ、そして真中にもうひとつ大きなあいだ。四人でもあいだはよっつと真中にもうひとつのあいだ。五人でも六人でも……。
 ふたりで手をつなぐ、両手でつなぐ。三人で手をつなぐ、向かい合ったら両手でつながるけれども三人いっしょに手をつなぐときは片手づつ。四人いっしょの手つなぎも片手づつ、向かいのひととはかおを見るだけ、手はジカにはつながっていない。五人でも六人でも……。
 おおぜいでも「ふたりぼっち」ならあいだはひとつ、両手手つなぎ。
 
 もしも「鏡」がなかったら。自分の顔はわからない、他人(ひと)の顔は見えるのに。自分がどんな人間なのかは鏡がなければ分からない。しかも鏡に映った顔はほんものの顔ではない、反射像の顔だ。自分の顔を自分の眼で直接見ることはできない。
 19世紀はじめドイツで今の鏡ができるまでは、鏡はかぎられた権力者の専有物だったからふつうの人たちは自分の顔は見えていなかった。ひとのことばで「自分」を知るしかなかった。手触りでおおよその輪郭を想像してひとの顔のよせ合わせの想像で自分の顔を思い浮かべるしかなかった。どうしても自分の顔を見たいときは澄んだ水面をのぞきこんで水に映った顔を見た。
 だから、李白は自分を見たいときこんな詩を書いた。「花間 一壺の酒独り酌んで相親しむ無し/杯を挙げて明月をむかえ/影に対して三人と成る……影 徒に我が身に随う/暫く月と影とを伴ないて……我歌えば 月 徘徊し/我舞えば 影 撩乱す(『漢詩を詠む―李白/NHKライブラリー』「月下独酌(石川忠久訳)」より)」〈花咲く木陰に酒壺ひとつ、ひとりぼっちの手酌で、相手がいない。そこで杯をあげて、のぼってくる月を招き、影も出てきて三人となった。…影はひたすら私の真似をするだけ。まあ、この月と影とを友として…私がうたえば、月はそれに合わせて舞い、私が踊れば、影もそれに合わせて乱れ動く〉。自分の躍動する姿を見たいときには影をみる。
 鏡のないとき自分を見るのは、他人のことばで見る、しかなかった。自分を知るのも、他人のことばで知る、しかなかった。
 
 「ことば」は自分がつくったものではない。他人(ひと)から教えられたものだ。おかあさんから口伝て(くちづて)で教えられたことばを「喃語(なんご)…アー、ウーといったあかちゃんことば」で習うことばがはじめのことば、それからおとなのことばを聞いて覚え、書かれた言葉を覚える、ひとから教わることばを習って言葉を覚えた。他人(ひと)からひとへ伝わり教わって習った、ことば。
 
 フィクションとノンフィクション。えっ!フィクションがはじめなの?「事実」が先で、それから「語りもの」「物語」じゃないの?ノンフィクションは自分が見たもの、フィクションは他人(ひと)の眼が見たもの。 
 
 「自分」は「他人(ひと)」につくられる。
 
 私らしくない文章を長々と書きつづってきたが、実は『マルコとパパ(宇野和美訳)』という絵本を読んでいたら、なんだかこんなことが書きたくなって書いてしまった。グスティ(1963年生)というアルゼンチン生まれの作家の書いた絵本で「ダウン症のあるむすこと ぼくのスケッチブック」という副題がついている。「ぼくは、けんこうな子がほしかった。ふつうな子が。でも、ふつうって、なんだろう?」こんなことばが出てくる絵本だが、障碍をもったわが子への愛情あふれる場面が本物の画家の巧みな構成で描かれた20カ国で翻訳されているこの作品はおとなにとっても読み応えがあった。愛情ある眼で観察された「ダウン症の子」の詳細なスケッチは「ふつう」ってなんだろうということを押しつけでなく考えさせてくれる。それは「マルコとパパ」がふたりで手をつないでいるから見えるのであって「あいだ」がひとつだから見えているのだと思う。見ることが「ことば」になっているからあいだが程よい。
 
 旧優生保護法下で障碍者らに不妊手術が強制的に繰り返された問題で、「おわび」と「一時金320万円」の支給を柱とした救済法案を超党派の議員立法で4月初旬に国会に提出し、月内の成立、施行を目指すという。一時金の320万円という額は1999年にスウェーデンでつくられた仕組みに準じるもので当時のスウェーデンで支給された金額を日本円に換算した300万円に若干の上積みを加えたものという。
 スウェーデンの仕組みの詳細を知らないので比較はできないが、単純に20年間のスウェーデンの物価上昇率(105.01/78.76=1.333)を反映させれば当時の300万円の現在価は約400万円になる。なによりも引っかかるのは現在係争中の各地の国家賠償請求訴訟の内容と大きく隔たっていることだ。国家の責任を明確に表記せず、訴訟で「国」となっている主体を「われわれ」とあいまいな表現を用いており、金額も最大三千万円となっているから相当な開きがある。
 法案が提出されていないのでまったく個人的な私の感覚だが「真実味」が感じられない。というよりも、とりあえず手っ取り早く収束を図ろうという「お役所仕事」然とした突き放した「冷たさ」さえ伝わってくる。大概のことで対立している野党がすんなり同意しているのも気に入らない。
 被害者との「あいだ」が開きすぎている。 
 
 私たち後期高齢者はたいてい老夫婦きりの生活になっている。人生60年をイメージした人生設計できたから「おまけ」の20年30年に戸惑っている。ふたりのあいだをどう保ったらいいのか、悩ましい。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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