2017年9月4日月曜日

私説「安倍晋三」

 瀬木比呂志の『黒い巨塔』にこんな一節がある。「黒塚首相は、ああいう方で、正直、目から鼻へ抜けるような人ではないし、学歴などはいささか貧しいこともあって、行政官僚も、裁判官も、ひどく嫌っているのですよ。ことに、須田長官のような東京帝大、高等文官試験トップ組の方々に対しては、何と申しましょうか、インフェリオリティ・コンプレックスや嫉妬の入り交じった、すさまじい憎しみをあらわにされることもありましてな。/いうまでもありませんが、表の顔や一見しての能力だけで彼を判断なさいませんよう。権謀術数やメディア、情報操作には非常に長けた、なかなか恐ろしい人物ですよ、あの人は」。作者の瀬木比呂志は東大法学部出身で裁判官になり最高裁判所の調査官(判事)まで務めた人で2012年に退官してからは専門の民事関係の著作や講演活動を精力的に行っている。『黒い巨塔』はそんな彼が裁判所の内幕を描いた本格的権力小説だが中枢にいたものだけが知る我国の権力構造を深く抉った快作である。引用にある『黒塚首相』は間違いなく安倍晋三首相を指しているであろうことは想像に難くない。
 
 私がこの一節に興味を持ったのは、安倍という人に以前から抱いていた彼の深部にある屈折した精神構造を見事に表出しているからだ。安倍晋三は衆議院議員で通産大臣、外務大臣などの要職を歴任した安倍晋太郎の次男として生を受けた。祖父は衆議院議員・安倍寛で母方の祖父は岸信介、大叔父は佐藤栄作であり父晋太郎は勿論のこと岸信介、佐藤栄作ともに東大法学部卒である。そんな彼が成蹊中・高校を経て成蹊大学法学部卒であることに奇異な感を持った。成蹊大学の良し悪しをいっているのではない、政治一家でゆくゆくは彼もその道を進むであろう将来が予見されるのであれば、東大が最適であろうし少なくとも京大か早大、慶大、日大あたりを学歴とするのが当然の道である。略歴には元警察官僚で衆議院議員である平沢勝栄(東大法学部卒)が家庭教師であったとあるからそれなりの受験勉強をしていたことをうかがわせる。我々下つものは僻んでいうのだが、東大や京大へ行く連中は結局両親や家系がそういう家系でそれなりの家庭教師がついているから当たり前ではないか、と。安倍晋三の場合、家系は家系だし家庭教師も申し分ない、それでも成蹊で終わっている……?
 こうしたことから連想されるのは、彼、安倍晋三は幼少期から激しい劣等感に苛まれたであろうということであり(上の引用で単なるコンプレックスと書かないでインフェリオリティ・コンプレックスと表現するところにエリート官僚の黒塚首相を見下したいやらしさが絶妙にでている)、秀才であり能吏であった父や祖父、大叔父に対する絶望的な羨望があったことである。
 そんな彼が紆余曲折はあったにせよ日本国の最高権力者に上り詰め、父も祖父も大叔父も達成できなかった『安倍一強保守政権』を実現したのだ。有頂天になるのは当然であろう。
 
 「内閣人事局」は安倍晋三政治のひとつの到達点である。引用にあるように「東京帝大、高等文官試験トップ組の方々に対しては、(略)すさまじい憎しみをあらわにされることもありましてな」という彼の深層に潜む「残忍な劣等感」を解消させるためにどうしても実現したかった組織である。行政府の人事が事務方トップの手にあるうちは政治家は官僚の傀儡になりかねず首相の権力をあまねく及ぼすことは不可能である。安倍晋三はこの仕組みをどうしても「破壊」したかった。政治主導と縦割り行政の弊害除去、という大義名分の下に「安倍一強」は高級官僚の人事権を官邸(首相)の膝下に置いた。案の定、官僚は官邸に靡き最高権力者を『忖度』するようになった、政治の裏表に精通した小泉元首相や同じく福田康夫は厳しくこの制度を批判しているのも当然である。しかし、皮肉なことに安倍晋三の宿願であったこの制度が彼の「一強体制」の足元をすくうことになるかもしれない。森友問題であり加計学園問題がそうならないという可能性は今や限りなく低くなっているように思われるからである。
 
 安倍晋三もうひとつの悲願は祖父・岸信介と大叔父・佐藤栄作がやりたくてもできなかった「戦後レジームからの脱却」――「憲法改正」と「自衛隊の合憲化」がそれである。自主憲法の制定は自民党綱領に定めてある保守政権の悲願であり自衛隊の合憲化と集団的自衛権の行使容認は祖父岸信介が進退を賭けて締結した日米安保条約を名実とも完成型に導くための必須の道程である。安倍首相はここ数年、粛々とこの道すじを実現してきた。憲法九条と非核三原則を国是として来た戦後日本の「国の仕組み」が「安保法制」と「秘密保護法」の制定、武器・技術輸出のなし崩し的緩和推進、とまさしく「戦後レジーム」は解体されてきた。そして「安倍一強」体制を恃みに「憲法改正」を一気呵成に「政治日程」にのせようと2018年10月と具体的な日程まで側近に漏らすまでに到っている。
 
 驕る者久しからず――この手垢のついた常套句が今年7月の「東京都議選自民党歴史的敗北」によって蘇った。「安倍一強」体制がガラガラと音を立てて崩れだしたことをここ数ヶ月の報道が明らかにしている。予断は許さないが自民党総裁選の流動化や衆議院総選挙の早期化も可能性を否定できなくなってきた。
 
 一篇の小説の260字足らずのセンテンスが「安倍晋三」という我国戦後政治史上稀有なキャラクターのイメージを彷彿させた。それは個人のささやかな「直感」が作家の深い洞察に導かれた表象の「表現」に触発されて「かたち」になったものである。私説であり個人的想像の域を出るものではない。しかしそれが奇しくも瀬木比呂志という我国の権力構造を熟知した作家が表現したキャラクターに酷似しているところが妙である。
 
 
 

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