2022年5月23日月曜日

今度生まれたら

  毎朝仏壇に手を合わせ「昨日も生かしていただきありがとうございました。息災に暮らすことができました」とご先祖にお礼を述べるだけになったのは70才ころからです。そのころテレビで「仏さまや神様にお願いをするものではありません。生かしていただいていることに感謝するのです。生きていることが尊いのです」とどこかのお坊さんが言っているのを聞いて妙にひびいたのです、ストンときたのです。

 30年ほど前、きんさんぎんさんが評判になりました。100才をすぎても元気で仲良く暮らす老姉妹を「理想の老後像」ともてはやしていました。しかし当時はどこかで「ただ長生きすることにどれほどの価値があるのか」と批判する気持ちがあったのも事実です。ところが70才を超えて身体のあちこちに衰えを感じることが多くなってくると、つつがなく長寿をまっとうしている老人に尊敬の念をいだくようになったのです。「生きる」ことは技術だ、とさえ思うようになりました。毎日食事をおいしくいただきキチンと排泄することがいかに困難であり、ありがたいことかを思い知ったのです。

 

 今月からNHK―BSPのプレミアムドラマ(日曜日午後10時~)で「しずかちゃんとパパ」のあと「今度生まれたら」がはじまりました(「しずかちゃんとパパ」は最近のドラマで最高に気持ちのいいドラマでした)。自分を犠牲にして専業主婦として生きてきた70才の女性が人生に疑問を抱きもがくドラマです。「70才になって、だれからもどこからも必要とされず余生を読書や趣味に費やす毎日をあなたは我慢できますか」と講演会で同年代の講師の女性弁護士にぶつけるシーンがありました。彼女には大学にいって造園業にすすむ道があったのですがそれを断念したことを後悔しています、70才になって何もない自分に不満を抱いています。こんな彼女に共感する人は多いかもしれません。

 

 60才をすぎて何年かたって暇ができたので、「老年期の読書」に取り組もうと決心しました。ただの「読書」でなくわざわざ「老年期の読書」としたのは「漱石の『草枕』がちゃんと読めるようになる」という目標があったからです。もうひとつ「展覧会や博物館で『書』が読めるようになりたい」という希望もあったのです。

 『草枕』は漱石の中で一番好きな作品でしたが「漢詩」がたびたび出てきてそれが読めなくて、当然のことながら理解できないで読みとばしてきました。それを克服したい。高齢になって展覧会を見る機会が多くなって、読めないくせに「書」が好きで、部分的にでもいいから何とか読めるようになりたい。このふたつの目的を達成するために、古文と漢詩に挑戦する、これが「老年期の読書」をはじめるにあたっての「課題」としました。タイミングが良かったのは当時NHK教育の早朝(6時)に「漢詩をよむ」という番組があって講師の石川忠久氏の解説とバックに流れる中国の景色の美しい映像が気に入って熱心に視聴できたことで漢詩は抵抗なく取り組むことができました。古文はなぜか西行の『西行物語』や『山家集』から入りました。万葉集、古今集、新古今集もざーっとですが目を通し、古事記、方丈記、土佐日記、和泉式部日記にも挑戦しました。大岡信や丸谷才一の研究書を読んで理解を深めました。およそ三四年は「修行」しました。勿論小説も乱読しましたが。

 この期間を通じて得たのは読解力だけでなく読書集中力の向上でした。長時間読書をつづけられなかった欠点を補うことができ長編を読めるようになったのはその後の読書生活に極めて強力な成果をもたらしてくれました。

 現在の毎日のスケジュールは午前中3~4時間の読書、昼2~3時間テレビ(録画したドラマとドキュメント)、1~2時間の書き物。朝はYouTubeをコンポにとばしてクラシックかジャズを聞きながら読書することも最近の楽しみですがそれは娘が嫁に行って空いた部屋を書斎にしたおかげです。むかし画廊周りで手に入れておいた素人画家の油絵を何枚か壁に飾ったことも読書を促進してくれているかもしれません。75才まで10年間テニスの打ち込んで身体を鍛えた名残りで今も毎朝1時間近くトレーニングする習慣がついて体力維持できていることはありがたいことで、食事がおいしくいただけているのは虫歯一本ない歯の健康のおかげです。

 20年近い読書生活を経て(1)意識・ことば・文字(2)権力の正当化としての天皇制のふたつの系列に好奇心が収斂してきました。古文は今、窪田空穂の評釈を手がかりに古今集と新古今集を読み込んでいます。万葉集は言葉が難解で感覚も隔たり過ぎて敬して遠ざけました。小説は女性作家のものに時代性が富んでいて多く読むようになっています。

 

 わたしにとって読書は「ヒマつぶし」ではありません、生活の中心です。「今度生まれたら」の主人公の女性は読書や趣味を「ヒマつぶし」にとらえています。それでは生活を充実させることはできなくて当然です。彼女は社会的に求められること、自分の能力が「生産社会」で生かされることで生きている充実感を得ようとしていますが、だれであれいずれはそんな環境が消滅する日が来るものです。百年時代の今、「以後の生活」が75才から始まるか80才85才であろうと25年~15年は彼女のいう「虚しい」生活を送ることになります。その時彼女はどうするのでしょうか。

 

 生きていること、生かされていることに「意味」を見いださない限り人生の最晩年は「ヒマつぶし」になってしまいます。「生かされている」ということは自分を第三者の視点でとらえていることにもつながります。自分の能力で生きているだけでなくおおきな存在の力を借りて生きていることを認めることにもなります。

 

 ドラマの彼女はどんな解決を見いだすでしょうか。全7話、あと5話の展開が楽しみです。

 

0 件のコメント:

コメントを投稿