2023年8月14日月曜日

二十世紀について

  最近「二十世紀」についてよく考えます。それは私の成長した時代であり学んだ時代でした。そして戦争の世紀だった二十世紀の終焉であり、冷戦の終焉と科学主義と物質主義の終焉でもありました。戦争の時代の終焉は、カントの『永遠平和のために』と日本国憲法「九条」というかたちで捉え、科学主義と物質主義の終焉は中谷宇吉郎の『科学の方法』(岩波新書)のなかの一節が引き金となって「福島原子力発電所事故」というかたちで定着しました。こうした私の思索は『自由からの逃走』(エリッヒ・フロム/日高六郎訳)と『ゆたかな社会』(J・K・ガルブレイス)の二著に邂逅した学生時代の幸運に淵源があります。

 

 私たち世代の学生時代と社会人(企業)生活は幸せだったと思います。就職活動は大学4回生の夏休みから始めれば十分間に合いましたから3年半は勉学とクラブ生活を楽しむことができ、読書と先輩・友人との切磋に耽ることでその後の人生の思想的、人的関係の基礎を築くことができました。社会人となった最初の3年間、企業は養成期間と割り切って存分に「投資」してくれると共に過大な成果を期待しませんでした。企業にはその企業特有の長年の蓄積があり、それが競争力となっていましたからその修得が企業生活をはじめた新入社員の必須の過程だったのです。

 即戦力を求め早期の成果獲得を求める今の企業は他社との比較優位の「蓄積」のないことの裏返しではないでしょうか。

 

 『自由からの逃走』(1941年初版)はナチズムの考察から大衆は自由を享受して自己を実現するよりも「束縛」を求めるものであると分析しています。人類の歴史は「飢餓」と「暴力」からの解放の歴史であった、それにもかかわらず解放され「――からの自由」を享受して新たな「――への自由」を創造する道から「逃走」して再び「束縛」されることを「快感」とする、それが「大衆」であると結論づけるのです。昨今の自由主義陣営のトランプ現象や極右のポピュリズム政党の隆盛は明かに大衆の「自由からの逃走」そのものであり「与えられた自由」を持て余す大衆の醜態を表しています。

 『ゆたかな社会』(1958年刊行1960年邦訳初訳)は当時バラ色の繁栄を誇っていたアメリカ経済の「格差」にもとづく「貧困」を暴露し「貧困との戦い」が今後のアメリカ最大の課題になるだろうと問題提起しました。それは資本主義が基礎的な生活資料の生産だけでは体制維持が不可能であり、消費者に内在する必要だけでなく生産者が広告などで刺戟することで生まれる「欲望」を満たす「商品」を絶えず生産しつづけなければならない経済システムであると喝破したのです。21世紀に展開した「経済グローバリズム」のあくなき「ニューフロンティア」の追求が「成長至上主義」という資本主義の宿命を露にし、結果的に「格差の拡大」と「分断」がもたらした現在の自由主義陣営の「政治的不安定」の原因となっていることを半世紀以上も前に予言したガルブレイスの先見性は今再認識されるべきです。

 

 自由主義陣営の格差拡大と分断は政治的不安定化をもたらし、この間隙を突いた専制主義国家の揺さぶりはアメリカの退嬰も手伝って世界の「無極化」を現出しました。その結果戦勝国家連合である「国連システム」は無力化し中国とロシアの「力による現状変更」に対する防御体制の必要に迫られました。NATOの陣営拡大と米欧中心の自由主義陣営の再編成は「国際緊張」の緊迫化となってウクライナ戦争が勃発するのを防げませんでした。

 

 現在の国際的な緊張を解決するためには迂遠な理想主義の誹りを覚悟してもカントの『永遠平和のために』(1795年)の賢察に従うしかありません。

 常備軍はいずれは全廃すべきである。/常備軍が存在するということは、いつでも戦争を始めることができるように軍備を整えていくことであり、ほかの国をたえず戦争の脅威にさらしておく行為である。また常備軍が存在すると、どの国も自国の軍備を増強し、多国よりも優位に立とうとするために、かぎりのない競争がうまれる。こうした軍備拡張のために、短期の戦争よりも平和時の方が大きな負担を強いられるほどである。そしてこの負担を軽減するために、先制攻撃がしかけられる。こうして、常備軍は戦争の原因になるのである。

 現在のアメリカと中国の軍備拡張競争はまさにカントの「多国よりも優位に立とうとするために、かぎりのない競争がうまれる」という言説の通りであり、経済力の限りない縮小傾向に陥っていたロシアがウクライナに「先制攻撃」を仕掛けたのも「短期の戦争よりも平和時の方が大きな負担を強いられる」のに耐えられなくなったプーチンの決断にほかならないことが分かります。

 カントは常備軍が存在する限り「戦争状態が自然状態」であり、平和は「戦間期」の一時的な状態にすぎない、従って「永遠の世界平和」は人類が「新たに創造するもの」であると結論づけるのです。こうしたカントの冷徹な認識を受け入れるならば「核兵器の抑止力」などという考え方が『詭弁』であることが自明になってきます。

 

 中谷宇吉郎は科学をこう捉えています。

 必ずしもすべての問題が、科学で解決できるとは限らないのである。今日の科学の進歩は、いろいろな自然現象の中から、今日の科学に適した問題を抜き出して、それを解決していると考えた方が妥当である。もっとくわしくいえば、現代の科学の方法が、その実態を調べるのに非常に有利であるもの、すなわち自然現象の中のそういう特殊な面が、科学によって開発されているのである。

 自然科学は、人間が自然の中から、現在の科学の方法によって、抜き出した自然像である。自然そのものは、もっと複雑で深いものである。

 

 原子爆弾は自然現象の中から爆発力の極限を追求した結果生みだされたものですが、それが人間にどんな影響を及ぼすかは研究せずに製造し使用したのです。原子力発電は原爆を「平和利用」したのですが、使用済み燃料棒の消却法も原発の廃棄方法もメルトダウンした原子炉の冷却水の処分方法も確定しないうちに製造、利用したのです。科学の研究としてこれほど「不誠実」で「未完成」なものはありません。理性のある人間ならばただちに廃絶するにちがいありません。

 

 人類はほんとうに進歩しているのでしょうか。

 

 

 

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