2018年4月9日月曜日

道徳の教科化について

 大相撲の舞鶴巡業中に起った、市長の突然の顛倒を救護した女性への「女性は土俵から下りてください」というアナウンスへの批判が噴出し、国会での虚偽証言や文書隠蔽・書き換えにもとづく大臣の「うそ答弁」が連日報道で取り上げられている、今、小中学校での道徳教育が「教科化」される(中学校は来春から)。おとながこれほど「反道徳」な行いをやったり「古い道徳」への疑問が渦巻いている、今、どんな顔をしておとなは子どもに『道徳』を『教える』のか。政治家や文科省のトップは偉そうな顔で役人に命令すればそれで済むだろうが、現場の先生たちはどう対処すればいいのか?
 これまで道徳教育を教科として教えることは「心の中を評価することになるから、教科にはなじまない」と中教審が反対してきたが、2011年の大津市中2男子の自殺を契機として教科導入が決まったとされている。しかし「いじめ自殺」は「道徳心の欠如」によって惹き起こされたのだろうか。そして「教科としての道徳」を教えることで「いじめ自殺」は根絶できると文科省は考えているのか?
 
 問題の第一は「道徳教育」は『評価』できるのか、という点である。実際の評価は数値ではなく、教員が児童生徒の長所や成長などを記述する形をとるという。しかしどんなかたち取るにせよ、道徳は『実行』されてこそ意味をもつものだという『本質』において評価はなじまない。
 そもそも評価はどんな観点から行われるのだろうか。「A.主として自分自身に関すること(善悪の判断、自律、自由と責任/正直、誠実/節度/個性の伸長/希望と勇気、努力と強い意志/心理の探求)」、「B.主として人との関わりに関すること(親切、思いやり/感謝/礼儀/友情、信頼/相互理解、寛容)」、「C.主として集団や社会との関わりに関すること(法や決まりの理解、権利と義務/差別偏見と公正公平と正義/労働の喜びと公共への役立ち/父母等への尊敬/先生や学校の敬愛と集団生活/伝統・文化と郷土愛/国際感覚)」、「D.主として生命や自然、崇高なものとの関わりに関すること(生命自然の尊重/自然環境の保全/自分を超えたものへの感動と畏敬の念/生きることの喜びを知る)」以上22の項目が教科項目として規定されている。そこでためしに「希望と勇気」「友情、信頼」についてどのように「成長」の過程を評価するかを考えてみた。ほとんど不可能だし無意味な作業に思えた。
 列挙されている多様な項目のうちには国語や社会など他の教科で学ぶことと重複しているものが少なくないがそれらの調整はどうするのだろうか。現場の裁量に委ねられるのだろうが先生たちにそんな余裕があるとは思えない。 
 
 そもそも道徳とは、上の22の教科項目に見るように、現在の社会を肯定しその社会構造を保持するための「機能」を主眼としており、『批判』や『改革』とは『対極』にある。
 一方、激変の時代と認識してグローバル化やイノベーションに対応していく人材として今求められているのは、多様なものの見方による新しい思考、コミュニケーション力と想像力の国際化、人と活発に交わり情熱と好奇心によってキャリアを積み上げる力であり、「新たな価値を生み出すイノベーション人材」としての、社会的課題や取り組むべき価値ある問題を見つけて解決への道筋を示し、それを他者とともに実行するリーダーシップ、先端技術の利用価値を判断できる人、とされている(2018.4.3京都新聞「現論」田中優子・法大総長より)。
 こうした『能力』『人材』と「道徳教育」とは多くの部分で矛盾している。「道徳」は現実主義者を生み出す倫理体系であり、今求めれているのは、現実を大きく変化させようとしているグローバルな力に現実をどのように即応させていくかという「能力」である。現実主義者は何か「理念」にもとづいているのではなく、事実の価値以外に判断となる「基準」をもっていないし、現実を受け入れ理解すること以外に善なるものは存在しないと考える。
 
 最近の世界動向に目を転ずれば、突然の南北朝鮮の宥和と米朝会談の現実化、アメリカの偏向的な国内産業保護、中ロ指導者の独裁権力強化など、3ヶ月前には予想することは困難だったことが起っている。しかし朝鮮民族の立場に立てば、朝鮮戦争休戦協定の平和条約化すら南北朝鮮の主体的取り組みが見通せない(休戦協定の直接の当事者でない)現状は、民族自決の精神からしても我慢のならない屈辱的な状況であることは明らかで、米・中・ロの三大強国の桎梏から解放され独立国として世界に認められ、朝鮮民族の統一を願うのは当然の心情である。例えてみれば、関が原を境に東西日本が「内戦」していたところへ、アメリカと中国が割り込んできて、東西に分断されて65年も過ぎてしまったとしたら、東西に分かれた同胞と、年老いていく親兄弟と何とか生きているうちに再会したい、一緒に暮らしたいと願うのは至極当然の「民族感情」であることが分かるであろう。
 ところが現実主義者は、たとえ種々の変化があってもそれが「現状変更」の「動力」と認識することはできず、「現状不変」の固定観念から逃れることができない。現実主義者が犯した過ちの数々は歴史上枚挙に暇がない。
 
 「現状維持」という『閉塞感』に満ちた国情は、ここ数年の論文や特許出願数の世界比較に見る我国の凋落傾向や電気産業や半導体産業の衰退、そしてIT産業のアメリカ独占など目を覆うばかりの国力の低下に明らかであり、また「幸福度の世界比較(国連SDSN2016年版)」においてわが国は、アメリカは勿論のことシンガポール、タイ、台湾、マレーシアよりも下位の51155カ国地域中/2013年43位2015年46位)に留まっている(韓国は56位、中国は79位だった)。しかも幸福と感じている人の割合が40%に満たないことも心配である。
 
 明治維新以来の「近代化」は戦後の「高度経済成長」で頂点を極めたが、バブル崩壊後のデフレを伴う長期低迷の今は、「近代化」に変わる新しい『社会理念』の発見、創造が求められている。この時期に「現状肯定」を主眼とする『道徳教育』で若い人たちの「伸びる芽」を押さえよう、縛りつけようとする「教育転換」はどう考えても「時代錯誤」に映るのだが、あなたはいかがお考えだろうか。
 
 
 
 

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