2017年10月2日月曜日

 横入り

 「日文研30周年記念公開講座」を26日(火曜日)聴講してきた。西京区の桂坂にあるこの施設(国際日本文化研究センター)ははじめてで、阪急桂駅東口から送迎バスに乗って約20分、国道9号線を亀岡方面へ行く急坂を沓掛から更に桂坂街区を上った桂坂小学校の隣に日文研はある。20年ほど前知人が桂坂に新築したお祝いに伺って以来だから周辺の様子はほとんど覚えていないが老人にはキツイ街だと思った。京都市内の雑踏と懸け離れた瀟洒なたたずまいに憧れさえ抱いた20年前には考えもしなかった、買い物はどうするんだろう、車椅子では動き難いだろうなどと老人めいた町への好みの変化に20年という歳月の移ろいを感じずには居られなかった。
 講演は第1部が大塚英志教授の「柳田国男と日本国憲法」、第2部が今人気の呉座勇一助教の「内藤湖南、応仁の乱を論じる」だった。大塚教授は柳田国男の民俗学者としての二面性――巷間広く認められている妖怪や地域の民衆の歴史を掘り起こしたロマン主義民俗学を奉じる学者としての柳田と枢密院顧問官として「日本国憲法」の成立に深く関与した「公民の民俗学」者という一般にはほとんど知られていない側面を併せ持った存在であることを易しく説き起こしてくれた。私自身まったく知らなかった柳田の一面だったので新鮮かつ興味をもって講演に聞き入った。民俗学が妖怪学などと曲解されている現在、柳田の意図した民俗学の多面性と深みに回帰すべきと諭された想いだった。
 呉座勇一助教はベストセラーの岩波文庫「応仁の乱」の著者として今が旬の人気の若手だが、内藤湖南という明治大正期の著名な中国史学者が応仁の乱を如何なる視点で眺めていたかという意表をついたテーマを語った。辛亥革命を中国再生の起爆剤と期待した内藤が、その後革命が反動に転じむしろ歴史を後退させるような展開を見せるに至って、中国は一旦全破壊して根本から建造し直さなければ生きる途はないと認識、それを我国の「応仁の乱」に範をとって講演した、その内藤を批判しつつしかし歴史学者が時代性に制約と拘束を受けることを認めることで内藤の誤りを日中の歴史における大正末期にあった歴史学者の限界として評価する。「応仁の乱」という史実がこれまでどのように評価されてきたかを検証しながらまったく新たな視点で見つめ直した若い学者がそのひとつの例証として内藤湖南を取り上げて実証したユニークな講演であった。
 
 ハイレベルな講演を市民講座として無料で一般公開(受講者はほとんどが七十才前後の老人だった)してくれた「日文研」に感謝の念を抱かずには居られなかったのだがその終幕に信じられない事態が起った。司会をした坪井秀人副所長の総括と閉会の挨拶が始まるや否や、最前列に座っていた数人の聴衆がサッと立ち上がると退席してしまったのだ。それを見て後列の何人かも会場を後にして場がざわつき坪井教授の挨拶が一時聞き取れにくくなった。なんという『失礼』な振る舞いか。
 閉会して帰りの送迎バスの待合場所へ行くとなんともう百人以上がひしめいている。すぐ前の女性の云うには、後半の呉座さんの講演の途中からゾクゾクとバス待ちの列ができたらしい。さすがに堪りかねた係りの人が「失礼ですから戻ってください」と制止したが応じなかったという。バス5台、せいぜい20~30分の待ち時間である、別に急ぐ用とて無い「閑な老人」たちである、どうして「無礼」を犯してまで帰りのバスにいち早く乗りたいのか。今日の講座の内容と日文研という施設からして参加者のレベルは相当インテリ層のはずである。それがこの体たらくだ。年寄りの道徳観――講演会を実施してくれた日文研と講演者に対する『礼儀』を失することにたいする「申し訳なさ」「無礼な振る舞い」に対する罪悪感、インテリらしい彼等彼女らにはそれがない。
 そう云えば最近こんなことがあった。太秦天神川を起点にバスや地下鉄を利用しているが70系統のバスは天神川が始発で一時間に二本の運行なのでバス待ちの行列が長くなることも珍しくない。先日のこと、15分前に並んだ私は前から三番目だった。発車定刻直前に行列のはずれ、私と前の待ち人の丁度横にひとりのご婦人がツト並んだ。人品骨柄卑しからぬ、着る物もそれなりに上質なものを身に付け教養もあり気な澄ましたタイプである。バスが来た。ドアが開いて順番に行列がバスに乗り込むとやおら件のご婦人が私の前に「横入り」したのだ。唖然とした。およそ十五、六人が整然と順番待ちをしているその列を『平然』と乱して恥じることの無い『インテリ風セレブ気取り』のご婦人が『横入り』する。多分地域の行事やボランティアの集いでは「奥様」と呼ばれているであろう彼女が「自分を知らない群集」のなかでは厚顔無恥の振舞いを平然と犯すのだ。
 一方はインテリ風の「じいさんたち」、片方は「一見セルブ風の老女」。彼ら彼女らが、些細だが厚顔無恥の振舞いを平然と犯す。自分が、誰と特定されない、匿名の場所では、平然と倫理に違反して恥じるところがない。これはインターネットの『匿名性』の蔭で頬かむりして「独断と偏見」を、「罵詈雑言」を浴びせる輩となんら変わるところがない。
 
 トランプのアメリカ、マリーヌ・ル・ペンのフランスと西洋の先進諸国は右傾化が顕著である。我国も小池新党が10月の総選挙で躍進すれば自民党が少々議席を減らしたとしても自民・公明、維新、小池新党の「改憲勢力」が三分の二以上の議席を獲得するのは明らかだ。改憲勢力は「保守勢力」であり、誤解を恐れずに極言すれば、保守とは「私権の制限を最小限度に止めようとする考え方」である。私権の最大は、これも誤解を恐れず極言すれば、「既得権」であり老人は厚い既得権に守られた存在である。右傾化がこのまま進めばますます老人が「社会の主役」にしゃしゃり出る。
 そうでなくても老人と若者、壮年者層、障碍者との格差は拡大している。彼らの尽力、力添えによって老人社会は保たれている。この事実を理解して老人は「謙虚」に、「倫理的」に振舞わなければ日本は円滑に機能しなくなるに違いない。
 
 最近遭遇したふたつのささやかな「老人の暴挙」からこんな感懐を抱いた。
 「老人よ驕る勿れ!」。そう強く思う。
 
 

0 件のコメント:

コメントを投稿