2017年9月25日月曜日

「トイザらス」の遺したもの

 「トイザらス」が京都に初めてできたのはもう30年くらい前になるだろうか、国道171号線の向日市に入ってスグの国道沿いにあった。それまでの「おもちゃ屋さん」のイメージとまったく異なった大型のコンクリートづくりで何十台も収容できる駐車場を備えたその「威容」に圧倒された。それまでの京都のおもちゃ屋さんといえば新京極の蛸薬師にあったお店(「野沢屋さん」と覚えているが確かではない)が一番大きかった、それ以外では百貨店のおもちゃ売り場が大きなお店で、商店街にあるまちの小さなおもちゃ屋さんが普通だった。それだけに「トイザらス」のインパクトは強烈だった。
 そういうイメージに引きずられたセイもあったのだろうか「トイザらス」のおもちゃに『違和感』をもった。ほとんどのものはそれまであった、なんども目にしているはずのおもちゃだったと思うのだが、数量の多さと陳列に圧倒されたのかも知れない。それまでのおもちゃ屋さんは云ってみれば「駄菓子屋」さんに毛の生えた、といえば失礼かも知れないが『子どもが主役』の場所だった。子どもひとりで、友だち同士で、おとなに連れられてワクワクしながらアッチ見コッチ見する場所だった。狭い店内に雑然とうず高く積み上げられた中からお目当てのおもちゃを探し出す『探検』的な「よろこび」もあった。
 「トイザらス」には整然と『商品』が陳列され、それもほとんどが「ケース入り」のキレイなおもちゃで、大型の――それまで自転車屋さんにあった三輪車やベビーカーも「おもちゃ屋さん」なのにある。子どもひとりで来るところではない、子ども同士でお年玉の貯金を持ってお目当てを買いにくるおもちゃ屋さんではない、お父さんにクルマに乗せてもらって家族みんなで来るところ。「トイザらス」はそんなところだった。どちらかと云えばおとなが主役で子どもは「買ってもらうひと」、それが「トイザらス」だった。
 「トイザらス」型おもちゃのイメージの延長線上に「ゲーム機」があるように思う。そして今、アメリカの「トイザらス」が破産するという。「トイザらス」型おもちゃの進化系――プレステやスマホゲームに「トイザらス」が駆逐されたのか?一方で花火やおまけ型おもちゃ、リカちゃん人形のような日本のおもちゃを主力にしている千本三条のおもちゃ屋さんは今も健在である。「日本のおもちゃ屋さんがアメリカの巨大資本に勝った!」といえば大げさだろうか。
 
 一言で「おもちゃ」というが『遊びの道具』として「おもちゃ」を考えると「『遊び』とは何か」ということを考えなければならなくなってくる。
 学校へ行く前の子どもの生活はほとんどが「遊び」で占められている。学校生活を終えて社会人になってからの約五十年間(二十才から七十才まで)は仕事(生産活動)の期間と言っていい。リタイアした後の数年間――「人生百年」とすれば約三十年はまた「遊び」の時代となる。こう考えてくると「遊び」は「仕事」の反対概念のように思われるがネットで検索してみると「本気・真剣」が対義語としてでてくる。さらに『真面目』も類語として上げられている。ということは「遊び」は「不真面目」ということになる。本当にそうだろうか。
 今日の我々の生活では、遊びとは非日常的な圏内で、固有の秩序と法則に従って行われる特殊な行動と感じられ、日常生活とは次元を異にするものと意識されているのが通例だが、人間生活の根源的状況にあっては、遊びが生活を規定していたのである。いや、ときには生活自体が遊びだったのである。
 これはオランダの歴史家J.ホイジンガの『ホモ・ルーデンス(中公文庫)』からの引用だが、彼は、「『人間は遊ぶ存在である』――ホモ・ルーデンスHomo Ludens(遊ぶ人)という以外ではありえなかった」とさえ言っている。遊びが人間存在の本質だと言う訳である。さらに、「原初的な人間の生活と行動――言語、宗教、生産の技術、求愛、各種の儀礼、芸術――の発生における状態のなかには、遊びとしか名づけようのないものがあり、この遊びという質が文化の発展、共同体の組織にも大きな役割を演じている」とも言っている。
 
 「遊び」が不真面目なものであり「有用」なものでない、という考えを持ったのは日本では明治維新以後のことであろう。徳川時代までは早く隠居して好きなこと――若いうちは色事、壮年時代は習い事、晩年は造作(家造り庭作り)が「道楽」の本道というほど「遊び」が人生の大事と認識されていた。これは世界共通なようで西洋でも中国、インドでも「遊び」は仕事と同等に、いやそれ以上に評価されていた。ということは日本の歴史において僅か150年間異常な時代が続いたが、今「高齢社会」を迎えてようやく本来の「人間的生活」を営めるようになったと言えるのではないか。「高齢社会」を負の面から考える志向が強いが、人間の歴史を振り返ってみればこれでやっと「正常」に戻ったことになる。
                                    
『人間は遊ぶ存在である』――ホモ・ルーデンスHomo Ludens(遊ぶ人)という以外ではありえなかった!    

0 件のコメント:

コメントを投稿