2017年10月30日月曜日

企業の論理を政治と学校に持ち込むな!

 哲学者ハンナ・アレントは著書『人間の条件』のなかで、政治の条件は複数性であると述べている。「複数性とは、人間が必ず複数人いるということである。人間が複数人いるということは、そこに必ず不一致があるということだ。したがって政治とは、そうした不一致がもたらす複数性のなかで、人々が一致を探り、一致を達成し、コミュニティを動かしていく活動に他ならない」。
 「一致を探る」基準として我国の政党は(1)憲法9条(「戦争の放棄」「戦力の不保持」「交戦権の否認」)を変更するか護持するか(2)私権の制限を最少に保つか、大きな政府を志向するか(3)原発推進かゼロか、などで大きく色分けされている。識者でも時々誤っているのは、自民党は右も左も幅広く包含している政党であるとあいまいに捉えている人がいるが(1)に関しては「改憲」で全党員一致している。ところが民進党は護憲派と改憲派が混在した方向性の一致していない不明瞭な政党だった。それが災いして政権奪取を果したにもかかわらず散々の態をさらして党勢衰亡の一途を辿ったのである。
 今回の衆議院総選挙で希望の党の小池代表が「踏み絵」を提示して『排除』の論理を持ち出したのは、民進党の轍を踏まないために「護憲派」を受け容れず「改憲」で『純化』を図ろうとしたに過ぎない。ただ、『言葉』の選択を誤った。なぜそんな過ちを犯してしまったのか?
 
 株の格言に「もうはまだ也、まだはもう也」というのがある。その意味するところは、もう底だろうと思えるようなときは、まだ下値があるのではないかと一応考えてみなさい。反対に、まだがるのではないかと思うときは、もうこのへんが天井かもしれないと戦術転換する警戒心が望まれる、というのである。
 小池新党(「都民ファーストの会」)は先の東京都議会議員選挙で「前代未聞!空前絶後!」の『大勝利』を果した。本当の勝負師なら「これほどの大勝ちはめったにあるものではない。ソロソロ甲の緒を締めねば」と自戒するのが常道だが小池氏は「図に乗って」しまった。自らを「大権力者」でもあるかのように「驕り高ぶった」。並居る議員を「睥睨」し党発足メンバーである若狭氏や細野氏を子ども扱いして「リセットします」とシャシャリ出た。あのときの、体面を踏みにじられ憮然とした両者の顔つきを見た多くの庶民は、完全に小池氏に背を向けたに違いない。弱者であったはずが『強者』に変貌してしまった彼女に安倍首相が二重映しになっていた。
 『風』は止む、『逆風』が吹く。地方組織は無い、党是も無く党則もにわかづくりの「ハリボテ政党」から「カリスマ党首」が消えてしまえば結果は明らかだ。「無節操」議員たちの『醜悪さ』がみじめだった。
 
 小選挙区制になって、二大政党で政権選択を競う政治環境がつくりだされて政党が主になり、政治家個人が埋没してしまいがちな政治状況だが、それでも政治は市民に負託された「政治家」ひとりひとりと彼らの『政治信条』が集約した『政党』が緊張関係を保って運営されるのが本道だろう。ところが実際は小選挙区比例代表制と政党交付金制度が相乗効果となって「政党の優位性」を不動のものにしている。「政治の論理」よりも「選挙に勝つこと」が至上命題になってしまった結果、「一致を探る基準」ではなく選挙という市場で勝つ―「市場競争の論理」が幅を利かすようになっている。この勘違いを疑問視することなく受け入れる風潮が一般化して、「都民ファーストの会」の幹事長(代理?)が議員に送られてくるマスコミなどのアンケート対策として、すべて党本部経由で回答するように規制したことを批判されて「企業なら当然のことでなぜ批判を受けるのか理解に苦しむ」というに至っている。彼は政党と企業が根本的に異なっていることを理解していないのだが、小池代表ですら「結党者」というべきところを『創業者』というのだから何をか言わんや、である。昨今この類の人物が政党を牛耳っているところに『政治の劣化』が見て取れる。
 
 企業は「最少のコストで最大の成果」を上げ、市場競争に勝って利潤を最大化する組織と見ることができる。「調整」よりも「統制」が効果的な組織でもある。企業以外にもこうした論理が有効な組織やコミュニティは少なくないかも知れない。しかし、政治と教育は企業の論理を持ち込んではいけない最たる分野である。政治は「一致を探る」組織であり、教育は「自治」を最も基本とするコミュニティだからだ。行政や病院も企業の論理以外に重要視すべき価値と論理があるように思う。
 
 市場型資本主義が優勢な現在、あらゆる分野で資本の論理や企業の論理が幅を利かす風潮が強いが、価値が多様性した現代社会はそれほど単純ではない。

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