2017年9月18日月曜日

納得と覚悟

 昨年八月と九月に大学時代の友人と会社勤めの時の友人をつづけて亡くした。ふたりとも親しい存在だったのでキツかった、辛かった。しかし自分の死との関係においての切迫感や切実感にはまだ若干の余裕があった。もしこれが小学校や中学校時代の友人であったらもっとリアルに死を予感したにちがいない、自我の確立する以前の皮膚感覚的な密着感がその時代の友人にはあると思うから。両親はどちらも(私のほうも妻方も)他界しているが兄弟姉妹はひとりも亡くなっておらず小中学時代の親しい友人も健在である。癌や肝硬変やらと病持ちは多いが会いたいと思えばいつでも会える程度に健康である。後期高齢者の年齢に達して死が決して遠いものではなくなっているはずなのに切実に迫ってこないのは困ったものである。
 
 理由のひとつは夫婦ともいたって健康でいるからだろう。勿論軽い高血圧であったり膝の具合が思わしくなかったりしているが、二ヶ月に一度の薬の処方や週一二回のマッサージで徐々に快方に向っているからこの程度では病気のうちに入らない。家族関係も経済的にもそんなに問題を抱えていないし月に何回か夫婦で出掛けたりしている、ふたりとも友人に恵まれているから時折ゆききして旧交を温めている、贅沢はできないがまあまあの毎日だ。先日友人のひとりが「この齢になったら金がどんなにあるよりも健康でいることがいちばんだ」と言っていたがそんなものなのかもしれない。
 
 今年の春から始まった倉本聡の『やすらぎの郷』が好評のうちに九月末大団円を迎えるらしいが、彼の「死についての結論」は『納得と覚悟』であることが明らかになってきた。往年の名女優、姫こと九条摂子(八千草薫)がガンで亡くなるのだが彼女の死の直前の振る舞いが、死を受け容れ、悲恋に終わった愛や、女優としての栄華もすべて「断捨離」して、潔く死におもむく静謐なすがたに作者は『納得と覚悟』を見たのだろう。
 このドラマは倉本聡が同世代の高齢者に「老いかたと終えかた」を問うもので、テレビ界の陰の実力者が自費で設置した「リゾート型高級老人ホーム」を舞台にテレビ時代を牽引した功労者たちの演じる悲喜こもごもを描いている。達者なストーリー展開が視聴者を飽きさせず昼の12時30分からという時間帯にもかかわらず結構な視聴率を取ってきた。
 『納得と覚悟』の対極にあるのが「ポックリといきたい」になるのだろうか。来し方を省せず納得もせず死に向き合い覚悟を決めることも避けて、何の前触れもなくある日突然死んでいる、そんな死に方が「ポックリ死」だ。しかし現実はそんな旨い具合に行くはずもない、昨日まで普通にできていたことが少しずつ不手際になり、あっちが痛いこっちが苦しいが積み重なって気がつけば三つもよっつも病もちになり食欲がわかず睡眠がとりにくくなる。半病人いや反健康人になって少しづつ老いさらばえていく。超高齢社会の標準的な「老人」はこんなものだろう。勿論ガンを患ってたまたま運良く手術に成功して余命を重ねていくような生き方も少なくない。
 人生五十年の時代があっと言う間に「人生百年」になってしまって…。人生五十年ならアクセク働いているうちに納得も覚悟もなく死んでいた。寿命が延びたセイで難題を突きつけられてしまった。もちろんこんな時代はこれまでなかったから、手本にすべき知見も哲学もない。自分自分で「自分流」を考えるしかない。倉本聡はそれを『納得と覚悟』とみた、あなたならどうする?倉本聡はそう問いかけている。
 世の中が進歩して、と日常的に口にする。しかし何が、どう、進歩したのだろう。医学や科学の進歩は著しい。便利になったし寿命も延びた。高度成長の時代があって国全体の経済のレベルが飛躍的にアップして食うにも困るような貧しさが無くなって、そういう意味では平等になった。しかし人びとは『幸福』になったのだろうか。「西欧では近代に至ってcivilisation(文明)が進歩したというが、それは単に経済活動が活発になり、人々の欲望を誘う奢侈品が世にあふれ、堕落へと導いているだけではないか。外見上豊かな都市生活のなかで、人々は虚栄心に駆られ、他人の目ばかりを気にするようになり、かってあった個々人の旺盛な独立心を失っているのではないか(苅部直著『維新革命への道』より)」。これは十八世紀フランスの哲学者ジャン・ジャック・ルソーの言葉だが、確かに『進歩』した分野が偏っている。生き方や死に対する姿勢などはむしろ幼稚になったというか深みがなくなったように思う。
 
 そこで『納得と覚悟』だがこんな考えはどうだろうか。
 テレビや新聞の報道で今の若い人たちの生活が相当苦しいということを知った。そんな彼らにわれわれ高齢者はご厄介になっている。結構な額の年金を受給しちょっとしたことでも病院へいって「一割負担」で診てもらって「健康維持」に努めている。みんな若い人たちの力添えのお蔭である。その年金をわずか一日でパチンコに遣ってしまう、病院で不要なほど多量の薬を処方してもらって半分以上捨ててしまう、それどころか「横流し」して小遣い稼ぎする不逞の輩さえいるらしい。
 若い人たちの力尽しを無駄にすることは「年寄りの礼儀」として厳に慎むべきだろう…、「納得」のひとつのかたちだ。裕福な高齢者は「福祉制度の恩恵」を遠慮すべきではなかろうか…、これも「納得」の一つだと思う。千万円以上の高価な抗がん剤の適用を受けて「五年の延命」を図るに自分の「生命」が価値するかどうか、『納得と覚悟』が必要な最先端である。免疫性の抗がん剤の出現は高齢者の死生観をまったく異次元に導くことだろう。ますます『納得と覚悟』が問われることになってくる。
 
 文豪・幸田露伴は『じゃ、おれはもう死んじゃうよ』と云って死に臨んだという。なんとも羨ましい境地ではないか。
 
 
 
 

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