2018年2月19日月曜日

アルマーニ騒動の意味する危機

 銀座にある泰明小学校がこの4月から一式9万円もする標準服を採用するということで物議をかもしている。和田利次校長は「銀座にある学校らしさも生まれるのではないかと考えた」と弁解しているが、標準服の発注過程が不明朗だという疑惑や、ビジュアルアイデンティティーとか服育という意味不明の教育論を持ち出して不手際を正当化しようとする姿勢が教育者としていかがなものか、という感は否めない。ただ一言校長の気持ちを忖度すれば、根っからの東京人の銀座に対する思い入れは他地方の人間には理解の及ばないほどの強いものがある。たとえていえば、京都人が旧市内(上、中、下京と左京、東山)とそれ以外を区別するような、いやそれ以上の愛着と誇りを持っているのだ。まあ、それはそれとしてこの校長が教育というものを勘違いしているのはまちがいない。
 
 この記事を読んで詩人・田村隆一のエッセー《一九二三年》を思い出した。
 一九三五年(昭和十年)、ぼくは東京府立第三商業学校へ入った。(略)校長の吉沢徹という先生がとにかく変わっていたのだ。(略)商業学校だったので、生徒は下町の商家の子弟が大部分であったが、それだけに有能な実業人を育てるというのが、吉沢システムの大きな眼目だった。学習はむろんのこと、マナー、躾教育に至っては徹底していた。語学は英語と中国語と漢文に重点をおき、英語にいたっては、高商程度の実力をつけてみせると吉沢校長は豪語していた。(略)日本美術史、謡曲、短歌が正科だった。(略)月曜日はクラスごとに吉沢校長と会食があった。礼儀と服装については厳格だった。
 旧制の商業学校だから今の中学と高校が一緒になったものと思って良いが、精神年齢からいえば高学年生(四、五年)は今の大学生くらいにマセていた。それにしてもこの校長の教育の何と自由で独創的なことか。語学に中国語と漢文を入れているところが卓見だ。昭和十年といえば日中戦争の気配もあった頃で中国は敵国になるにもかかわらず中国語を学ばせようとするのは百年先を見据えればいずれ世界の大国となることも見込んでのことであり、我国の歴史を考えれば漢文を知らなければ歴史の本質に迫れないという透徹した歴史観に基づいている(漢文の必要性は当時より今のほうがより高まっていると私は考える)。自国――日本国を深く理解するためには歴史遺産としての古美術(絵画ばかりでなく書や建築を含めて)や謡曲、そして長く日本文化を底流で統合してきた『和歌(万葉集や古今集、新古今集など)』を学ばせようとする吉沢校長は誠にすぐれた教育者として称賛せずにはいられない。
 
 ふたりの校長――1935年の東京府立三商の吉沢校長と2018年の泰明小学校の和田校長、この教育観のへだたりはどう理解すればいいのか。勿論今の小学校と旧制中学校、今と昔の校長の『自由度』のちがいは考慮しなければならないだろう。しかしそれなら、自由度がいちじるしく『限定』されている現在の教育体制――学校制度は良いものなのか?昭和10年と比べて進歩しているのか?という根本的な教育制度についての「評価」につながってくる。
 
 このコラムで何度も論じてきたように、「国定教科書」問題、学習指導要領のあり方、そして「大学共通一次学力試験」など我国の教育制度を広く、深く『規制』している文部科学省行政は根本的に見直さなければ、国民の教育程度は著しく毀損されるのではないかという「危機感」はつのるばかりだ。とりわけ「共通一次」は、英語の外部機関によるリスニング、記述式試験の導入などによってますます悪化していく危険性がある。小学校での英語教育の早期化とあいまって我国教育の『多様性の喪失』は止まるところがない。一部の私立学校で「共通一次ばなれ」を志向する動きがあっても「補助金削り」という脅しをかけられると腰折れせざるをえなくなる。
 歴史を見れば教育の『多様性』が失われると国の『活力』が衰えるのは自明である。公立と私立の差、地方別の特色はほとんど消滅して東大京大などの旧帝大を頂点とした大学のヒエラルキーに統合された『単線型』教育システムでわが国は覆われている。高度成長期の大量生産に適した教育ならそれでよかったが、価値の多様化した顧客志向型商品や革新的な商品・サ-ビスを生み出していかなければならないこれからの社会で、AIやロボットに「定型業務」や「形式知業務」が置き換わるこれからの社会は、多様で革新的な教育が必須である。
 文科省による中央主権的な教育システムは時代遅れなのだ。
 
 教育だけでなく子どもにとって最も重要な『遊び』。想像力を生み出す源泉となる『遊び』でさえも、テレビゲームやディズニーランド、USJという「規格化」された遊びに支配されている現在。「インスタ映え」という「他人の好みに合わす」嗜好の「平準化」が若者を侵食している現在。教育の多様化は喫緊の課題である。
 
 学校の特色を出すのに標準服を「アルマーニ」にしようとする発想ではこれからの世界を牽引する「グローバル人材」が育たないのは明らかだ。
 
 

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